戦国塵芥武将伝 特別編 その三
ついに第三弾となった特別編。特に文句もないので続けていきます。ではどうぞ。
蘆名盛隆(1561~1584)
関わった事件 新発田重家の反乱
来歴 二階堂盛義の長男に生まれる。やがて盛義に勝利した蘆名盛氏の下で人質となるも、紆余曲折あり盛氏の養子になった。その後は新発田重家の反乱を支援し越後の上杉家と敵対する。一方で元人質という経歴から家臣に反感を抱かれた。最期は寵臣に襲われ死亡。
作者の一言 人質に取られた家の当主になるというなかなかの経歴の持ち主です。ただ家中の反発や寵臣に殺されるという最期を考えると足元をおろそかにするタイプの人だったのでしょう。
浦上宗景(生没年不詳)
関わった事件 天神山城の戦い
来歴 備前の守護代浦上家の生まれ。早くに父を亡くし幼い兄と共に育つ。しかし成長後方針をめぐって兄と対立し独立。やがては兄を追放し戦国大名としての地位を固めた。その後周囲の勢力との戦いを繰り広げる一方で家臣の宇喜多直家の謀反にあい最期は直家に敗れ追放される。その後の消息は不明。
作者の一言 調べてみると驚くべき経歴の人というのはよくいますが宗景もその一人です。兄の追放や周辺勢力との死闘などまさしく乱世の武将といった経歴の持ち主です。しかし最後は下剋上にあい追放されるというのは因果応報の分かりやすい例でしょう。ある意味ドラマチックではありますが。
蒲生賢秀(1534~1584)
関わった事件 観音寺騒動 観音寺城攻め 本能寺の変
来歴 六角家重臣の蒲生家の生まれ。六角家重臣として観音寺騒動の収拾に尽力した。六角家が織田家に滅ぼされた後は織田家に仕える。本能寺の変の際には安土城の信長の御台君たちを退避させている。息子の氏郷の妻は信長の娘。
作者の一言 なんというか地味で堅実な人だったのでしょう。無理はしないでできることはやる。そう言った感じです。安土城から退避したときのことで臆病と言われることもあるそうですが、あくまで自分のできる範囲のことをやっただけではないかと思います。
正木通綱(1492~1533)
関わった事件 稲村の変
来歴 もともとの出自は三浦家とされるが確証はない。内房の水軍衆の一人であった。やがて里見家に仕えるようになり上総への侵攻などで活躍する。しかし内通を疑われ主君に謀殺された。
作者の一言 よくよく考えてみると家の初代という人物を取り上げたのは珍しいことです。正木家は里見家と縁戚関係になり特別な立場の重臣となりました。これも通綱が里見家によく仕えたおかげという事なのでしょうが、それにしてはいくら何でもあんまりな最期です。
三浦義同(1451または1457~1516)
関わった事件 特になし
来歴 扇谷上杉家から三浦家へ養子に入る。しかし養父と不和になったため実力で家督を相続した。その後は主家の扇谷上杉家と対立した伊勢宗瑞(北条早雲)と争い続けた。しかし最終的には三浦半島まで追い詰められた。それでも長期にわたり抵抗を続けるが最後は討ち死にする。
作者の一言 伊勢宗瑞の最大の敵と言われる人物です。実際宗瑞の侵攻を阻み追い詰められても抵抗をつづけた姿は見事といえるでしょう。実際扇谷上杉家は義同の死の前後から衰退していきます。ちなみに宗瑞は義同を打ち倒した二年後に隠居し、その翌年に亡くなっています。
上杉定実(?~1550)
関わった事件 天文の乱
来歴 上杉家一門の上条家の出身。長尾為景に擁立されて越後守護になった。しかしのちに為景と対立。弟の上条定憲らと共に為景と戦う。継嗣がいなかったので伊達家から養子を取ろうとするもそれがきっかけで天文の乱が勃発。結局跡継ぎのないまま死去した。
作者の一言 長尾為景とは不思議な因縁で結ばれ続けた人です。彼らの関係は戦国時代の権力構造の象徴と言えるでしょう。それはそれとして定実は将器はなかったかもしれませんが為景と戦い続けた闘志は大したものです。それ故か為景死後は目立った動きをしていないのも面白いですね。
