前田茂勝 前田主膳始末 前編
丹波八上藩藩主、前田主膳正茂勝。豊臣政権の五奉行であった前田玄以の次男に生まれ、徳川幕府の下で大名となった。そしてある事件を起こす。
これはその事件の顛末を記した物語である。
天下泰平世はことも無し。豊臣政権を二分した関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の勝利で終わった。この戦いで政権を掌握した家康はその枠組みから逸脱し、徳川の世を作り始める。
慶長八年(一六〇三)に家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を発足させる。これにより徳川はすべての武家の頂点に立った。
こうして諸大名は幕府の傘下に入った。また、幕府も大名たちを監督する立場に立つ。このころは江戸の二代将軍秀忠と駿府に隠居した家康とで東西の大名をわけあって統括していた。それはともかく必然的にそれらの仕事を行う部署も幕府内に発足した。
のちにこの部署の役人は目付と呼ばれるようになった。しかしこの時はまだそんな名前ではなかったが、とりあえずは目付と呼ぶことにする。
氷上孫六は目付の一人であった。丹波は氷上の出身である。ひょんなことから徳川家に仕え、今は駿府で家康に仕える立派な役人になった。年は二十とすこしでまだ若いが仕事熱心である。しかし
「孫六よ。ここらで切り上げて一杯付き合わんか」
と、同輩が誘っても。
「まだすべてが終わっていません。ですのでまたの機会に」
と、丁寧に断った。
律儀に頭まで下げる孫六の姿に同輩は苦笑する。もっともこうなるというのは予測していたので怒ったりはしないのだが。
こんな堅物の孫六だが、一途で仕事熱心ではあった。何より礼儀を重んじ相手を立てるということを忘れない姿勢も持っている。そのため同輩から悪く思われるようなことはなかった。
そんなある日、孫六は上役の菱井源八に呼び出された。だが、孫六にはわざわざ呼び出されるような理由が思い浮かばない。
「(何か私が気付かぬところで手落ちでもあったか)」
真面目な孫六はそんなことを考えながら歩く。だが不安そうな様子はない。もし自分に不手際があったのなら素直に謝ろう、そういう考えをするのが孫六であった。
呼び出された孫六はまず部屋に向けて一声かける。そして中から反応がしっかりあったのを確認すると源八の部屋にはいった。源八は机に向かって仕事をしている。
「お待たせしました」
「ああ。呼び出して悪かったな」
源八は顔を机の上の書類から孫六に向ける。どうも気楽な感じで孫六を叱ろうとかそういう雰囲気ではない。
源八は机の上にあった書類の一つを孫六に差し出した。孫六はそれを受け取る。差し出されたのは京都所司代からの書状であった。京都所司代は幕府の機関の一つで京とその周辺を管理している。
無言で書状を読む孫六。書状には簡潔に前田家にてお家騒動ありという内容が記してあった。
孫六は短い内容をきっちり最後まで読み終えると源八に顔を向けた。
「お家騒動ですか」
「ああ、そうだ。丹波の前田様の家で一騒動あったらしい」
「なるほど。それで我々に調査を? 」
「そういう事だ」
源八は頷いた。孫六も納得する。確かに大名家に関することなら自分たちの仕事だ。
「孫六。お前はこれから前田領に入り事件を調べてこい。丹波はお前の故郷なのだから地理にも明るいだろう」
「はい。ですが」
孫六は大まじめな顔をした。それを見て源八は不思議そうな顔をする。
「なんだ? 」
「私の故郷は氷上。前田様の八上とは少し場所が違います」
孫六は真面目な顔のまま言い切った。そんな孫六の姿に源八は思わず苦笑いするのであった。
こうして孫六は丹波に向けて旅立った。慶長一三年(一六〇八)三月の事である。この時まだ孫六は自分が受け持つ事件がどんなものかをちゃんとよくわかっていなかった。
駿府を経った孫六は一月ほどで京に入った。まずは京都所司代が入手している情報を手に入れるためである。何せ今孫六が持っている情報は前田家でお家騒動があったという事だけであった。
所司代の役所で孫六は応対に出た役人に丁寧に頭を下げる。
「目付の氷上孫六でござる。駿府より参りました」
「これは丁寧に。拙者は佐藤藤七と申します」
孫六に対し所司代の役人である藤七も丁寧に返した。物腰の柔らかい温厚そうな男である。
挨拶もそこそこに孫六は用件を切り出した。
「此度は前田家のお家騒動について調べに参りました」
「話はお聞きしています。調書があるのでそれを持ってきます」
そう言って藤七は部屋を出ていった。残された孫六は身じろぎもせずにじっと待っている。
しばらくして藤七が戻ってきた。そして藤七は調書を孫六に差し出す。
「拝見します」
孫六は受け取った調書を丁寧に読む。すると、調書を読む孫六の顔が徐々に青ざめていく。
