松前慶広 松前藩興業記~蠣崎氏の野望~ 後編
天下人の豊臣秀吉に認められついに大名になった蠣崎家。しかし情勢は不安定で蠣崎家の立場にも不安定なところがあった。しかし慶広は新たな手段を考えていた。そしてそれが蠣崎家の運命を決めることになる。
慶広は秀吉に取り入ることで蠣崎家の悲願を成し遂げた。あとは蠣崎家を栄えさせることが慶広の勤めである。しかし慶広にはある懸念があった。
「お世継ぎの拾さまはあまりにも幼い」
懸念しているのは秀吉の後継者、拾丸のことである。拾丸は文禄二年に生まれた。この時秀吉は五七歳である。ちなみに季広も五七歳の時に子供を作っていた。
「父上ではあるまいし」
思わずそうつぶやいてしまった慶広。ただ季広と秀吉には大きな違いがある。季広はすさまじい子沢山であるが秀吉には子が拾丸しかいない。
さらに秀吉には一門も少なかった。この状態で秀吉が死ねばどうなるか。幼い拾丸を支える豊臣一門はいない。そうなれば豊臣家に従う大名たちで主導権争いが始まるのは目に見えていた。
「さすれば誰か我々を庇護してくれそうな方を見つけなければならんな」
正直弱小といっても差し支えないほど蠣崎家は小さい勢力である。だからこそだれか大大名と誼を通じておきたかった。そこで慶広が目を付けたのが徳川家康である。
徳川家康は北条家滅亡ののちに関東に入封してきた。その勢力は豊臣政権内でも抜きんでている。そのため豊臣政権内でも家康を頼る者は多かった。
実は慶広は文禄二年の時点で家康と接触していた。それは秀吉と謁見した後のことである。この時家康が名護屋に在陣していた。慶広としては大大名である家康とつながりを持っていればいろいろと都合がいいと判断したのである。
慶広は秀吉との謁見ののちに家康と謁見した。家康は小太りの一見さえない男である。
「(これが徳川家康か…… )」
確かに慶広の前にいる男はさえない風体をしている。しかし慶広は目の前の男から巨大な岩のような圧迫感を感じていた。
この時ばかりは慶広に余裕がなかった。そんな慶広に家康はゆっくり声をかける。
「遠路はるばるご苦労であったな。面を上げよ」
その声色は驚くほど穏やかであった。慶広が恐る恐る面を上げるとさっきまでの威圧感はどこかに消えている。慶広は思わず呆然としてしまう。そんな慶広に家康は言った。
「こののちも殿下はいろいろと苦労成されよう。その時はこの家康、先陣を切って殿下を助ける所存だ。貴殿にもいろいろと期待しているぞ」
「ははっ」
慶広は再び平伏した。いつもならいろいろと有利になるような言葉を吐くのだが今回はそうはいかない。完全に家康に飲まれている。しかしこうも考えた。
「(この御仁…… 相当なお方だ。もしやすると次の天下はこの方かもしれん)」
そう考える慶広。すると家康は慶広が考えていることを見透かすようにった。
「この家康天下を静謐に保つためにはいかなることもするつもりだ。たとえ何者が立ちはだかろうともそれは成す」
そういう家康の眼にはある炎がともっていた。慶広はその炎を知っている。
「(父上と同じ。なるほど。このお方も野心を抱えているのだな)」
それを理解したとたん慶広の緊張は解けた。そしてこう言った。
「これからいろいろなことが起きるでしょうが、その時はよろしくお願いいたします」
「ああ。案ずるな」
家康は鷹揚に言う。それを聞いて平伏した慶広はやっと笑うことができた。
名護屋での謁見から慶広と家康は友好的な関係を築いていった。慶長元年(一五九六)に慶広は長男の盛広を連れて家康と謁見している。なおこの年に拾丸は三歳で元服し名を秀頼とした。
「自分が生きているうちに体裁だけ整えようということか」
慶広は秀吉の焦りを感じた。実際豊臣家の内部では秀吉の子飼いの家臣同士が対立している。ここで秀吉が死ねばどうなるか。慶広はそんなことを考えていた。
実際その二年後の慶長三年(一五九八)に秀吉は死んだ。すると豊臣政権において家康の立場はますます大きくなる。すると翌四年(一五九九)に慶広は次男の忠広を連れて上洛した。目的は家康への拝謁である。
「よく来たな蠣崎殿」
家康は穏やかに慶広を迎え入れた。それに対して慶広は恭しく言う。
「ご多忙の中こうして拝謁の時間をいただき誠にありがとうございます」
「そう固くなるな。そちらはご子息か」
「はい。次男の忠広にございます。忠広。家康さまに挨拶せぬか」
忠広は慶広に促されて挨拶する。
「は、はい。蠣崎忠広と申します」
緊張しきった様子で忠広はあいさつした。もっとも忠広はまだ十代の若者である。家康を前にして緊張しない方がおかしい。
慶広は緊張しきりの息子を置いておくと前に進み出た。
「この度は家康さまに献上したいものがございます」