相馬利胤(1581~1625)
関わった事件 関ヶ原の戦い 大坂の陣
来歴 陸奥の武将相馬義胤の嫡男。関ヶ原の戦後処理で相馬家が改易の危機に陥ると家臣を連れて江戸に向かう。そして相馬家の存続を幕府に訴え成功し相馬家を存続させた。その後は相馬家や領地の発展に寄与して寛永二年(1625)に45歳で死去する
作者の一言 厳密には違いますが彼も関ヶ原からの復帰組といえるでしょう。自分の家を改易から救っただけでなく幕臣ともパイプを作り領地を栄えさせた手腕はまさしく名君と言えます。知られざる偉人といったところでしょうか。
多賀谷重経(1558~1618)
関わった事件 沼尻の戦い 小田原攻め
来歴 結城家家臣多賀谷家の出身。だが結城家からの独立を図り様々な行動をした。後に佐竹家や結城家と共に反北条家の活動を行う。そして北条家滅亡の後は所領を安堵された。しかし豊臣秀吉の不興を買い居城は破却。さらに関ヶ原の戦いでは西軍に通じたため改易された。
作者の一言 なんでも旗下に関東最大規模の鉄砲隊を組織していたといわれています。その点を考えると軍事的な才能はあったのでしょう。しかし粗忽で自分勝手な振る舞いも目立ちます。最期は家臣にも見捨てられてしまいますがある意味妥当な最期だったと思います。
筒井定次(1562~1615)
関わった事件 筒井騒動
来歴 大和の筒井順国の息子。後に順国の兄の順慶の養子になり織田信長の息女を娶った。順慶の死後家督を継ぎ豊臣秀吉の下で奮戦する。そして伊賀上野を賜った。一方で家中を統制しきれず島左近などの離反を招く。そして家臣の中坊秀祐の讒訴で改易となり、大坂の陣の折に内通の疑惑をかけられて切腹した。
作者の一言 定次自身はそれなりの武将だったのでしょうが、正直人を見る目がなかったのかなぁと感じます。また定次の改易には幕府の陰謀論もあり伊賀上野という重要な拠点を任されてしまったのがかえって不幸を招いたのかも知れませんね。
畠山義総(1491~1545)
関わった事件 特になし
来歴 能登畠山家の生まれ。7代目の当主となる。能登の発展に寄与し堅城として知られる七尾城を築いた。一方で今日から非難した文化人を保護し七尾城下を小京都と呼ばれるまで発展させる。
作者の一言 おそらく戦国時代でトップクラスの地味さの能登畠山家。その中で最も有能な人物だったのでしょう。畠山家を大いに発展させました。しかしその最盛期には大した事件は起きず上杉謙信や織田信長が関わってくる頃には畠山家は内紛でボロボロでした。しようがないこととは言え間が悪すぎます。
斯波義統(1513~1554)
関わった事件 特になし
来歴 尾張守護斯波家の生まれ。父が家臣たちの反発を受け隠居させられたので幼いころに家督を継いだ。その後は守護代の織田達勝の傀儡として過ごした。しかし織田信秀の外政には達勝ともども積極的に支援している。しかし守護代が織田信友に変わると関係は悪化。最終的には信友に殺されてしまう。
作者の一言 いわゆる傀儡と言われる立場で一生を過ごしました。ただそれが自分の身を守ることだと理解していたとも取れる行動をしています。もし生き延びて信長の下に逃げ込んでいたら案外穏やかで平穏な人生を送れたかもしれませんね。
有馬晴純(1483~1566)
関わった事件 特になし
来歴 肥前の有馬家の生まれ。中国大陸との交易を盛んに行い有馬家の最盛期を築いた。やがてポルトガルとも交易を行なうがキリスト教を嫌悪した。そのため隠居後にキリスト教に傾倒する息子を退けて当主に復帰したこともある。永禄9年(1566)84歳で死去。
