正木通綱 正木家初代 後編
安房にて正木家を立ち上げた通綱。その後は縁あって里見家に仕えることになる。正木家の活躍もあり里見家は安房を手中に収め上総にも影響を及ぼし始めた。そして時代は大きく動き始める。そこに里見家も正木家も巻き込まれていく。
時綱は主君の妹を娶り里見家の中で重きを置くようになった。
「里見の家のため正木の家のため奮戦していこう」
そうした決意を新たにする時綱。一方で関東も新たな流れが生じ始めている。
その報告を聞いた時に時綱は驚いた。
「三浦家が滅んだというのか」
それは時綱の生家である三浦家が滅亡したという報せである。
「信じられん。義同殿が敗れるとは」
時綱が三浦家を追われたときはまだ幼かった。だからその時は義同のすごさは分からないでいる。だが時がたち成長して行くにつれて三浦義同という人物の偉大さも理解できるようになっていった。それだけに義同率いる三浦家が滅ぼされたというのは生家が滅んだということ以上に衝撃的である。
「いったいどこの誰がそんなことを」
「なんでも伊豆に入った伊勢盛時なる人物だそうです」
「伊勢? いったい誰だ」
「なんでも今川家臣の方だとか。もともと京で幕府に仕えていたようですが」
この伊勢盛時というのがのちの世に北条早雲と呼ばれる人物である。三浦家を滅ぼしたのがきっかけで北条家は関東に覇を唱えるようになった。
尤もそんな未来の話など分かりようもない。今の時綱に重要なのは相模に油断ならない勢力が誕生したという点である。
「その伊勢殿はどういう動きを見せているのだ」
「はい。どうやら武蔵(現東京都及び現埼玉県)にも手を伸ばそうとしているみたいです」
「そうか。ならば我々も警戒しなければならないな」
安房、上総と相模、武蔵は江戸湾をはさんで対峙している。この江戸湾の水運はこの地域の生命線といってもいい。今後伊勢家とそれをめぐって争うことになれば正木の水軍が重要になる。
「気を引き締めていかねばならんな」
時綱は伊勢家が里見家の今後を占いううえで重要な存在だと感じた。事実里見家と伊勢家改め北条家は長い戦いを繰り広げていくことになる。
関東では伊勢家が新興勢力として存在感を発揮し始めた。一方で以前から存在するある勢力に関する大きな動きが顕在化し始める。
そのことに関する情報を時綱は実尭から聞いた。
「高基様の弟君が? 」
「ああ。小弓で独立するそうです」
高基というのは古河公方の足利高基のことである。古河公方は室町幕府の関東支社といえる存在で、関東の大名や侍たちを統率する役目を持っていた。その独立性は意外に強く幕府と方針で対立することも多々ある。
それはそれとして今回の動きはこれまでにないものであった。そもそもの発端は高基と先代古河公方の政氏殿対立である。これまでに古河公方は親子で対立することがよくあった。だが今回はそれに弟が加わったわけである。
「高基様が勝ったから一応は纏まろうというところだったのだがね」
実尭は苦々しげに言った。里見家は古河公方や前身の鎌倉公方ともかかわりが深い。そういうわけで内紛等に影響を受けることもあった。
「高基様の弟君…… 僧籍を抜けて義明様と名乗るようだが。ともかく義明様は自身を正統として下総(現千葉県北部及び茨城県南部)の小弓城に入ったそうです。何でも小弓公方を名乗っているらしい。政氏様も義明様の肩を持っているそうです」
「なるほど…… それで殿はどうなさるおつもりなのでしょう」
「兄上は元々政氏様よりの立場だったからな。小弓は上総にも近い。義明様につくつもりのようだ」
時綱は実尭の物言いになんとも言えない不安を覚える。
「我らにどうかかわりますか」
「こればかりは分かりませんね。ただいろいろと面倒なことに巻き込まれるかもしれない。それだけは覚悟しておいてください」
「承知しました」
実際里見家は小弓公方方として様々な戦いに参加することになる。
周囲の環境の変化。そしてそれに伴い里見家の立場も変わっていく。そんな中で時綱はある一つの行動をとった。
「これより名を通綱と改める」
通綱の通は義通の通である。名前を一字もらうことでさらに里見家との縁を深めようというねらいであった。もちろん義通に許可はもらっている。
「時綱はわが義弟。何の支障があろうか」
義通は笑って快諾したのであった。
さてその義通だがある日実尭と通綱にこう切り出した。
「俺もそろそろ隠居しようと思う」
この発言に実尭も通綱も驚く。
「何をいきなり。兄上ともあろう方が隠居などと」
兄の急な発言を非難する実尭。通綱も同意した。
「まだ情勢は不安定です。今隠居成されては家中に無用な混乱を招くのでは」
義通は二人の発言を黙って聞いていた。そして二人をこう諭す。
「お前たちの言いたいこともわかる。だが里見家を取り巻く状況は大きく変わってきた」
