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俺の記憶

作者: waz/woz

とりあえず完成版になります。

 目覚まし時計のけたたましい音で目を覚ました。部屋の中に充満した生ぬるい気持ち悪い空気に肌を撫でられ小さく身震いをする。それもそのはずだった。昨日と言ってもその時は0時を回っていたので今日と言ったほうが正しいかもしれない。勤め先からこの八畳ほど部屋に疲れて帰ってきた俺はシャワーも浴びると部屋の換気も行わずに寝てしまったのだ。俺は換気をするために立ち上がり一気にカーテンを開けた。光を遮る物を失った窓からはたくさんの日光が部屋に入り込み、中を明るく照らした。俺は日光の眩しさに目を細めながらも窓を開け放った。開け放たれた窓から春特有の優しい風を感じるのと同時に若干の肌寒さを感じた。

 窓の前で大きく伸びをした後部屋の中央にある小さなテーブルに置いてある袋から8枚切りの食パンを取り出し同じテーブルに置いてあるトースターのタイマーを設定し、食パンを中に入れてスイッチをオンにした。

 パンが焼けるまでの間にドアポストに新聞を取りに行くことにした。ドアポストから新聞を取り出すと新聞とドアポストの間から何かがはらりと玄関に落ちた。それを拾い上げて見るとそれは宛先も送り元も書かれていない1通の小洒落た洋封筒だった。俺はその怪しい洋封筒を中身も確認せずにゴミ箱に捨てた。

 俺はテーブルの前に座り、焼きあがった食パンを食べながら新聞を読んでいた。新聞を読んでいると1つの小さな記事が目に留まり、そしていきなり動悸が激しくなった。その記事は周防山で女性の遺体が発見されたという内容だった。その遺体として発見された女性の名前は岸間春乃だった。その名前を認めたとたんに動悸が徐々に収まった。俺にはこの記事を見つけたとたんに動悸が激しくなった理由がわからず、しこりのようなものが残った。

 朝食の食パンを食べ終え、新聞も読み終わった。新聞にはあれ以上気になる記事は見つけられなかった。何かやることはないかとテレビの録画リストをチェックしたりチャンネルを変えたりもしてみたが特に見るものはなく、本棚を見てみたりもしたが特に読みたい本もなかった。やることが特にないことがわかるといよいよゴミ箱に捨てたあの洋封筒が気になりだした。

 ゴミ箱から一度は捨てた洋封筒を取り出し、それを舐めるように眺めまわした。洋封筒をよく見ると丸くて赤い蝋のようなもので封がされており、『L』のマークがついている。

 俺は蝋をはがして洋封筒の中身を確認した。洋封筒の中身は4つに折りたたまれたこの町の地図ときれいな深い菫色の栞、そして短い文章が書かれたその文章には不釣り合いな大きさの便箋が入っていた。その便箋には人間味を感じさせないパソコンで入力したようではあるがたしかに直筆で書かれた文字でこう書かれていた。

 『あなたの心からの願いを叶えます。』

 いつもなら何かのいたずらだと一蹴しただろう。しかし今回はそうする訳にいかなかった。なぜならこの洋封筒の中に入っていた深い菫色をした栞を見た瞬間にまた動悸が激しくなったのだ。それは俺に何かを訴えているようなそんなように感じた。

 地図のほうは広げてみるとB5サイズ程度の大きさで町のはずれのある小さな森のような場所に印がついていた。印がついている森は町の子供が秘密基地を作ったりして遊んでいる場所くらいの認識でしかなかった。

 俺はこの印がつけられた場所に行ってみることにした。この洋封筒のことも気になるし、いたずらならそれで終わりでいいだろう。それにどうせ今日はやることがなかったのだからいい暇つぶしができたと思えばいいだろう。

 俺は着替えた後にしっかりと戸締りをして部屋を出た。

 町はずれの森までは車で20分ほどかけて着いた。森は青々と茂っており、木々で光が遮られているのか薄暗かった。何か童話に出てくるような魔女が出てきそうなそんな怪しい印象を受けた。

 俺は持ってきた懐中電灯を手に森の中へ踏み込んだ。森の中は外で見たより暗くなく、木漏れ日で懐中電灯がなくても十分な程度には照らされていたので懐中電灯をポケットに突っ込んだ。

