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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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相馬利胤 武士の本分 後編

 豊臣家に臣従することで窮地を切り抜けた相馬家。その後は暫しの平穏を過ごす。しかし新たな時代の変化が訪れたとき相馬家に再び危機が訪れる。

 慶長三年(一五九八)豊臣秀吉が死んだ。これを機に豊臣家による支配は崩壊していく。

秀吉は死の目前に有力な大名たちを集めた五大老と豊臣家の全国支配の実務を行う五奉行を定めた。ところが秀吉の死後に五大老の徳川家康と五奉行の石田三成が対立し始める。

 相馬家は三成と懇意であったが複雑な立ち位置でもあった。徳川家康は関東の大部分を領地としている。相馬家は少しばかり近い位置にあるのでうかつな行動はとれない。

「石田様にはかつて家を救っていただいた恩義がある。しかし選択を誤れば家を危険にさらすことにもなる。難しいな」

 この時の三胤は立派な若武者に成長している。まさしく父の義胤が望んだとおりの武士に成長していた。

「そうだな三胤。確かに石田殿に恩義はある。だが家を守ることも忘れてはならん。もしもの時は佐竹殿と相談のうえで行くべき道を決めるべきだ」

「はい。父上」

 この時相馬家は佐竹家の与力というべき立場でもあった。佐竹家は五大老には選ばれなかったものの関東における豊臣家の大名として大きな勢力を持っている。

「佐竹家の義宣殿は石田様と懇意の付き合いだという。佐竹家と行動するということは石田殿に味方するも同然か」

 三胤はそう考えた。この時の佐竹家の当主は佐竹義宣という。義宣は先だって起きた三成の危機の際に三成を助ける働きをしていた。

 義胤は三胤に言った。

「この先、乱は起きるだろう。その時のいかんで相馬家の行く末は決まる」

 実際義胤の見込んだ通り大乱は発生した。豊臣家内部での対立は抜き差しならないものとなり、慶長五年(一六〇〇)徳川家康の東軍と石田三成が味方につけた五大老の毛利輝元の西軍とに分かれ各地で戦いを始まる。

 相馬家はまず佐竹家と今後の動きを相談しようとした。ところがその佐竹家が今回どうするかが決まっていなかったのである。

「なんと。義宣殿と義重殿が対立しているのか」

 義重は義宣の父である。かつて鬼義重といわれた猛将で隠居した現在も家中に強い影響力を持っていた。そんな義重が強硬に東軍に味方することを主張しているという。

「石田殿は人望がない。徳川殿が相手ではかなわんだろう。味方すれば佐竹の家は潰れてしまう。それだけは避けねばならん」

 これまで伊達家や北条家と死闘を演じ何とか家を守ってきた義重の言葉である。当然重いものだった。また家康と三成の人望の差は歴然で、三成が毛利輝元を味方につけようとそれは覆らない差である。義重が東軍の勝利を信じるのも無理のない話であった。

 一方で義宣も引き下がらない。

「石田殿は主家の危機を救うべく立ち上がりました。武士の鑑と言えましょう。なにより我らは石田殿に恩義があります。ここで石田殿の為に立たなければ武門の恥となりましょう」

 こちらもこちらで筋の通った主張である。また義宣は秘密裏に西軍で会津を治める上杉景勝と結んで徳川領への攻撃を計画していた。この攻撃が成功すれば徳川家は痛手を受ける。そうなれば西軍の勝利もあり得た。しかしいささか博打の要素のあるのは無視できない。

 こういうわけでどちらにも理がある状況であった。この話を知った三胤は義胤に尋ねる。

「どちらが正しいのですか? 」

 これに対し義胤はこう答えた。

「どちらも正しいとしか言えんな。家を守るのも恩に準ずるのも武士の道。しかしこれでは我らも動きようがない」

 義胤は頭を抱えた。相馬家は大名であるが佐竹家や上杉家に比べれば小さい。そんな勢力が単独で動いてもあまり意味がなかった。

「自分の道も決められないなんて」

 三胤はため息をつく。おそらくこのまま佐竹家共々ろくに動くことができないだろうと思ったからだ。事実佐竹家も相馬家も中立という立場のまま乱は収束する。結果は東軍、徳川家康の勝利だった。

