斯波義統 些末 前編
尾張守護、斯波義統の話。
足利一門に連なる名家に生まれた斯波義統。かれは激動の戦国時代で消えていく権威そのものともいえた。義統は一体どのような人生を送るのか。
斯波家といえば足利将軍家の一族であり将軍を補佐する管領に就任したこともある名家であった。また尾張(現愛知県北部)、越前(現福井県)、遠江(現静岡県東部)などの三ヵ国の守護職も担っている。しかし応仁の乱以前から在京していることが多く領国では守護代の権力が増大していた。
応仁の乱が終わると越前は守護代に奪われ遠江は隣国の今川家に制圧されつつあった。残すは尾張のみであるがここも守護代の織田家が勢力を伸ばしつつある。それでも守護としての実権や兵力は保持していた。
さて今代の斯波家の当主は斯波義達といった。義達は気性が激しく野心家である。斯波家を昔日の姿に戻すことを自身の命題にしていた。
「世は乱れ足利家の天下にも陰りが出ている。そんな時だからこそ足利一族の我らが世を正すべきだ」
そう考えた義達は今川家に奪われている遠江の奪還に力を注いだ。遠江では今川家への反発も強い。そうした勢力と手を組んで遠江の奪還を目指していたのである。
しかし守護代の織田達定はこれに反対していた。
「遠江を手に入れたところで我らには何の理もない。尾張を疲弊させるだけだ」
達定としては義達のやっていることは自己満足にすぎない。尾張の守護なのだから尾張の発展に力を注ぐべきである。そう達定は考えていた。そう言うわけで遠江への遠征に織田家や尾張の領主たちは力を貸していない。そのためか永正十年(一五一三)に遠江の反今川勢力が敗北を喫し義達も尾張に逃げ帰ってきたのである。
これをいい機会だと考えた達定は義達に訴えた。
「もはやこれ以上遠江にこだわるのはおやめください」
しかし義達は耳を貸さなかった。それどころかこの訴えに怒り達定の討伐を行う。
「主君に手を貸さずそれどころかやめろと言い出す。そのような家臣は討ち果たしてくれよう」
達定は驚いた。まだ敗北の傷も癒えていないと考えていたからだ。しかしそんな達定の考えもむなしく義達は猛然を達定に襲い掛かる。そして両者は合戦に及んだ。
果たして結果は義達の勝利に終わった。合戦に敗れた達定は自害して果てる。義達の全面的な勝利だった。
「これが格の違いというものだ。これでほかの不忠者共も思い知ったであろう」
達定自害の報告を受けた義達は得意げに言うのであった。後のことを思えばおそらくこの時が斯波義達の人生の絶頂であったのであろう。
さて達定敗死の年、義達に待望の長男が生まれた。後に名を斯波義統と名乗る。
達定の死後、勢いに乗った義達は遠江への侵攻を続けた。むろん尾張の領主たちは力を貸さない。それでも義達は戦い続ける。
「達定が死んでも私の言うことを聞かんのか。まあいい。私は自分の実力で遠江を奪還して見せる」
義達はますます遠江の奪還にのめりこんでいった。そのため生まれたばかりの義統に顔を見せない日々が続く。そんな義達に家臣も侍女たちも不満を抱いた。
「せっかく生まれたお子を放っておくとは。世継ぎに対する扱いではない」
「奥方様も大変な思いをなさったのに。殿は冷たすぎます」
こうして尾張国内や斯波家の内外に不満は蓄積していった。しかし義達はそんな事を気にしない。祖先の領地であった遠江を奪還することに血道をあげる。
やがてこの無謀で生産性のない戦いの報いを受ける時が来た。永正十二年(一五一五)、遠江での戦いで義達は大敗を喫するのである。しかも義達は捕虜になってしまった。これには尾張でも大騒ぎとなる。
「守護の身でとらえられるとは何たることだ。ともかく今川殿に命だけは助けてもらえるよう伝えなければ」
「そうだな。今川殿も足利一門に連なる身。きっと命は助けてくれる」
「いやどうだ。今川殿は先年より公方様より遠江の守護職を任されている。義達様の行いはそれをないがしろにすることだ。許してくれないのではないか」
斯波家の中ではそんな悲観的な考えまで出る始末であった。しかし後日今川家から送られてきた書状を見て家臣たちは安堵する。
「今川殿は殿を尾張に返すと申されている。とりあえずは一安心だ」
「そのようだ。しかしただで返すつもりなのだろうか」
「それは分からぬ。だがともかく殿が生きて帰るのだから良しとしよう」
やがてしばらくして今川家の軍勢に伴われ義達が帰還した。引き渡し場所は尾張であったので家臣一同に加え幼い義統も迎えに行く。
義達は駕籠に乗せられていた。その駕籠はゆっくりと家臣たちの前に置かれる。しかしなかなか義達は姿を現さない。
家臣たちが不審に思っているとゆっくり戸が開いた。そして中から義達が出てくる。それを見て家臣一同絶句した。
