藤掛永勝 三蔵戦記 第五話
天下人、豊臣秀吉は死んだ。これを機に豊臣政権は分裂を始め天下分け目の戦いに向けて突き進んでいく。
豊臣家の混乱を永勝はただ眺めていた。そこに何の感傷もない。あるのは亡き主君から託された願いだけである。
慶長3年(一五九八)に秀吉死んでから豊臣政権は分裂しはじめる。一応秀吉は自分が死んだときのための体制を考えていた。これは石田三成をはじめとする五奉行と、徳川家康をはじめとする五大老とでの合議体制である。しかし、この体制も長続きしなかった。
まず秀吉子飼いの家臣たちは三成を始めとする文治派と、加藤清正をはじめとする武断派の対立が始まった。この対立は朝鮮出兵の時から内在していたが秀吉の死によって顕在化しはじめたのである。
さらに豊臣政権の家康が独自の行動をし始めた。本来これは許されることではないのだが、家康は多くの大名の支持を集めていた。それもあり家康は天下を自分の手に収めようと画策しはじめたのである。
この分裂の中で各勢力は自分の味方を増やそうと必死だった。しかし永勝にはそうした勧誘の声はかからなかった。
「私程度は相手にならんという事か」
正直、声がかからないのは永勝にとってありがたかった。仕えるべき主君を忘れたかのように勢力争いをするような人々に加えられたくないと思っている。
「しかし織田家の時と同じだな」
永勝はかつて織田家が分裂した時のことを思い出していた。あの時は秀吉が勝者となった。その秀吉が死んだ後に似たような分裂をするとは皮肉である。はたして今回はどうなるか。それだけは一応、永勝にも気にはなった。
とは言え蚊帳の外の永勝は以前と変わらない日々を過ごす。一方で豊臣政権はさらに混乱していく。
まず家康の独断専行を家康以外の五大老と五奉行とで糾弾した。しかしこれは結局家康側か反家康かを明確にし、豊臣政権の分裂をはっきりとさせた。さらに慶長四年(一五九九)に五大老の前田利家が死去。これにより家康の専横は加速していく。
死んだ前田利家だが、秀吉の親友であったこともあり、文治派と武断派の調整役ともなっていた。しかしその死により両派の対立は激化する。そして加藤清正率いる武断派七将による石田三成襲撃という結果に至ってしまう。なお、この襲撃には忠興も参加していた。襲撃のきっかけは朝鮮出兵時の遺恨である。この遺恨の中に妻と永い間離れ離れにされていた忠興の鬱憤があったのかは定かではない。
さてこの事件の結果、石田三成は失脚し文治派は弱体化する。一方で武断派の主張は認められ、おとがめなしとなった。これにより家康とそれに近い武断派が豊臣家の主流派となる。
この激動の時にあっても永勝は蚊帳の外にいた。正直なところ家康にも文治派にも武断派にも言いたいことはある。しかしとりあえず政権が落ち着きそうな流れになったのは安どした。
「これでひとまずは収まるか」
これで政権内の抗争はひとまず収まると永勝は思った。実際の所、家康に天下人への野心があっても豊臣を排すようなことはできない。それはあくまで豊臣家臣である武断派を敵にするためリスクが大きすぎる。そうなればあくまで豊臣政権の最大の有力者であり続けるしかない。永勝はそう考えた。
「(あとは毛利殿や上杉殿がどうするか、か)」
気になるのは徳川以外の大大名がどうするかである。しかし彼らだって豊臣を敵にはできない。そういうわけで永勝はひとまず安心した。
しかし。この事態は永勝の予想を覆す展開に移っていく。
慶長五年(一六〇〇)六月。家康は会津の上杉家を討伐するため出陣した。もちろんこれは豊臣家の名で出された命令を拒否したからで、出陣する家康にも豊臣家のためという理由がある。
この上杉討伐に永勝は従軍しなかった。そういうわけで丹波に残っていたのだが、ここでとんでもないことが起きた。
家康が会津に向けて出陣してからしばらく後、失脚していた石田三成が挙兵。さらにこの挙兵に五大老の毛利輝元と宇喜多秀家が呼応し大阪城に入城した。
大阪城を主君豊臣秀頼を確保した三成たちは家康弾劾の書状を作り、豊臣の名で家康を討つことを宣言する。これで家康と三成の立場は逆転した。
豊臣公儀の名目を得た三成たちは家康討伐の軍を編成する。これには永勝も含まれた。
「まったく、何というか…… 好き勝手なことばかり言う」