孫六は二度調書を読み直した。しかしその内容は最初読んだ時と変わらない。困惑し愕然としている孫六を藤七は気の毒そうに見ていた。
やがて孫六は顔をあげる。
「これはまことなのですか」
「ええ。我々の調べではそこに書かれている通りです」
ため息まじりに藤七は言った。一方孫六はまだ半信半疑といった雰囲気である。それだけ調書に記してあるのは衝撃的なものだった。
その事件は同じ年の初めに起こった。その日八上藩主、前田茂勝は重臣の尾池清左衛門とその息子を城に呼び出している。実は清左衛門は政務に関心の薄い茂勝に何度も諫言をしていた。
「では行って来る」
妻や下男にそう言って清左衛門は息子を伴い屋敷を出た。それが夫婦今生の別れとなる。
その後、城で清左衛門父子は茂勝自らの手で斬殺された。その時その場にいたのは斬られた二人と茂勝だけだったという。
二人を惨殺した後、茂勝は家臣を呼び出して死体を処分させた。驚く家臣たちを茂勝は睨みつけて言ったという。
「この者たちは乱心した」
だが、家臣たちの目には茂勝の方が乱心しているように見えたという。それほどその時の茂勝の目は鬼気迫るものだったらしい。
重臣とその息子を惨殺した茂勝。だが、その凶行はまだ終わらなかった。なんと茂勝は清左衛門と親しい家臣たちを切腹させてしまう。理由は連座という事だった。
この理由は清左衛門が殺された経緯がまともではない以上、納得できるものではない。身の危険を察知した前田家臣たちはこの事件を京都所司代に通報。事情を聞いた所司代の板倉勝重は事態の異常さと、大名家のお家騒動であることを鑑みて駿府に連絡をした、という経緯であった。
「信じがたい話ですね。五万石の大名とあろうものが」
孫六は憤りを込めて言った。孫六は普段感情をあまり表に出さない。同僚が居たら驚くであろう姿である。
そんな孫六に対して藤七は苦々しげに言う。
「もともと前田様の評判は非常に悪いものでした」
「それほどに? 」
「はい。そこにも書いてありますよう政務に関心がなかったようでして。他にも京の町で乱行を働いたり、近江では宿の主と喧嘩して代官に取り押さえられたりとしていたそうです」
そう言い切ると藤七は呆れ切ったため息をつく。話を聞いていた孫六も頭を抱えた。
「信じがたい…… 」
孫六はそうつぶやくのが精一杯であった。これ以上は、呆れ切って物が言えない。
しばらく黙っていた孫六だがゆっくりと顔を上げた。
「今、前田様は何処に? 」
「八上城に押込められています。前田家臣と所司代の配下が見張っています」
「分かりました」
そういうと孫六は立ち上がった。
「これから私も八上に向かいます」
「そうですか」
「もはや取り調べるまでもないのでしょうが、仕事ですので」
きっぱりと言い切る孫六に藤七は苦笑した。
「ではよろしくお願いします」
「はい。では、失礼します」
そう言って孫六は出ていった。
八上に入った孫六はまず領民の様子をつぶさに観察した。領民たちは問題なく暮らしているように見える。また、孫六が聞くところによると意外にも統治は行き届いているらしい。
「みんな尾池様達のおかげですよ」
それは清左衛門をはじめとする家臣たちの努力の賜物のようだった。領民たちの間で殺された清左衛門のことを悪く言うものはいない。
一方で領主である茂勝のことを聞くと
「あの殿さまは儂らの事なんぞ何にも考えちゃいねえ」
とか
「儂らから搾り取って自分だけ遊んでいるそうじゃないか。やってれらねえよ」
といった証言が飛び出した。
またある領民は言う。
「いっそ尾池さまが殿様を斬っちまえばよかったんですよ」
そう吐き捨てるように言った領民の顔は暗い。こんな事件が起こっては仕方のないことだろうと孫六は思った。他の領民たちもこの騒動で自分たちの暮らしがどうなるのかを不安に思っているようだった。
領地を見て回った孫六は城下に入る。当然ここでも茂勝の評判は悪い。
「あの殿さまのせいでみんな迷惑している」
ある商家の主はこう言った。
「突然御家来衆が現れてはむちゃくちゃなことを言って私たちから金を巻き上げる。他にも酒屋は酒を持っていかれたりした。たまったもんじゃないよ」
城下でも茂勝は様々な乱行を行っているようだった。
「正直言うと私たちは今回のことで殿さまがいなくなるかもしれないと喜んでいるんだ。実際どうなるかはわからないがこれ以上は悪くはならんだろうと皆言っていますよ」
そんなふうに主は言った。皆茂勝が改易されることを喜んでいるようだった。
「(ここまで嫌われているとは。驚くな)」
城下町から聞こえるのは茂勝への怨嗟の声だった。先々の不安という意味で農村部と相違はあるが、茂勝への憎しみは共通している。
最後に茂勝が向かったのは清左衛門の屋敷であった。すでに喪は開けていて一見いつも通りに戻ったように見える。しかし主を失った屋敷はどこかさみしげな雰囲気をしていた。
