山名豊国 粗忽者 中編
山中幸盛率いる尼子家残党の力で因幡に復帰できた豊国。これでこのまま平穏に暮らせればいいと考える豊国だが、そうはいかないのが戦国時代である。
山中幸盛率いる尼子家残党軍の活躍で豊国は因幡に復帰することができた。鳥取城に入った豊国は政務もそこそこに文化教養の習得に努める。
「もはや因幡に帰還できた以上、特に戦をする必要もなかろうて」
豊国が必要としたのは自分の趣味に没頭できる居場所であった。それ以外さしたる志など持っていない。家臣たちはそんな豊国に呆れつつもある程度自由にやらせてもらえるので好きにさせていた。
一方尼子家残党の諸士は鳥取城の奪還で意気をあげていた。
「このままの勢いで伯耆、出雲も取り返して見せよう」
そう考える幸盛たち。そしてその目的を果たすために、まず因幡で毛利家に従う領主たちの攻略に移った。
この動きを豊国は放置していた。
「まあ山中達には自分たちの志があるのだろう。まあ私を攻撃するわけではないし放っておけばいいか」
一応豊国も武田高信を打ち倒し因幡に復帰させてもらった恩義は感じている。だから放っておいたのだ。しかし幸盛たちが因幡で勢力を伸ばしていくとそうも言っていられなくなる。毛利家に従う領主達への攻撃は毛利家へのはっきりとした敵対行為である。そうした動きにたいして毛利家も徐々に圧力を強めていった。この毛利家の動きに豊国もさすがに危機感を覚える。
「このままもし毛利家と戦にでもなったら、大変なことになるのではないか」
そう考えた豊国は幸盛を呼び出す。そして自身の不安を伝えた。すると幸盛はこう答える。
「何も恐れることはありますまい。その時は我らと一丸となり毛利家と戦えばよいのです」
幸盛としては毛利家との戦いは織り込み済みのことである。だからそこに迷いはない。
だが豊国はそうではなかった。
「(私は私の居場所を守れればいいだけなのだ)」
毛利家という大勢力との戦などできるものか。豊国はそう考えていた。
因幡国内で豊国と幸盛の関係は微妙なものとなっていった。当然毛利家はそこに目をつける。毛利家の山陰方面の指揮官である吉川元春は豊国を自軍に引き込もうと調略をかけた。
「因幡の国主は貴殿のはず。しかし山中達尼子家の者共は貴殿を放っておいて国主のようにふるまっている。これはけしからんことだ。しかし我ら毛利家に味方すれば因幡の国主として迎えよう。いかがか」
わかりやすい勧誘の書状である。とは言えある程度事実を記している側面もあった。確かに幸盛たちは因幡の領主たちを従えて毛利家への攻撃を行っている。一方で豊国は自分に従う少ない領主たちの上に立ちのんきに生きていた。見ようによっては幸盛が豊国をないがしろにして因幡の領主たちを支配しているようにも見える。
実態としては豊国が幸盛たち尼子家残党を放置しているだけである。豊国としては自分に害がないので放っておいた、というわけだ。しかしいよいよ毛利家が動き出すということになると豊国にとって幸盛たちは目障りになる。
「もはやあいつらはは災いになるだけか」
こうなると豊国の行動は早い。すぐに毛利家に味方する旨を伝えた。この素早い動きに毛利家は喜び豊国の立場の保証を決める。
一方はしごを外された形になった幸盛たち尼子家残党は憤った。
「我らが手を貸し因幡に復帰させたというのに。この仕打ちはあまりにも非道だ」
怒った幸盛は但馬山内家の祐豊にこの事態を訴える。しかし祐豊は攻勢をかける織田家への対応に追われてそれどころではない状況であった。
「豊国の行動は目に余る。しかし我らも手が離せない状況だ。自分たちでどうにかしてくれ」
こっちもこっちで非常な発言である。しかし手が離せないのは事実であった。幸盛もそれは理解できたので頭を抱えるしかない。
「こうなれば自力で因幡を攻め取るしかあるまい」
そう決意した幸盛は豊国ともども毛利家に従うことにした因幡の領主たちを攻撃することにした。しかし毛利家の脅威や、一応国主である豊国が毛利家に従う判断をしたので領主の多くが毛利家方となった。しかしそれでも幸盛に味方する者もいる。彼らは幸盛に味方し彼らなりに自分たちの領地を守るために戦った。
こうして因幡は混沌に陥っていった。しかし豊国は相変わらずの生活を続ける。実際鳥取城は堅城で、現在の幸盛たちの勢力では攻め落とせる城ではない。豊国だってそれをわかっているのでのんきに過ごせたのである。
「とはいえ一応の行動はしなければならんな」
