浦上宗景 因果 第三話
三村家との戦いは浦上家が優勢のまま一時終結となった。だがそこで活躍した直家の台頭に頭を悩ませる宗景。
一方周辺諸国や機内では情勢が大きく変わりつつあった。こうした情勢の変化は宗景にも影響を及ぼしていく。
宗景は三村家の攻勢を退け美作や備前での権威を確立した。しかしそれはほとんど宇喜多直家がやったことで不本意な形でもある。
「なんとか直家の力を削がなければ」
三村家との戦いのなかで直家は力を増していった。また周辺の敵対勢力を滅ぼしその所領を吸収している。もはや浦上家の支配下から脱しつつある。
また宗景の頭を悩ませるのは直家のことだけでない。三村家を撃退したことでいよいよ毛利家との直接対決も近づいてきた。
「ともかくまずは毛利家のことだ。直家に頼らずどうにか封じる手段を取ろう」
そう考えた宗景がまず接触したのは九州の大友家であった。大友家は関門海峡を挟んで毛利家と激しく敵対している。
浦上家と大友家はお互い敵の敵というわけだから交渉もスムーズに行った。こうして宗景は毛利家を左右から脅かすことに成功する。だがこれだけでは安心できない。
「確か尼子家が再興しようとしているらしいな。これは使える」
かつて浦上家を脅かした尼子家は永禄九年に(一五六六)に一度滅亡していた。しかし残党が新たな当主を擁立して尼子家の再興を目指している。
彼らが戦力的にどれほどのものか見当はつかない。しかし尼子家領は毛利家の支配下にはいっている。そこをかく乱することは出来るだろう。
こうした毛利家への対抗策はいわば毛利家包囲網と呼ぶべきものだった。
「ともかくこれで毛利家を牽制することは出来るな」
とりあえず毛利家包囲網が出来上がったということで宗景は胸をなでおろした。そして次なる行動の準備に取り掛かる。
「そろそろ播磨にも手を伸ばすか」
宗景が次に狙うのはかつて兄の政宗が治めていた播磨の領地である。政宗は嫡男と共に暗殺されてしまったが三男の誠宗は当時無事だった。誠宗は政宗の家臣たちに擁立されて勢力を再興しつつある。もちろんこれを喜ぶ宗景ではない。
「悪いが消えてもらう。浦上家は私のもとに統一されなければならない」
永禄十年(一五六七)。浦上誠宗は宗景によって暗殺されてしまった。この結果浦上家は宗景のもとに統一される。しかし誠宗が政宗から引き継いだ領地は政宗を暗殺した赤松政秀に奪われてしまった。この当時の宗景は三村家への対応に追われていて播磨まで手が出せなかったからである。しかし現在は違う。毛利家への対応も完成し播磨へ進出できる余力が宗景にはあった。
「赤松家は内紛状態。それに大義名分も私にはある」
この時赤松家は主君の義祐に政秀が反抗しているという状況にある。この義祐だが政宗に擁立された身であった。その縁もあって義祐は宗景に援軍を要請している。つまり公認で播磨に侵攻できるのだ。
「ここからだ。ここから私の、浦上家の覇道が始まるのだ」
そういって意気揚々と出陣する宗景。しかしこの行動が思いもよらぬ事態を引き起こす。
永禄十二年(一五六九)宗景は赤松義祐の救援を名目に播磨に進出した。攻撃目標は兄の政宗を暗殺した赤松政秀である。
「これは主君を助け浦上の領土を取り戻すための戦いだ」
この戦いの大義名分はそういうことである。宗景はこの大義のもとに備前や美作の諸勢力を動員し播磨に攻め込んだ。なおこの時宇喜多直家は招集していない。
「直家にこれ以上好き勝手やれせるわけにはいかん」
今回の戦いはあくまで自分の力でやり遂げるつもりの宗景である。また気になることもあった。
「(このところの直家は畿内に人をやっている。浦上家の為に情勢を探っているというが本心はどうだかわからん)」
実際のところ直家は得た情報を宗景に渡している。そのおかげで宗景は畿内の情勢にも多少明るくなった。しかしだからといって油断できないのが宇喜多直家という男である。
「(何か別の魂胆があるに決まっている)」
宗景はそうにらんでいた。もしやすると敵と内通しているかもしれない。
「父上は味方に裏切られて死んだ。私はそうはいかんぞ」
直家には三村家への備えとして残るようにといってある。これに直家は静かに従うのであった。
一方攻め込まれる側の赤松政秀は困った。義祐と戦いながら宗景の攻撃を受けるというのはまずい。地理的には挟み撃ちに合う形になるからだ。
「こうなれば義昭様に助力を乞うほかあるまい」