そういって慶広は一冊の本を差し出した。家康は手に取って表紙を見る。そして驚いた。
「これは…… 蝦夷地の地図か」
「いかにもその通りでございます」
慶広が差し出したのは蝦夷の地図であった。家康は差し出された地図を興味深そうに眺める。
「これはよくできているな」
「はい。蝦夷の地に詳しい者共に書かせました」
要するにアイヌの人々に協力させて作ったものである。
さて地図を差し出すということは大きな意味がある。自分の土地の地形を何もかも相手にさらしだすのだ。当然攻撃されたら大変なことになる。つまり地図を差し出すということは敵ではない、それどころか配下になるというのと同然の事であった。
家康はこの慶広の土産をとても喜んだ。そしてこう告げる。
「これからも蝦夷のことは貴殿に任せる。今後のことは安心するがよい」
「ははっ。それと家康さま。一つよろしいですか」
「なんだ? 」
「実は私は名字を改めようと考えています」
「ほう。何とする」
「私の治める土地は松前といます。ゆえに名字を松前と変えようと」
「ふむ。松前慶広か。良い名ではないか。そうするがよい」
「ありがたき幸せ…… 」
こうして慶広は名字を松前に改めるのであった。
慶広が名字を変えた翌年の慶長五年(一六〇〇)に家康は石田三成ら敵対する勢力を破り自らの覇権を確立する。
家康が着々と天下人になっていくのを見て慶広はほくそ笑んだ。
「私の選択は間違っていなかった。これで家康さまが天下人になればわが松前家も盤石よ」
慶広の期待通り家康は天下人への道を着々と歩んでいく。そして慶長八年(一六〇三)に征夷大将軍に任じられる。この時慶広の嫡男の盛広は江戸にいた。そして将軍宣下を受ける家康に従いともに上洛した。
一方の慶広はさっそく江戸に向かう。そして今日より戻った家康を迎えた。
「この度は儀。誠におめでとうございます」
恭しく言う慶広に家康は苦笑した。
「お主は本当に目ざといな」
「はい。しかしこれで生き延びてきたのです」
「そうだろう。しかし己の目的のために迷いなく動けるのは間違いなく英傑だ」
家康はそういって慶広を褒めるのであった。
その後家康は江戸に幕府を開いた。そして慶長九年(一六〇四)に慶広宛ての黒印状が発給される。その内容に慶広は感激した。
「なんと。これ程までに我々を評価してくださるのか」
黒印状の内容は蝦夷における松前家の支配を認めたものである。この点は秀吉の朱印状とはさほど変わらない。もっともこれが慶広の一番求めていたことであるが。
一方でアイヌと交易等について厳しい規制を加えていた。実質松前氏による交易の独占を認めるものであった。この点が秀吉の朱印状と違う点である。
またこの黒印状は松前家の蝦夷支配を認めるだけではなく大名としての立場も完全に保証するものでもあった。秀吉の時代では実質独立していたもの名目はいささか弱い。しかし今回の書状で完全に独立することができた。要するに秀吉が認めた権利を強化し保証している。これにより松前家の支配が確立するのであった。
「ついにここまで来たか…… 」
慶広は北の大地でこの事実を喜んだ。ついに悲願の達成というわけである。
「家康さまについていこうと決めたあの時の判断は間違いではなかった」
実際松前家の体制はアイヌとの交易を基礎としたかなり特殊なものである。それをこうも簡単に認めてもらえるとは慶広も思っていなかった。
「これからは江戸に足を向けて眠れぬな」
慶広はしみじみそう思った。だがこれで気を抜く松前慶広ではない。
「これよりはこの立場をより確固たるものにしていこう。そのためにはいろいろとやることがある」
海を隔てた本州を慶広はにらんだ。まだ慶広の戦いは終わらない。
慶長十三年(一六〇八)慶広を悲しませる出来事が起きた。嫡男の盛広が三八歳の若さで亡くなったのである。
「なんということだ…… 私も父上も長く生きたというのに」
慶広の父の季広は八八歳まで生きた。慶広も今は六十歳である。そろそろ家督を譲ろうかという時に起きた悲劇であった。
「こうなれば私が家を守るしかない」
次男の忠広をはじめほかの息子たちは別に家を建てたり他家に仕えたりしている。盛広には男子がいたがまだ十一歳であった。この創業して間もない時期を任せるにはかなり幼い。
慶広は盛広の嫡子を後継者にして公広と名乗らせた。そして慶広自ら家中の動揺を鎮める。
「武家は長男が継ぐのが慣例だ。その長男に子がいるのであればその子に継がせるのが常道というもの」
尤も慶広は季広の三男である。一応兄がそろって不慮の死を遂げたという事情があるがかなり都合のいい物言いであった。しかしそれで家が落ち着くのならそれでいいと松前藩の皆は考えたが。