出てきた義達はやつれ切っていた。遠江に出陣する前の姿とはまるで違う。だがそれは些細なことである。
義達の頭には髷がなかった。それどころか頭全体を丁寧に剃ってある。服が僧形なら完全に僧侶であった。
家臣の一人は困惑しながら今川家の家臣に尋ねる。
「これは一体…… 」
「これ以上無益な戦を起こさぬように、とのことです。では、我らはこれで失礼します」
そう言って今川家の人々は去っていった。あとにはもはや別人といっていい義達と呆然とする家臣だけが残される。そして家臣の一人に抱かれていた義統は義達をじっと見ていた。まだ物心の着く前の義統の心に義達の姿はしっかりと刻み込まれるのであった。
衝撃的な姿で帰還した斯波義達。こんな醜態を披露したのだからもはや誰も従おうなどとは考えない。
「義達様には隠居していただこう。文句はあるまい」
そう言い放ったのは守護代の織田達勝であった。達勝は義統に討たれた達定の弟の当たる人物である。兄の非業の死を受けて家督を継いでいた。
達勝の言葉に斯波家の家臣たちは皆頷く。大敗しただけでも大変な責任問題だというのに、剃髪させられ送り返されるというあるまじき醜態までさらした。もはや義達に従おうなどという者はいない。
しかし一つ問題があった。
「義達様を隠居させるとして誰を跡継ぎにするのです」
「左様。お世継ぎはいるがあまりに幼かろう」
この時の義統はまだあまりに幼い。当主を継ぐのは不可能と考えるべきだ。しかし義達には男子の兄弟がおらず、ほかに当主を代行できそうな一族はいなかった。
家臣たちはどうしたものかと頭を抱える。すると達勝は驚くべきことを言いだした。
「何を迷う必要がある。武家は長子が相続するのが習わし。ならば答えは出ているだろう」
達勝は暗に義統を当主に据えるべきだと言い出した。これに家臣たちは難色を示す。
「さ、さすがにそれはいかがなものかと」
「織田殿。ご子息はあまりに幼い。だが名代を務められる一族がいないのだ」
この時代、緊急事態において幼子が当主となることは無いことではない。尤もそういう時は一族のものや縁戚にあたる家臣などが代行を務めるのだ。先にも記した通りそう言う人物はいないのである。
そういう事情で難色を示す家臣たち。それに対して達勝はこう言った。
「心配はいらない。守護の務めは守護代である私が行う。斯波家の諸事は貴殿らで務めればよかろう」
「しかし織田殿にすべてをゆだねては守護の権威が失われまする」
「今更権威も何もないだろう。今は家を守ることを考えるべきだ。違うか」
そう言われれば黙るしかないのが今の斯波家の立場である。実際敗戦の痛手で斯波家としての活動は縮小せざる負えなかった。今までは斯波家家臣の務めと守護家臣の務めを行っていたがもはや両立は不可能である。したがって選択肢は一つしかなかった。
「では織田殿のご意向に従いまする」
「それでよし。あとは義達様から許しを得るだけか」
「それは…… さすがに我々が」
そこに関してはさすがに押しとどめた。達勝にとって義達は兄の仇である。さすがに直接会わせるようなことは出来ない。達勝もここで強引に押し通すべきではないと考えたのか素直に引き下がった。
後日斯波家の家臣たちは義達のもとに集った。義達はもはや完全に心が折れており昔日の野心あふれる姿はどこにもない。剃りあがった頭の手入れもせず、やつれ切っていた。
そんな痛々しい姿を前に斯波家家臣たちは口ごもる。さすがにこの状態の主君に「隠居せよ」というのはいささか残酷に思えた。しかし黙っていてもどうしようもない。家臣の一人が代表して義達に告げる。
「この度守護代の織田達勝殿と会談し、殿にはご隠居していただくようにということになりました」
これを聞いた義達はゆっくりとうなずいた。
「それでよい。あとはお前たちに任せる」
そう言って義達は去っていく。残された家臣たちは呆然とするほかなかった。
守護職と斯波家の家督は幼い義統が継いだ。斯波家の当主としての役目は家中の老臣たちが代行し、守護の役目は守護代の織田達勝が務めることになる。
斯波家と守護代の織田家は主従の関係であるが義達の時代は色々と揉めていた。特に達勝にとって義達は兄の仇にあたる。しかし達勝はそんなことにこだわらなかった。
「義達様も隠居なされた。こうなった以上いろいろとこだわるのは馬鹿馬鹿しい」
織田達勝という男はなかなかに合理的な男であった。斯波家への恨みつらみを果たすよりうまく織田家の為に活かす方が得だと考えている。
「庶家の者共もこの頃自由に動き始めている。兄上の死で失墜した我らの権威をよみがえらせるには守護家を利用することが一番いい」
