白河義親 義親の生きる道 後編
佐竹家との和睦で一応の平穏を手に入れた義親。ここから奥州南部の戦乱は収束に向かっていく、かに見えた。だがある男の登場が再び戦乱を生み、義親の運命に重大な影響を及ぼす。
天正八年(一五八〇)白河義親の義父である蘆名盛氏が死んだ。義親としてみればいろいろと世話になった人物である。それゆえか恩義も感じていた。
「これよりは蘆名家も大変だろうな。いろいろ私も手を尽くさんといかんかも知れん」
義親がこう思ったのは理由がある。盛氏には息子がいたが早逝していた。それゆえ縁戚の二階堂盛隆を養子にして跡を譲っている。だがこの盛隆と蘆名家臣の中はあまりよろしくない。しばしば対立しているという。
「盛隆殿は勇猛らしいがそれだけでは家臣たちは付いていかんということか。しかし蘆名が衰えればこのあたりもまた騒がしくなろう」
そんなことを考える義親。だが蘆名家の衰えに反比例するように佐竹家の影響力が増してきた。佐竹家は奥州南部の勢力への影響力を強め盟主的な存在になりつつある。奥州南部は佐竹家を中心とした連合勢力となりつつあった。
そうした動きの中で伊達家は佐竹家と対立していた方針を転換しつつあった。これは天下統一を目指す織田信長が全国の大名を支配下に収めようとしていた動きに通じる。当時の伊達家当主の伊達輝宗は信長と音信を通じその支配下に収まろうとしていた。輝宗は奥州南部の勢力同士での和睦を仲介し成立させていく。この動きを佐竹家も好意的に認め輝宗の奥州南部での調停に賛同した。
この動きを義親も歓迎した。
「これで諸々の争いも終わりに向かうか。そうなれば白河家が脅かされることもなくなる。これはよい動きだ」
こうした和睦のあっせんが行われるのを義親は歓迎し補佐する。他の勢力も異論はなく自主的に戦闘を終わらせつつあった。
しかし天正十年(一五八二)織田信長が本能寺で横死しその支配体制が動揺すると、奥州南部で行われていた和平の動きにも陰りが出てくる。そして天正十二年(一五八四)蘆名盛隆急死し、家督は盛隆の幼い息子の亀王丸に継がれた。さらに伊達家の当主が変わり、輝宗長男の政宗に代わると再び奥州南部は乱世に突入していくのである。
天正十三年(一五八五)伊達輝宗は二本松義継に拉致され、義継ともども横死した。これについては蘆名家の勢力と縁戚にあった義継を政宗が攻撃したことが起因である。とはいえ不本意に父を失った政宗は弔い合戦のため大軍を率いて二本松領に侵攻した。
これに対し義継の遺児の国王丸は蘆名家や佐竹家に援軍を依頼した。伊達政宗の行動を快く思わない佐竹義重は国王丸の依頼を快諾し、同盟関係に会った蘆名家や従属下にあった勢力と共に二本松家の救援に向かった。これにはもちろん義親も含まれている。
「やっと平穏になると思ったがな。そうもいかないらしい」
義親は喝食丸を連れて出陣する。そして合流した連合軍はおよそ三万という大軍に膨れ上がった。対する伊達家はおよそ七千。
「勝敗は日の目を見るより明らかか。まあ敵も必死で向かってくるだろうが」
実際いざ決戦におよぶと伊達家は奮戦し粘った。しかし兵力の差は歴然であり伊達家は重臣の鬼庭左月斎が連合軍に突撃し戦死するに至る。しかしこの左月斎の奮闘により政宗は戦場から離脱することに成功した。しかし連合軍はまだ兵力を維持している。
「城に籠ろうともこの戦力差では無理だろう。伊達家もここで終わりか」
義親はそんなことを考えていた。ところが義重は留守中の本国に敵が侵攻してくると知ったため撤退を開始する。盟主である佐竹家が撤退してはどうしようもないと連合軍も解散して自国に戻っていった。
「これが仇にならんといいのだが」
義親は不安を感じたがどうしようもない。この後体勢を立て直した伊達家は二階堂家への攻撃を再開する。やがて二階堂家は疲弊し相馬家へ和睦の仲介を依頼した。この際相馬家の当主の相馬義胤は義親も和睦に誘う。
「これ以上奥州で戦を続けても皆疲弊するばかりだ。どうだろう義重殿も誘って皆で和睦という方向に行かないか」
「まあいいでしょう。これ以上の戦で困るのは我々かも知れませんね」
もはや義親も長い戦に疲れ始めていた。これは佐竹家も同様であったようで義胤の案に乗り伊達家と和睦する。これにより天正十四年(一五八六)五月に和睦が成立。戦いは再び終結したのであった。
伊達家との抗争も集結しひとまず安堵する義親。しかし不安がないわけでもない
「政宗殿はそんな簡単に戦をあきらめるような御仁なのだろうか」
義親はここに至るまでの政宗の戦いぶりにある種の不安を覚える。それは政宗が何が何でも自分の道を進むタイプの人間性を感じたからだ。ある意味それは義親もそうである。だが義親と政宗は進む道がまるで違った。
「今の私の道は白河家を生き残らせること。しかし政宗殿の道はおそらく伊達家を大きくすることだろう。おそらく戦は再び起こるのだろうな」