 しばらく何も発見がなく歩いていると出っ張っていた木の根につまずき、転びそうになり下を向いたときに薄い獣道を見つけた。そしてその獣道は薄くはあるが確かに先へと続いていた。俺は今まで何も発見がなかった分なのだろうかその発見に喜び、その獣道を進むことにした。獣道を進んでいくと開けた場所が出た。そしてその場所には立派な平屋建ての洋館が立っていた。

 その洋館は昔からそこに建っていたと言わんばかりの年期を感じる建物でぐるりと一周してみたが横にも大きければ奥行もかなりのものだった。壁にはあまり掃除されていなさそうな窓があるがすべての窓でカーテンが閉められていて中を覗くことはできなかった。

 洋館入口だと思われる大きな両開きのドアにはノックをするときに使うのであろうライオンの顔が丸い金色の金属の輪をくわえている装飾が両開きのドアに1つずつあるだけでそれ以外には特に何の装飾もされていなかった。

 俺はこの森にこんな洋館が建っているなんて話は聞いたことがなかった。第一こんな洋館が建っていれば町の噂にでもなっているだろう。しかし俺はそんな噂は聞いたことがない。

俺は不信に思いながらもライオンがくわえた金色の輪を握り、ノックをしてみたが特に何の反応もなく、中から物音すら聞こえなかった。次にドアノブに手をかけてみた。そうするとドアノブは回りなんの抵抗もなくドアは開いた。

洋館の中は明るく天井にはシャンデリアがあった。しかしそんなものがどうでもよくなるような印象的な光景が目の前には広がっていた。目の前には天井に届きそうなほどの大きさの本棚がずらりと並んでいた。視界の届く範囲には本棚と本棚の間の通路くらいしか隙間はなかった。しかもその本棚には隙間なく本が詰まっており、その本の背表紙を見てみると平仮名、カタカナ、漢字、アルファベット、ハングルそれ以外にも見たことのないような文字が背表紙に使われている本まであった。まるでこの世に存在するすべての本がこの図書館に収められているのではないかと思うほどだった。

 俺は本棚を見回しながら図書館の奥へ進んだ。奥に進むと通路の途中で一人の人が安楽椅子に座ってゆらゆらと揺れながらハードカバーの本を読んでいた。

その人はタキシードのズボンのようなものをはいていて、真ん中のボタンの左右の小さなフリルのような装飾がされた長袖のワイシャツを着ており、その首には蝶ネクタイがついている。その服装は男女両方の服が混ざっていた。見るからに風変りなものだった。しかしその服装をした本人は風変りをもはや超越し、異常だと感じた。

髪はきれいな黒い髪で耳は隠れている。その髪は肩あたりで切りそろえられていて前髪は眉毛が見える程度の長さだ。そして肌の色は日焼けでもしたような小麦色であるがなんとなくこれは日焼けではなく元々の肌の色なのだと思った。顔立ちは異国のものを感じさせるもので知り合いのフランス人の顔立ちに似ていた。その顔立ちは男性にも女性見える極めて中世的な印象を受けた。そして一番異常だったのは瞳の色だった。

本来、人は目を強い光や紫外線などから保護するためにメラニン色素で日本人は黒や茶色、北米人は青色や緑色といった色をつけて保護しているのだがこの人の目の色は深い赤黒い血の色だった。

その人は俺が見ていることに気が付いたようで安楽椅子の横にある小さな足の長いテーブルに本を置いてから立ち上がり、俺にお辞儀をした。

その人の背丈はそれほど大きくなく、160センチ前半くらいで顔立ちと服装が相まって、男性にも女性も見え、大人にも子供にも見えるそんな不思議で背筋がゾッとするようなそんな感覚を覚えた。

その人は頭を上げてこれまた男性か女性かわからない中世的な声で自己紹介を始めた。

 「キミからしたら初めましてだね。私のことはラプラスと呼んでくれ。私はこの図書館司書をしている者だ。キミのことは知っているから何も言わなくてもいい。何か質問はあるかな?」