義昭というのは先年室町幕府の将軍となった足利義昭である。義昭は尾張(現愛知県)などを領有する織田信長の後援を受けて将軍に就任した。信長は強力な軍事力を保持していて畿内で最も強力な勢力である。
政秀は義昭の将軍就任から誼を通じ懇意にしていた。すべては対義祐のための工作である。今回の危機はその成果が試される場でもあった。
「ともかく義昭様に救援を頼もう」
そういって政秀は義昭のもとに使者を送る。
こうして迎撃態勢を何とか整える赤松政秀。しかし厳しい情勢なのは変わらない。むろんそれは宗景も理解している。
「政秀が何かする前に攻め落とすのだ」
宗景は猛然とした勢いで播磨に侵攻していく。その勢いはすさまじく次々に政秀の勢力を駆逐していった。義祐からも攻撃されている政秀は宗景の攻勢にこうすることもできず追い詰められていく。
この時点で宗景は勝利を確信していた。
「このままいけば我らの勝利だ。多少の問題が起ころうとも播磨への侵攻は続けるぞ」
ともかく一気に勝負を決めようと考える宗景。そんな宗景にうれしくない方向が届く。
「織田信長殿の軍勢が赤松義祐様の領地に攻め込んだ模様です」
「なんだと! なんということだ。あと少しというところで」
ここにきて信長から派遣された軍勢が義祐を攻撃し始めたというのだ。足利義明は政秀からもらった援軍要請を受け、信長に出陣を依頼したようである。信長も義昭の庇護者である立場や、播磨への影響力の増加を狙って義昭の要請を受けたのであった。
この報告を聞いて宗景は悩む。
「(あと少しで政秀は討ち取れる。しかしそのあとで織田方と戦う余力はあるか。しかし政秀を打ち取ってしまえば織田方の目的も消えるから速やかに引くかもしれん)」
宗景は悩みに悩んだ。ここまで悩むのは織田家の軍事力をある程度把握していたからだ。何より足利義昭を推戴しているという点で強力な大義を持っているわけである。
「どうするべきか」
悩む宗景。しかし次に入った報告でその悩みは吹き飛んだ。
「大変です! 宇喜多直家殿、謀反! 」
それを聞いて宗景はすぐに叫ぶ。
「急ぎ備前に引き返す! 」
宇喜多直家の謀反。直家は織田信長と通じ宗景に反旗を翻したのである。ある意味宗景の懸念が当たったと言えた。
急ぎ備前に引き返す宗景。だがすぐに直家を討伐するというわけにはいかなかった。
「播磨の情勢が気になるな」
播磨では赤松義祐が信長旗下の勢力に攻撃されている。さらにこの情勢の変化を受けて赤松政秀は義祐家臣の小寺政識の家臣黒田孝高がこもる姫路城の攻撃に移った。これで義祐も孝高も敗れるようならいよいよ宗景も危うい。
「慎重に動かなければならん。直家のことだ。何か企んでいるかもしれん」
そう警戒する宗景。しかし直家も活発な動きを見せなかった。
「おかしい。どういうことだ」
疑問に思う宗景。実は直家にとって予想外のことがあった。
「思った以上に織田殿の動きが鈍いな」
居城で唸る直家。実際直家の謀反は織田家の播磨や備前への本格的な介入を期待してのものだった。ところが信長は支配下の勢力に義祐を攻撃させる程度でそれ以上の介入はしていない。
「私の見込み違いか? それとも別の理由か」
実際この時の織田家は確かに畿内で最強の軍事力を持つ勢力ではある。しかしその支配は不安定な面もあり西方への大規模な行動はとれないでいた。要は直家の見込み違いである。
とはいえ宗景の後方を脅かすことには成功している。そういうわけでまずは勢力の拡大ということで動きの取れない毛利家の領地に小規模な攻撃を仕掛けていた。しかしこれも宗景と敵対している状況ではうまくいかない。
こうして宗景と直家の双方が身動きの取れない状況に陥った。そして不毛なにらみ合いを続けることになる。
そんなにらみ合いが二か月ほど続いた。すると宗景のもとにうれしい知らせが届く。
「黒田孝高殿が赤松政秀の軍勢を追い払ったそうです」
「なんと。それはよい報せだ」
「それと織田方も退いていったそうです」
「なんとこれは天啓だ」
この報告を聞いた宗景は即座に行動を移す。宗景は備前に直家への備えの兵を残すと赤松政秀の領地に攻め込んだ。敗戦の傷も残るうえに頼みの綱の織田家も撤退してしまった以上政秀に抵抗する力はない。政秀は宗景に降伏し居城の龍野城を明け渡した。
「これでとりあえずの目的は達成した」
宗景は降伏の条件として政秀の領地を一部奪うと備前に引き返す。残りは直家の始末である。
「一体どうしてくれようか」
