里見義康 終への途 後編
天下人豊臣秀吉に通じるも所領を没収されてしまった義康。天下統一はされたが苦境に立たされた義康はいかなる運命をたどるのか。
義康の行動の不備による上総没収の決定は瞬く間に里見家の領地に広がった。里見家の家臣たちはみな狼狽え嘆き悲しむ。
「いったい今まで何のために戦ってきたのか」
「秀吉様は上総も領地と認めるといってくれたではないか。あれは偽りだったのか」
「こんなにも領地を没収されては生きていくこともできん」
安房と上総は共に一国と数えられる。しかし大きさはまるで違う。上総は安房の三倍以上の面積を持っていた。それが安房一国に削られるわけだから家臣たちの領地も大幅に削られる。生きていくことも苦労するほどであろう。
しかしもはや天下人たる秀吉の決定に逆らえるはずもない。里見家臣たちも圧倒的な軍勢で北条家を滅亡させた秀吉に逆らおうという気持ちはわかなかった。
義康は小田原城が落城すると安房に帰ってきた。その姿は悲痛を極めており家臣たちもなにも文句を言えないほどである。
義康は開口一番家臣たちに謝った。
「私の粗忽な行いでこんな結果になってしまった。本当に済まない」
主君が頭を下げる姿に益々家臣たちは何も言えなかった。第一家臣たちの誰もが義康を止めなかったのだからある意味で皆同罪と言える。そう言うわけで家臣たちは誰も義康を攻めなかった。
さて北条家が滅亡したことで関東に巨大な空白地が生まれる。この空白地には義康が没収された上総も含まれていた。義康としてはここに誰が入るのかが非常に気になる。
「噂では徳川殿が入られるという事らしいが」
かねてより北条家滅亡の折は徳川家康が関東に入ると噂があった。果たしてその通りで旧北条領と上総は徳川家康の新たな領地となる。
この際家康がかつて治めていた領地には織田信雄が入る予定であった。信雄は秀吉の旧主の織田信長の息子である。だが信雄は家康の旧領に入るのを拒否。これ怒った秀吉は信雄の領地をすべて没収し追放した。
「旧主の息子にこの仕打ち。秀吉様はなんと恐ろしい方なのだ」
義康の心にはますます秀吉への恐怖が膨らんだ。自分もまた何か失態を侵せばわずかに残った安房すら失いかねない。義康はやっと天下人の強大な権力の恐ろしさに気づくのであった。
一方で義康は家康と距離を縮めつつあった。義康からして見れば秀吉に取り次いで謝罪の機会を与えてくれた恩人である。それに豊臣政権で家康の存在感日に日にましていた。こうした権力者と誼を通じ親交を深めるのはどの時代でも常道の生存戦略である。
家康も上総に家臣を入れるにあたって面倒ごとは起こしたくないと考えていた。
「上総には里見家の諸士が退去してから入るように」
そう家臣に伝え、里見家が完全に退去してから上総に入国した。これには義康もわずかながら救われる。北条家滅亡から家康はすぐ関東に入ったし義康ら里見家の人々もすぐに上総から出ていかなければならなかった。しかし何分急な話だったので準備に手こずるものである。
「家康殿はお優しいのだな。これからも仲良くしていただけるとありがたいな」
実際の家康はただ優しいだけの男ではない。利害に通じ冷徹なところもある。義康に気を使っているように見えるのも家康の都合であった。
それでも義康は家康を信頼した。これが義康の人生に大きく関係してくる。
豊臣家は北条家を滅ぼした後で東北の各大名を平定。遂に天下を統一した。これからは里見家も天下を差配する豊臣政権に従う一大名となる。これは豊臣家のいかなる指示にも従わざる負えないという悲しい状態であった。
さてこの頃義康は居城を安房南端の館山城に移した。館山城は三浦半島や江戸への海運路を持ち、これよりの里見家の領国経営にとっては重要な土地であったからである。そして何より天然の要害の地であったため城の防衛機能にかける費用も削減できた。本来は重要な点であるが、何せ上総から引き揚げてきた家臣たちの屋敷なども作らなければならない。里見家の財政事情はそこまで悪化していたのである。
「うまくやりくりせんとな」
そんな折に豊臣家の重臣の増田長盛がやって来た。長盛いわく
「殿下より安房の地の検地をして来いと。また隅々まで見分して来いとも申された」
という事らしい。検地は田畑の面積や収穫量の調査である。本来なら領主である義康の仕事であった。しかしこの頃は土地からとれる収穫量が軍役などの負担を決めている。そのため豊臣政権は家臣を派遣し検地しておこうという考えであった。
それらに加えて長盛は見聞するとも言った。要するに視察という事だろう。義康はため息をつく。
「(できるだけ早く帰ってほしいものだ。妙なところに目をつけられて殿下の不興を買ってはおしまいだ)」
