松前慶広 松前藩興業記~蠣崎氏の野望~ 前編
戦国時代の北海道。アイヌの人々が暮らすこの地の南端に本土よりわたってきた武将たちが暮らしていた。その中で蠣崎家は大名としての独立を考えていた。これはそんな蠣崎家を大名として独立させた男の物語。
蠣崎氏は蝦夷(現北海道)の南西部を治める一族である。彼らは元々本土の侍であったが蝦夷に移住して定着した。そしてほかの十二の家と共に蝦夷の南西部を支配してきた。しかし原住民のアイヌとの間に起きた抗争で蠣崎氏を除く十一の家は衰退する。そしてアイヌとの戦いで活躍した蠣崎氏の勢力が巨大化した。これが蠣崎家の始まりである。
蠣崎家の当代は蠣崎季広である。彼には、いや蠣崎氏にはある野望があった。
「いずれは主家から独立し、蝦夷を手中に収めたい」
実は蠣崎家は出羽北部(現秋田県)を治める安東家の家臣という立場にあった。海を隔てた間柄であるが安東家が戦をすればそれ相応の負担を求められ、安東家の為に戦わされる。蠣崎家は初代の頃からこれが不満であった。
「主家の戦いに我らの金を使いたくない。それにアイヌの連中との戦で金がかかるのだ」
この頃はアイヌとの戦いも沈静化している。とはいえアイヌの人々の中で蠣崎家に不満があるのも事実であった。それはいつ表面化してもおかしくない。
蠣崎家は蝦夷の統治に集中して自分たちの権益を守りたい。それを実現するには安東家からの独立は必須であった。
「独立のためなら私は何でもするぞ」
そう意気込む季広であった。
さて蝦夷ではオットセイが取れる。またオットセイはハーレムを作る種族で、オットセイの睾丸や陰茎は精力剤として使われた。
季広がオットセイを使った精力剤を愛飲していたかは分からない。しかし蠣崎季広という人物は非常に子沢山であった。何と十三男十三女というすさまじい数に及ぶ。
ともかく季広はこの多くの娘を東北の様々な勢力に嫁がせた。すべては蠣崎家の独立のためである。一方で息子たちは多く手元に残した。これの理由は分からない。
このたくさんの子の中で三男の天才丸はその名の通りずば抜けて利発であった。幼いころから知恵が周り 勉学では二人の兄を上回るほどである。季広は天才丸に期待した。
「天才丸が大きくなれば蠣崎の家を背負って立つ存在になるだろう」
しかし天才丸は三男である。家督継承はいささか難しい立場にあった。
ところがある日、天才丸の兄二人が相次いで急死する。しかも天才丸の姉による毒殺であった。これは季広が家督を継承する際に起こった争いに関係していると言われている。しかし詳しいことは分からずじまいで終わった。
ともかくこれで天才丸は季広の後継者としての道を歩むことになる。
天才丸は元服して名を慶広と改めた。そして天正十年(一五八二)に家督を譲られ蠣崎家の当主となった。
「儂ももう若くない。あとはお主に託そう」
そういう季広はもう七五歳になっていた。そもそも慶広が生まれたときすでに四一歳である。本当に精力に満ち溢れた人物といえた。しかも季広は近年中に安東家が行った戦にも参戦している。
さて季広のことはともかく家を継いだ慶広も安東家に尽くした。もっともこれは安東家のためではない。
「まずは安東家での発言力を高めること。これは父祖の代からの方針だ」
蠣崎家が安東家の為に戦うのは家中での発言力の強化のためである。そして発言力を強化し蝦夷での権益を徐々に固めていった。しかし慶広これに懸念も抱いている。
「今までの方針が悪いわけではない。しかしこのままではいつまでたっても蠣崎家は独立できない。さて、どうするべきか…… 」
慶広はこう考えるがさりとて策があるわけではない。例えば安東家が弱まれば隙をついて独立できるかもしれない。しかしそれを期待するには出羽北部での安東家は抜きんでた位置にある。
その一方でこうも考える。
「しかし世は徐々に変わりつつあるとも聞くな。もしやすると我らの悲願をなす好機が来るかもしれん」
実際慶広が家督を継いだ天正十年は天下統一を目指す織田信長が本能寺で横死した年である。信長は天下統一を目指して東北の諸大名にも圧力をかけていた。もちろん安東家もその一つで、対応に苦慮していたと慶広は聞き及んでいる。
「もし日本を統一するものが出てくれば、それに先んじて従うことで安東家を出し抜けるかもしれん」
慶広はそう期待した。しかし先にも述べた通り信長は横死ししている。そしてその後継をめぐって騒動が起きているとも聞いた。
「今は安東家の傘のもとで力を蓄える時期か。まあ今まで通りということでもあるが」
結局慶広は現状維持を選んだ。一方で安東家を通じて畿内を中心とした本土の情報も集める。安東家の為に情報を集めているのだと理由をつければ案外簡単に手配してくれた。