さて翌年の慶長十四年(一六〇九)にある珍客がやってきた。やってきたのは公家の花山院忠長である。何故公家がはるか遠い蝦夷の地までやってきたのか。もちろん不祥事を起こしたからである。
この頃の朝廷は風紀の乱れが著しかった。今回流されてきた忠長も後陽成天皇の寵愛を受ける女官と密通していた。さらにこの時は猪熊教利他多くの公家が乱行を行い流罪となっている。
ともかく流罪された公家を受け入れることになった慶広であるが、目ざといこの男がこれに目を付けないはずもなかった。
「忠長さまは貴人だ。失礼のないように遇するのだ」
慶広は忠長を丁重に扱った。この思いもよらぬ扱いに忠長は大喜びする。
「蝦夷とはこの世の果てかとも思ったがそんなことは無い。何と素晴らしい場所だ」
忠長は蝦夷にいる間は何不自由なく生活することができた。また幕府にも手紙のやり取りは許されたのでこの厚遇を京の家族やほかの公家たちに伝える。すると公家の間で慶広の名も上がった。またこれをきっかけに松前家と京の公家と間で交流が生じ、京の文化が松前にもたらされるのであった。これが慶広の目論見の一つである。
「大名として独り立ちした以上はそれなりの文化を見せつける必要がある」
そしてほかにも慶広の狙いはあった。それは格の上昇である。官位は得ているがそれだけでは慶広は飽き足らなかった。慶広は今回できた公家との縁を利用し、公広の妻に公家の娘を迎えることに成功する。これでまた一つ松前家に有用な縁を作ることができた。
「もう少し公広が大きくなるまでは油断できんからな」
慶広はまだまだやる気である。
その後も慶広は徳川家に尽くし続けた。慶広は慶長十五年(一六一〇)と慶長十七年(一六一二)の二回にわたり家康にオットセイを献上している。
「オットセイは妙薬の材料にも使われます。どうぞお使いください」
「そうかそうか。良い心がけだ」
家康は医学に通じ自分で薬の調合なども行っている。そんな家康からしてみればオットセイは素晴らしい贈り物であった。もっとも家康が喜んだ理由はそれだけではない。
「これでますます精がつくな」
家康も子沢山の男であった。つまりそういうことである。
こうして慶広が家康に尽くすのも松前家のためである。そのためなら何でもするつもりの慶広であった。
慶長十九年(一六一四)に慶広は四男の由広を誅殺した。これには一応の理由がある。
「由広は豊臣家と通じて我らに害をなそうとした」
というものだ。
当時一大名の地位に甘んじていた豊臣家であったが、徳川家としては無視できる存在ではなかった。そして目障りな豊臣家を徳川家は武力での排除に動く。由広が誅殺されたのはそんな時期であった。
「松前の家に災いを及ぼしかねないものはすべて排除する。それが我々の生きる道だ」
慶広は翌年に起きた大坂の陣にも参陣している。わざわざ大阪まで向かったのだ。そして徳川方として豊臣家の滅亡を見届けている。
豊臣家が滅んだことで徳川家の天下は盤石なものとなった。松前家も徳川幕府の一大名として新たに歩んでいくことになる。
元和二年(一六一六)に慶広は隠居を決めた。
「もう私のできることは無いだろう。あとは公広に任す」
慶広は剃髪して海翁と名乗った。あとは孫が松前家を発展させるのを眺めて余生を送ろう。そう考えていた。
しかし同年中の十月。松前慶広は死んだ。享年六九歳である。家督を譲ったとたんに慶広は死んだ。まるで燃え尽きたかのようである。
松前藩は知行を持たない特殊な藩として江戸時代を生き続けた。しかしアイヌとの間での抗争は何度も起き、外国船が現れるようになってからは幕府に領地を取り上げられたりした。それでも松前家は蝦夷の地に復帰し明治維新を迎える。蠣崎家の悲願の果てにあったのは思いもよらぬ激動であった。それは慶広には思いもよらぬことであったのだろう。墓の下の慶広には関係のない話であるが。
蠣崎改め松前慶広という人物は非常にマメな人物です。自分の庇護者に対し様々な贈り物をして戦があればわざわざ海を渡り参戦する。それもこれも自分の家を守るためだと思うと涙ぐましいものがあります。
何故蠣崎家がそれほどまで独立を望んだのかはわかりません。しかしその熱意は本当だったのでしょう。ある意味プライドのない生き方にも見えますがそれで目的が達成できるのならばそれでいい。そういう考え方も人生には必要なのかもしれません。
さて次なる話の主人公はある意味戦国時代の特徴的な立場にいた人物です。それもその特殊な立場の先駆け的な人物でもあります。この人物の人生はたどってみるとなかなか興味深いものがありました。お楽しみにしていてください。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では