この時期里見家は小弓公方の要請を受けての戦いに参加することも多かった。また伊勢家改め北条家とも本格的な戦いに入りつつある。
「俺はここで隠居することで人心を一新したいと思う。新たな体制になることが新たな困難に立ち向かう最良の方策だと考えている」
義通は強い口調で言った。そこからは強い決意が読み取れる。こうなれば通綱も実尭もうなずくほかない。
「承知しました。兄上がそこまで言うのなら」
「私も最早異は唱えません。こうなれば義豊様に忠義をつくすだけです」
義豊と言うのは義通の嫡男である。幸い当主を任すのに支障がないくらいには成長していた。
二人が納得してくれたので義通もほっとしたようだった。
「すまんな二人とも。特に二人には義豊を支えてほしいと思っていたからな。だからこうして先んじて話した」
「気を使いすぎです殿。正木と里見は一体。気遣いなど不要です」
「そうか。ありがとう通綱」
義通は通綱の手を取って泣き出した。それにつられて通綱も泣きだす。
そんな二人に対して冷静なのは実尭である。
「義豊を支えることには異論はありません。ただいささか気になることが」
「なんだ実尭」
「義豊の周りは古参の者たちも多い。中には通綱を妬む者もいるとか」
実尭の言葉に通綱はため息をついた。
「仕方ありません。あくまで私は新参者。それをお二人の好意でここまで引き上げていただいたわけですから」
一方義通は不満顔であった。
「何が言いたいのだ。実尭」
「義豊に妙なことを吹き込まなければいいのですが」
実尭は不安そうに言った。ここでは言わなかったが義豊は疑り深いところがあるそれを知っている実尭はそこが不安であった。
義通は実尭に反論する。
「義豊も通綱の忠義を信頼している。それに正木の水軍の必要性は理解しているはずだ」
「わかっていますよ兄上。これは私の老婆心です」
「実尭様は思慮深い。しかし心配は無用ですよ」
通綱は朗らかに言った。それを見て実尭もそれ以上は言わない。しかし実尭の懸念は後年最悪の形で顕現することになる。
里見義通の隠居により里見家の家督は嫡男の義豊に譲られた。実尭は義豊の後見につくことになる。
「よろしく頼みます。叔父上」
「ああ。こちらこそ頼みます」
この時の二人の関係は非常に良好なものであった。通綱も義豊への忠誠を強く誓う。
「これよりは義豊様が殿。誠心誠意尽くして見せます」
「そうか。頼むぞ通綱」
義豊は頼もしそうに通綱を見た。通綱もそれに応えるべく奮戦する。この時期の里見家の主な敵は北条家であった。北条家との戦いでは通綱の正木水軍が要である。
通綱は実尭と共に北条家への対応にあたった。時には江戸湾を渡り北条家の領国に侵攻する。こうした戦いで実尭は見事な采配を見せ、通綱も大いに活躍した。その結果実尭の里見家での存在感は増す。
正木家は戦いの功績で領地を加増された。その結果里見家での勢力も大きくなり発言力も増していく。
「義豊様はそれほど私を評価してくれているのだな」
喜ぶ通綱。それに対して少し複雑なのは実尭である。
「通綱の功は大きい。しかしそれに妙な考えをするものが出ないかどうか」
「そこは私も心配しております。しかし殿が下さった領地を受け取らぬのも不忠かと」
「それはそうだ。しかしこのまま何事もなければいいのですが」
この時実尭は上総に本拠を置き活動している。通綱も実尭と共に行動していた。その結果どうしても義豊と直接顔を合わせる機会は減っていく。そこが実尭にも通綱にも不安なところである。しかし二人にできるのは里見家の為に戦うことだけである。
「働きで身を立てるほかはありませんよ。実尭様」
「そうですね。それしかあるまい」
こうして二人は北条家との戦いに邁進していく。
北条家との戦いは一進一退の展開を見せた。その結果戦いは長期化していく。
「敵もさるものということか」
通綱はなかなか好転しない戦況に頭を悩ませる。現在里見家は小弓公方や北条家と敵対する上杉家などと連携して北条家を攻撃していた。この結果北条家からの攻勢は収まる。しかしその領地が減るということもなかった。北条家は巧みに防戦しこの苦境をしのいでいる。
「このまま戦いが長引けば我らも不利か」
悩む通綱。実は通綱を悩ませることがもう一つあった。実は最近北条家からの接触が相次いでいるのである。
北条家は正木家や通綱に里見家を裏切れと言っているわけではない。ただ里見家との一時和睦のための仲立ちを頼んできているのである。
これらの接触を通綱は実尭に伝えている。
「北条家からの提案。いかがお考えですか」
「難しいですね…… 実に難しい」
実尭も悩んでいた。実際戦いが長引けば里見家にかかる負担も大きい。情勢を見極めて一時和睦というのも魅力的な選択肢である。しかし実尭はこれにうなずけない理由があった。