この時長盛は安房の隅々まで検地をおこない知行の宛行なども行った。要するに里見家臣の領地を決めたわけである。義康としては面白くないが反対などできるはずもない。ともかく早く帰ってくれと願うばかりであった。
結局長盛は一月ほどで安房を出ていった。やっと頭痛の種が去ったわけである。
「これでひとまず安心か」
そう思ったが今度は東北で秀吉によって所領を没収された領主たちが一揆をおこした。義康として無関係な話、と思いたかったがそうもいかない。何故ならこの事態に家康が東北への出陣を行なおうとしているからだ。
「家康様が参られるなら随行すべきか」
義康としてはどうにか家康との距離を縮めておきたい。こうした機会も利用したいと考えるもの仕方なかった。
しかし結局家康は東北に入ることは無かった。その前に一揆が鎮圧されたからである。だが家康はそのまま上洛の途についてしまった。義康は迷ったが自分も上洛することにする。
「これを機に殿下の覚えを少しでも良くしなければ」
義康はすぐ安房に帰り上洛の準備をした。そして家康の後を追い上洛する。秀吉もこの時は上機嫌だったらしく
「お主も国持の大名なのだ。それなりの格を持たなければな」
と言って従四位侍従の官位を義康に与えた。一応上洛した意味はあったといえる。その後義康は帰国し再び領国の経営に戻る。
「京は華やかであった。だが安房は侘しいな…… 」
華やかな京から戻れば待っていたのは塗炭の苦しみにあえぐ家臣たちと少ない費用でたてた自分の屋敷である。義康は改めて自分の現状を思い知らされるのであった。
京から戻った義康は里見家の再建に取り掛かろうとする。しかしこの時秀吉がとんでもないことを言いだした。
「これより我々は朝鮮に出兵し、やがては明を討伐する」
秀吉は国外にまで出兵し領土を広げようとしたのである。これには義康も開いた口がふさがらなかった。
「殿下は一体どうなされたのだ」
正直義康にとっては正気を疑う発言であった。やがては中国大陸まで収めようという野望は義康の理解の及ぶところではない。しかし秀吉にはこれらを実行に移すだけの権力があった。
秀吉は朝鮮への出兵にあたって各地の大名を動員した。もちろん義康も含まれる。
「こんなことにも従わなければならんのか」
不承不承義康は兵を引き連れて肥前(現佐賀県)の名護屋城に向かう。ここが日本における朝鮮侵略計画の基地であるからだ。
「まさか朝鮮に行くことになるのか」
不安を感じる義康であったが、幸い義康をはじめとする関東の諸将は名護屋での待機となる。尤も安房から遠くはなれた名護屋での待機なのだから当然多くの出費が必要であった。
「ただでさえ困窮しているというのに」
嘆く義康だがどうしようもないことも理解している。幸い家康がいろいろと面倒を見てくれたおかげで何とかなった。
結局朝鮮への侵攻は一年ほどで終わり義康も帰国することができた。しかし相変わらず里見家の内情は厳しい。しかも豊臣政権は大名たちに色々と所役を命じて負担をかけた。これにより内情はますます厳しくなる。さらに秀吉は再び朝鮮への出兵を決めた。義康は出陣こそしなかったが色々と負担をかけさせられる。それでも義康は里見家が破綻しないように努力した。
「お爺様や父上が手に入れた上総は失ってしまった。だが代々続く里見家だけは何としてでも守ってみせる」
そんな決意のもとで義康は奮戦していた。すると慶長二年(一五九七)安房に再び増田長盛がやって来る。
「此度は殿下より安房一国を再び検地してくるようにと言われました」
今回の長盛が行った検地はいわゆる太閤検地と呼ばれるものである。以前は各土地の農民たちからの自己申告の数字を採用していたが、今度は長盛が率いる役人たちが収穫量を徹底的に調べた。
秀吉の狙いとしては各土地の収穫量を把握しそれに見合った負担をかけていきたいという考えなのだろう。その一方で義康はこう考えた。
「せっかく検地してくれたのだ。それをこちらも有効に活用しよう」
以前はただ嫌がるばかりであったが、それだけではだめだと義康は考えた。義康は検地で出された収穫量をもとに改めて家臣たちの格を定める。そして里見家家臣の序列や立場を整理していった。これにより義康は家臣たちを把握し里見家は整理された組織に変わっていく。大名家としてバージョンアップしたといえた。
「これで後はもう少し負担を和らげてもらいたいものだ」
そんなことを考える義康。ところが長盛の再来訪の翌年の慶長三年(一五九八)、秀吉は死んでしまった。結果的にこれが義康に幸運をもたらすことになる。
豊臣政権は結局のところ秀吉のワンマン体制であった。それゆえに秀吉が死ねば混乱が生じる。
当時の家康は豊臣政権でトップクラスの地位についていた。一方で家康を嫌う勢力も多く存在する。結果家康に期待する勢力と家康を排除しようという勢力で対立が起きた。