 決断はリスクを伴う行為である。しかしいざという時に決断できないとどうなるのか。三胤と義胤はそれを思い知ることになる。


 石田三成との権力闘争に勝った家康は各地の大名たちの領地を再配分し始める。当然西軍に所属した者たちは領地を取り上げられ、東軍に所属した者は領地を増やした。

 こうした流れの中で相馬家と佐竹家には何の沙汰もなかった。これに三胤や義胤はむしろ戸惑う。

「父上。正直このままというのも考えられないのですが」

「そうだな。しかしどちらにも所属しなかったのだからこのままというのもありうるかもしれん」

 三胤はこの状況を不安視している。一方で義胤は意外なほど楽観視していた。実際諸々の処遇が進む中で何の音沙汰もない。義胤もほっとしていた。

 ところが慶長七年(一六〇二)に突如として処分が決定される。下されたのは改易という重い処分だった。義胤は衝撃を受ける。

「な、なぜ今更になって。それに改易とは」

 愕然とする義胤。尤も相馬家は元々三成よりの立場であった。家康が警戒するのもおかしい話ではない。ともかく相馬家は父祖代々の土地を取り上げられるという重い処分が下された。

 この時佐竹家も同様に処分が下された。こちらの処分は大幅な減封の上で出羽の秋田に転封である。家康はあいまいな対応を許さなかった。義宣も義胤もここにきてそれを思い知ったのである。

 ともかく相馬家は一族郎党全てが路頭に迷うことになった。この危機的状況に責任を感じたのか義宣は相馬家に手を差し伸べる。自身も苦境に立たされたが責任は取らなければならんという義宣の人柄であった。

 義宣は新しい領地の一部を相馬家に分け与えると言ってきた。この佐竹家の提案を義胤は受け入れるつもりであった。

「このままでは相馬家そのものも存続の危機。ここは義宣殿の提案を受け入れ秋田に移ろうかと思う」

 義胤は弱り切った様子で言った。自分の判断で家の存続の危機を迎えるのは二度目である。いかに勇将の義胤といえどもこの時ばかりは弱気になった。

 この義胤の言葉に家臣たちも渋々うなずいた。皆仕方なし、という雰囲気である。しかしここに待ったをかける者がいた。三胤である。

 三胤は進み出るとこう言った。

「私は父上が重い決断をしたことを理解してうえで申し上げます。我々は代々の将軍家や天下人に従い武名を守ってきました。ここで飢えをしのぐため佐竹殿の好意に甘んじ家臣になるのは相馬の名を汚すことになると思います。ここは私が江戸に向かい徳川様に嘆願し小領でも承り天下人の旗本になるべきかと。もしそれが果たせぬのならば家を滅ぼすか然るべき罪のもと裁きを受けて所領を失うべきかと思います」

 堂々と、そしてよく通る声で三胤は言った。この言葉に家臣一同に義胤までもが涙を流している。義胤は息子に言った。

「よく言った三胤。お前の申すことこそ武士の本分。その通りだ。私はだいぶ弱気になっていたようだな」

 義胤は涙をぬぐうと家臣たちに言った。

「家を守るのは武士の本分。これより三胤の言う通り徳川様に嘆願し家の名を残そうと思う。三胤よ。お前は家臣を引き連れ江戸に向かうのだ」

 この義胤の言葉に三胤は驚いた。

「それは…… 私に任すということですか」

「そうだ。お前はもはやひとかどの武士。何も恐れることは無い。今の言葉通りの思いが胸にあれば悲願は必ず成し遂げられよう」

 義胤の言葉に三胤はうなずいた。

「承知しました。この三胤。相馬の家を守るための戦に向かいます」

「その意気だ。任せたぞ」

「はい。必ずや成し遂げて見せます」

 表情を引き締めて三胤は言った。こうして三胤の一世一代の戦が始まるのである。


 三胤は江戸に向かうにあたって名を密胤に変えた。読みは「みつたね」で変わらない。ただ三成からもらった一字をそのままにしてはいろいろと覚えも悪いだろうという配慮である。

