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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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朽木元綱 決断とは急にやってくる 後編

幼くして家督を継ぐも平穏に生きてきた元綱。そんな元綱に降って湧いた選択肢。腹をくくって決断した元綱に待つのはいかなる未来か。

 元綱が信長を逃す決断をしてから三年後。浅井家は信長に滅ぼされた。結果的に元綱は的確な判断を下したことになる。また浅井家が滅亡する少し前に信長は義昭を追放していた。これは義昭が浅井家などと手を組み信長に反抗したからである。

「義昭様も大人しく従っていればよかったものを」

 もはや幕府を中心とした支配体制が成し遂げられる世の中ではなかった。それでも義昭はもがいたが、確固たる軍事力にはかなわない。第一兄の義輝も家臣に殺されたのではないか。

「義昭様のお父上も家臣に追われて朽木に逃れてきた。もはや将軍家だけで自立なんてできない。それを理解されなかったのであろうか」

 元綱は義昭に同情したがそれだけであった。追放された義昭についていった幕臣はいたがわずかである。もちろん元綱は同行していない。

「さてこれからどうなるか。信長様の下で生きていくしかないのだろうが」

 近江は完全に信長の支配下に落ちており元綱を含めた朽木家も織田家の中に組み込まれている。大した立場ではないが。元綱に何も期待していないのか自分の領地を治めていろ、程度の命令しか来ない。

 この待遇にわずかながら怒る朽木家臣もいる。

「あの時殿が信長殿を逃したから今があるのではないか」

 実際問題あの時のことを考えると元綱は信長の命の恩人ともいえた。だったらもっと扱いが良くてもいいのではないか。そう言うことである。

 尤も当の元綱が何も気にしていない。多くの家臣もそうである。

「当座朽木の土地は保証してもらっているのだから気にすることは無い」

 よくよく考えれば朽木は京に近い重要な土地である。そこを治めることを許しているのだからある意味好待遇であるだろう。尤もこの時期には隣接する若狭(現福井県西部)は信長の支配下にあり信長が京を追われるような事態も起こりそうにない。そう考えるとどうでもいい土地なのかもしれない。

 ともかく元綱は大人しく信長に従ったそのおかげか、しばらくの間平穏無事に過ごすことができた。そしてそれは信長が死んでも大して変わらなかったのである。


 天正十年(一五八二)京の本能寺にて織田信長は家臣の明智光秀の謀反に会いに殺される。当時日本は信長の下で統一されつつあった。しかしそれが信長の死で破綻する。そして日本全土は再び戦乱に包まれるのであった。

 もちろん戦乱は近江にもおよぶ。信長を討った光秀は京周辺の勢力に対し味方になるよう勧誘した。ところが元綱の下には勧誘は来ない。

「まあいてもいなくても変わらないということなのだろう」

 当時の元綱は信長から役を罷免されていて大した勢力も持たない。兵力もわずかであった。要するにいようがいまいが変わらない程度の存在である。尤もそうした扱いが元綱にとってはありがたかった。

「下手に目をつけられても困る。ここは大人しくして情勢が固まってきたら行動に移そう」

 現状光秀に味方する勢力はまばらで反抗する織田家臣もいた。ここでうかつに光秀に近づけばむしろ損をしかねない。

「重臣の方々は明智殿を許さないだろう。そうなれば戦になる。そのうちで頼りになりそうな方に従えばいい」

 こうして元綱は日和見を決めた。これに対し別に光秀も攻撃するということは無い。現在朽木は要所でも何でもないしほかにやるべきこともあるからだ。

実際織田家重臣で中国方面に出陣していた羽柴秀吉がすさまじい勢いで戻ってきた。これに対して光秀は決戦を挑み敗北する。結果光秀の天下はわずかな期間で終わった。

こうした流れの中で元綱は秀吉に従う道を選ぶ。理由は単純に光秀を撃破して織田家臣の中でも代表といってもいい地位に就いたからである。

「あとは羽柴殿がうまくやってくれればいいが」

 そんなことを考える元綱であった。実際秀吉はうまくやる。


 信長の死後織田家は分裂した。というのも信長と一緒に嫡男の信忠も死んでしまったので後継者争いが勃発したからだ。跡継ぎは信忠の嫡男の三法師に決まったが後見人について信長次男の信雄と三男の信孝で若干のトラブルを生じさせる。そしてそれぞれ家臣たちが支持し対立の構図ができてしまったのだ。