「恐らく信長殿に続くものが出てくるはずだ。そのものとつながりを持てばきっと我らの悲願もなせるはず」
慶広はそう考えじっと機会を待った。事実慶広の事態は予想通りの展開になる。
織田家家臣の羽柴秀吉はほかの重臣たちや信長の息子との抗争を経て、信長の後継者としての立場を明確にしていく。そして朝廷から関白に任じられ天下を治める名目も整えた。
そして豊臣の姓を受けた秀吉は日本の東西の勢力に自分に従うように要求する。そしてそれを断った九州の雄、島津家を武力で制圧した。次なる目標は東国である。
「ついに機が来たか」
慶広は動揺する安東家の中で一人笑うのであった。
天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉は関東の雄、北条家を滅ぼした。さらに東北の諸将に服属を迫る。
この秀吉の要求に東北の諸将は大きく動揺した。しかし北条家を滅ぼした豊臣家の力を見て多く者が秀吉に帰順する。
こうした動きを慶広は好機ととらえた。
「これはいい機会だ。この機を逃してはならぬ」
慶広はまず安東家に対してこう言った。
「今回の仕置について蝦夷のことも細かに調べられるかもしれません。我らは蝦夷の地理に詳しく説明もできます。今奥羽に太閤殿下の家臣の方々が参っています。私は先んじて彼らに蝦夷の説明等をして安東家の印象を良くしてまいります」
当時の安東家の当主の実季はまだ十代の少年である。家臣たちに支えられ家を運営しているという状況であった。慶広はこの実季を良く助けている。そういうわけで信頼も絶大であった。
「わかった。まずは慶広に任せる」
慶広は実季の内意を受けると東北に出張していた豊臣家の家臣や有力者に接触していった。主な人物は前田利家である。
「安東家は太閤殿下の差配をすべて受け入れるつもりです。もちろん殿下のなすことに不満などありません」
「そうか。それはいいことだな」
「ゆえにわれらの領地は今まで通りということに…… 」
まず慶広は安東家の立場の補償を求めた。これについて利家は承諾する。
「何も心配することは無い。殿下は従うものには寛容だ。安東家が素直に従うのなら理不尽はせんだろう」
「それはありがとうございます」
慶広は恭しく礼を言う。そしてこう切り出した。
「時に前田様。我ら蠣崎家は代々蝦夷の支配を任されてきました。ゆえに蝦夷の地理にも詳しく珍しい品々などもそろえております」
「ほう、それで? 」
「よろしければ太閤殿下と直にお目通りをいただきいろいろと面白げな話や品などをささげたいと…… 」
そこまで言った時点で利家の眼が鋭く光る。そしてこういった。
「それは安東家の家臣としてではなく、ということか」
利家は慶広の魂胆を見抜いていた。しかしこれでひるむ慶広ではない。
「私はただ殿下のお役に立ちたいと、お喜びいただきたいと思っているだけです」
慶広は顔色を変えず言った。そんな姿を気に入ったのか利家は表情を和らげる。
「わかった。貴殿が殿下にお目通りできるよう手配しよう」
「ありがたき幸せ」
慶広は恭しく平伏した。伏せた顔は笑っている。それは自分の賭けが成功したことを確信した笑みであった。
この後慶広は実季に帯同するという形で上洛した。そして実季の謁見が終わったのちに秀吉と謁見する。
「この度はお目通りさせていただきありがとうございます」
「お主が蠣崎慶広か」
「はい。まずは蝦夷の地より持参いたした土産をお納めいたします」
そういうと慶広は持参した土産を秀吉に渡した。さらに蝦夷の現状などを詳細に説明する。そこでは蠣崎家がいかに蝦夷に定着したかから始まり蝦夷での蠣崎家の存在意義を事細かに説明した。
秀吉は一通り話を聞いたうえで言った。
「それで、お主は何が欲しい」
慶広は顔色一つ変ええずに言う。
「格にございます」
格、つまりは大名としての格が欲しいということであった。それがあれば安東家から独立した存在だと周りから認識される。それが蠣崎家の悲願である。
慶広の物言いに秀吉は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「しかし格を与えればお主の主君はどう思うかな? 」
「それについては蝦夷のことは我らに任せるという言質をいただいております」
この時点で慶広は実季から独立の内諾を得ていた。安東家としては蝦夷のことは蠣崎家に任せきりであり特に問題視していない。またこれまでの慶広の功を認めたということでもあった。
慶広の物言いに秀吉は笑った。
「なるほど。すべての支度は整えていたということか」
「はい」
