畠山義総 傑物 前編
能登の戦国武将、畠山義総の話。
応仁の乱の後、畠山義統は領国の能登で戦国大名としての自立を目指した。しかし義統の子の代になると畠山家は二つに分かれてしまう。そんな情勢で幼い義総は何を思うのか。
戦国乱世は世に言う傑物とされた人物を多く輩出している。それはあまたの戦国武将たちであり、畠山義統もその一人であった。
義統は能登(現石川県の能登半島)の守護であったが在地せず京にとどまっていた。しかし応仁の乱で京が荒廃すると一族郎党を引き連れ能登に向かう。そして乱世の混乱が始まる能登をまとめ上げ戦国大名として自立した。まさしく傑物であろう。
しかしこうした傑物はある意味箍のようなものである。桶を締める箍が緩めばどうなるか。締まっていた大名家という桶はバラバラになる。そして次の箍が同じようによくできているものとは限らない。
そもそも畠山家に限らず在京の守護たちが任国に戻り、目の当たりにするのが影響力を強めた家臣たちである。こうした家臣たちをまとめ上げるのが守護たちの役目ではあるが、家臣たちの力もそう簡単には消えない。義統のような傑物が死ねば畠山家の家臣たちも我も我もと主導権を握るため動き始めた。
明応六年(一四九七)に義統が死ぬと家督を継ぐのは嫡男の義元である。この義元は非凡ではないが全くの無能というわけではない。しかし義統に比べればだいぶ劣り一部の家臣たちに不安を感じさせた。その筆頭が守護代の遊佐統秀である。
「隣国の越中(現富山県)や加賀(現石川県南部)ではいまだ一向一揆が活発に動いている。義元様では対抗できまい」
統秀としては頼りなく見える義元より自分たちが主導して畠山家を運営した方がよいのではないか。そう考えている。一方の義元は積極的に行動し家臣たちをまとめ上げた父の方針に倣って活動していた。あくまで自分の意思を強く反映させる方針である。これが統秀としては不安であり面白くなかった。
「こうなれば義元様を廃するほかあるまい」
そう考えた統秀は義元の弟の慶致を担ぎ上げた。そして義元を排除しようと行動する。これに対し義元に味方する者もいれば統秀に味方する家臣もいた。そして畠山家は二つに分かれ内紛を始めてしまうのである。義統がせっかくまとめ上げたのにであった。
ともかく畠山家の内紛は明応九年(一五〇〇)に慶致が当主の座に就くことで決着がついた。義元は能登を追われ越後(現新潟県)に逃げ込む。畠山家の内紛は慶致を擁立した統秀の勝利に終わった。
統秀は大喜びするが一方の慶致の表情は優れない。それもそのはずで今回の内紛に慶致の意思は存在しなかった。ただ家臣に担がれ兄を追放する大義名分に利用されただけである。
「私は別に兄上を除こうなどとは思っていなかった。しかし統秀に流されるまま兄上を能登から追い出してしまったのだ。本当に情けない」
慶致はそう息子の次郎に言った。この次郎というのが後に畠山家を再びまとめ上げる畠山義総である。
慶致は大人しく見ようによっては臆病といえる人物である。そしてその息子の次郎も大人しく物静かな子であった。尤も統秀からしてみればそちらの方がありがたい。
「慶致様も次郎様も諸事我らに任せてくれればいいのだ。義統様亡き今はその方がうまくいく」
統秀からしてみれば先代の頃よりいろいろと尽力してきた自負がある。それがこのような発言にも出ていた。傲慢ともいえる発言であるが統秀なりに畠山家を考えての発言である。
そんな風に考える統秀だから主君はおとなしい方がいろいろとやりやすかった。ついでに次代の当主も大人しければ、このまま守護代である遊佐家が主体となり政務を行っていける。
ところが義元の追放の後から次郎の様子が変わった。いままでは大人しく部屋で書物を読んでいたのがこの所は弓や馬などを家臣から習い始めている。しかも素質があったのかめきめきと上達していった。また書物も相変わらず読みふけりそこに書かれている悉くを吸収している。
「次郎様にこんな才があるとは。畠山家の未来は明るいですな」
次郎の面倒を見ている家臣は嬉しそうに言った。慶致もめきめきと成長して行く息子の姿に目を細めている。一方で統秀は嬉しくもあり不安でもあった。
「惰弱な方に育っても困るがあれこれ口出しするような方になっても困る」
統秀としては現状の体制を維持しづけることが望みであった。そういう意味ではおとなしすぎても活発すぎてもいろいろと困る。今の次郎の成長ぶりは統秀をやきもきさせるものであった。
そんな統秀の心配をよそに次郎は成長して行く。一方で能登の周囲の情勢も変化していった。
能登の隣国の越中や加賀では一向一揆が活発に活動しているということは以前にも記した。この所はその活動がますます激しくなり能登の国境も脅かし始めている。畠山家もたびたび出兵しその対応に追われた。