そもそも守護代の織田家には分家が多くいた。そもそも守護代の職も岩倉城を本拠地とする岩倉織田家と、清州城を本拠地とする清州織田家とで二つに分けている。尾張の北部を岩倉織田家が、南部を清州織田家といった具合に。
達勝は清州織田家で尾張の南部を支配している。これを補佐する一族が清州三奉行と呼ばれるものたちなのだが、皆織田家の一族であった。彼らはそれぞれ織田の姓を名乗り因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家という風に分かれている。この中で弾正中家は領地の支配を固めつつあり頭角を表そうとしていた。
こうした中で主家たる清州織田家の格を保たなければならない。庶家が強くなり自分に従うならいいが刃向かうようなら厄介である。そう考えた達勝は斯波家を庇護することで守護代としての格を維持しようと考えたのだ。従って達勝は斯波家を粗略に扱おうなどとは考えていない。考えているのは一つである。
「義達様のように好き勝手振舞うのだけは阻止しなければ」
達勝は守護代として守護家のわがままに付き合うつもりなど毛頭なかった。必要なのは存在だけなのだからともかく大人しくしてほしいと考えている。要するに義統に求めるのはお飾りとしての役割だけだ。
この達勝の考えの結果、義統は幼いころから傀儡として過ごすことになった。一見残酷にも見えるが厳しい乱世で生き残るにはこれも仕方のないことである。
義統は成長しても自分からは動こうなどとは思わなかった。それは幼いころ脳裏に焼き付いた父の姿がある。
「あんなみじめな姿になるのだけは嫌だ」
成長した義統は父のようなことになるのを恐れた。それゆえに消極的な人物に育つ。皮肉にもそれは達勝が求める姿であった。
そうした消極的な姿勢は元服してから何も変わらなかった。守護としての職務は相変わらず達勝が代行している。尾張は平穏無事に治まっているので誰も達勝に不満を持たないし義統も同様である。また達勝は義統を傀儡にしても排除しようとは考えていない。そんなことをすれば謀反人の汚名を被るだけである。
「このままでよかろう」
と、義統が考えているし達勝も
「義統様は大人しい。このままでいてくれればこちらも楽で済む」
といった感じで両者の関係は比較的平穏であった。
さて守護としては極めて消極的な義統だが、斯波家当主としてはいささか違った。領地のことをよく治め家臣たちからも慕われている。また義統も幼い自分を支え続けてきた家臣たちに信頼していた。
「私は皆がいたからこそこうして生きていられる。そこだけは忘れてはいかん。私がやるべきことは斯波家の領地を守り家臣たちを守ることだ」
義統が守護として消極的な理由はこの点にもある。下手に派手な動きをすれば達勝の反感を買い最悪の場合は戦となろう。義統は生まれてこの方、戦に赴いた経験はない。戦ったら必ず負けるとも思っていた。
幸い達勝は義統や斯波家をどうにかしようとはしていない。義統もそれを理解しているので達勝に従っているのだ。
「父上は野心に溺れて無理をしすぎた。其れでは人心を失うのも無理はない。私はそんな愚かな真似はしないぞ」
そんな義統の考えが通じたのか、家臣たちも義統を軽んじるようなことは無かった。
「義統様は我らを深く信頼されておる。我らもそれにこたえようではないか」
そう言ったのは義統の家臣の森政武である。政武は父の代から斯波家に仕えていて、弟も義統に仕えていた。
こうした政武の言葉にうなずいたのは丹羽祐植である。
「政武殿の言う通りだ。我らも殿の下で領地を栄えさせ武を磨こうではないか」
この祐植の言葉に政武らほかの家臣たちも賛同するのであった。
義統は傀儡という哀れな身であったがこうした慕ってくれる家臣は大勢いたのである。それは義統にとって少しばかり誇らしいことであった。
斯波家、畠山家、細川家の三管領は応仁の乱から戦国時代の前期まで多く名前が挙がる人たちです。ところが斯波、畠山の両家は次第に名前も見えなくなります。細川家は畿内や幕府がらみの情勢で多く登場しますが信長が上洛するころには随分と弱体化していました。そういう意味では古い権威の象徴ともいえる人たちなのでしょう。ちなみに大河ドラマにも出てくる細川藤孝は三管領の細川家ではありません。
さて話を義統に戻します。義統は父の大敗による隠居で守護の座に就きました。尤も跡を継いだ時は幼子だったようで、もちろん守護代の織田達勝の傀儡となります。そんな傀儡の義統がどんな人生を送るのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




