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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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多賀谷重経 転落 後編

 豊臣秀吉が北条家を滅ぼしたことで重経は難を逃れた。しかしこれにより多賀谷家は豊臣家の全国支配の体制に所属することになる。だが重経はその意味をよく分かっていない。故に新たな災難が振りかかる。

 豊臣秀吉の北条征伐の結果、北条家は滅び東北の領主たちも豊臣家の傘下に入る。これにより豊臣秀吉の天下統一は完遂された。反北条連合に所属していた領主たちは皆領地を安堵され豊臣家の支配下の大名となる。この結果に不満を持つ者はいなかった。多賀谷重経を除いては。

「納得いかん。何故多賀谷家の独立が認められなかったのだ」

 そう不満をこぼす重経。というのも多賀谷家の領地は安堵されたが、立場は独立した大名ではない。結城家の旗下の領主としての扱いであった。

 実際問題北条征伐が行われた時期は、まだ多賀谷家は結城家の支配下という立場であった。この点については北条家への対応に専念しなければならなかったので、多賀谷家の扱いをどうするかというのは放置されたのである。下手に結城家から独立した存在として扱えば結城家は不快に思い、反北条連合の結束に揺らぎが出るからという理由であった。それは重経だって了承していた話である。

「秀吉様はなぜ我らの独立を認めなかったのだ」

 重経は秀吉のもとに下れば今まで北条家と戦い続けた功績をもって多賀谷家の独立を認めるだろうと考えていた。しかしこれは都合のいい考えである。別に北条家と戦い続けたのは多賀谷家だけではないし、結城家もその一つである。結城家の立場もあるのだから多賀谷家を独立させるという答えになるはずもなかった。

 尤も例外もある。例えば陸奥北部(現青森県)の津軽家は南部家に謀反を起こし独立した。その後津軽家も南部家も秀吉の支配下に入るが秀吉は津軽家の独立を認める。これは津軽家が南部家に先んじて秀吉に接触したからであった。津軽家は豊臣家が天下を統一し各地の大名を統べる存在になると見込み、深いつながりを持って南部家からの独立を勝ち取ったのである。

 一方重経はそうしたことを考えもしなかった。重経にとって豊臣家は北条家への対抗手段の一つである。豊臣家が天下を統一して各地の大名を統べるようになるとは想像もしなかった。だが佐竹義重や結城晴朝はそう言った点をある程度見越して行動している。結局重経は目先にとらわれて大損をしたのだ。だがそれに気付けるような重経ではない。

「あとからやってきて偉そうな顔をしおって。一体何様のつもりだ」

 自分の視野の狭さを考えずに愚痴る重経。この時点でも重経は自分が豊臣家の支配体制に組み込まれたことをちゃんと理解していない。それは後に起きる事件につながっていく。


 さて結城家の傘下として扱われた重経だがこれに関わる不満がもう一つあった。それは結城家の当主のことである。というのも北条家が滅亡して戦後処理が終わってすぐに結城晴朝は養子をとり家督を譲った。この養子というのが秀吉の養子なのである。

「やすやすと養子に家督を譲るとは。名家の誇りはどこに言ったのだ」

 こう愚痴る重経。しかしこの時養子に入った結城秀康の実父は徳川家康である。徳川家康は北条家滅亡後今までの領地と引き換えに北条家の領地を受け取った。その際に秀吉は結城家に秀康を養子送り込む。これは家康への恩賞の一環と言われた。

「体よく家を乗っ取られただけではないか。だというのに晴朝め。何の不満も漏らさんとは」

 重経からしてみれば晴朝は秀吉のなすがままにされたというように見える。実際のところは関東の一大名に過ぎない結城家が秀吉という強大な権力者に逆らえばどうなるのか。むしろ養子をとり最高権力者である秀吉と関東最大勢力となった家康とつながりを持てるのだからその方が得である。そう考えたうえでの晴朝の決断であった。この時代はそういう生き残りの策をいかにとるかが重要である。そういう意味では晴朝は最良の行動をしたと言えた。