他方京ではクーデターを起こした管領細川政元が幕府を掌握していた。しかし政元に敵対する勢力は畿内などにまだ多く政元は対応に追われている。さらに政元に追放された将軍の足利義稙が復帰を目指して活動していた。この義稙の活動に義元も関わっているらしい。
そういうわけで日本の各地で様々な動きが起きていた。そんな中での畠山家はとりあえず一向一揆への対応に注力する。しかしながらうまくはいかなかった。何故なら当主の慶致があまり戦上手ではなく統秀もそこまでではない。ゆえに凌ぐことは出来来ても事態の打破には至らなかった。
こんな状況が続いて永正三年(一五〇六)になった。この頃畠山家中ではこんな声が聞こえ始める。
「慶致様はよい方だが戦は下手だ。しかし義元様は勇猛であった」
「確かに。拙者も義元様がいてくれたらと思う」
家臣たちの中から義元の復帰を求める声が出始めたのだ。それ大して統秀はそんな声を打ち消そうと奮闘するがうまくいかない。
そんな中で慶致は次郎に尋ねた。
「そなたはどう思うのだ」
この時次郎は十五歳。成人の儀式である元服を目前に控えている。この頃の次郎は同年代に比べて体格もよく、すでに堂々とした立ち振る舞いをしていた。
父に尋ねられた次郎は一言言った。
「父上の思うままに」
そう言われた慶致は大きくうなずくのであった。
後日慶致は家臣たちにこう訴えた。
「近年一向一揆の動きは激しく我らも厳しい戦いを強いられている。ここで事に当たるに必要なのは家中の団結だ。しかしかつて兄上に味方した者たちは今不遇を強いられその力を発揮できないでいる。彼らの中にも有力なものはおり彼らの力も必要だろう。そこで私は兄上を呼び戻し再び当主の座についてもらおうかと思う」
この発言に家臣たちはざわついた。そして統秀が進み出て言う。
「そんなことをすればむしろ我らが不遇に陥ちります。それこそむしろ家中の和を乱しまする」
「それもわかっている。だがあくまで兄上を戻すのは今でも続く対立を収めることにある。今の皆をないがしろにすることだけは私も認めない。その旨は兄上に認めてもらうつもりだ。それに家督を譲った後も私はいろいろと尽力するつもりでいる」
「そんなうまくいきますかな」
統秀は疑いの目で慶致を見た。慶致も統秀がそう考えるだろうと思っていたのかこう言い返した。
「それについては考えがある。何よりこのままではいかんということは統秀わかっておろう」
そう言われて統秀は黙った。実際統秀としても慶致の言っていることは分かる。このままでは状況を打破できない。だが過去のことを考えればまず排除されるのは自分のはずだった。ゆえに慶致の提案を呑み込めないでいる。
一方でほかの家臣たちの反応は思いのほか慶致よりであった。
「義元様や義元様に与した者たちを納得させるには確かに一番的面ではあるな」
「そうだな。しかし本来なら統秀殿が退くべきではないか」
「それは言うな。それに今は統秀殿の力も必要だ。慶致様はそれをわかっているから自ら犠牲になるつもりなのだろう」
家臣たちは自ら犠牲になる選択肢を選んだ慶致を褒めた。そして大半が慶致の方針を支持する。こうなれば統秀もうなずくしかない。
「仕方あるまい。畠山家の存在が第一だ」
統秀も畠山家が滅亡していいなどとは思っていない。ゆえに慶致の提案を受け入れるのであった。
統秀が折れたことで義元を当主に復帰させることが正式に決定した。さしあたってまずは義元を能登に迎え入れる必要がある。この時義元は京にいた。慶致は義元に近い家臣に頼み復帰の件を打診する。だが義元から色よい返事は来なかった。
「経緯が経緯だ。仕方あるまい」
ここまでの展開は義元にとって都合のいいものである。しかしそれゆえに疑念を招いたわけである。
慶致は義元派の家臣に迎えに行くように命じた。
「済まぬが兄上に事情を説明して来てもらえぬか」
「承知しました。必ずや義元様をお連れします」
「そうか。それは頼もしいな…… そうだ。一つ頼みがある」
家臣の頼もしい返事に喜んだ慶致はこんなことを言いだした。
「次郎もつれて行ってもらえるか」
この発言に家臣は驚いた。
「そ、それはどういう事で」
「実際兄上の疑心がどれほどかわからん。そなたたちだけでは疑念は解けぬかもしれん。本来なら私が行くべきだが今はそれもできん。ゆえに次郎を名代とする」
慶致はこういう。しかし実際は義元への敵意がない証でありある種の人質のようなものであった。それだけに家臣は驚いているのである。
「慶致様。さすがにそれは…… 」
「そなたの言いたいことは分かる。しかし次郎ならばそなたや私の考え以上のことをして見せるだろう」
「それはどういうことですか? 」
「何。連れて行って見せればわかる」