作者の一言 交易の富を最大限に生かして勢力を拡大しました。野心も実力も伴う傑物だったのでしょう。しかしキリスト教を嫌い弾圧しキリスト教に好意的だった息子から家督を奪うなどやりすぎな点も見られます。ある意味戦国武将らしいともいえる気がしますが。
川村重吉(1575~1648)
関わった事件 特になし
来歴 毛利家の家臣の家に生まれる。しかし関ヶ原の戦いで毛利家が減封されると浪人になった。その後伊達家に仕えて土木利水の政策に関わり多くの功績をあげる。北上川の治水など大規模な工事も行った。
作者の一言 いわゆる治水巧者と言われる人物です。しかも現代にまでその偉功が残っています。本当にすごいの一言です。ちなみに農林水産省のHPに重吉の偉業が簡単に記されていますので見てみるのもおすすめです。
白河義親(1541~1626)
関わった事件 人取橋の戦い 奥州仕置
来歴 白河結城氏の出身。一度は小峰家を継ぐが幼少の主君の後見人となりやがては家督を奪った。家を守るため佐竹家や蘆名家などに従うが東北を支配せんとする伊達政宗に従う。しかし奥州仕置きのさい豊臣秀吉の不興を買い所領を没収された。後に伊達政宗に仕え白河家を復興させる。
作者の一言 幼君を追い出したりいろいろな勢力に鞍替えしたりとあまり褒められた人生を送っていません。ただ調べていくうちに妙に惹かれてしまった人物でもあります。なお本文で不明としていた実の父親の件ですが現在も諸説入り乱れているそうです。
朽木元綱(1549~1632)
関わった事件 朽木越え 関ヶ原の戦い
来歴 近江の朽木家に生まれる。父が戦死したため2歳で家督を継いだ。朽木家は将軍家と近かったが織田信長の撤退を助けた後は織田家に仕える。信長の死後は豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原の合戦でははじめ西軍に所属していたが東軍に内応。最初の領地を安堵される。
作者の一言 朽木越えの時と関ヶ原の合戦の時とで妙に目立っています。他の時はなんとも地味なのに。人間だれしも役割があるといわれますが彼の人生を見ているとなんだかそんな気がします。
松平家信(1565~1638)
関わった事件 甲州征伐 小牧・長久手の戦い 関ヶ原の戦い
来歴 松平家の庶流の形原松平家の生まれ。織田信長の甲州征伐に主君家康と共に従軍し初陣を遂げた。同年父が死去したため家督を継ぐ。小牧長久手の戦いで武功をあげた。江戸幕府が開き天下が安定したころに次々と加増を受け大名となった。
作者の一言 たくさんいる松平一族の一人です。いろんな人物がいますが家信はかなり地味な方でしょう。とは言え父の代から家康を支え続けて奮闘した人生は認められていたのでしょう。最初5千石だったのが晩年に至ると4万石になっています。
里見義康(1573~1603)
関わった事件 小田原攻め 関ヶ原の戦い
来歴 安房の里見家の生まれ。15歳で家督を継ぎ父と同様に豊臣秀吉と音信を通じた。それが功を奏し一度は安房と上総を安堵される。しかし小田原攻めの際の不手際で上総は没収された。その後豊臣政権の一大名として過ごし、関ケ原の戦いでは親交のあった徳川家康に味方する。そのおかげで3万石加増されるが慶長8年(1603)に30歳の若さで死去した。
作者の一言 なんとも無常感漂う人生です。小田原攻めの時のヘマ以外は特に失敗もなく安房を守りました。しかし早死にした上に息子の代で改易。しかも連座という形でです。余りにも気の毒です。
今年はコロナの影響もありいつもと違った一年となりました。しかし変わらず投稿できたのは本当に運がよかったです。これからも変わらず投稿を続けていきたいと思います。来年もよろしくお願いします。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では、よいお年を。




