畠山義総 傑物 後編
養父の畠山義元の死で家督を継いだ義総。義総が目指すのは新しい畠山家である。己の理想に向かって走る義総は何を作り何を遺したのか。
義元の死で家督を継いだ義総。この時家臣たちが不安に思っていたことがある。それは義元が京の情勢に積極的に関わっていた方針を継承するか否かであった。
「義総様も義稙公に入れ込むのだろうか」
「そうかもしれん。義元様ともども長くにわたって京にいたからな」
家臣たちは口々に言う。しかし義総は全く違うことを考えていた。
「京での情勢は不安定。義稙様が再び京を追われるようなことも起きるかもしれん。少なくとも情勢が安定するまでは介入は控えるべきだ」
そう考えた義総は室町幕府との積極的な交流は控えるようにする。義稙はこれに驚きつつも一応大内義興や細川高国が残っていたので引き留めはしなかった。なお義稙は大永元年(一五二一)に京を出奔。高国と対立したがそのまま京に戻ることは無かった。
こうした動きの一方で義総が目指したのは畠山家の集権化である。畠山家は祖父である義統の死後に家臣たちの動きが活発化した。これにより畠山家当主の活動が制限され畠山家としての行動にも不利益が生じている。義総はそこを変えたかった。
「父上。私はまず畠山家を作り直したく思います」
義総は慶致にそう言った。慶致は首をかしげる。
「作り直すとはどういうことか」
「今の畠山家は家臣たちの力が強すぎます。このままでは養父上と父上との争いのような事態が再び起きてしまいましょう。そうすれば御家の力は弱まりいずれ滅びます。ですが養父上が戻りそれを父上が支えるという体制の時は畠山家一丸となって強い力を発揮しました。ならば皆の力を一つにできる家こそ目指すべきでしょう」
力強く語る義総に慶致は大きくうなずいた。
「義総の言う通りだな。して、私は何をすればいい」
「はい。実のところ長く京にいたせいで私への信はあまりありません。悲しいかなこれは事実です。しかし未だ父上は家臣の皆に信頼されております」
「なるほどな。私に家臣との間に立てと」
「その通りです。この畠山家をより強くするためには古き所を変えていかなければなりませぬ。それは家臣の皆のためにもなるはずです。しかし私が強硬に動けば反発を買いましょう。そこで父上の出番となるはずです」
「そうか。其れならば任せてもらおう」
「ありがとうございます。父上」
こうして始まった義総の体制は慶致との二頭体制ともいえるものであった。慶致は義総と同等の権限を持ち、いざとなれば義総と対立できる立場でもある。これを見た統秀達はひとまず安心した。
「いざとなれば慶致様を担ぎ上げる。それでよかろう」
実際義総も慶致の言うことは素直に聞く姿勢を見せた。はたから見れば隠居の慶致が権力を握っているようにも見える。しかし実態は違った。実際は義総の構想を二人で話し合いうまくバランスを取りながら遂行する。つまり実態としては義総の運営を慶致が補佐するという形であった。
この体制は畠山家に安定を生み改革を断行できる土台を創出した。義総も家臣たちの強い信頼を勝ち取っている。そして義総の家督相続から十年たった大永五年(一五二五)慶致はこの世を去った。
「何も心配はいらない。義総はすべてうまくやるだろう」
慶致はそう言って静かに死んでいった。これより義総は一人で畠山家を導いていくことになる。
慶致も死に義総は一人で国を導いていくことになる。さしあたって行ったのは城の改築であった。
「今のままでは城と城下を行き来しなければならない。これでは戦の際に色々と不便だ」
現在畠山家の城は七尾城という山城である。だがこの城はあくまで軍事拠点の役目しか果たせないものであった。一方で政務は城下にある屋敷で行っている。有事の際にはわざわざ城に戻る手間があった。
「これでは迅速に敵に対応することができん。それに攻め込まれた際に城下も民も守ることは出来ない。このままでは人を集め城下を栄えさせることもおぼつかん」
そう決意した義総は家臣たちに訴えた。
「能登には要害となる山がある。これを生かさずして畠山家の発展はない」
「生かすと言いますと、城を築くのですか? 」
「それもある。だがそれだけではない。まず七尾城の規模を大きくし城下の民たちを守れるようにする。それと同時に屋敷を城内に移し城で政務を行えるようにするのだ。そして山々に砦を築き城の周辺の防備を固めるのだ。領内の村々は山のふもとにあることが多い。それらを守ることもできる。そうなれば七尾城は天下の堅城となりその名をとどろかせるだろう。そうなれば民も安んじて暮らすことができ他国のものの行き来も増える。また商人たちが安全な城下を実現し商いを行わせれば畠山の家も栄えるというものだ」