それ以上慶致は何も言わなかった。家臣は釈然としないものを抱えながら承諾する。そして慶致から同行するように言われた次郎は
「承知しました」
と、一言だけで了承した。
少しののちに能登を経った次郎達一行は京に向かう。道中は危険が多い。
「次郎様は何としてでも守らなければ」
家臣たちはそこだけは一致している。義元を支持する一派と云えども畠山一族に害意があるわけではない。彼らにとっては次郎も守るべき対象である。
こうして一行は京に向かうのであるが途中、越前(現福井県)の朝倉家の本拠地である一乗谷城の城下に立ち寄った。
この時の一乗谷城の城下は応仁による荒廃で京から逃げてきた貴族や文化人が集まっていた。彼らが京の文化を伝えたことにより城下町は見事な文化が花開いている。
家臣達はそれらに非常に感心した。
「我らの七尾も栄えていると思ったがそれ以上だ」
「いかにも。朝倉様は風雅の道にも長けているらしい」
口々に一乗谷を褒める家臣たち。それに対して次郎は言った。
「それだけではない。あれを見よ」
次郎はそう言って指さした。その先には一乗谷城がある。
「山を切り崩し見事に堅個な城を作り上げている。万が一の時は城下のものをすぐに非難させることもできよう。諸芸だけでなく武辺にもぬかることがない。これこそまさしく武士の鑑である」
「なるほど…… 」
家臣たちは感心するとともに驚いた。次郎はまだ十代の若者である。そんな次郎からこんな言葉が出るとは驚くばかりであった。
一方の次郎はそんな家臣たちにこう言った。
「いずれ私がこれ以上のものを作ってみせよう」
自信満々に言う次郎。それに驚く家臣たちだが不思議な説得力も感じられた。これ以降家臣たちは次郎に敬意を払うようになる。
一乗谷を出た後も特に問題なく京にたどり着いた。そして義元の居る屋敷に向かう。
家臣の一人が不安げに言った。
「義元様は我らを信じてくれるのだろうか」
これに対して次郎はこともなげに言う。
「心配はいらない。叔父上は度量の広いお方だ」
この言葉に安心する家臣たち。この時点ですでに皆次郎に心酔していた。
やがて義元の屋敷に着くと次郎が進み出る。いぶかし気に見守る家臣をしり目に次郎は大音声で叫んだ。
「畠山慶致の一子、次郎。叔父上に挨拶に参った。門を開けよ」
家臣も屋敷の門番も驚いた。しかし次郎の醸し出す雰囲気に負けたのか門番は素直に門を開く。次郎は先頭を切って屋敷に入り家臣たちもそれに続く。すると玄関に義元が現れた。
「お主が次郎なのか…… 」
義元はあきれたようにも驚いたようにも見える顔をしていた。記憶ではおとなしい少年であった甥がこんな大胆なことをしたのである。それに記憶よりもずいぶんと大柄になっていた。
次郎は義元の前に進み出ると膝をついた。そして恭しく言う。
「お久しぶりです。叔父上。この度は父の名代として参りました」
再び驚く義元だがすぐに表情を引き締める。
「いったい何ようだ」
「先だっての書状にあるように父上は当主の座を退くつもりにございます。そして叔父上にその座を譲るおつもりにございます」
「それを信頼できると思うか? 」
義元は冷淡に言った。その発言に一同凍り付く。次郎以外は。
次郎は堂々と言った。
「それを信じていただくための質が私です。もし父上のことが信頼できぬのならばここで私をお切捨てください」
この言葉に義元は黙り込む。家臣たちはどうなるのかと心配そうに見守っていたが、いきなり義元が笑い出した。
「あの次郎がここまでの丈夫になるとは。驚いた。よかろう。慶致を信じることにする。皆の者、すぐに準備せよ。急ぎ能登に帰り混乱を収める」
「ありがとうございます。叔父上」
表情を変えず次郎はうなずく。家臣たちもほっとしたようだった。
こうして義元を伴った一同は能登に帰還する。慶致は自ら当主の座を退くことで義元に誠意を見せた。そして義元は再び当主の座に返り咲く。この際かつて義元を追い出した家臣たちについて罪を不問とした。
「これで畠山家も一丸となる」
隠居した慶致は満足そうであった。次郎もそんな父を見て微笑むのであった。
先週はお盆休みとさせていただきました。連絡が遅れて申し訳ありません。
さて今回の主人公は以前取り上げた畠山義統の孫にあたる人物です。内容的にもいわば続編です。ただあちらが創業者の苦労だとするとこちらは会社を維持する苦労と言ったところでしょうか。作るのも維持するのもそれぞれ違った難しさがあります。この世には簡単な仕事などないのかも知れませんね。
今回の話では畠山家の内乱はひとまず終わります。この後次郎こと義総がどのような運命をたどるのか。お楽しみに。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