 俺は戸惑ってしまった。目の前のラプラスと名乗る人は俺のことを知っている風だった。しかし俺はこんな人を知らない。忘れているということもないだろう。こんな異常な外見をした人と会ったことがあればさすがに忘れることはないだろう。

 相手のことを探ろうにも情報が少なすぎる。相手に疑問をぶつけてみることにした。

 「この図書館は見たところ蔵書数がそこいらの図書館よりずいぶん多いように見えるが一体何冊くらいあるんだ?」

 「何冊程度蔵書数があるかは知らないが、この世に存在するものから存在してはならないものまで、現在、過去、未来、ありとあらゆる本という本全てが収められていますわ。」

 まるで言っていることがわからなかった。現在、過去、未来?ありとあらゆる本という本全て?そんなことありえない。俺は左右を見ると本来なら見えるはずの立ち並ぶ本棚の終わりが見えなかった。俺の目に見えたのは本棚がいくつか見えるだけでその先は深い闇が広がっていた。鳥肌が立つのがわかり、言いようのない恐怖に襲われた。しかし俺は逃げることなく踏みとどまった。好奇心が恐怖に勝ったのだ。

 「じゃあ、あんたは人間か?」

 「何に見える?」

 「外見は異常だが、人間に見える。」

 「キミがそう考えたのならそうだろう。」

 意味が分からなかったがもう気にしないことをした。どんな質問をしても意味不明な質問が帰ってくるに違いない。

 「俺の願いを叶えてくれるというのは本当か?」

 「それは本当だ。キミの心からの願いなら何でも叶えますわ。」

 ラプラスはスッと目を細め、まるで全てを見透かしているかのような目で答える。俺はその目に不快感を覚えながらも試しに願いを言ってみる気になった。

 「じゃあ今の安定した生活が一生死ぬまで続くようにしてくれ。」

 ラプラスは大きなため息を吐いた。

 「それはできない。それはキミの心からの願いではないからだ。」

 そんな訳はなかった。これは俺が常々思っていることだ。この生活がずっと続けば贅沢こそできないだろうが特に不自由なく一生を終えることができるだろう。これ以外に心からの願いが思いつかなかった。

 それ以外にも一生かかっても使い切れない大金やスピード出世などの考えられる願いを全て言ってみたがどれも「それはキミの心からの願いではない。」の1点張りだった。

 俺は何か忘れていることはないかと頭を絞っているとラプラスが俺と目を合わせた後に何かに納得したような表情をして声をかけてきた。

 「そうか、キミは心からの願いを忘れているんだね。まあでも仕方ないか。」

 ラプラスがそう言い終わると俺のほうに歩み寄ってきた。その間も深い赤黒い血の色の目が全くぶれることなく俺の目とラプラスの目は合っている。俺はそのラプラスに人外じみた異様なものを感じて後ずさろうとしたが足が硬直して動かない。まさかあいつが俺の足を動かせなくしたのか。でもどうやって?俺はラプラスに会ってから足どころか体のどこも触れられていない。床に何か仕掛けがあるようにも見えない。

 ラプラスは俺の混乱を見透かしているかのようにフフッと笑いながら距離を詰める。

 「逃げようとしたって無駄だよ。キミはこの図書館に足を踏み入れた時点で願いを叶えない限りこの図書館は出られない。」

 ラプラスは笑いが堪えられないといった様子でフフッフフッと時折笑い声を漏らしながら俺の前に立った。そしてラプラスは自らの片手で俺の目が覆い隠され、無理やり瞼を閉じさせられた。目にいくら力を込めても何か錘でも瞼に吊られたかのように瞼を持ち上げることができない。

俺の目の前には完全な暗闇が広がった。暗闇の中感じるのはラプラスの声と目隠しされた手の温もりだけだ。

「これからキミの心からの願いを探っていこうと思う。痛いことはしないから私の質問に正直に答えてほしい。」

耳元でラプラスのものだと思われる吐息が耳をくすぐる。俺の耳元で語りかけているのだろう。

「じゃあ一つ目の質問だ。キミは最近仕事が忙しいみたいだね。いつから忙しくなったんだい?」

「3年ほど前から会社の経営が軌道に乗ったみたいで仕事が忙しくなった。それ以来休みの数が減って今日は久しぶりの休日だったんだ。」

「そうかそれは大変喜ばしいことだ。それじゃあ仕事が忙しくなり始めた3年ほど前に何かショッキングな出来事はなかったかな?例えばそうだな……仲の良い人、恋人のような人が死んだとか。」