「すまない石田様。だが生きている私たちは前に進まなければならないのだ」

 さて家臣を連れて江戸に向かった密胤であるが、まずどうにかしなければならない問題があった。

「我々に徳川様とのつながりはない。まずはそこをどうするべきか」

 決意も固く江戸の上がってきた密胤だが何か具体的な案があるわけでもなかった。ともかく危機に動かなければならないということで、それ以上は考えていなかったのである。現状は徳川家の家臣とつながりを持つところから始めなければならない。

 密胤は同行してきた家臣に尋ねた。

「誰か徳川様の家臣とつながりのあるものはおらぬか」

 そうはいっても相馬家は豊臣家に仕えていたころは石田三成とのつながりが主であった。従って徳川家との付き合いはあまりない。家臣たちにしてみても同様である。

 家臣たちの反応の鈍さに密胤は頭を抱えた。

「(まずは動くべきかと思ったが、策もなしに動くのはいくら何でも浅慮だったか)」

 黙り込む密胤。すると家臣の一人が何か思い出したのか進み出てきた。

「思い出しました。そういえばかつて義胤様が徳川様の家臣の方を救ったことがあると聞いております」

「何だと!? 」

 密胤は驚いた。まさか父親がつながりを持っていたとは思っていなかったからだ。

「いったいどういう経緯の話だ」

「はい。かつて豊臣秀次(秀吉の甥)様関白補任の式典の際、私は義胤様に同道しました。その式典にて体を悪くした方を義胤様がお助けになられました。その方が確か徳川家臣と名乗っておられたかと」

「それで、名は何といっていたのだ」

 そう言われて家臣は顔を青くした。

「それが…… 私には聞き取れず。しかし義胤様は覚えておいでかと思われます。これより私は義胤様にお伺いを立てに行ってまいります」

「そうか。頼んだぞ」

 こうして家臣は義胤のもとに取って返した。そして話を聞いた義胤は少し思案した後思い出す。

「それは確か島田重次殿のはずだ。あの出来事の後丁寧な礼をされたのを覚えている。このような家臣がおられるのなら徳川様もひとかどの御仁なのだろうと感じ言ったものだ」

 義胤はそう言ってから不安な面持ちになる。

「しかし十年以上前のことだ。向こうは覚えていないかもしれんぞ」

 そう言うがこれ以外方法はないと思えた。義胤は島田重次宛ての手紙を書くと家臣に渡す。家臣は急ぎ江戸に向かい密胤に手紙を渡した。

「これが唯一の手立てか」

 密胤は父の手紙を手にさっそく島田重次のもとに向かった。


 島田家は徳川家に代々使える家である。重次の父は家康の父の代から使えていた。重次も家康のもとでしっかりと働いており信頼も厚い。何より誠実な人柄であった。

 そんな重次だから義胤から受けた恩をちゃんと覚えていた。そして義胤の息子が来たと聞くとすぐに屋敷に招く。もちろん相馬の家臣たちも一緒である。

「この度の相馬家改易の話。心苦しく思っていました。申し訳ない」

 重次は開口一番こう言った。それに対し密胤はこう言い返す。

「そもそもは我らが徳川様に疑念を持ったのが原因。島田様に責はありませぬ」

「しかし相馬家は何の罪を犯しておりませぬ。それを裁くは我が主ながら不徳のなすこと。これは正さなければなりませぬ」

 そう言ってからこんな提案をした。

「我が身は小身ゆえに大したことは出来ませぬ。ですが幸い殿のそばにお仕えする本田正信殿と懇意の付き合いがございます。ここは正信殿に密胤殿の思いを伝え殿に伝えるのが最善の策かと」

 この重次の言葉に密胤はうなずいた。そして懐から書状を取り出す。

「機会があればと思いお家再興の願いをしたためた書状を書いておきました。どうかこれを本田殿に」

「かしこまりました。必ずや本田殿に、いや殿にも読んでいただきます」

「よろしくお願いします」

 この日は密胤と相馬家臣たちは重次の下で歓待を受けた。翌日、重次はさっそく正信との面会を取り付ける。そして書状を渡した。

 正信は素直に書状を受け取った。そして気を見て家康と家康の嫡男の秀忠に書状を見せる。更にこう説得した。

「書状を見る限り相馬家に二心はありませぬ。また石田殿に与しようとしたのも恩義あってのこと。このような御仁ならばむしろ窮地を救えば我らの強い味方となりましょう。何よりわざわざ江戸に下り堂々と申し開きしたのはさすが代々の武士の家。そのような家を残すのは武家の棟梁となる殿の務めだと思います」

