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戦国塵芥武将伝  作者: 高部和尚
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相馬利胤 武士の本分 前編

 相馬家は古来より続く代々の家。そんな家に生まれた少年は父の背中を見て育つ。いずれは父のようになりたいと願う少年はまだ自分の運命を知らない。

 相馬家の歴史は古い。始まりは鎌倉時代にさかのぼる。時の征夷大将軍源頼朝から奥州小高(現福島県相馬郡)に領地を授かりそこで栄えた。その後室町時代に一時衰えるが戦国時代になると持ち前の武勇で大名としての立場を確立している。

 虎王は天正九年(一五八一)に相馬家十六代相馬義胤の息子として生を受けた。

「代々続く家の名を汚さぬよう立派な武士になるのだぞ」

 義胤は相馬家歴代の中でもなかなかの武辺物で、その気質もまさしく武人といった感じであった。父としては虎王を代々続く武門の家に相応しい男にしようと厳しくも暖かく育てる。虎王もそんな父を尊敬しいずれかは父親のようになりたいと強く願った。

 そんな虎王に義胤はこんなことをよく言った。

「武士たるものその本分は家を守ること。特に相馬の家は代々の征夷大将軍に仕え続けた名家である。これを絶やすのはあってはならないことだ。ゆえに我々の土地を脅かすものに対して敢然と立ち向かわなければならない。わかるな、虎王」

「はい。ちちうえ」

 幼い虎王にいささか父の言葉は難しい。しかし父親の真剣さは理解できる。何より義胤は相馬家の領地を脅かす敵に幾度となく立ち向かい続けてきた。時には敗れ傷を負った姿を見たこともある。だがそれでも立ち上がり困難に立ち向かう。そんな父親の姿が虎王にとってはとても格好よく見えた。だから父親の言葉の意味は分からなくてもその志のようなものはおぼろげながら理解できる。

「わたしも、いえをまもれるもののふになってみせます」

「そうか。いい心がけだ。だがそれだけではいかん。武士たるもの仁義をわきまえ道理に沿うこと。情けを忘れないことも重要だ。しかし虎王よ。お前はまだ幼い」

「はい」

「今はすべてできなくていい。少しずつ少しずつ学んでいき、いずれは私を越えるほどの武士になるのだ」

「わかりました。ちちうえ」

 もちろん虎王は父親が自分を越えるようにといっているとは思いもしない。ただ父の熱い言葉に動かされてうなずいているだけである。

 義胤もそれは分かっているが何も言わなかった。

「(私も幼いころは父上の言葉を理解しきれなかった。しかし生きていくうちにそれが理解できるようになった。虎王もゆくゆくは理解できるようになろう。相馬の男なのだから)」

 自分の言葉に素直にうなずく息子にかつての自分を重ねる義胤。その姿はかつて義胤に色々と諭した父、盛胤と同様の姿であった。父から子へと続く志。それが相馬家の強さであった。


 虎王が生まれた頃の相馬家は陸奥(現青森県、岩手県、福島県、宮城県)の南部で有力な大名家の一つになっていた。しかしこの時代に陸奥の南部で最も巨大な勢力となっていたのが伊達家である。伊達家は広大な領地を誇る一方で周辺の大名家と婚姻関係を結び支配下に置いていた。しかし伊達家の内部の争いや情勢の変化で対立や抗争が続発している。従って陸奥の状況は極めて流動出来であった。

義胤の時代の相馬家は伊達家と比較的有効な関係にあった。

「輝宗殿はむやみやたらに力を振りかざさん御仁だ。落ち着きもある。あの御仁なら奥州のことも任せられよう」

 ところが天正十三年(一五八五)この輝宗が死んだ。これより少し前に輝宗は隠居して息子の政宗に家督を譲り隠居している。そして政宗の起こした戦いで相手方の和睦をあっせんしたのだが失敗し捕らえられて死んでしまった。

 このことで伊達家は完全に政宗の意向で動くようになる。ところが政宗を義胤は嫌っていた。

「確かに英傑といえる御仁かもしれん。しかしいささか野心と我欲が強い。奥州は乱れであろう」

 ある戦で政宗は敵対する勢力の連合軍に攻撃され絶体絶命の危機に陥った。この時、義胤は和睦をあっせんし戦いを収めている。しかし戦乱はまだ続いた。

「政宗殿は相馬の領地も狙おう。ならばもはや戦うしかあるまい」

 政宗は旧来の血縁による体制を打破し奥州を完全に伊達家の支配下に置こうとした。これに対しての反発は強く、政宗の拡大政策に危機感を抱く大名たちも多い。この結果、奥州は政宗の覇道とそれを阻むものの戦いとなった。