もちろん義康は家康側である。
「かなうならば家康様に天下を差配していただきたいものだが」
実際こうしたことを考えているのは義康ばかりではなかった。家康もそれを自覚していたのか天下取りに向けて活発に活動する。そして反家康の人々は家康をどうにか排除しようと行動した。
やがてそれは顕在化する。慶長五年(一六〇〇)家康は会津の上杉景勝の征伐に向かった。景勝は家康に反発する立場の大大名である。この征伐は豊臣政権の名のもとに行われた。
義康は家康に従い景勝の征伐に向かった。しかしこの途中で豊臣家臣の石田三成が挙兵し、こちらも大大名の毛利輝元と手を組んで家康の排除を目論む。この時三成と輝元は秀吉の遺児の秀頼を自陣営に取り込み家康を豊臣政権の反逆者とした。
こうした激しい動きの中で家康は三成の撃破の為に畿内に向かうことを決定した。この際上杉征伐について来た武将たちに進退を問いかけている。
「豊臣家に恩義あるものは引き返し我らと敵対するがよい」
しかして家康について来た武将たちのほとんどは家康に味方した。これは三成もまた多くの武将に反発を抱かれていたからであり、これらは結局のところ豊臣政権の内部争いに過ぎないものである。
当然義康は家康に味方する。これまでのよしみを通じてきたこともあるし第一義康の領地の周りは家康の領地しかない。そもそも選択肢はないも同然であった。
「恐らくこれが最期の大きな戦となるだろう。かつての失態はもう侵さない。そのうえで功績をあげ里見の家を盤石なものにするのだ」
義康は何とか武功をあげて存在感を示しておきたかった。そうすれば家康も里見家をおろそかにしないだろう。そうなれば里見家は盤石となるはずだ。そう言う考えである。
しかし義康に命じられたのは関東に残り上杉景勝の動きを阻むというものであった。畿内に向かう家康の部隊には編成されなかったのである。
「上杉殿が南下してくるかどうかはわからない。これでは武功も上げられないではないか」
嘆く義康だがふと考える。
「ここで顕実に務めを果たせばそれなりの功だと認められるかもしれん。今の領地を守るだけならその程度でも問題ないか」
そう思いなおした義康は与えられた任務を忠実に成し遂げた。結局景勝は南下してこなかったがそれはそれである。
家康も関ヶ原で起きた決戦に勝利し敵対する勢力を壊滅させた。これにより家康の覇権は確定的になる。そして戦後の論功行賞が行われた。ここで義康は思いがけぬ幸運を得る。何と常陸(現茨城県)に新たな領地を追加されたのだ。飛び地ではあるが領地が増えたのである。これは家康いわく
「上杉の牽制の任よく果たした。見事である」
という事らしい。兎も角真面目に仕事をこなしたことが評価されたのである。
「やはり家康様についてきてよかった」
喜びのあまり義康は家康のいる方に向かって泣きながら平伏した。兎も角義康の献身は実ったのである。
「これで里見家も安泰だ」
義康は安堵した。これまで秀吉の下で様々な苦労をしてきたかいがあったというものである。しかしこれが義康の、そして里見家の最後の幸運となってしまった。
慶長八年(一六〇三)徳川家康は征夷大将軍になり江戸に幕府を開いた。
「これでいよいよ家康様の天下だ」
江戸湾をはさんだ対岸で義康も喜びをあらわにする。しかしこの同年に義康は急死してしまう。まだ三〇歳の若さであった。
「これから里見家も安泰だというのに」
義康無念の死であった。そして家督はまだ十歳の梅鶴丸が継ぐことになる。幸いここからという時の義康の死は家臣たちにとっても無念だったようで、家臣たちは梅鶴丸を守り盛り立てた。
やがて梅鶴丸は元服し忠義と名乗るようになる。そして老中大久保忠隣の孫娘を娶り順風満帆な日々を送った。しかし慶長十九年(一六一四)に忠隣が改易されるとそれに連座して里見家も改易となってしまった。里見家代々の土地である安房は没収され忠義は家臣と共に伯耆(現鳥取県)に送られてしまった。
「なんという事だ。これでは父上やご先祖様に合わす顔がない」
忠義は悲嘆のあまり改易の八年後に死んでしまった。享年二九歳。早死にした義康よりも若かった。
そして忠義には跡継ぎがいなかった。そのため里見家は断絶となる。余りにも無常な最期であった。
里見家といえば南総里見八犬伝が有名です。あれは義康の祖父の義堯よりも前の時代の話ですが、元となった八賢士いう人物は義康の子の忠義の死の際に殉死した人たちです。そう考えると里見八犬伝は里見家滅亡の無念の思いが作り上げた作品なのかもしれませんね。
さて次は例年通り特別編を掲載いたします。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では
 