「ならば官位を授けておこう。所領も蠣崎家の物として認める。これでよいな」
「はい。ありがたき幸せ」
そういって慶広は恭しく礼をした。こうして蠣崎家は安東家からの独立を果たすのである。
こうして蠣崎家は慶広の代で独立した大名となった。遂に蠣崎家の悲願がなったというわけである。しかし慶広はまだ満足していなかった。
「秀吉様にアイヌとの交易の独占を認めてもらわなければ。それができて真に蠣崎の悲願は成し遂げられる」
蠣崎家の領地は田畑が少なく気候も寒冷である。またアイヌとの交易で財政を成り立たせているものの、アイヌとの関係は流動的であった。もしアイヌと関係が悪化すれば蠣崎家の財政は悪化する。その点についても対策が必要であった。
「ともかく今は秀吉様の覚えを良くするべきか」
要するに安東家に代わり豊臣家に尽くそうということである。
天正十九年(一五九一)秀吉の処分に不満を持つ九戸政実が蜂起した。政実は南部地方の武将である。これに対し東北の諸将は政実の制圧を求められた。
慶広はこれを好機と受け取った。
「ここで活躍すれば我らの心象もよくなろう」
そう意気込んだ慶広はアイヌを懐柔し、蠣崎家の軍勢に加えて出陣した。この混成軍はなかなかの活躍をしたという。
その後文禄二年(一五九三)に秀吉は朝鮮への出兵を行い、自らは肥前(現長崎県)の名護屋に着陣した。慶広はこの話を聞くと蝦夷から兵を率いてはるばる肥前に向かう。
この慶広の行動を秀吉は喜んだ。
「はるばる蝦夷よりやってくるとは。大義である。海を隔てた遠き地よりの参陣、これは此度の戦の成功を知らせる吉報じゃ」
この時の秀吉の喜びようは大層なものだったという。そして大喜びの秀吉は慶広に言った。
「この度の苦労に報い何か褒美を授けよう。なんでも望みの物を言うがいい」
そういわれて平伏する慶広はほくそ笑んだ。そして表情を引き締めると顔をあげる。
「ありがたき幸せにございます。ならば一つお願いがございます」
「ほう。なんだ」
「我らは土地が少なくアイヌとの交易で暮らしております。そこで殿下にアイヌとの交易を公認していただけないかと…… 」
これを聞いて秀吉は拍子抜けした。
「なんだ。そんなものでいいのか」
「はい。それだけで構いませぬ」
「わかった。ならば朱印状をしたためやろう」
そういうと秀吉は祐筆に朱印状を書かせた。そして慶広に渡す。
「これでよいのか」
「はい。ありがたき幸せにございます」
そういうと慶広は深く平伏した。伏せた顔は笑いをかみ殺すのに精いっぱいである。
秀吉は慶広に朱印状を渡すとこういった。
「此度はお主たちに戦に出てもらうつもりはない。蝦夷よりの参陣、ご苦労であった」
こういわれたがもとより慶広は渡海するつもりなどない。あくまで秀吉の心象を良くするためのアピールである。そしてそれは功を奏し朱印状という形で結実した。
「これで蠣崎の悲願は成し遂げられる」
慶広は蝦夷の居城に戻ると家臣に命じた。
「アイヌの者どもを集めるのだ。それと朱印状の内容を制札に書きアイヌの土地に建ててこい」
この命からしばらくたってアイヌの人々が慶広のもとに集まった。慶広は朱印状の内容をアイヌ語に翻訳して読み聞かせる。
朱印状の内容は蠣崎家がアイヌとの交易を独占し、それに関する法の整備なども蠣崎家に一任するというものだった。
さらに慶広はこう言った。
「これより先我らに害をなせば太閤殿下が十万の兵を率いてやってきてアイヌを征伐するであろう」
この宣言にアイヌの人々は戦慄した。慶広の物言いには納得できない。しかし十万の兵など途方もない数である。
ざわつくアイヌの人々のさらに慶広は言った。
「この後は我らの法に従って生きてい事が最良の道だ」
事実上の降伏勧告である。慶広は言うだけ言ってその場を後にした。残されたアイヌの人々は暫し呆然としたがやがて皆やりきれない顔をして出ていった。
こうして交易の独占とアイヌの服属という蠣崎の悲願を成し遂げた慶広。そんな慶広を父の季広はこう言った。
「お前は太閤様の直臣となり我ら蠣崎の悲願を成し遂げた。本当によくやってくれた」
そういって慶広を拝んだという。
こうして豊臣政権に服属することで蠣崎家は独立という悲願を成し遂げるのであった。
今回の主人公は数ある戦国大名の中でも最も特異な立場にいた人物です。ちなみに名字が松前に代わるのは次話ですのでその点はご容赦を。
さて蠣崎家の話にはアイヌの人々とのかかわりがとても重要です。しかし正直取り上げるのは難しくかつ情報量も膨大なので今回は簡単に済ませてしましました。気になる方は調べてみるといいかもしれません。
最後に誤字脱字等がありましたらご連絡を。では