この事態に永勝は呆れ返った。意志を示せない幼君の許で皆好き勝手行動しこの事態である。結局のところ永勝から見れば家康も三成もそこまで大差なく見える。
しかしいくら不満をもっても永勝に出来ることなどない。三成の指示に従い大阪城の高麗橋を守ることとなった。
やる気もなく惰性で仕事をしている永勝。しかも丹波から出てきたばかりで情報もほとんど持っていなかった。しかしそこでとんでもないことを知る。
「忠興殿の奥方が亡くなったと!? 」
「どうやらそのようです」
ともに高麗橋を守る同僚からそんな話を聞いた永勝は、ただ驚くことしかできなかった。
「どうも輝元さまや三成殿は城下に住む諸大名の妻子を人質にしようとしたようです」
「そのようなことを考えていたのか」
「ですが加藤殿や黒田殿の妻子には逃げられ、細川殿の奥方は屋敷に火を放ち自害したようです」
「そうか。そのようなことがあったのか」
そう言った永勝の顔は浮かない。
「(忠興殿の奥方への御執心はまともではなかった。怒り狂って我らに襲い掛かるかもしれんな)」
永勝は朝鮮での忠興の姿を思い出していた。行く手を阻む者の打ち倒し道を赤く染めていく姿を。それを思うと気が重い。
「これからどうなるのだ」
「それはわかりません。まあ我々はせいぜい下知に従う程度の事しかできませんよ」
「そうか」
そんなことをあっけらかんと言う同僚。さして今後のことも気にしていないという雰囲気である。そんな同僚の姿を見てため息をつく永勝であった。
一連の騒動の後、三成は積極的な行動を見せる。まず京にある伏見城を攻撃し圧倒的な兵力で制圧した。その後、兵力を分け近畿の徳川方についた大名の地域に侵攻する。
永勝はこのうちの一部隊に参加することになった。そして攻撃するのは何と細川忠興の田辺城である。そして東に向かった忠興が不在の城を守るのは細川幽斎であった。
この攻撃に永勝が参加することになったのは忠興の領地と接していて近いからという理由だった。永勝は文句も言わず従軍する。従軍する永勝だがどうも士気が低いように感じられる。
田辺城に向かう諸将は口々に言う。
「幽斎殿に弓を引くのか…… 」
「ああ気が乗らん。なぜ師を討たねばならんのだ」
「幽斎殿を失っては歌道に大きな損失じゃ」
「全くその通りですな」
要するに皆幽斎と師弟関係だったり親しかったりして戦いたくないのだ。彼らにしてみれば豊臣政権の命より幽斎の命の方が大事なのである。
永勝は呆れもしたが少し納得した。
「(主の命より友の命、か。まあそもそも主の意志かどうかもわからんのだが)」
結局みな自分と同じで流されるがままここに居るのだ。何か大望や強い意志があるわけでもない。気を吐くのはわずかな者たちで、そんな者の意志に周りは巻き込まれるのだ。
「(そう言えば、茶々様はこの事態をどう思っているのだろう)」
永勝はふとそんなことを思った。実際の所、ここに至るまでで明確な秀頼や母親の茶々の意志は見えてこない。大阪城に引きこもっている。
実際の所、豊臣家を取り仕切る茶々や側近のスタンスは日和見だった。三成が挙兵するまでは豊臣政権の下で家康に実務を担ってほしいと考えていた。しかし三成の挙兵とそれに伴う対立を目の前にしたとき、どっちつかずの態度を茶々たちは示した。茶々たちにとっては家康も三成も信じるには足りない存在である、という事であった。
そんな茶々たちの事情を永勝は知らない。今は一応の仕事を果たすだけである。
慶長五年七月。永勝を含む軍勢は田辺城を包囲した。包囲側の兵力は周辺の地域から抽出された兵力一万五千。対する田辺城の兵力は細川幽斎率いる僅か五百しかいない。勝敗は日の目を見るより明らかだった。
永勝は完全に包囲された田辺城を眺めている。
「降伏してくれればいいのだが」
それが叶わぬ願いだとは理解していた。そもそもすぐに降伏するのならこんな状況にはならないだろう。それなら包囲される前に逃げ出したほうがましだ。
田辺城からは抗戦の強い意志が感じられた。一方で包囲する側の士気は一向に上がらない。それは攻撃が始まっても変わらない。
士気の低い攻城軍の攻撃は全く持ってやる気のないものだった。そんな攻めをだらだら続けているといつの間に二ヶ月近くたっていた。しかし攻城軍に危機感とか焦りとかはない。うわべだけ攻撃してただ時が過ぎるのを願っているようだった。