豊国は自分に従う領主たちに自主的な対応を促した。もちろん見返りとして領地や特権を認めてのことである。領主たちも断る理由もないので各個連携して尼子家残党に対応した。ただし撃退するぐらいで殲滅しようなどとはしない。そんなことをすれば被害も大きいからだ。
「まああいつらが攻め込んでこないのだからそれでいいか」
別に豊国自身も幸盛たちをどうこうしようとは考えていなかった。あくまで自分の城が守れればそれでいいぐらいの感覚である。こうして因幡は小規模な戦いが続く異様な状態になったのである。
豊国は幸盛たちを見捨てて毛利家に下った。一緒に戦った勢力を切り捨ているという行為の是非は置いておいて、因幡山名家としては領地や立場の安定につながる良策といえる。豊国も満足であった。そんな中で豊国にある指令が下った。
「叔父上を味方につけろ、か」
毛利家が豊国に命じたのは山名祐豊の調略であった。因幡を支配下に置いた以上次に目指すのが但馬であることは何もおかしくはない。とは言えこれにいろいろと複雑な事情が絡んでいる。
当時但馬山名家は織田家の攻撃を受けていた。これは毛利家と織田家が同盟関係にあることが起因している。但馬山名家が尼子家の残党を支援していたことは先にも記した。これは毛利家への敵対行為であり、織田家が但馬に侵攻していたのはこの支援という側面もある。しかし織田家は但馬を領国化しようともくろんでおり単なる同盟者への支援というわけでもなかった。
実際勢力を巨大化させていっている織田家に従おうという但馬の領主たちもおり、祐豊はそうした存在への対応にも迫られていた。一方で毛利家の影響力も強くなってきている。祐豊は強大な敵に挟まれた状況にあった。そこに豊国が毛利家に下ったということもあり、ますます毛利家の影響力を感じることとなっている。
ここまで見ると織田家と毛利家が共同で山名家を攻撃しその領国を手に入れようとしているようにも見える。しかし実際両者は自分の下に山名家領国を取り込もうと考えていた。これは毛利家と織田家がお互いを警戒している点にある。同盟関係であるから友好的に見えるのは表面だけで実態はお互いをけん制し合っていた。
そんな状況で豊国に祐豊の調略が命じられた。これが意味することは流石に豊国でもわかる。
「織田家に奪われる前に自分のものにしてしまおうという事か。全く目ざとい」
そんなことをつぶやく豊国。しかし実際のところ断る理由のない指令である。豊国としても叔父であり舅である祐豊とは流石に戦いたくはなかった。
「叔父上もどちらか選ばなければならんということはわかっているだろう。私はその背中を押すだけだ」
そう言うわけで豊国は祐豊に毛利家への帰順を促した。祐豊もこの状況で断れるはずもない。だが一つだけある要求をした。
「但馬、因幡の国主はあくまで山名という事だけは認めてもらいたい」
祐豊にも意地はある。せめて形だけでも国主という事だけは認めさせたかった。
この要求を毛利家も受け入れた。別に断る理由はない。むしろ要求を飲めば但馬を迅速に勢力下におけるのだから。
こうして但馬山名家も毛利家に帰順した。しかし表向きは但馬山名家と毛利家の対等な同盟である。そこは祐豊に配慮した形になった。
「よくわからん意地だ。まあ叔父上はそう言う方なのだろう」
豊国は少し呆れ気味に言うのであった。
こうして但馬山名家と毛利家との間で同盟が結ばれた。これに一番困ったのは山中幸盛と尼子家残党の諸士である。
「まさか祐豊様まで我らを見捨てるとは」
嘆く幸盛だがもはやどうすることもできない。だが尼子家の再興をあきらめる幸盛でもなかった。
「まだ因幡には我らの拠点がある。戦うことは出来る」
固い決意の幸盛は因幡で戦いを続けた。一方の豊国にはやる気がない。
「もはやどうすることもできんのだろうに。戦うなら因幡を出ていってもらいたいものだ」
半ば飽きれ気味に豊国はつぶやいた。もはや豊国にとって幸盛はどうでもいい存在である。しかし豊国はともかく毛利家にとって幸盛は目障りな存在であった。そのため一気に決着をつけることにしたらしい。毛利家の山陰方面の総大将である吉川元春はおよそ四万七千の兵を率いて因幡にやって来た。
「毛利の力を見せつけてやろう」
そんなことを言いながらやって来た元春は、すぐさま因幡で尼子家残党に味方する者たちを攻撃した。一方この動きにたいして豊国は特に何もやっていない。毛利家の進軍や兵站の補助ぐらいである。出陣もしなかった。
「毛利家が勝手に決着をつけてくれるのならばそれでいい」
相変わらずの豊国である。一方これにある種の危惧を抱くものもいた。それは豊国の家臣の森下道誉である。