 秀吉は信雄の支持に回る。これには元綱も少し驚く。

「信雄様は粗忽者だと聞くが。果たしてどうなのか」

 そんな人を支持して大丈夫か。元綱も流石に心配になる。しかしこれは杞憂に終わった。何故なら秀吉はもはや織田家に尽くそうなどと考えていない。信長の天下統一事業は己が継ぐつもりになっていた。実際この後秀吉は信孝とそれに従う者たちを滅ぼしさらには信雄を従えることにまで成功した。そして関白の職に就き豊臣の姓も得て天下に号令をかけたのである。

 この成り上がりには元綱もあきれ半分に舌を巻く。

「全く。大した御仁だ。しかしここまでうまくやるとは」

 とはいえ結果的に元綱の選択は正しかったということになる。また不思議と秀吉は元綱を気に入っているようだった。

「いつかは元綱が領地を通してくれたおかげで生き延びることができた。本当にお主は命の恩人だ。どこか新たに領地でもやろうか」

 秀吉が関白になる前にこう元綱に言った。あの時秀吉は殿を務めていたので当時のことをいろいろと感じ入っていたのかも知れない。そう言うわけか他に理由があったのかは知れないが秀吉は元綱に好印象を抱いているようだった。とは言え元綱にさして欲望はない。

「私は先祖代々の朽木の地だけあれば構いません」

「ほう。何と謙虚な奴だ」

 結局秀吉は元綱の領地を安堵するにとどめた。しかし秀吉が管理する土地の代官に任じたりしてある程度の厚遇もしている。元綱もそれらはそつなくこなし特に問題なく日々を送った。

「これよりは秀吉様が天下を差配するのだろう。まあ私はその下で生き延びていられればいいか」

 実際秀吉は各地の抵抗勢力を撃破し天下統一に成功する。これで朽木家も豊臣家のもとで安泰だ。朽木家の誰もがそう思った。しかしまたもや戦乱がよみがえる。そして元綱に再び決断の時がやってくるのであった。


 豊臣秀吉は天下を統一した。しかしこれで天下泰平というわけではない。豊臣政権は内部に色々と爆弾を抱えていた。

 まず一つは徳川家康の存在である。家康はかつて信雄と共に秀吉に対抗したが最終的には傘下に下った。しかし広大な領地を抱え秀吉の弟が死んだあとは政権の実質的なナンバー2の立場についている。その発言力も大きく家康をあてにする大名も多かった。一方で家康を嫌う者いる。

 ほかの問題としては秀吉の子飼いの家臣たちの対立であった。秀吉は天下統一の過程で手に入れた領地を子飼いの家臣たちに分配し大名にしている。彼らは秀吉に忠実なものが多く秀吉の天下を支えようという意識が強かった。しかし子飼い同士では対立していることも多く、加藤清正などを中心とする派閥と石田三成などを中心とする派閥は反発しあっている。

 さらに家康以外の有力大名たちも己の地位や領地を一番に動いている。兎も角不安な要素を多く抱えている有様であった。

 そんな状況下の慶長三年(一五九八)豊臣秀吉が死んだ。そして跡継ぎの秀頼はまだ五歳である。

「主君が幼いなら家臣が支えてくれるもの、何だがなぁ」

 元綱は自分の幼少期と重ねてそんなことを思った。自分は秀頼より幼い二歳であったが家臣たちが支えてくれたため今がある。しかし今の豊臣家にそんなことは期待できそうになかった。