 この情勢下で虎王は成長して行った。その眼に映るのは幾度となく戦いに向かう父の姿である。

「わたしもおおきくなって、ちちうえをてつだいたい」

 父の背中にそんなことを言う虎王。そんな姿を見て家臣たちも涙ぐんだ。

 しかし虎王が成長して行くのと反比例して相馬家を取り巻く情勢は悪化していった。特に天正十七年(一五八九)に起きた摺上原の戦いで会津の蘆名家が敗北した。蘆名家は伊達家に反抗していた勢力で常陸(現茨城県)の佐竹家と縁戚にある。この二家は伊達家との戦いで中核的な立場にあったがこれをきっかけに蘆名家は滅亡してしまう。さらに佐竹家は伊達家と同盟を結ぶ関東の北条家に攻められて危機に陥っていた。もはや相馬家と共に伊達家に抵抗する勢力はだいぶ減っている。

「今回は完全にしてやられた」

 義胤は肩を落とす。この時義胤は伊達家に味方する田村家を攻撃していた。だがその隙を突かれて伊達家に攻撃され撤退を余儀なくされる。この結果、摺上原の戦いに参戦することができなかった。義胤としては悔やんでも悔やみきれぬ話である。

「これからはますます厳しくなろう」

 義胤は疲れ切った顔で言った。そんな父親に虎王は何も言えない。虎王は幼くても父親の心境がなんとなくわかる程に利発な少年であった。

 この後も義胤はほかの反伊達の勢力と共に戦い続ける。しかし友軍は次々と服属したり滅亡したりした。常陸の佐竹家は健在であったが伊達家と北条家に挟まれ滅亡の危機に陥っている。相馬家も限界に近かった。

「この先どうなろうと私は戦う。せめて相馬の意地を政宗殿に見せつけようではないか」

 義胤は悲壮な覚悟を家臣たちに語った。家臣たちも覚悟を決めたのか悲壮ながらも陰鬱さはない。

 相馬家は滅亡の危機に立たされた。まだ幼い虎王には何もできない。


 相馬家が滅亡の危機に瀕しているころ、全国的に戦乱は治まりつつあった。天下統一を目指す豊臣秀吉は、関白に就任し朝廷の権威を背景に各地の大名を服属させていく。

 秀吉は以前から佐竹家を通じて東北の大名たちに服属を要求していた。しかし伊達政宗の侵攻に対応する必要があった東北の大名たちはそれどころではない。実際秀吉は西国の平定を優先したため東北を含む東国はおざなりになっていた。しかし九州の島津家を服属させた秀吉はついに東国の平定に本腰を入れる。そして伊達家の同盟相手である北条家との関係が決裂したため秀吉は自ら大軍を率いて関東に出陣した。

 この時相馬家も伊達家も秀吉のもとに参陣するように命令された。義胤は迷う。

「参陣すべきかせざるべきか。どうするか」

 秀吉は東北の大名たちに小田原まで来るよう命令していた。もちろん小田原に行っている間は領地を空けなければならない。その際に伊達家から攻撃を受ければどうなるか。それが義胤には心配であった。

「秀吉殿の権威は相当なものだという。佐竹の義重殿も義宣殿もそう言っていた。しかし今まで我らを放っておいた秀吉殿が我らを助けてくれるのか」

 結局義胤は参陣を見送った。そして伊達家との戦いに全力を注ぐ。しかし各地で敗北を重ねいよいよ追い詰められた。そんな時政宗が小田原に向けて出発したという情報を聞く。

「政宗殿まで従うのか…… ならばこちらにかけるしかあるまい」

 義胤は家臣たちと協議した。どのみちこのまま政宗と戦い続けても滅亡は目に見えている。ならば一縷の望みをかけて秀吉に従うべきではないか。そういう意見でまとまった。そして天正十八年(一五九〇)に相馬義胤は小田原に向けて出発した。

 出発の際に義胤は虎王にこう言った。

「私は必ず戻る。それまではお前が相馬の主だ」

「わたしが? 」

「そうだ。何かあったら父上や家臣たちとよく相談して相馬の家を守るのだぞ」

「はい。わかりました」

「いい返事だ虎王。あとは任せたぞ」

 そう言って義胤は出発する。虎王はその背中をずっと見ていた。

 その後伊達家も相馬家も大きな動きを見せなかった。双方豊臣家に従う意向を見せた以上、下手に動けばそれを理由に豊臣家に家を潰される可能性もある。家臣たちは不安な気持ちで義胤の到着を待った。