そんな不安を感じる義親。そんなとき思いもよらぬ話が舞い込んでくる。というのも天正十四年の十一月に蘆名家を継いでいた亀王丸が早逝してしまったのだ。
思いもよらぬ蘆名家消滅の危機。ここで佐竹義重は蘆名家を存続させつつ自分の勢力に取り込む奇策を放つ。その奇策を聞いた義親は驚くしかなかった。
「喝食丸を蘆名家の跡取りに? 」
「そうだ。もうすでに蘆名家の家臣達とは話を付けてある」
その奇策とは義親の後継者である喝食丸を蘆名家の養子にするというものであった。これにはさすがに義親も抗議する。
「情けない話ですが私には男子がいません。白河家はどうなるのですか? 」
「当座は貴殿が白河家を仕切るといい。実際のところは今までと変わらん。もし喝食丸に子が生まれたらそれを跡継ぎにするとよい」
ずいぶんと勝手な物言いだと義親は感じた。しかし拒否できる立場ではないのも事実である。
「(いつになるかわからないが私が生き続けるしかないか)」
当時の義親は初老を越えている。当時の感覚で言えばあと十年もつかどうかというところであった。喝食丸はまだ幼いが十年生きれば子も生まれているだろう。多分。
「受け入れる以外の選択肢はないか」
義親はため息まじりに義重の提案を受け入れる。義重も無理筋の依頼であったのは自覚しているのかこの時ばかりは義親に頭を下げた。
こうして天正十五年(一五八七)喝食丸は蘆名家の跡取りとなった。それに伴い元服し名を義広と改める。この結果蘆名家も佐竹家の傘下に入る結果となった。
「こうしてみると義重殿の思い通りに進んでいるな」
そう考えると義重に従う道を選んだのは正解だったか、と義親は感じた。しかし一方で不安なうわさも耳にする。
「伊達家は政宗殿の弟を蘆名家の跡取りに入れるつもりだったらしい。蘆名家中もどうするか揉めたそうだ」
この噂が真実なら佐竹家と伊達家の間にしこりが残った形になる。
「いったいどうなることか」
義親は何度目かわからない不安を感じるのであった。
天正十六年(一五八八)伊達家と佐竹、蘆名家連合軍の間で小規模な合戦が起こった。戦いは双方芳しい成果を出せず講和となる。
この戦には義親も参戦していたが特に戦うこともなく撤退している。
「義重殿は先年太閤殿下から出された礼を気にしているのかもな」
太閤殿下というのは旧織田家家臣で関白の豊臣秀吉のことである。秀吉は主君信長の死後その天下統一事業を引き継いでいた。その一環として各地の勢力にこれ以上の戦いはやめるようにと令を出している。いわゆる惣無事令であった。これは義親の下にも出されている。
義重はかねてより秀吉とつながっていたため惣無事令の存在を無視できなかったのだろう。実際義重は惣無事令に従い蘆名家と伊達家の戦いの停戦に動いている。尤も芳しくないが。
「義重殿の立場も少しはわかる。しかし政宗殿は止まらんだろう」
正直この頃の義親の頭の中に、これ以上佐竹家に従っていて大丈夫かという疑惑が浮かんでいた。佐竹家は秀吉の命に従う立場を取っているうえに、北条家への対応に忙しく奥州南部で積極的な行動を行っていなかった。
「政宗殿を止めるなら今しかない…… いや、もう遅いのかもしれない」
先立っての合戦まで政宗は連敗し続けていた。しかしそれでも生き残り何度でも戦いを挑んでいる。先年は戦果こそ乏しかったものの連敗を止めていた。
「この後どうなるか。蘆名家では相変わらず内内でもめているらしい」
蘆名家では義広が連れてきた家臣が権力を握り、もともといた蘆名家臣は蔑ろにされているようだった。
「そこをつかれたらどうしようもない。義重殿はどうするつもりか」
不安を具体的に感じ始める義親。そしてその不安は実際のものとなる。
天正十七年(一五八九)蘆名家臣の猪苗代盛国が伊達家に内応した。これを受けて伊達政宗は蘆名家の本拠地である黒川城に向けて軍勢を進める。これに対し蘆名義広は佐竹家から援軍をもらい迎撃の体制を取った。しかし戦いは伊達家の快勝で終わる。蘆名家は大敗をして追い詰められ、結局義広は実父の佐竹義重の下に逃げ帰ってしまった。これで戦国大名の蘆名家は滅亡する。
この時義親は参戦していない。佐竹家からの要請もなかったし惣無事令を受けている手前下手な行動は出来なかった。しかし蘆名家が滅亡したとことで非常に難しい立場に立たされる。
「義広め。一応一度は父となった私を頼らんか。まあいい。それよりこれからのことだ」
伊達家の大勝に伴う蘆名家の滅亡。ついでに佐竹家も被害を被った上に北条家との戦いも苦戦中であった。この結果奥州南部での伊達家の影響力は絶大なものとなる。
この事態に佐竹家からは同盟の維持を求めたがそれはあまりに現実的でない提案であった。
「それは伊達家に滅ぼされろといっているようなものだ。さすがにそれには従えない」