 しかし重経はそう言うことが分からない男であった。媚びない姿勢は誇り高いともいえたが実際は空気の読めない粗忽さである。自分の思いを優先し相手のことを考えない傲慢さが重経の欠点であった。

「このままでは結城家ともども好き勝手される。ならば…… 」

 そう考えた重経は思い切って身勝手な策に出る。重経には十二歳になる嫡男がいた。この摘年を元服させ三経と名乗らせると多賀谷家の領地の一部を譲る。そして結城家の傘下に組み込んだ。一方で佐竹義重の四男の宣隆を養子にもらうとこれを跡継ぎとしたうえで佐竹家の配下に入ったのである。これで形の上で結城家の傘下として残り実態は佐竹家の傘下に下った形になった。

「とりあえず結城家と縁を切ることは出来た。まずは良しとしよう」

 喜ぶ重経だが家臣は混乱する。一体重経と三経のどちらについていけばいいのか。家臣たちは大いに迷った。

「流石に無体な話だ。私は三経様を支える道を選ぶぞ」

「しかしついていかなければ重経様はお怒りになられるだろう。そうなって領地を取り上げられたら大変だ。私は重経様についていく」

 結局家臣たちは二つに分かれてそれぞれ重経と三経に仕えることになった。

 この事態を佐竹家も結城家も放置した。下手に揉めれば秀吉の不興を買いかねない。だったら重経の好きにさせればいい。もし責任を問われれば重経が勝手にやったことなのだから。

 実際多賀谷家は形の上で結城家に残っている。結城家は

「多賀谷家は結城家の傘下に残っています」

といえばいい。佐竹家は

「四男が家を興しました」

と説明すればいい。秀吉もここまで細かい事態に文句をつけるつもりもなかった。

「万事平穏に治まっていればいい。もめごとだけは起こすな」

 そういう態度である。ともかくこの騒動で重経は責任を問われることは無かった。それはただ相手にされていないだけであるが。


 かなり強引な手段で結城家から離れた重経。今回の件で秀吉に何も言われなかったことで重経は気を良くする。

「何が天下人か。東国の我らにまで目が届いてはないではないか」

 もちろんそんなはずもなく秀吉も重経のやったことを知っている。ただいちいち文句をつけるようなことでもないから放っておいてあるだけなのだ。第一この時期の秀吉は重経の思いもよらぬような大事を行おうとしている。

 秀吉はいつからかは分からないが中国大陸への進出を目論んでいた。そして天下統一が終わると具体的に行動を始める。

 文禄二年(一五九二)秀吉は中国大陸侵攻の前段階として朝鮮半島に侵攻した。もともとは朝鮮王朝に対して中国大陸への道案内を要求していたが、これを断られたため侵攻ルートの確保の為の侵略である。いい悪いはともかくスケールの大きい話であった。

 この戦いにおいて各地の大名をはじめとする領主たちは相応の兵力を派遣することを要求された。もちろん重経にも出陣するようにと命令が下る。しかし重経は不満であった。

「なぜ俺が海を渡って戦をしに行かなければならないのだ」

 ある意味尤もな話である。しかしどんな命令でもそれが日本全土を治める政権のものである以上拒否することは非常に難しくリスクも大きい。しかし重経にはそれが分からなかった。

「馬鹿馬鹿しい。病だから出陣できないと伝えておけ」

 重経は病を理由に出陣を拒否した。しかし重経は別に重病を抱えてはいない。この時は確かに病気であったがすぐに治るような軽いものだった。要するに出陣しないのは重経の気分の問題である。

 結城家も佐竹家も重経が出陣できないような状態ではないとわかっていた。しかし何も言わない。今まで好き勝手やってきたのだから何かあったら責任も自分で取れという考えであった。