 秀吉死後その後見を任された有力大名であるのが五大老である。だがこのうちの徳川家康が独断専行を始めた。しかしこれを支持する秀吉子飼いの大名も多い。一方でほかの五大老や石田三成などは家康のこうした行動に反発し家康に対抗する動きを見せ始めた。双方は秀頼を支えることを名目として行動している。だが一触即発の状況下であった。

 これらの政争の中心になっていたのが京である。元綱の朽木からは近い。逐一情報が入ってきた。

「これじゃあ近いうちに戦にでもなりそうだ」

 実際秀吉が亡くなった翌年の慶長四年(一五九九)には、五大老の一人の前田利家が家康を攻撃するのではないかという噂までたった。この噂に対し家康に味方する武将が集結する事態にまでなっている。この時は戦闘には至らず家康と利家は和解したがそのすぐ後に利家は死んでしまった。

 さらに三成に反発する武将たちが三成を襲撃する事態まで起こる。三成は難を逃れたが事態の責任を取らされ蟄居の身となった。

 こうして徐々に剣呑な雰囲気は増して言ったのである。

「我々も覚悟を決めんとな」

 元綱は家康かそれに反発する勢力のどちらに就くかの選択が迫られていることを感じた。しかし事態は元網の予想外の方向に転がっていく。


 慶長五年(一六〇〇)家康は五大老の上杉景勝に謀反の疑いがあるとして討伐の兵をあげた。これは豊臣家に公認された軍事行動であり豊臣政権の大名たちも動員されている。家康は豊臣政権の大名たちを引きて景勝の領地である会津に向かった。

 元綱は動員されなかった。

「まあいてもいなくても変わらん程度だからな」

 こういう扱いには慣れている。ところが家康が江戸の入ったあたりで領地の近江の佐和山で蟄居していた三成が挙兵した。さらに三成は五大老の毛利輝元と宇喜多秀家を味方につけ政権に復帰する。そして家康を弾劾する書状を各地に向けてだして逆に家康を謀反人としたのであった。

 この目まぐるしい動きに多くの人が驚いたし元綱も驚いた。しかしこうなってしまっては三成に就くしかない。三成は豊臣の名の下で畿内の多くの勢力を味方に付けた。元綱も逆らえるはずもなく三成方、西軍に就いた。

 元綱は三成の盟友の大谷義継の旗下につけられた。そして家康率いる東軍との戦いのため美濃の方面に出陣することになる。

「これからどうなることか」

 流されるままに西軍に就いた元綱。しかし内心は不安である。

「(東軍は一応家康殿の下でまとまっている。しかしこっちは三成殿を中心にまとまっているわけでもない。そんな状態で戦に挑んで勝てるのか)」

 元綱の頭にはそんな不安がよぎる。そんな状態で出陣の準備を進める元綱。すると家臣の一人がこっそりやって来た。明らかに不信である。

「どうしたのだ? 」

 この元綱の問いに対し家臣はあたりを気にしながら元綱に耳打ちした。

「実は先ほど徳川様のご使者が参られました」

「…… 内応しろということか」

「その通りでございます」

 家臣は静かに、だが少し血走った目で言った。若い家臣である。内応の誘いというなかなか刺激的な事態に興奮しているらしい。一方もう五〇を過ぎた元綱は一応落ち着いていた。

「どうしたものか」

 元綱からしてみれば降って湧いたように決断を迫られたのである。いつぞやのことを思い出す。だが判断はその時より難しかった。

 どちらに就けばいいかと言われれば勝つ方に就けばいい。しかしそれを判断する情報は少なく失敗すれば小さな朽木家は潰れるであろう。元綱は悩んだ。他の皆に相談しようと思ったが最後に決めるのは自分である。