義総は驚くほど大きな計画を告げた。これに家臣たちは半信半疑である。
「そのようなことできるのでしょうか。何より大層金がかかります」
「それについては心配いらん。京での出費を抑えたおかげで金は思った以上に余っている。何より前々から所方には話を付けてあるのだ。あとは私の命を受ければ始められる」
自信満々に言う義総。其れに対し家臣たちは今だ当惑していた。そんな中で一人の家臣が進み出てくる。出てきたのは温井孝宗である。孝宗は義元の存命中は能登に残り慶致を支え、義総が当主を継いだ後は側近の一人として活躍していた。義総としては自分に忠実でかつ周りともうまくやれる堅実な家臣をそばに置いておきたかった。そういう意味で適任だったのが孝宗であった。実際孝宗は堅実に仕事を成し遂げ周囲からの信頼も篤い。
進み出てきた孝宗はこう言った。
「此度の義総のお考え、畠山家の民のことをお考えになられたよき策と思います。民たちを我らが庇護すれば一向一揆などに与することなく従順になりましょう。さすれば隣国のようなことにはなりますまい」
孝宗のこの言葉に周りの家臣たちも納得したようだった。こうして家臣たちの指示を受けた義総は七尾城を中心とした周辺を作り替えていく。その結果山の上に作られた七尾城を中心に山に沿って砦が作られる大防衛網が出来上がった。城や砦には民たちが避難できるような構造にして食料の備蓄も備える。これにより畠山家領内の民たちは戦火を恐れることが無くなった。更に畠山家の内情に過剰な負荷をかけることもない。すべて義総の読み通りであった。
この時出来上がった七尾城は後代まで拡張し続けられ天下に名をとどろかす堅城となる。
七尾城の増改築に伴い義総は領地の制度の改革を打ち出していった。その過程で中央集権化を推し進める。
「まずは家臣たちの力関係を変えなければな」
これまでの畠山家は守護代である遊佐家の力が抜きんでていた。そのため遊佐家が主君に反発すると必然的に家は二分される。かつての義元と統秀の争いがそうであった。
こうした事態を防ぐため義総は慶致の存命の頃から孝宗を側近に取り立てている。統秀に対抗できる人物を立てることで家臣同士の力関係に変化をもたらそうとしたのだ。幸いといっていいかわからないが統秀は死にその息子の総光が跡を継いでいる。総光は統秀ほどの野心もない控えめな男であった。
「これはいい機会だ」
そう考えた義総は新たな家臣の抜擢や組織の再編成を進める。ちょうどな七尾城の増改築も行っておりそれに伴う領内の開発も進んでいた。そこに遊佐家より少し格の落ちる家臣たちを抜擢して担当させる。
これに喜ぶ家臣も多くいた。
「義総さまは戦以外で名をあげる機会をくださるようだ」
「これはよい。統秀殿が生きていることは万事顔色を窺わなければならなかったが、これからはそんな心配はなさそうだ」
実のところ統秀に対してよくない感情を持つ家臣も多くいたのである。そもそも遊佐家は守護代で畠山家において第二位の地位にあった。この時点でほかの家臣と隔絶した立場にあったわけだが、統秀は地位を生かして強引に事を進めることも多かったのである。統秀からしてみれば畠山家に二心はなく家の繁栄のために行っていたので心外であろうが、他の家臣からしてみれば専横の振る舞いに見えてしまうところもあったのであろう。
こうして抜擢を進めた結果、三宅、長、伊丹などの家臣たちが頭角を現し始めた。こうして頭角を現してきた者たちに義総は自分の『総』の字を与える。これは総光にも行ったことで主君との特別の絆を示すものであった。ここにも三宅家などの家に対する期待が見え隠れする。他にも孝宗の子にも総の字を与えていた。
一方で義総は遊佐家にも配慮をした。統秀くらい行動するのはいささか問題だが守護代として自分を支えてくれるのは問題ない。幸い総光はほかの家臣との協調を目指す姿勢を見せていたのでそれほどほかの家臣のやっかみは買わなかった。
「温井家やほかの家が遊佐家を抑える。しかしどこかの家が勝手に動き出すとも限らない」
そう考えた義総は遊佐家の一族で義統の死去の後に仏門に入っていた遊佐宗円を呼び戻した。宗円は義統に仕えた頃はまだ若かった。しかし義統が死ぬと僧になって義統を弔っていたという。だが切れ者で仏門に入った後でも遊佐家の人々の力になっていたようだった。
「それほどの力があるのなら私の下のおいておきたい」
義総はその足で宗円に会いに行き説得した。宗円は義総に義統の面影を見出したらしい。そのためかあっさりと申し出を了承し義総に仕えるようになった。