その質問を聞いた瞬間に動悸が激しくなった。何かを訴えかけられているようなそんな感覚。

「な、特に何もなかったはずだ。」

動悸は治まらずに気が付いたときには息切れを起こしていた。

「辛そうだがどうかしたのかい?どうやら動悸も激しいようだが何か思い当たる点でもあったかい?」

「何もないと言っただろ!さっさと早く次の質問をしたらどうだ。」

ラプラスは「そうしようか。」と言って少し間をおいて質問を再開した。その間に多少は落ち着きを取り戻した。

「ここ3年以内で山に行ったりしたかい?」

「いや、山に行った記憶はない。」

ラプラスは「少し休憩しようか。」と言った後に語りだした。

「私はねもしこの図書館を出れる日が来るとしたら行ってみたい場所があるんだ。」

俺はラプラスの口調にどこか決してかなわないことを語っているようなそんな哀愁に似たものを感じた。

「あんたはこの図書館から出れないのか?」

「そうなんだ。もう長いことこの図書館から出てないよ。もう何年になるかな……。そんなことより私は一度でいいから周防山に行ってみたいんだ。なんでも周防山には菫の花がきれいな名所らしいじゃないか。私は一度でいいからそんな菫の花を見てみたいんだ。それで……。」

俺はその話を聞いているとまた動悸が激しくなり体の体温が一気に上がるのを感じた。さらに瞼の裏にとある光景を幻視した。その光景は山登りの装備をしたポニーテイルをした女性が頭からたくさんの血を流して気絶している姿だった。その女性の近くにある岩は赤黒い血の色で染められていた。その女性の肌は血の気が引いて不気味なまでに白く、もう助からないのは明らかだった。

「やめろ、やめてくれ……。」

ラプラスの口から笑いが漏れた。そして制止を無視して話をつづける。

「そういえば周防山で3年前に遭難事件が発生したらしい。たしか遭難したのは20代半ばの男女で……。」

俺は必死に話をやめるように懇願した。

ラプラスの話を聞けば聞くほど瞼の裏に張り付いた幻想がより鮮明に、より色鮮やかになり、さらに動悸が激しくなる。額に大粒の汗を大量にかいていることがわかる。

「やめろぉぉ!」

俺は今までに出したことがないくらいの大声を出して手を引きはがそうと腕を動かそうとした。しかし腕も足と同様にいくら力を込めても硬直したかのように動かなかった。首を動かそうとしたが首すらも硬直したかのように動かなくなっていた。気がつけば俺の体は指一本として動かせなくなっていた。できることといえば呼吸と言葉を発することくらいだろう。

「何をしても無駄だよ。言っただろう、心からの願いを叶えるまでこの図書館からは出れないって。それはつまり逃げられないってことなんだよ。」

耳元でそう告げられる。そしてラプラスはハハッハハハハハハッと楽しそうに笑った後に話を再開した。

「それで遭難した男女なんだけど男性のほうはなんとか自力で下山したみたいなんだけど女性のほうはまだ見つかってないみたいでね……。」

 俺はその男女を知っている。誰よりもよく知っている。今まで忘れていた。いや忘れたふりをしていたんだ。きっとひと時も忘れたことなどなかったのだろう。だから俺の心が忘れるなと思い出せと動悸を激しくして俺自身に刺激を与えていたんだ。

「それでその女性の名前は……。」

 俺は覚悟を決め、ラプラスの言葉を引き継いだ。

 「加藤菫だ……。俺の最愛の人だ。」

 俺がそう言うと全身の硬直がとれ、目を覆っていた手が離れていった。

「ようやく思い出したね。それで改めてキミの心からの願い聞かせてもらおうか。」

「俺の願いは加藤菫の生死を自分の目でたしかめることだ。」

「いいのかい?彼女を生き返らせてほしいとかじゃなくて。わかっているんだろう?それに会ったところで彼女がキミのことをどう思っているか。もしかしたら恨んでいるかもしれない。」

