川村重吉 礎を作る人 前編
戦国屈指の大大名毛利家。その巨大な組織の中には名も知られぬ小さな家が数多くいる。この話はそんな小さな家に生まれたある男の数奇な物語
毛利家といえば戦国時代にその名を轟かせる西国の雄である。最盛期には中国地方の大半を支配する巨大な勢力であった。それほど巨大であるからには家臣の数も多い。そんなあまたの家臣のうちの一つが川村家であった。
川村家は小さい家である。名が伝わっているのもほとんどいない。その名が伝わっている数少ない人物の一人が川村常吉である。常吉は「沈勇清操」と呼ばれていた。沈勇は落ち着きがあって勇気のある事。清操は志や行いが清らかで偽りのない様を言う。つまりは冷静かつ誠実で勇敢だった、ということなのだろう。
さてそんな常吉の孫が重吉である。ちなみに父の名は伝わっていない。川村家は毛利家のあまたの家臣の中で埋没してしまうような家であったのであろう。
それはそれとして重吉である。この重吉は幼いころから書物を読み漁っていた。書物に書かれている様々な事象や論理は不思議と重吉の興味を引いたのである。
一方で重吉はあまり武芸には興味を示さなかった。元服して重吉と名乗ってからもこれに代わりはない。これには数少ない川村家の家臣たちも嘆く。
「常吉さまはあれほどの武辺物であったのに」
「左様。今の殿も戦では目立たない。これでは川村の家も我々もおしまいだ」
こんな嘆きを聞いては重吉の父もさすがに息子に注意する。
「重吉よ。書物ばかり読んでいないで武芸の鍛錬も行うのだ」
これに対して重吉はこう言った。
「私に武芸の才はありません。でしたら所の知識を身に着けそれを活かすのが家の為になりましょう」
「馬鹿を言うな。我らのような小さい家は武功でも挙げねば大きくなれんのだ」
父はそう言うが彼も大した武功はたてていない。だからこそ川村の家は小さいのだが。
ともかく重吉は父の言いつけを聞かなかった。それにはちゃんと理由がある。
「皆は太閤殿下が日本を静謐にしたといっている。ならばこれから役に立つのは知識のはずだ」
重吉には不思議と大人びているところがあった。ゆえにかそんなことを考えているのである。
「これからは領地を栄えさせる知識が必要になるはず。それが侍の仕事になるはずだ」
そう考えた重吉は特に土木や治水についての書物も学ぶ。また暇があれば農村に出向き実地で様々なことを学んだ。さらに商家に出入りして算術なども学び習得していく。
こうした重吉の行動に川村家中はますます嘆く。
「まるで侍の跡継ぎのやることではない。川村の家もおしまいだ」
そんな嘆きの声はますます大きくなる。しかしそれを気にせず重吉は知識を身に着けていくのであった。
慶長三年(一五九八)天下統一を果たした豊臣秀吉がこの世を去った。すると秀吉に従っていた大名たちはひそかに動き始める。
「また大きな戦になるかもしれない」
毛利家でもそんな噂が流れ始めた。というかひそかに動き始めた大名のうちには毛利家も入っている。
この噂に重吉は閉口した。
「皆もう戦は終りといっていたがそうでもないらしい。父上は存外乗り気らしいが」
重吉の父は戦となれば武功をあげるいい機会だと乗り気である。それに対して小さな家である川村家に何ができようかと重吉は考えていた。
「まあ父上も私も死なない程度にしよう」
そんなこんなで慶長五年(一六〇〇)美濃(現岐阜県)の関ヶ原での戦いを中心に日本の各地で戦が起きた。一方の総大将は徳川家康率いる東軍。もう一方の西軍の総大将は毛利輝元である。これらの戦いにもちろん川村家も動員された。しかし戦いは東軍の勝利で終わる。
「何とか生き残れたか」
川村家は重吉をはじめ一族郎党皆生き残れた。尤もろくに戦わなかった部署に配属されたのだから当たり前である。兎も角これで徳川家康の覇権は確立した。
さて戦いが終われば戦後処理がある。その処理のうちには戦いに敗れた大名たちの処遇も含まれている。当然毛利家もそのうちに入る。
毛利家は西軍の総大将なのだから最大級の責任を取らされることになった。どういうことかというと領地をすべて取り上げられる。つまりは改易で大名としての毛利家は消滅することになった。しかし重臣たちが家康と交渉し何とか周防、長門(双方現山口県)の二国を安堵される。しかしこれで毛利家の所領はおよそ三分の一になってしまった。こうなってしまっては膨大な量の家臣を養うことなどできない。従って家臣の人員整理が始まった。要するにリストラである。
重吉の父はこの動きに戦々恐々であった。