 はたして重経は責任を取ることになった。重経が出陣できないような状態ではないことはあっさりと判明する。それは当然秀吉に耳にも入った。

「この秀吉の命をないがしろにするとは。そんな馬鹿者には仕置きしなければならぬな」

 今回の重経の行動には秀吉は怒った。それは命令無視といえることをしたわけなのだから当然のことである。重経には自分が天下人の政権のおかげで権威が保証されているということにあまりに無頓着であった。

「一応は病であるようだから領地は奪わんでおいてやろう。しかし兵を出せんような将に城はいらんな。壊してしまえ」

 秀吉が下した処罰は、多賀谷家が長い間居城にしてきた下妻城の破却であった。領地を取り上げる改易よりはだいぶ優しい処分であったが、重経としては多賀谷家のシンボルともいえる下妻城を壊されるのだからショックは大きい。

「なぜだ!? なぜこんなにも重い処罰を…… 」

 嘆く重経だが身から出て錆びである。ただどうすることもできず壊される下妻城を眺めていた。


 下妻城が破棄されてからの重経は領内の別の城に移り住んだ。それから時が流れて慶長三年(一五九八)豊臣秀吉はこの世を去る。そして豊臣政権内部では有力者である徳川家康と政権の実務を担った石田三成が対立し始めた。この混乱を重経は喜ぶ。

「これはいい。返り咲きのいい機会だ。いずれは大戦が起きよう。その時に功をあげれば多賀谷家の悲願も成し遂げられる」

 内心小躍りしながら混乱の拡大を重経は待つ。やがて慶長五年(一六〇〇)に徳川家康が会津の上杉景勝を討伐するための兵をあげた。これは秀吉死後の自身の権力を確立させたい家康が邪魔である景勝を討たんと起こした行動である。しかし同時期に機内で石田三成が挙兵。これにより日本全土諸将は東軍西軍の二派にわかれて対立することになった。

「ついに来たぞ。返り咲きの好機が」

 待望の戦乱がやってきたことを重経は喜んだ。さしあたって東軍西軍どちらに着くかという選択である。といっても重経の多賀谷家は佐竹家傘下なのだから佐竹家の着く方に味方するしかない。

「どちらでもいいだろう。要するに活躍すればいいのだから」

 重経にとってはそんなことはどうでもよかった。ともかく手柄を立てて多賀谷家を独立させることだけが重経の目的である。なお嫡男の三経の所属する結城家は東軍に味方した。結城家の当主が家康の実子なのだからあたり前であるが。

 さて重経だが困ったことが起きた。佐竹家が東軍西軍どちらに味方するかなかなか決まらなかったのである。というのも佐竹家の現当主の義宣は石田三成と懇意なので西軍に参加したかった。ところが今は隠居の佐竹義重は家康有利と見て東軍に味方しようとしている。

「隠居したというのに義重殿は元気だな」

 重経は困った。このままでは戦いに参加できないかもしれない。そうなれば手柄のあげようもなかった。

「こうなればこちらで勝手に動くしかあるまい」

 そう考えた重経は独自に西軍の上杉家と接触した。だがこれを養子の宣隆は咎める。

「我らは佐竹家の傘下。意向を無視して勝手に動くのはいかがなものかと。我らだけではできることに限りがあります」

「何を言うか。そもそもお前の実家の足元が定まらんからこうしている。とやかく言われるような筋合いはない」

 重経は聞く耳を持たなかった。そして上杉家と談合を重ね家康の率いる軍勢が下野の小山にとどまったところを襲撃する計画を立てる。

「これがうまくいけば大手柄だ」

 ほくそ笑む重経。ところがどこからかこの情報が外部に漏れた。そのため重経は身動きが取れなくなる。

「なぜこんなことに…… 」

 重経は上杉家とのやり取りを頻繁に行っていた。これでは疑いの目を向けられるのも無理はない。ことを隠密に運ぼうという意識が重経には薄かったのである。

「と、ともかく西軍が勝てばいいのだ」

 こうなった以上重経は西軍の勝利を信じるしかない。が、そうはうまくいかなかった。石田三成らの所属する西軍は家康率いる東軍に敗れる。これで重経の目論見はご破算となった。そして重経には悲惨な運命が待ち受けるのである。