 この打算や感心が入り混じった説得に家康や秀忠の心は動いた。そして家康は正信に尋ねる。

「裁きを反故にするはむしろ道理に反する。ここは取り上げた領地を改めて渡すということにしようと思うが」

「それでよろしいかと」

 正信はうなずいた。秀忠も文句はないようである。

 後日密胤は義胤ともども家康に目通りした。家康は密胤を褒める。

「ことが起きたとき迅速に決断し行動に移す。これはなかなかできんことだ。これができることはひとかどの武士の証である。相馬の行く末は明るいな」

「「あ、ありがたき幸せ」」

 相馬親子は声をそろえて感動するのであった。こうして相馬家は旧領に見事復帰することができたのである。


 無事相馬家を再興させた密胤と義胤。義胤は密胤の手を抱くと感極まった様子で言った。

「本当によくやってくれた。本当にお前はよくできた息子だ」

 それに対し義胤は首を横に振る。

「此度のことは父上がかつて成した善行のおかげです。私は何もしていません。それにまだまだこれからです」

「そうだな。家を再興していただいたのだ。これよりはその恩義に報いるべく生きていこう」

 二人は強く誓うのであった。

 この相馬家再興と同年に密胤は妻を娶った。密胤には妻がいたが前年に死去していたからである。相手は徳川家家臣の娘で秀忠の養女という扱いであった。

「ちょうどいい。これを機に徳川の臣としての姿を見せるとしよう」

 密胤は家康の代理として婚儀にやってきた徳川家重臣の土井利勝から一次もらい利胤と名を変えた。これで豊臣家との縁は完全に断ち切れたという形になる。これも家を守るためには必要なことであった。

 翌年徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開く。これで完全に徳川の天下となった。

「家康様は名実ともに天下人になられた。これよりは天下の臣として尽くし、相馬の家と民たちの為に生きよう」

 利胤はそう決意を固めるのであった。

 その後慶長十七年(一六一二)に義胤は家督を利胤に譲った。

「本当はもっと早く隠居したかったのだがな」

「申し訳ありません。しかしこれよりは私が相馬家を守ってみせます」

 家督を相続後利胤は幕府に忠実に従い徳川家と豊臣家の最後の戦である大阪の役でも活躍する。一方で城下町の整備や特産品の相馬焼の考案など民にも尽くすのであった。

「これよりは太平の時代。民を慈しみ、家を守るのが武士の本分だ」

 利胤は積極的に相馬家の領地の発展に寄与した。しかし無理がたたったのか病気がちになり寛永二年(一六二五)に父義胤に先立って死去する。享年四五歳。

 利胤の死後は息子の虎之助が跡を継いだ。しかしまだ七歳の少年であり義胤が後見することとなる。

「利胤が残した家を必ずや守り抜く」

 義胤は虎之助が成人するまで後見を務め、利胤の死去のちょうど十年後に息を引き取る。

 その後相馬家は幕末まで存続した。一度も転封されることもなく、結果鎌倉時代より相馬の地にあり続けた。

 その血脈は現代まで続いている。


 タイトルは相馬利胤となっていましたが本編ではほとんど名乗っていません。正直どうしようかとも思ったのですが利胤で通しました。ご容赦御を。

 それはそれとして無事に相馬家の再興を果たした利胤ですが、実は再興の経緯には諸説あります。その一つに伊達政宗の口利きというのもあります。ただ個人的には信じ切れない説なので取り上げませんでした。この点もご容赦を。ともかく相馬家は再興しまし現代までその血脈を残しています。これも利胤と義胤だけでなく歴代の相馬家の当主の頑張りのおかげでしょう。本当に素晴らしい事です。

 さて次の話の主人公は今の茨城県のあたりの人物です。こちらも戦国時代終盤の激動に巻き込まれたと言える人物ですが、相馬家とは全く違う結末を迎えます。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では


 

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