「それを願ってしまったら菫の死を認めることになるだろ。俺はしっかり現実を見たいんだ。それに菫に恨まれているならそれも現実だ。そのときは菫のために罪を償う。」

ラプラスがそれを聞くと、堪えきれなくなったというように大きな声で笑った。その笑いは心の底から愉快そうなそんな笑いだった。

「ハハッ、いいだろう。それが望みならそれを叶えよう。キミは面白い人間だ。」

ラプラスはそう言って手ごろな本棚から茶色のタイトルが何も書かれていないハードカバーの本を取り出しそれを手渡ししてきた。俺はその本を受け取り本の真ん中あたりを適当に開いたがそこには何も書かれていない白紙だった。ほかのページもペラペラとめくってみたが白紙のページばかりだった。

「何をしているんだ?本はちゃんと最初のページから読まないと。」

俺はラプラスにそう言われて本の1ページ目を開いた。そこには目を見張る光景があった。俺が1ページ目を開いた瞬間に黒い文字が凄まじい速度で白紙だったページにひとりでに記述され始めたのだ。そしてそれと同時に耐えがたい眩暈に襲われ平衡感覚を失い、うつぶせに倒れてしまった。視界がゆがみ、暗闇に飲まれていき意識が遠のく。

「また私に会いたくなったらその本を開くといいよ。ただしキミが私に会えるのはあと1回だけだ。」

ラプラスの台詞を最後に意識が途絶えた。

目を覚ますと草地の上に寝そべっていた。

手にはしっかりと図書館でラプラスにもらった茶色のハードカバーの本が握られていた。

辺りは暗く、空を見上げるとたくさんの星々と月が浮かんでいた。

ポケットから懐中電灯を取り出してから立ち上がり、辺りを照らした。

辺りを見渡すと周りはうっそうと茂る木々に囲まれており、背後は断崖絶壁だった。そして俺が寝そべっていた場所の右隣には見覚えがある岩があった。その岩に記憶が刺激される。以前のように動悸が激しくなるようなことはないが俺にはわかった。もう血で汚れてはいないがこれは菫が背後にある断崖絶壁、つまり崖から菫と共に落ちた時に頭を打った岩で間違いなかった。つまりここは俺が菫と別れた、いや俺が菫を置き去りにした場所だ。

俺は森の中に入ることにした。

森の中は茂る木々によって月光が遮られているせいで懐中電灯があっても進むのは困難なほどだった。周防山で遭難したときもこんな感じだったのを覚えているが今回は1人だ。隣に信用できる人はいない。

不意に菫に恨まれていないだろうかという不安に襲われた。もし俺が逆の立場だったいくら相手が恋人でも恨むだろう。それも相手を殺してやりたいくらいに。もし菫も同じことを考えていたら?そうしたら俺はラプラスが導いたこの森のどこかにいるであろう菫と再開を果たしたとき菫は恨みと怒りの表情をして俺を殺そうとするだろうか?周防山を登るときに持って行ったナイフで俺の心臓を……。

俺は頭を振り、悪い想像を振り払った。これは俺自身が心から願ったことであるのと同時に俺がやらなくてはならないことなんだ。こんなところで弱気になってどうする。もし菫に会ったら全力で謝ろう。それでも俺を殺そうとしたらその時は大人しく殺されよう。それで菫の気が済むのならそうされるべきなのだろう。

どこからか流れる川の音を聞きながら、暗い視界と悪い足場に四苦八苦しながら動物どころか虫すら見かけない暗い静寂に包まれた森の中を彷徨い歩いていると木々の間に微かな明かりを見た。その明かりは山火事などの類ではなく、間違えなく人によるものだと確信した。

俺はその明かりに向かって木の枝や葉で切り傷を作ったり転びそうになりながらも小川を踏み越えてその明かりに向かい走った。

そして開けた場所に出た。その場所には小さな年期を感じさせる山小屋があった。俺が見た明かりはその山小屋の窓から漏れた明かりだった。そしてその場所では山小屋を取り囲むようにきれいな紫色の菫の花が月光を受けて咲き誇り、たくさんの見たこともない桃色の揚羽蝶が月光を受けて控えめな輝きを放ちながらゆらゆらと舞っていた。その光景はこの世のものとは思えないような幻想的なものだった。そして同時に俺はこの光景に何故か本能的な恐怖を感じた。