「義明様は和睦するつもりなどないようです」
ため息まじりに実尭は言った。通綱も頭を抱える。
この北条家との戦いを主導しているのは足利義明の小弓公方である。義明は新興勢力の北条家が気に食わないようであった。また北条家は近年古河公方とも接近している。そういう意味でも目障りな存在であった。
通綱はそれらも踏まえたうえで実尭に尋ねた。
「義豊様はなんと? 」
少し前に実尭は北条家の提案を義豊に伝えるため面会してきた。通綱はその結果が気になるところである。
通綱の質問に実尭は黙った。それが通綱を不安にさせる。
「実尭様? 」
「…… どうも義豊は我らを疑っているようです」
実尭の発言に衝撃を受ける通綱。そんな通綱に実尭はこう告げる。
「どうも私たちが北条家に通じているらしいという風聞が流れているらしい。それに義豊の周りの連中は通綱のことを悪しく言っているようだ」
「な、なんと」
「兄上が生きている間はこんなことは無かったのですが。嘆かわしい」
先代当主の義通は先年死去していた。これ以降里見家内で実尭と通綱を疑う声が沸き上がっているようである。
通綱は頭を抱えた。
「やはり北条家との和睦の提案が我らの印象を悪くしているのでしょうか」
「恐らくそうですね。それに義豊は疑り深いところがある。一度疑心を抱いたらそうそう消えはしないだろう」
今度は実尭が頭を抱えた。
北条家との和睦は里見家として魅力的な選択肢である。しかしそれを飲めば小弓公方との関係は悪化するだろう。
皮肉にも実尭にも通綱にも北条家との和睦を推し進める地位と影響力があった。しかしそれを利用して強引に事を進めれば義豊やほかの家臣の反発を買う。そうなればどうなるかは通綱にも実尭にもわかっている。
「ともかくことを穏便に進めていくしかありませんね」
「承知しました。北条家への攻撃はまだ続けるということで」
「はい。頼みます」
そう言って実尭はため息をつく。通綱もそれにつられてため息をつくのであった。
通綱と実尭が北条家との戦いを消去的に進めているさなか、二人は義豊に呼び出された。
「嫡男まで連れてこいとは」
この時通綱には四人の男子がいた。これだけ見れば正木家の将来は安泰そうである。それはともかく通綱は嫡男ともども義豊の居城、稲村城に呼び出された。
実尭はこの呼び出しに不信感を覚えた。
「今後の方針の相談といっていますが、いささか妙ですね」
「左様です」
通綱も実尭に同調する。いくら何でも急な呼び出しであった。
三人は不安を抱えながら稲村城に入る。後から考えればこれはあまりにもうかつだったかもしれない。城に入った三人はそこで城兵に襲われた。
「義豊…… この大馬鹿者! 」
実尭はそう叫ぶも抵抗むなしく殺された。通綱の息子は最初に襲われたため何も言い残せず死ぬ。
通綱は必至で抵抗した。そして命からがら稲村城から出る。追っては出なかった。
「あの傷では助かるまい」
義豊はそう判断した。しかしこれが裏目に出る。
通綱は必至で馬を走らせて自分の城に戻った。そしてそこで待っていた次男の時茂にすべてを伝える。
「義豊様は私たちを裏切った。兄も実尭様も殺された。お前はこれより義尭様と共に立つのだ。正木の家のことはお前にすべて任す。頼んだぞ」
通綱はそう言い残して息を引き取った。
この後時茂は通綱の遺言の通りに行動する。すぐに実尭の息子の義尭と共に挙兵し義豊との戦いに臨んだ。
「忠義を尽くした父上を討つような主君では里見の家は持たない。これよりは義尭様が里見家の主だ」
その後時茂と義尭は義豊を打ち倒し里見家を手に入れた。また小弓公方もしばらく後に滅亡する。これにより安房と上総は里見家に掌握された。ここから里見家は関東の動乱に本格的に身を投じていく。
正木家はこの後も里見家と深い縁で結ばれ続ける。そして里見家が滅亡するまでともに歩み続けるのであった。しかしそれはまだ先の話である。
ともかく正木家初代の通綱が作った正木家は、里見家と共にあり続けたのである。
現在通綱の名がもっともよく出る事件が話の最期にもあった暗殺事件です。これ以前の通綱の人生は大まかにしかわかりません。よくある話といえばそうなのですがどこか物悲しい気持ちにもなります。
それはそれとして通綱と実尭の死をきっかけに安房上総の情勢は大きく動きます。それは関東全体の激動とも連動していて各地域の主役の交代が始まります。こうした激動が戦国時代の面白さなのでしょね。
さて次の話の主人公ですが、実はこの話で名前が出ています。いったい誰なのか予想してみるのも面白いかもしれませんね。正解は来週にお楽しみに、ということで。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