義親はさっさと伊達家に降伏して白河家を守る道を選んだ。伊達家の脅威が目前に迫っている関係上降伏するのは仕方のないことといえる。しかしこれが義親の運命を決めることになってしまう。
それは伊達家と蘆名家の戦がそもそも惣無事令違反であり、西日本を制圧し天下人に君臨しつつあった豊臣秀吉の逆鱗に触れることであったからだ。奥州南部で覇権を確定的にした伊達家だが、結果天下人を敵に回す結果となったのである。もし政宗が下手な行動を取って秀吉の不興を買えば白河家を含む従属下の勢力たちもただでは済まない。
「何と面倒なことになったのだ」
頭を抱える義親。今後どうするか頭を悩ませるのであった。
伊達家が蘆名家を滅ぼした翌年、豊臣秀吉は北条家を討伐するため関東に出陣した。この頃伊達家と北条家は同盟関係にある。そのため政宗は対応に迷った。何故なら政宗は秀吉の出した惣無事令に違反しているため降伏したからといって許されないかもしれなかったからである。ならばいっそ北条家と共に戦うかといえば秀吉の軍勢は圧倒的であった。
こうした政宗の迷いに義親は困った。
「このままでは我らも家を失いかねないぞ」
義親はいっそ白河家だけでも秀吉のもとに向かい従属下に入るというべきかと考えた。この時ほかの伊達家傘下の領主たちも対応に迷っており伊達家に従う姿勢を見せる者もいる。
一方義親の動きを知った政宗は義親に秀吉の下に向かわないようにとくぎを刺した。これに周囲の勢力も大人しく従ったため義親も従わざる負えない。
結局政宗は降伏することを決め小田原の秀吉のもとに向かうことにした。しかし従属下の勢力には領地を動かないようにと命令する。義親はこれに不安を感じた。
「我々も直接向かわなければならんのではないか。でなければ秀吉様に恭順の意思を伝えられん」
困った義親はほかの領主と話し合い政宗を通じて秀吉に貢物を贈ることにした。
「これで白河家の家だけは残してもらえないだろうか」
ここにきて最大の窮地を迎える義親であった。やがて秀吉が北条家を滅ぼすと伊達家や白河家を含む東北の諸大名への処遇が伝えられた。
「伊達家が蘆名家を滅ぼし手に入れた領地は惣無事令違反に当たるので没収とする。参陣しなかった者たちは全て改易とする」
義親の貢物など何の意味もなかった。白河家はあっさりと滅亡してしまったのである。
「私は何のために生きてきたのだ」
愕然とする義親。しかしもうどうすることもできなかった。
領地も家も義親は何もかも失った。しかしそれでもあきらめない。
「せめて家だけでも再興させてもらえないだろうか」
義親は政宗が没収された旧蘆名領に入った蒲生氏郷を頼り再興を目指した。しかし芳しい成果は上げられない。この時義親はおよそ五十歳。もはや老境といってもよかった。
「白河家だけは残さなければ。私の道はそれだけなのだから」
家の再興を目指し諸国を流浪する義親。この間義親は早逝した弟の息子を跡継ぎとして迎え入れている。
「私もいつ死ぬかわからん。これだけはちゃんとしておかなければ」
養子とわずかな家臣を連れ諸国をさすらう義親。そんな生活が十年以上続いたある日、義親を召し抱えたいという大名が現れた。何と伊達政宗である。
「これは驚いたな。しかし家を再興してくれるのならば良しとしよう」
結果として政宗が白河家を潰してしまった側面もある。その負い目かどうかはわからないが義親は家臣ではなく客将として扱われた。旧領に戻ることは出来なかったが一応白河家は再興することに成功する。
しばらくして養子に取った甥も元服した。そして名を義綱と名乗らせる。複雑な関係であった父の名前であったので事情を知る家臣一同驚いた。しかし義親はもはやそんな過去のことなど気にしていない。
「なんとなくこの名が良いと思ったのだ。それだけだ」
この後義親は政宗に厚遇され七十九歳まで現役であった。養子の義綱の継いだ白河家は、この後伊達家家臣として長く存続することになる。
最終的に義親は八十六歳という当時としては高齢で死んだ。数奇な生まれの数奇な長い人生を送った男の死に顔は安らかであったという。
遅れてきた戦国大名伊達政宗。彼は戦乱が終息しつつある奥州南部に再び戦乱をもたらしました。それについての是非についてはそれぞれ感想があるのでしょうが、ともかく多くの人間の運命を変えたことは事実です。
義親も政宗の行動に影響を受けた人物であり一時は守り続けた白河家をなくしてしまう目にあいます。しかしそんな義親を広い厚遇したのも政宗です。なんとも不思議なつながりですね。兎も角政宗の下で義親は大往生しました。なんやかんや白河家は再興できたので義親も満足であったのではないかと思います。
さて次の話の主人公ですが事績はともかく歴史上の重要な出来事に妙に関わった人物です。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