俺は恐怖を振り払い、山小屋のドアをノックした。すると中から音もなく小さく扉が開いた。その扉の隙間から覗いた顔は3年ぶりに見たもう見ることはないと思っていた加藤菫その人の顔だった。その久しぶりに見た顔は元から日本人では珍しいくらいに白く、表情には驚きと困惑が同時に現れていた。

「な、なんで、なんであなたがここにいるの?なんでここが分かったの?」

「ある人に教えてもらってきたんだ。」

俺はそう言って一気に扉を開いた。

「久しぶりだな、菫。」

その言葉を聞いた菫は静かに嗚咽を漏らしながら泣き出した。

菫を落ち着かせた後、山小屋の中に入った。山小屋の中は外見とは裏腹にきれいに掃除されていてテーブルには小さな花瓶に入った菫の花が飾られていた。

外に漏れている光の光源は暖炉とランタンのようだ。

俺は手ごろな椅子に腰かけ、髪も3年間で伸びたのか背中あたりまであり、足まで隠れる深い菫色の長すぎるローブを着た菫はゆらゆらと揺れる安楽椅子に腰かけた。

「……!」

「どうかしたの?」

「いやなんでもない。それよりなんでこんな場所で生活してるんだ?みんな心配しているぞ。菫の両親なんてもう帰ってこないって諦めかけてるんだ。さあ一緒に帰ろう。」

俺がそう言うと菫は何か言いにくいことでもあるのか口を開いて何かを言いかけては口を閉じるというったことを繰り返していた。

「どうかしたのか?何か言いにくいことでもあるのか?」

「そういうわけじゃないんだけど……、どう説明したらいいかわからなくて……。私、この山から出れないみたいなの。何度も星を見て方角を確認した後に下山しようとしてみたんだけどどんなに方角通りに進んでもまたこの場所に戻ってしまうの。まるでこの場所に縛られているみたいに。」

「そうなのか……。そういえばここではどんな暮らしをしているんだ?食べ物や水はどうしているんだ?」

「ここに居ずいてからは森でとれる木の実や山菜を薪で火を起こして調理して生活しているの。飲み水は近くの小川から汲んで使っているわ。そうだお腹空いてない?何か作るから待ってて。」

そう言って菫は安楽椅子から立ち上がり、俺に背を向けようとした。

「ちょっと待ってくれ。」

菫は振り向き、俺の目を見た。その目は何かを悟っているようなそんな目だった。

「菫は……、俺のことを……。」

俺は不安のせいで言葉に詰まってしまった。もしこれを言ってしまったら菫の表情は恨みと怒りに染まり、俺の心臓にナイフを突き立てるのではないか。そんな想像に囚われてしまう。

そんな俺を見た菫は慈愛に満ちた表情で俺の元に歩み寄り、ローブからすらりと伸びた白い両手を俺の頬に添える。その手は氷のように冷たかった。

「私はあなたが何を言おうしているか何となくわかるの。だから言って。それを聞いても私は何も変わらないわ。もう気づいているんでしょう?」

菫はそう言って穏やかな、全てを赦し、全てを受け入れる、そんな微笑みを浮かべた。

「菫は2人で崖から落ちたあの時、菫を置いて逃げ出してしまったこと。恨んでないか?俺のことを殺そうとか思ってないか?」

俺の言葉を聞いた菫は微笑みを崩さなかった。

「最初こそ疑問に思ったわ。でもあそこであなたを止めていたら今頃あなたも死んでいたかもしれない。私はあなたには生きていてほしい。私のことなんて忘れて人並の幸せを掴んでほしいの。」

菫は俺の本を持っているほうの手を持ち上げた。

「私はもう十分だわ。私の死に際の願いは叶った。だから次はあなたの番。あなたの本当の願いを叶えて。」

菫はさらに俺のもう片方の手を持ち上げて、本の表紙を掴ませ、そして1ページ目を開かせた。

本を開いた瞬間からまるで時間が止まったかのように自分以外のもの全てが制止し、物音1つ聞こえなくなっていた。そして目の前には菫の微笑みがあった。

「いい話だね。泣かせる話じゃないか。キミ達には素晴らしい願いの連鎖を見せてもらったよ。」

背後から明るい声をかけられた。その男性か女性かわからない中世的な声は間違えなくラプラスのものだった。

俺は振り返ると相変わらず異常な姿をしたラプラスが立っていた。

「これは全部あんたが仕込んだことだったのか?