「ここで武功をあげなければ毛利家からも見捨てられるかもしれんというのに。殿は相変わらずだ」
これに同調したのが同じく豊国の家臣の中村春続であった。春続は豊国と元春の連絡役として元春のもとに派遣されている。
「実質因幡山名家は毛利家の家臣だというのに。ここで武功をあげなければ不要とされ因幡も取り上げられてしまうのではないか」
「その通りだ中村殿。しかし殿は我らの言うことを聞かん」
「全くだ森下殿。これでは山名家の明日は暗いな…… 」
二人は深いため息をつくのであった。
こうした山名家家臣の憂鬱は置いておいて元春の軍勢はその物量と戦闘力で尼子家残党を圧倒した。この結果幸盛は因幡からの撤退を選択する。
「私は尼子家を再興するまで死ぬわけにはいかんのだ」
こうして因幡は山名家の、というか毛利家の物となった。
豊国は幸盛が撤退したのを見てこうつぶやいた。
「これで少しは静かになったか」
幸盛の姿に何の感慨も抱かない豊国。相変わらず興味があるのは文化教養ぐらいである。
因幡での争いも一応ひと段落し、山陰地方はひと時の安らぎを得た、かに見えた。ところが幸盛が因幡から撤退した天正四年(一五七六)ある事態が起きる。それは当時の室町幕府の将軍の足利義昭が毛利家の領国に逃れてきたのだ。
そもそも義昭は織田信長の支援で室町幕府を再興し将軍に就くことができた。しかしその後関係は悪化し最終的に信長は義昭を追放してしまう。その追放された義昭が毛利家の領地に逃れてきたのである。
これに毛利家の主君の輝元をはじめ重臣たちも頭を抱えた。
「義昭様を庇護すればそれは信長殿との戦いを意味することになる」
毛利家として織田家との徹底的な対立は避けたかった。それは織田家との戦いにあまりにもリスクがあるからである。しかし一方で但馬の件でもあった通り両家の関係は微妙なものになりつつもあった。そうした中で義昭が逃げ込んできたのである。追放されたとはいえ将軍の権威はまだ残っている。それを利用すればもしかしたら織田家とも戦えるかもしれない。しかしそれはやはりリスクの大きい行為であった。
こうした情勢に山名祐豊も目を光らせていた。もし毛利家と織田家が決裂したら但馬は最前線となる。
「お前も戦に出されるかもしれん。和歌や茶の湯にかまけている暇はなくなるかもしれんぞ。覚悟しておけ」
祐豊はそんな書状を豊国に送った。これを見た豊国は心底めんどくさいといった表情になる。
「別に私は領地が欲しいわけではない。ただ安穏と暮らせればいいのだ」
そんなことを言う豊国。そんな豊国に森下道誉はこう言った。
「織田家は強大。毛利家が勝利するには死力を尽くす必要があるでしょう。おそらく我々力も必要とされるに違いありません。我らも軍備を増強すべきでしょう」
この言葉に豊国はますますめんどくさそうな顔をした。
「なぜ我らが戦わなければいかんのだ。我らは別に織田家と敵対したいわけではないのだろう」
「しかし我らにとって毛利家は主君も同然にございます」
「同然ということは同じではない。つまり毛利家は主君ではない。だったら従い続ける必要もないはずだ」
この豊国の屁理屈に道誉は呆れ返った。しかしこんな発言は日常茶飯事なので気にはしない。しかし次の豊国の発言はそうではなかった。
「もし織田家が目前に迫れば降伏してしまえばいい。今度は織田家に守ってもらおう」
この発言に道誉は愕然とした。だが豊国は名案だと言わんばかりの顔をしている。
「これなら戦をせんでも家を守れる。名案ではないか」
道誉は答えなかった。それを見た豊国はつまらなさそうに立ち上がる。
「私は部屋に戻る」
そう言って去って行ってしまった。残された道誉はまだ愕然としている。しかしその眼は怒りとも絶望とも取れる色をしていた。まるでこの先の運命を暗示しているかのようなものである。
今回の話で豊国は自分の身の安全の為に幸盛たちを切り捨てる行動を取ります。それは褒めれられたものではないのかも知れません。しかし大勢力に対して素早く従属するというのは戦国時代における生き残りの常套手段でもあります。ただ豊国は鳥取城に入ってから一か月ほどで毛利家に鞍替えしています。それを関上げると流石に節操がないのかなとも思います。
さて次の話はいよいよと鳥取城がかかわったある有名な戦いに入ります。そしてその時豊国はどうしていたのか。そしてその戦いの後で豊国はどうなったのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