 一方で虎王はあまり変わらない。祖父の盛胤は虎王に尋ねた。

「不安はないのか? 」

 すると虎王は当然のことのように答えた。

「父上に代わりをまかされました。だから怖がっているすがたをみなにみせられません」

「そうか。そうか…… 」

 盛胤は涙ぐんだ。まだおさない孫が父の言葉を理解しこんなにも堂々としている。

「(相馬の家は潰せんな。もし潰れてもともかく虎王だけでも何が何でも守ろう)」

 そう誓う盛胤。そんな盛胤に虎王は言った。

「じい様もみんなもいます。だから怖がることはなにもありません」

 それを聞いてますます涙ぐむ盛胤。またその話を聞いた家臣たちも涙ぐむのであった。そしてそんな虎王を守るために相馬家中は団結を強める。

 だがそれからしばらくして伊達家が兵を動かしたという情報が入った。これに相馬家中は悲嘆にくれる。

「伊達家が兵を動かしたということは秀吉様からの許可が出たということか」

「狙いは我々か。義胤様は間に合わなんだということか」

「こうなれば潔く戦い相馬の誇りを見せてくれよう」

 相馬家臣たちは悲壮な覚悟を決める。盛胤は虎王に言った。

「もし伊達家に敗れるとき、そなたは何としてでも生き残るのだ」

「ですがじい様。まだ父上がもどっていません」

「義胤がどうなったのかはわからぬ。しかしそなたは生きている。そして生き続ければ相馬の家は消えん。虎王よ。何があっても強く生きるのだぞ」

 盛胤は強い口調で言った。虎王はうなずくことしかできない。

 こうして相馬家が玉砕覚悟の決意を固めいざ、という時義胤が帰還した。そして義胤は高らかに言った。

「殿下より所領の沙汰をいただいた。いま我らが治める領地はすべて安堵となったぞ! 」

 この義胤の言葉に相馬家の皆が沸き立つ。実は伊達家が兵を動かしていたのは別の勢力を攻める為で相馬家は関係なかった。

 それはともかくこれで相馬家は救われた。虎王は帰還した父を憧れのまなざしで見つめる。自分もいずれこうなりたいと思うのであった。


 相馬家の危機は去り安堵する虎王と盛胤。しかし義胤の表情は浮かなかった。それを気にした盛胤が訊ねる。

「一体どうした。お前のおかげで家が救われたというに」

 盛胤の言葉に義胤は頭を振った。そしてとつとつと語りだす。

「今回の所領安堵は私の手柄ではないのです。私が殿下のもとに参上しようとしたときすでに北条攻めは終わっていました。その後宇都宮で仕置きが行われることになったのですが、私の遅参に殿下はひどくお怒りになられました」

 義胤が言うには秀吉の怒りは相当なものだったという。そして遅参の責任を取り相馬家を改易にすると言い出したそうだ。

「だが所領は安堵されたのだろう」

「はい。じつは取次役の石田三成殿が殿下をなだめてくだされました」

 三成はこう秀吉に説いたそうだ。

「今回の遅参は東北の動乱がまだ収まらぬゆえに起きたこと。己の領地を守るは武門の本分にございます。此度の責任は動乱を起こしたものにございます。相馬殿に非はありませぬ」

 秀吉はこの言葉に納得し、かえって相馬家を褒めて領地を安堵したそうだ。

「石田殿には本当に大きな借りができた」

 義胤はそうしみじみと言うのである。尤もこの時三成と秀吉には別の思惑もあった。

 この時秀吉は東北の大大名である伊達家を警戒していた。そのため伊達家の抑えを作っておきたいという思惑がある。相馬家はその抑えの一つとして選ばれたのであった。また秀吉は政宗が蘆名家を滅ぼして奪った会津などの土地を召し上げている。これは豊臣家が出していた私戦禁止令を破ったことが理由であった。秀吉としては伊達家の勢力を削ぐのに都合のいい話があったわけである。なお会津には秀吉の家臣である蒲生氏郷が入った。これも伊達家の抑えの一つである。

 これらの思惑を義胤も盛胤も気付かない。当たり前だが虎王もである。しかし三成に助けられたことと秀吉に所領を安堵してもらった記憶は残った。相馬の人々は義理堅い。ゆえにこののち相馬家は豊臣家に積極的に尽くしていく。豊臣家が二度にわたって行った朝鮮への出兵の際には渡海こそしなかったものの、九州の名護屋まで向かい参陣した。

 また石田三成との交誼も絶やさなかった。慶長元年(一五九六)に虎王は元服を迎える。その時に名を三胤とした。三の字は三成からもらったものである。

 虎王改め三胤は父に言った。

「父上のように勇猛に、石田様のように道理を守り相馬の家の為に奮闘します」

「そうだ。相馬の先祖の方々や太閤殿下をはじめ恩義ある方々の名に傷をつけぬように頑張るのだぞ」

「はい! 」

 三胤は元気よく答えるのであった。

 この時は三胤も義胤も知らない。この時の三成との深い交誼が災いをもたらすことになると。

 


 今回はほとんど利胤の父、義胤の話でした。そもそもまだ利胤と名乗っていません。まあよくあることなので気にしないでいただけるとありがたいです。

 さて今回の主人公の家である相馬家は長い歴史を持つ家です。戦国時代はこうした代々の家というのが何家も滅亡しました。相馬家は、そして利胤はいずれ来る過酷な運命にどう立ち向かうのか。お楽しみに。

 最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では

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