 東軍の勝利により西軍に所属していた武将たちは処罰を受けることになった。重経も当然処罰を受ける。

「多賀谷家は改易とする」

 簡潔に重経に処罰が伝えられる。この処罰に重経は落胆した。

「こんな形で代々拡大してきた多賀谷家の領土を失うとは」

 今まで自分のやってきたことをすべて否定された形である。重経の悲しみは尋常なものではない。しかし重経には一つだけ希望があった。

「今回没収されたのは私と宣隆の領地。三経の持つ領地はまだ残っている。こうなればそこに行くしかあるまい」

 重経はこんなことを考えていた。だがこれは自分勝手な考えである。そもそも結城家の傘下に下るのが嫌で三経にすべて押し付けたのだ。それなのに三経のいる結城家傘下に戻るというのはかなりわがままである。

 もちろん三経は迎えるつもりなどなかった。

「これまで勝手な振る舞いをしておいて、自分の危機には縋りつくとは。武士の風上にも置けん」

 さらに結城家は家康の命を受けしっかりと任務を成し遂げたということで越前(現福井県)に加増転封となった。つまり結城家の武将たちは代々の土地を離れることとなる。これに重経は怒った。

「代々守り抜いてきた土地を捨てろと言うのか」

 怒る重経だが浪々の身ではどうしようもない。一方で三経は喜んだ。

「殿の功が認められた後いう事だ。喜ぶべきだろう」

 実は三経は主君である結城秀康に可愛がられていた。秀康も実父の家康とは微妙な関係である。そう言う身の上だからか三経のことを気にかけていた。また三経も秀康の寵愛に応えよく働いたので重用されている。このため結城家の加増に伴い三経の領地も増えた。

「こうなると家臣がもっと必要だな。父上が領地を失ったのならばちょうどいい」

 三経は領地を失い路頭に迷った多賀谷家の家臣の一部を召し抱えることにした。これに多賀谷家の家臣たちは喜んで応じる。この結果多くの家臣が三経のもとに走った。

「なんという事を。主君を何だと心得るのか」

 怒る重経。しかし家臣は残っている。重経は彼らと共に家を再興するつもりであった。ところが養子の宣隆がこんなことを言いだす。

「実家の兄上は秋田に転封となるそうです。私も来ないかと誘われたので同行することにします」

 これにあきれる重経。そしてこう言い放った。

「好きにしろ」

「分かりました。好きにします」

 そう言って宣隆は実家の佐竹家に戻っていった。しかも重経のもとに残っていた家臣たちを連れてである。

「あ、あやつら。俺を見捨てるのか」

 実は三経のもとに向かわなかった家臣たちは皆、宣隆に近い家臣たちであった。つまり重経についていこうと残ったわけでもない。ともかくこれで重経の周りは誰もいなくなった。

「いったいどこで間違えたというのだ…… 」

 絶望する重経。そんな重経に問いに答える者はいなかった。

 三経はこののちも主君に尽くし秀康が早世すると後を追うように若くてして死んだ。最期まで秀康からの信頼は大きかったようだ。

 宣隆は紆余曲折あり血縁のある岩城家の家督を継いだ。これにより亀田藩の藩主となる。

 重経は放浪の末、彦根で没したらしい。


 関ヶ原の戦いの結果領地を失った戦国武将は多くいます。戦国塵芥武将伝でも何人か取り上げましたが、重経ほど悲惨な末路を迎えた人物はいないでしょう。尤も関ヶ原以前から重経は勝手な振る舞いを多くしており遅かれ早かれああした結末を迎えたのではと思います。人間自分の置かれた環境をよく理解しなければ多々悲惨な結末が待つ。重経の人生はそうした教訓を感じさせますね。

 さて次の話の主人公は大和(現奈良県)の出身の武将です。調べてみるとなかなかの苦労人でした。そんな次の主人公にどんな運命が待ち受けるのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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