ラプラスはピクリと眉を動かした。

「なんでそう思うんだい?」

「全てが出来すぎている。俺の家に見計らったようにあの手紙が来て、俺が図書館にたどりつき、あんたに菫のことを思い出され、そして俺が願ったら最後に菫と別れた森に菫が幽霊として存在していて……。全てが出来すぎている。こんなことあるはずがない!なんなんだ!あんたは何者なんだ!?」

「私かい?私は生まれるべき場所から生まれなかった歪な存在だよ。」

 ラプラスの顔には見たこともないような邪悪さを感じさせる歪んだ笑いが張り付いている。俺はそれに恐怖、いや畏れを感じた。

「私たち、いや私と似て非なる者達は本来、人の心から生まれてくる。それこそ人の負の感情や醜い欲から生まれてくる。でも私は違った。私たちだけが違ったんだよ。私たちは心ではなく頭から生まれた。それ故に唯一無二の歪な存在なんだ。だから私たちは人の『心』というものが知りたいのだよ。」

 俺はラプラスにこれ以上質問してはならないそう本能的に感じて。ラプラスは人間を超越した何かだ。

 「質問がないならこちらの番だ。さあ願いの連鎖を飾るに相応しい。願いを私に聞かせてくれ。」

 ラプラスは先ほどの邪悪で歪んだ笑いから打って変わって無邪気できれいな笑いを見せる。

「俺の願いは2つ。1つ目は菫を成仏させてやることそして2つ目は……。」

俺の願いを聞いたラプラスの顔から笑いが消え、驚愕の表情を見せた。

「キミ、それは本気で言っているのかい?やってできないことはないがそれをやってなんの意味がある?」

「意味ならあるさ。俺がもう1度、菫に出会うためだ。」

「ハハハハハハハハッ、これは一本取られた。まさか人間ごときに一本取られる日がくるとは夢にも思わなかったよ。やっぱり生きてみるものだな。いいだろうその代わり2つ目の願いはただという訳にはいかないな。何か対価をいただこう。そうだな、それじゃあキミの記憶の一部を対価としていただこう。それでいいかい?」

ラプラスは赤黒い血の色をした目で俺を見据える。それは俺を試しているように思えた。

「いいだろう。好きな記憶を好きなだけ持っていけ。」

ラプラスは不敵な笑みを浮かべた。

「契約成立だ。それじゃあキミの願いを叶えよう。これで全ての願いは叶えられた。」

ラプラスのその大仰な台詞を聞いた瞬間、俺の意識は一瞬にして奪われた。

気がつくと自分の部屋にいた。

小さなテーブルの上には食べかけの食パンと手には新聞があった。新聞を持っていた手は妙に汗ばんでいた。

何故か妙に疲れている気がした。それに何か大事なことを忘れているような気さえした。何か掛け替えのないものを失い、その代わりに何かを得たようなそんな風に思った。

足元を見ると茶色のハードカバーの本が落ちていた。拾い上げてパラパラと中を見てみるが全てのページが何も書かれていない白紙のページだった。俺は捨てようかと思ったが何故か捨てることが躊躇われ、本棚の隅にしまうことにした。

俺は食パンをさっさと食べて、テレビを見ることにした。

どうやら会社の経営は絶好調のようで仕事はより一層忙しくなり、気が付いたら5年の歳月が過ぎ去り、季節は夏になっていた。

ある日、目覚ましが鳴るよりも夏特有の蒸し暑さで目を覚ました。喚起するべくカーテンを開けると夏の厳しい日光が俺の体を焼くのと同時に薄暗い部屋の中を照らした。俺はその熱気に耐えながら窓を開けた。開けた窓からは涼しい風が入り込み、心地よい風が肌を撫でた。