「父上ならともかく私には大した武功はない。どうなるのか」
家を守るのが武士の本懐という考えもある。重吉の父はそう言う考えの持ち主であった。一方で重吉は落ち着いていた。
「結果は見えているともいえなくない。とはいえ何もせずというのは父上に悪いな」
重吉は先だっての戦いで川村家は重要度の低い部署に派遣されたことを理解していた。要するに別にいてもいなくても変わらないような立場である。川村家は祖父の功績もあったがお目こぼしをもらえるほどのものではない。重吉はそれをわかっていたので川村家の存続はほぼあきらめていた。
とはいえ重吉もただ取り潰されるのを黙っているつもりはない。取り急ぎこれまで蓄えた土木治水の知識を活かして、農地開発に関する提案を行った。毛利家も小さくなるのだからこうしたことがますます必要になるだろう。そう考えての提案である。もしこれが認められれば川村家の存続も叶うかもしれなかった。尤もこれは勝算の低い話である。
「我が家は代々土木や農水に関わってきたわけではないからな。そんな連中の言葉に耳を傾けるわけもないだろう」
結局重吉の提案が書かれた書状はろくに目を通されず捨てられた。そして川村家の取り潰しも正式に決まる。
「仕方なし、か」
悲嘆にくれる父をしり目に重吉は処分を素直に受け入れるのであった。
取り潰しが決まった川村家。一応祖父常吉の功績があったのでわずかながらの金子が与えられた。
「これでは手切れ金だ」
あきれる重吉だが金はいつの時代何においても必要だ。くれるというのだから素直にもらうことにする。一方で重吉の父はショックを受けていた。
「代々使えてきたわが家になんという仕打ちを…… 」
重吉の父は心のどこかで自分の家は残されるのだろうと考えていた。それは自分の家が毛利家に尽くしていたからである。しかし今回取り潰された家には川村家と同じくらいの期間毛利家に仕えていた家もあった。そもそも毛利家がここまで大きくなったのは輝元の祖父の元就の代で、家臣たちも毛利家が大きくなる中で組み込まれていったことが多い。それはある意味で主君と家臣の関係性にある種のドライさがあったという事でもある。
ともかく重吉の父は取り潰しですさまじいショックを受けた。その結果熱を出して寝込んでしまう。結果取り潰しにあたっての諸事は重吉が行うことになった。
取り潰しが決まった以上養っている家臣や下人のことも世話しなければならない。とりあえず帰農して農民になるという者たちはいい。そうでない人びとには何とか再就職先を探すことにした。重吉にとってみれば川村家に尽くしてくれたことへの感謝の意もある。しかし毛利家の窮状は家臣たちの窮状でもある。新たに人を雇う余裕のある家などは少なかった。
「皆も苦しかろう。しかし何とか仕えてきた者たちの後々のことだけはちゃんとせねば」
重吉は周囲に頼み込んでいった。時には毛利家の旧領に入る大名家の家臣たちにまで頼み込む。また毛利家から下された金子もわずかだが分け与えた。こうした重吉の行いに家臣や下人たちは皆感謝する。
「重吉さまがこんな立派なお方だったとは」
「全くだ。それを見抜けなかった我らが恥ずかしい」
皆再就職が叶うと重吉への感謝を告げ去っていった。最終的には残されたのは重吉と父。そして代々の家臣である。その家臣は大きな農地を親戚が持っているのでそれをもらい農民になることにしたという。重吉はその家臣に残った金子の大半を渡しこう言った。
「すまないが父上の面倒を見てもらいたい」
「それはもとよりそのおつもりです。重吉さまは如何なされますか」
「私は旅に出ようと思う。旅に出て見聞を広めたい。そのうえでここに戻ってくるかどうかはわからないが」
「そうですか…… わかりました。お父上のことは私が最期まで面倒を見ましょう。御達者で」
「ああ。お前も元気でな」
こうして重吉は毛利家を離れ流浪の旅に出た。そして本当に戻ってくることは無かったという。
故郷を後にして旅に出た重吉。特に目的地は決めていない。ただ各国々の農地や耕作を見て己の知識を増やそうという意欲はある。
「かつての毛利家の領国は広かった。しかしそれでもこの日本の一部に過ぎない。私の知識はそのあたりだけに通用するものだ。各地を遍歴すればさらに土木利水の見聞も広がろう」
さしあたって重吉は山陽道を上って京を目指すことにした。京である必要性は特にないがわかりやすい目標だったからである。
こうして重吉の旅は始まった。道中田畑を見つけてはつぶさに観察し時には周りの人々に色々と尋ねてゆく。