こうしてまんじりと時を過ごしているととんでもない客が攻城軍の陣にやってきた。
「陛下の勅使だと! 」
客が何者かを聞き永勝は絶句した。やってきたのは後陽成天皇の勅使で、両軍に勅命講和を勧告しに来たのだった。
「なんと…… 」
絶句していた永勝が吐けたのはそんな言葉だった。正直驚くばかりである。
一方でこの出来事を周りの皆は喜んだ。
「さすがにこれで幽斎殿も開城なされるでしょう」
「これで一安心か」
「全く。しかし勅命が出されるとは。やはり師はすさまじいお方だ」
そんなふうに一同は安堵の言葉を交わしあう。それを耳にしながら永勝はため息をつく。そして遠くに見える田辺城を眺めた。今頃は開城の準備をしている頃だろう。ともかく戦いは終わった。
「(これからどうなるか)」
永勝はまだ戦いは続くのだろうと思った。現に豊臣政権は二分された状態にある。分裂したものをもとに戻すのは並大抵のことではない。
しかし、永勝の予測は裏切られる。
慶長五年九月、関ヶ原にて両軍の決戦が起きた。世に言う関ヶ原の戦いである。この戦いで三成方は敗れ家康は大阪城に入城。輝元も大阪城を退去した。
一連の騒動は家康の勝利で幕を閉じる。
決着は田辺城開城の二日後についた。
「(あなたの予想通りですか? 幽斎殿)」
永勝は自領に帰る途中そんなことを考えていた。
戦いが終わればその事後処理がある。当然その中には敗れたものの処分もあった。敗れたものの中には永勝も含まれる。
「藤懸永勝」
「はい」
「貴殿のこの度の行い。まことに不届きである。したがって六千石への減封に処す」
「かしこまりました」
永勝は領地を半分以下に削られた。尤もこの処分に不満を持つような永勝ではない。全ては納得できている。
「これで良くも悪くも収まるか」
処分を受け入れた永勝の心は不思議と晴れやかだった。これからは政権内の内輪もめに悩まされることはないからだと永勝は考えている。
「(これからは徳川殿の天下になるだろう。秀勝さま。豊臣がどうなるかはわかりませんがその最後まで見届けます。それとお市様、長政さま。あなた達のご息女の行く末も可能な限り見届けましょう)」
これからは周りの事情に振り回されることも無い。あとはなき豊臣と茶々の行く末を見届け、自分の領地を栄えさせるだけだ。永勝はそう考えている。
関ヶ原の戦いから時が流れて慶長二十年(一六一五)徳川と豊臣との関係が決裂、大坂の役が起きた。この時、永勝はすでに隠居している。その住処は京にあった。
藤懸の家は息子が継ぎ徳川家康が開いた幕府に仕えている。今回の戦いでも従軍している。
「いよいよ豊臣も滅びるか」
京の隠居所で永勝は一人つぶやいた。京は思いのほか平和で皆のんきそうにしている。
大坂の役は、夏の陣・冬の陣と二度にわたって行われた。豊臣は奮闘するも味方になる大名もおらず徳川の物量に押しつぶされ滅亡する。当主秀頼の母として家中を取り仕切っていた茶々も大阪城と息子と共に滅亡した。
こうして永勝は豊臣の行く末を見届けた。これで秀勝の最期の命は果たせたことになる。一方で茶々の死にざまがどうだったかは永勝の知る由もない。それが永勝には少し悲しかった。
「茶々様はどんな死にざまだったのだろうな」
それを疑問に思っても一介の隠居の知る由もない。
大坂の役の二年後、元和三年(一六一七)藤懸永勝は隠居の地である京で死んだ。享年六一歳で当時としては平均的である。
死に際に永勝は自分の人生を振り返り言った。
「秀勝さまの願いだけは果たせたな」
それだけでも人生の意味はあった、と永勝は考えた。何も残せなくとも一つだけやり遂げたことがある。それは小さいけれど死に際においては確かな救いであった。
藤懸永勝の死に顔は安らかであったという。
これで藤掛永勝の物語は終わりです。正直こんな長さになるとは書き始めの頃は思いもよりませんでした。それも藤掛永勝のある意味おいしい立ち位置によるものでしょう。
さて、次の話ですが大晦日ですので一回休みとさせていただきます。次の掲載は1月7日の予定です。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡ください。ここまで読んでいただきありがとうございました。