そんなことを考える宗景だがまたも驚くべき報せが届いた。
「宇喜多直家殿から降伏の使者が」
「なんだと?! 」
直家は自分が孤立したことを把握し降伏してきたのである。これに対し宗景は悩んだ。
「(この降伏は本心からのものではあるまい。しかし宇喜多家の戦力と直家の知略は我らの助けになる。それにここで許さなければ直家は抵抗を続けよう。今後のことを考えると消耗は避けたい。ならば…… )」
結局宗景は直家を許した。赤松政秀は倒したが織田家との対立は継続中。それに毛利家とも対立している。そんなときに無駄に戦力を消耗するわけにはいかなかった。
「直家に許すと伝えておけ」
正直若干のためらいがないわけではない。ここで直家を始末しておかなければ何か災いが起きるかも。そういう意識はあった。だが
「その時はその時で対応すればいい」
と、宗景は気楽に考えてしまった。これが宗景の命取りになる。
直家は宗景から赦免されたことを知るとその礼にやってきた。
「今後このようなことは致しません」
宗景はこの言葉をかけらも信じていなかったがそれはおくびに出さず言った。
「これからは私を支えてくれ。お前の祖父のように」
この宗景の言葉に直家は何も答えなかった。
さて直家が降伏し信長の脅威も去った元亀元年(一五七〇)。宗景はいよいよ毛利との本格的な戦闘に移る。
まず先年降伏した赤松政秀を暗殺し、後顧の憂いを完全に取り除くとまずは備中に侵攻した。この侵攻は目立った効果を上げなかったが宗景は活発な軍事行動を続ける。宗景は毛利家と敵対する四国の三好家も毛利家包囲網に巻き込んだ。そして元亀二年(一五七一)備前で唯一毛利家方に属する地域である児島に侵攻する。この軍事行動は三好家との共同のもので児島を制圧することに成功した。
「これでもう備前で私に逆らうものはいない」
勢いに乗る宗景は備前、備中の境目付近の毛利方に攻勢を仕掛けた。さらに尼子家への支援も続けて行い毛利家を苦しめる。
しかし黙ってやられる毛利家ではなかった。毛利家は大友家へと対抗しつつ動員可能な戦力を駆使して宗景や三好家の攻勢を抑える。更に時には打って出て毛利家包囲網に痛手を与えることにも成功した。
「流石毛利家ということか。当主が死んだというのによくやるものよ」
毛利家を中国随一の大名に押し上げた毛利元就は元亀二年の六月に亡くなっていた。家督は孫の輝元に受け継がれ一丸となってこの苦難に対応している。その結束力には宗景も舌を巻く。
「大したものだ。わが家もかくありたいものだな」
苦々しく思いつつも感心する宗景であった。
こうして毛利家と毛利包囲網は一進一退の攻防を繰り広げた。そんな中で元亀三年(一五七三)に将軍足利義昭が毛利家と浦上家をはじめとする毛利家包囲網との和睦を図る。これに宗景は迷った。
「これ以上の戦いはいささか苦しい。しかしそれは敵も同じ。ならばどうするべきか」
そんな風に迷う宗景。しかし大友家が九州での戦いに集中するために毛利家への攻撃を控え始めた。すると情勢は毛利家有利に傾く。そして当然宗景は困る。
「大友家が包囲網から離脱するのはいかんぞ」
実際ここに至るまでの浦上家の攻勢を支えていたのは反対側で戦っていた大友家である。それがなくなれば毛利家は東方に集中できる。もちろん当座の目標は備前の浦上家であろう。事実毛利輝元は備前に戦力を集中させ自ら出陣する構えだ。
「もはや和睦するほかあるまい」
この危機に宗景は毛利家との和睦を選んだ。幸い宗景は近年信長と誼を通じている。そういうこともあり義昭とも多少のつながりはあった。それならばそこまで不利な条件は出ないだろうという想定もある。
「とりあえず今回はここまでだ」
結局宗景の想定通り浦上家に不利な条件は出なかった。毛利家も条件を飲み和睦は成立する。この和睦の成立に宗景は胸をなでおろすのであった。
だがあくまでこれが一時的なものだというのは宗景含む誰もが理解している。そして毛利家との戦いが再開するとき宗景に終わりが近づくのであった。
今回の話は宗景の絶頂期の頃のものです。播磨の浦上領を奪還し直家を屈服させ毛利家に対抗する。立派な戦国大名の姿です。しかし次の話で宗景の人生は大きく変わります。そして結末に至るわけですがそれは次回の話にということで。お楽しみにしていてください。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