重吉が目にしていった農地は様々な状況であった。何の問題もなく耕作できるもの。戦の爪痕が遺り荒廃したもの。治水に難があり満足な耕作ができないもの。様々であった。
「しかしやはり水か。治水をよくやらなければ米も作物も育たず国の衰えにつながる」
ここまで見てきた中で得た結論は当たり前ともいえるものであった。しかしその当たり前が成されていない地域もいくつかある。
「これよりは戦も減っていこう。これからの侍の戦は土との戦になるかもしれん」
そんなことを考えた重吉は自分の得た知識を実践してみることにした。重吉は立ち寄った村々でいろいろと助言していく。初めは不審がられるも小さな成果を上げそこから信頼を勝ち取っていけばそれなりの大きなこともできるようになった。尤も短期間でできるものに限られるが。
「本当に大きく変えるのならば然るべき大名に仕えなければならん。しかし武功もない私では誰も私を取り立てんだろうな」
少しばかり悲観的な気分になる重吉。尤もすぐに気を取り直して旅を続ける。そしてまた立ち寄った村で利水や土木に関する問題があれば助言し、時に自ら村人と協力してちょっとした工事を行なったりした。
こうした旅を続けて重吉は京にたどり着いた。京の町はなかなかに華やかであったが重吉は落ち着かない。
「私は村々で土と関わっている方が向いているな」
そう考えた重吉は観光もそこそこに京の町を後にした。次に目指すのは近江(現滋賀県)である。
「琵琶湖の周辺ではまた違った利水や土木の知識があるかもしれん。楽しみだ」
やがて重吉は近江の蒲生郡にたどり着く。琵琶湖の沿岸にある地域である。重吉はこの群のある村にやって来た。この村はほかの村に比べて農地も小さく貧相である。重吉は村の長に事情を聴いた。するとこんな答えが返ってくる。
「この村は昔川の水争いで負けてから水不足でして。おかげで作物もあまり育ちません」
そのため沿岸の葦を売ったり湖の魚を取ったり凌いでいるそうである。一方で別の村に立ち寄ってみるとこんなことを言っていた。
「平時は川の水が多くていいのですが雨が多くなると川水が増えて農地がだめになります。それに川のことでやっかみを飼うことも多いのでいろいろと面倒が」
どちらの言い分も聞いて重吉は考えた。
「要は川の流れが問題なのだ。うまく流れを変えればどちらの問題も解決できるかもしれん」
そう考えた重吉は蒲生郡の村々を回った。そして川の流れを変えればどの村にも理があることを説く。そのうえですべての村の協力が必要であることを訴えた。
「この川は全ての村のものだ。すべての村が喜ぶような川に変えれば争いも起きず無駄な血も流れず無駄な銭もかからない」
重吉は説得して回る。しかしさすがにすべての村が参加するようなことは無かった。尤もそれは重吉にもわかっている。
「まずは出来るところからだ」
そう言って重吉は出来るところから手を出す。その結果は小さいものであるがそれなりの成果は出た。
「とりあえず前よりはましな程度にはなったか」
水不足の村は少しばかり水が増え、水害に悩む村には簡易だがしっかりとした堤防ができた。これらの成果に村々は喜び重吉を讃える。すると参加しなかった村たちも重吉の助力を乞うようになった。こうして人手が増えたため重吉は少し大掛かりな工事を始める。
「川の流れを調節しすべての村に水が平等にいきわたるようにする。それに船着き場をつけて物の行き来をできるようにしよう」
こうして始まった工事に皆協力的であった。これは重吉が工事のメリットをわかりやすく説明したからである。
「川の流れが平等なら妬みも起きない。これなら何かあると力づくで解決するよりかは面倒が少なくなる。それに船で行き来できれば物の行き来も増えて皆暮らしが豊かになるぞ」
こうした説明に村々は乗っかる形で重吉の工事に協力した。この結果後々蒲生郡は近江の中でも豊かな地域になる。尤も重吉はそれを見る前にこの地を後にするのだが。何故なら重吉はこの地で運命的な出会いをするからである。
なんやかんや三年目に突入しました。やる気の続く限り投稿はしていきたいのでこれからもよろしくお願いします。
さて今回の主人公は川村重吉です。話の内容にある通り毛利家の減封で流浪のみとなってしまいました。従って毛利家の領地で重吉の名前は全く伝わっていません。しかし次話で重吉の人生は急展開を迎えます。一体どうなるのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