テーブルにある袋から8枚切りの食パンを同じ机にあるトースターに2枚入れ、タイマーを設定してスイッチをオンにした。

新聞を取るためにドアポストを見ると新聞と一緒に悲報を知らせる手紙が入っていた。それは仲良くしていた従妹が亡くなった知らせだった。

俺はここ数年仕事が忙しくて会えていなかったが仲良くしていたこともあって仕事を休み、葬式に参列することとした。

何本か電車を乗り継ぎ、親族が集まる従妹の遺体が安置してある家に着いた。

そこで亡くなった従妹の事情を知った。従妹は仕事の帰りに居眠り運転をしていたトラックに突っ込まれた不幸な事故死だったこと。従妹には1人娘がいて、現在、実の父親とは連絡が取れずに女手一つで育てていたこと。そして親族でその子を引き取れる人がいなくてここままだと施設に入れることになること。

俺はその娘と会ったことがなかった。

俺はその子を探しているとギラギラと太陽が照りつける熱い外でお気に入りのクマのぬいぐるみと遊んでいた。

その子は黒い服を持っていなかったのだろうか、深い菫色のワンピースを着ていて髪は肩あたりまで伸びていた。

俺はその子の前まで行き、しゃがみこんで視線を合わせるようにして話しかけた。

「こんなところで何をしているんだい?」

その子はいきなり話しかけられて少し驚いたようだったがしっかりと言葉を返してくれた。

「一緒に遊んでくれる人いないからクマさんと遊んでるの。おじさんだあれ?」

その子は不思議そうな顔をする。他に話しかけてくる人はいなかったのだろう。

「おじさんはキミのお母さんのお友達だよ。キミの名前はなんて言うんだい?」

「わたしは菫っていうの。」

その名前を聞いたときドクンと心臓が大きく脈打ったのを感じた。それは不快には感じず、懐かしささえ覚えた。前にもこんな風に心臓が脈打ったことがあった気がする。

「こんな熱い日に髪を下してたら熱いだろう。髪をまとめるゴムとか持ってるかな?」

菫は「持ってるよ」と言ってポケットから黒いゴムを取り出して渡してくれた。

「おじさんが髪をまとめてあげよう。」

俺は菫の髪をまとめポニーテイルにした。

その姿を見て大事な誰かの面影を感じた。気が付けば俺は目からはとめどなく涙が溢れていた。どんなに目をこすっても涙は止まることはなく流れ続ける。

「おじさんどうしたの?どこか痛いの?」

菫は慌てたようにして俺に気を遣う。その仕草が誰かのそっくりだが誰に似ているか思い出せない。

「おじさんもわからないんだ。なんでこんなに涙が出てくるのかわからないんだ。でも悲しくはないんだよ。」

 俺はそう言って菫の小さな体を強く抱きしめて。そして泣き続けた。

 菫は驚いたようで体がこわばるが、じきになれたようで俺の頭を優しく何度も何度も撫でてくれた。

 「よくわからないけど、おじさんは優しいんだね。」

 俺は菫の顔を見た。菫の表情は慈愛に満ちた表情で笑みを浮かべていた。その笑みを見た瞬間に深い菫色のローブを着た女性が慈愛に満ちた表情で微笑んでいる光景を幻視した。その女性に見覚えがある気がした。とても大事な人だったような気がした。かつてその女性を愛していたような気さえした。しかし俺はその女性を知らない。

 「もし菫ちゃんが良ければだけどおじさんのお家に来ないかい?お母さんがいなくて寂しいだろうけど。いつか絶対にお母さんに会える。だからおじさんのお家に来ないかい?」

 「本当?本当にいつかお母さんに会えるの?」

 「ああ、絶対に。いつか絶対に会える。キミがお母さんの分まで生きてお母さんと会ったときにその話をたくさん聞かせてやるんだ。」

 「わかった。おじさんのお家に行く。」

 俺はそれを聞いて言いようのない感情に満たされ、涙を流しながら菫に「ありがとう、ありがとう」とお礼を言い続けた。

 その直後、俺の耳にはたしかにパタンと本が閉じる音が聞こえた。


ラプラスの正体と主人公の2つ目の願いがわかった方がいたら感想までどうぞ。

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