 ここで元綱はあることに気づいた。

「(我々みたいなのにも内応を誘っているということはもっと多くの者も誘っているのだろう。となれば内応する者が多く出るかもしれない)」

 元綱は悩んだ。だが決断した。そして若い家臣に言う。

「皆を集めてくれ」

「承知しました」

 若い家臣はかけていった。元綱はその後ろ姿を不思議と落ち着いた気分で見送る。


 数日後美濃の関ヶ原で東軍と西軍が激突した。元綱は大谷義継の下で決戦に臨む。しかしすでに内応の決断は下していた。

 出陣前元綱は家臣たちにこう言った。

「先だって内応の誘いが来た。私はこれに乗ろうと思う。おそらく石田殿は勝てまい」

 この元網の発言に家臣たちは皆頷いた。全員同じような考えだったらしい。

 やがて合戦が始まると戦いは拮抗した。元綱はうまく動いて東軍との交戦を避けるがなかなか内応の機会が来ない。

「私一人が動いてもどうしようもない」

 元綱の兵力は少ない。西軍の真っただ中で裏切ってもすぐに倒されるのが落ちである。困った元綱だが裏切りを決断していたのは元綱だけでなかった。西軍の一軍を任されていた小早川秀秋も同様でついに動いたのである。

 秀秋は大谷義継の軍勢に向かって突撃した。しかし義継が秀秋の裏切りを予知していたようで冷静に対処する。しかしこのタイミングで元綱と近い位置に配備されていた脇坂安治も裏切り義継に攻撃を仕掛けた。

「ここだ! 脇坂殿に続け! 」

 元網は安治に続いて義継の軍勢に攻撃を仕掛けた。さらに元綱同様内応の決断を下していた小川祐忠と赤座直保も義継に攻撃を仕掛ける。これには元綱は驚いたし呆れた。

「人のことを言えないが裏切り者ばかりだな。これで勝てはずもない」

 ともかくこれが戦いの趨勢を決めた。西軍はここから総崩れになり東軍の勝利が確定するのである。

 東軍の勝利ということで元綱はほっとした。

「とりあえず今回の決断も成功か」

 安堵する元綱。幸い朽木の地も安堵されて今まで通りということになった。だが内応の情報を進めてきた若い家臣は肩を落としている。そして元綱を見るなり土下座した。

「申し訳ありません! 」

 元綱としては謝られる理由はない。しかしあまりの謝りように気になったので尋ねた。

「一体どうしたのだ」

「実は内応すれば加増の沙汰が下ると話を聞き及んでいました。しかし私の不手際でそれも反故になり」

 なんでもいろいろ手違いがあって内応の通告が遅れたらしい。その結果元綱の行動は戦場での裏切りと処理されてしまったようだ。しかしだとすれば本来は領地も没収されかねない話である。だとすれば元の領地が遺ったのはむしろ幸運といって良かった。

「何も謝ることは無い。むしろ幸運ではないか」

 この元綱の言葉に若い家臣は安堵し再び平伏するのであった。


 こうして元綱の二度目の決断は終わった。これ以降戦国時代は終結に向かい元綱も穏やかな日々を送る。そして寛永九年(一六三二)八四歳という当時としては長寿を誇り朽木の地で生を終えた。

「いろいろありすぎた。この地で死ねるのはまさしく僥倖だろう」

 その死に顔は満ち足りたものだったという。

 元綱の領地は三人の息子に分配された。長男の宣綱の家系は江戸時代を旗本として存続し幕末まで残った。領地はずっと朽木の地である。

 三男の植綱は三代将軍徳川家光の寵愛を受けたため領地を加増される。その結果大名となった。最初は朽木の一部を含む大名であったがのちに別の領地に移っている。こちらも幕末まで存続した。

兎も角元綱の血は明治維新まで残ったのである。これも元綱の決断のおかげであろう。


 立場の大小にかかわらず戦国武将という人々は慣れ親しんだ土地を追われることが多々あります。後年挽回する人もいれば元の地に戻れないまま死ぬ人。戻ったはいいがまた別の土地に行かざる負えなくなる人。様々居ます。そんな中で元綱は慣れ親しんだ朽木の地から特に動くことなく人生を終えました。畿内の武将ではかなり珍し例です。やはり要所要所でうまく決断しているからなのでしょう。現代でも決断というのは重要です。そう言った意味では見習うべきなのかなとも思います。

 さて次の話の主人公は徳川家康の家臣である人物です。一体どのような人物なのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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