こうして義総は遊佐家の力が抜きんでていた家臣同士のパワーバランスを調整することに成功した。しかしこれは力のある家臣たちを義総の才覚で統率するという体制でもある。それは義総の個人の力で成り立つ不安定な体制であるともいえた。
積極的な領地や城の整備に組織の改革。これらは功を奏して畠山家はより発展を遂げていた。ここで義総はかねてより抱いていた夢の実現に挑む。
「七尾の城下も栄えてきた。ここで京より文化に携わる方々を呼び寄せ、京の文化を七尾の城下に広げるのだ。そして一乗谷を越えるような城下にしようぞ」
義総はかつて京に上った時に見た朝倉家の一乗谷城下の繁栄が忘れられなかった。幸い今はいろいろと余裕がある。かねてより実現を目指した夢を果たす良い機会であった。
ここで義総はある家臣に文化事業の責任者を命じた。その家臣とは温井孝宗の息子の温井総貞である。総定は諸事文芸に通じていて教養もあった。ちょうどよい人物である。
「総貞よ。そなたならば七尾城下に京の文化を栄えさせることができるはず。頼むぞ」
「承知しました。殿の御望み必ずや成し遂げて見せましょう。父の代からのご恩に必ずや報います」
総貞は自信満々に言った。父親の孝宗は控えめな男であったがだいぶに違う。義総もそれに気づいているが悪く思って言はいなかった。
「(孝宗は堅実で素晴らしい手腕の持ち主であった。しかし些か大人しすぎる男でもある。宗貞くらいに積極定になっているのならむしろ喜ばしいことだろう)」
義総はそう考えていた。そして総貞と共にまず手を付けたのが京の文化人の招聘である。幸い義総は在京の折に様々な文化人と交流を持っていた。そうしたパイプを生かして働きかけを強める。また祖父の義統の時代にも文化人の招聘は行っていた。七尾城下が新しく作りかえられ栄えているということを知ると、文化人たちはこぞって能登に下向してくる。これは京周辺での諸勢力の抗争がまだ続いており、その戦火からの非難という側面もあった。
こうして七尾城下に多くの文化人が来訪した。総貞はこれらを受け入れ歓待する。そして自ら率先して教えを請い温井家の人々にもそれに習わせた。義総はこれらの動きを受けて畠山家中の文化活動を促していく。こうした流れで畠山家領内の文化は発展していき、やがて七尾の城下町は小京都と呼ばれるようになった。
義総はこの結果を受けて総貞を称賛した。
「此度のお主の働きは素晴らしい。今後も畠山家を栄えさせてくれ」
「勿論です義総さま」
力強くうなずく総貞であった。この後総貞は義総の寵愛を受けて筆頭の家臣としての立場を確立していく。しかしそれは畠山家内のパワーバランスに若干のひずみを生むのであった。
義総の積極的な国造りの甲斐あって能登畠山家は全盛期を迎えた。この後義総は外敵から身を守りつつ領地を発展させていく。一方であまり中央の情勢にはかかわらなかった。義元のように権力闘争に巻き込まれるのは嫌だったからである。
「我らが目指すのは自家と領民の安寧だ。それ以上はいらない」
その考え通り義総の時代の畠山家は内部分裂も他家との激しい争いもなかった。こうして戦国時代には珍しい平穏な時が義総時代の能登には流れる。そしてその平穏の天文十四年(一五四五)、畠山義総は息を引き取った。享年五五歳である。
義総の後は次男の義続が跡を継いだ。しかしこの義続には義総ほどの器量もない。尤もまさしく傑物であった義総のような人物が早々出るものではないが。
領内を安定させて死んだ義総だが一つ大きな負の遺産があった。それは抜擢された家臣たちである。温井総貞を筆頭とする彼らは畠山七人衆を名乗り、義続をないがしろにして畠山家の運営を行った。悲しいかな義続には家臣たちを押さえつける力がなかったのである。
こうして畠山家は家臣たちに運営を任されるようになった。しかしその家臣たち同士での主導権争いが始まり、その結果畠山家は急速に衰退していく。そして義総の死後三〇年ほど経って滅亡してしまった。七尾城もその更に後に破却されてしまう。義総の時代に築き上げた物はほとんどなくなったしまった。まさしく無常である。
本文中にもありましたが、義総の死後に畠山家では家臣たちによる権力の掌握。そして家臣同士の権力争いで衰退していきました。義総が死んだのが天文十四年(1491)で畠山家が滅亡したのが天正五年(1577)です。この30年以上の間家臣たちは争いを続け義総の残した遺産を食いつぶしました。たとえ傑物が生まれようと次の代でつぶれてしまうというのは現代でもよくある話です。これも無常というものなのでしょうね。
さて次の話の主人公は尾張の武将です。そしてある意味で織田信長の飛躍を大いに助けた人物でもあります。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