先ず孫六は清左衛門父子に線香をあげた。そして清左衛門の妻であるふじに話を聞く。
おそらくいい家柄の生まれなのだろう。品の良さを感じる夫人である。だがさすがに表情に精彩はない。
「こんな時に申し訳ありません。ですが取り調べの公正のためにお話を伺わせてもらいます」
孫六は頭を下げながら丁寧にいった。ふじも無言でうなずく。
「夫は日ごろから殿に色々と申し上げていました」
「色々と、ですか」
「はい。詳しい内容を私には語りませんでしたが、常々どうしたら殿が政務を真面目に行ってくれるのだろうとこぼしていました」
「そうですか…… 」
「夫は先代の大殿の代から使えていました。それゆえ、亡くなられた大殿が悲しまれるともこぼしていました…… 」
そこまで言ってふじはうつむいた。孫六は黙って座っている。やがてふじが顔をあげるとその眼には涙がたまっていた。
「今回の殿のなされよう。あまりにも夫が不憫です! 常に殿のことを心配していた夫がなぜこのような…… 」
「奥方…… 」
「それに息子まで…… あまりにもひどい」
そう言ってふじは泣き崩れた。孫六は黙っている。
しばらくふじは泣いていた。これ以上は無理だと判断した孫六はその場を後にすることにする。
「ご迷惑をおかけしました。失礼します」
「いえ、こちらこそお見苦しい姿を」
恭しく頭を下げるふじ。孫六も頭を下げた。
話を聞き終えた孫六が屋敷を出るとき見送りに来た下男がこういった。
「当然お殿様は死罪ですよね。そうですよね」
実直そうな初老の下男だった。そんな男が顔を紅潮させて言い放った言葉である。
孫六は立場上答えられなかった。最後に屋敷と下男に頭を下げるとその場を去る。
尾池家には今回殺害された嫡男以外に子供はいないらしい。
「(こんなことで断絶とは)」
忠臣の家のあまりに無残な結末に孫六は憤るのであった。
孫六は城下町で一晩過ごした。そして翌日八上城に入った。茂勝の取り調べのためである。
普段は冷静な孫六だが、この時は気分が高揚していた。それは昨日まで聞いた領民たちの話のためであり、残された尾池の妻のふじのためである。
「(皆がこれだけの証言をしている。原因は尾池殿の諫言に怒って、という事だろう)」
今まで聞いた話を総合するとそういう答えになる。しかし一応取り調べるのが孫六の仕事だ。
「(前田主膳正茂勝。一体どのような言い訳をするのか)」
まだ一度も会ったことのない男だが、すでに悪い印象しかない。そういう意味では気兼ねなく問い詰めることができる。
孫六は八上城を若い前田家臣の者に案内される。案内する家臣の顔は青い。
「(仕方のないことだろうな)」
主君が前代未聞の恐ろしい事件を起こしたのだ。平然としている方が異常である。
やがて案内された孫六がたどり着いたのは八上城の片隅にある部屋だった。
「これを」
孫六を案内した家臣は鍵を孫六に渡す。
「これは? 」
「座敷牢の鍵です」
一瞬驚く孫六だが、すぐに呑み込んだ。
「では失礼する」
「はい。よろしくお願いします」
若い家臣に見送られ、孫六は部屋に入った。そこには座敷牢がいくつもある。孫六の左右には座敷牢が並んでいた。しかしそこに茂勝の姿はない。孫六は不思議な違和感を覚えた。
しばらく周りの座敷牢を見回す孫六。そこで奥にも牢があることに気付いた。孫六はそこに向かってゆっくり進んでいく。
やがて孫六は奥にある座敷牢にたどり着いた。その牢だけはほかの牢より少し大きい。
「(この中にいるのか? )」
孫六は牢の中を覗き込む。そして格子に背を向ける男を見つけた。
「あれが?…… 」
思わず孫六はつぶやいた。
ここに至るまで孫六は前田茂勝についていろいろ想像していた。きっと凶暴な男だろう。獣のような男に違いない。見苦しく騒いでいるはずだ、など。
しかし孫六の目に入った男はそれらの想像とはまるで違う姿だった。
おそらく木綿であろう質素な着流しを着て静かに座っている。身体は細身で色は白い。そして孫六のつぶやきに反応して振り向いた顔は穏やかな笑みを浮かべていた。
しばし固まる孫六。だが意を決して尋ねる。
「前田主膳正殿ですか」
「いかにも。その通りです」
男、茂勝は微笑みながら頷いた。それは春風のような優しい笑顔だった。
あけましておめでとうございます。本年も戦国塵芥武将伝をよろしくお願いします。
今回はいつもと話の雰囲気が違います。いつもなら主人公の人生をたどっていく形式なのですが、今回はオリジナルの人物を主人公としています。そしてその主人公が取り上げる人物の起こした事件にかかわっていくという形式にしました。どうでしたか?
さてこの事件の最重要人物が話の最期にやっとこさ登場しました。はたして事件の真相はどうなのか、と言っても大したどんでん返しはないのですが。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡ください。では




