第5話:揺れて、崩した
恋っていうのは欲しいと思う心で、愛っていうのは失いたくないと思う心だ。
いつか日茉莉から、そんな言葉を聞いたことがある。
もしその言葉が真実だとすると、俺は日茉莉に対して恋も愛も無いことになるんだが。
いや、まったく無くはないとは言わないけど。
ただ、渇望する程ではなくて。
だから告白を断ったし。だからもしもの時は、突き放そうと思っている。
でも、それでいいのか?
余計なことを考えて時間を潰す、現国の授業。一番前の席。窓際。
意外とここは教師に目をつけられないみたいだ。
今のところノートに絵を書こうが、机に突っ伏して寝ようが咎められたことはない。
高校に入ってからこの授業は現国になったけど、中学までは国語だった。
数学も小学校の頃は算数だったし、社会や理科は小2までは生活って名前だった。
なんで変わったんだろう。
名前を変える理由あるのかな。
理由もわからなければ意図もわからない。
俺は机に突っ伏した。ノートをとる気力はもう久しくない。
勉強したってもう役に立つことはないんだし、どうしたもんやら。
もしも奇跡が起きたとして。
ドナーが見つかりました。手術に成功しました。元通りの生活です。
なんて言われても、それの為にがんばると言うのは、ちょっと俺には無理そうだ。
というか、自分の為にがんばるというのが俺には難しい。
大学生になった自分も想像できなければ、就職して働いている自分も想像出来ない。
学生はいつだって振り回されてばかりだ。
勉強はもちろんのこと。
義務教育でもなくなったのに、文化祭や体育祭なんてのも強制参加だし。
来年には修学旅行もある。
そういえば修学旅行か。
確か、この学校の修学旅行先は沖縄だったはず。
俺は参加しないけど。
さすがに心臓の事を考えたら、旅行は無理。
机に突っ伏しながらも、顔を横に向けて外を見た。
やっぱり沖縄の海は綺麗なんだろうか。
実際に見たことはないけど、一度は見てみたいと思う。
この前の海とは違うのだろうか。
何もわからない俺は、授業も始まったばかりなのに暇だった。
昨日も同じような事を考えては暇を潰していた。
昨日も同じで、今日も同じなら、明日は?
……わからない。
明日の事を考えると憂鬱だ。
生きた証を残したい訳でもない俺は、なんの為に生きてるのか全然わからない。
何もない昨日と、何もない今日と、何もない明日。
それから――。
それから視界が歪んだ。
――――え?
突然、目眩がした。
前兆もなしに視界が霞んだ。
立つどころか、動いてもいないのに、酷い立ちくらみのような。
視界の隅が、まるでゲームのように黒く染まる。
焦点が合わない。
――こんな、急に。
発作が起きた。
初めて発作。
医者からどういうものか説明されていたような気がする。
なのにうまく思い出せない。
俺はどうすればいいんだっけ。
そもそも動けない。
立てないなんて生易しいものじゃなくて、動けない。
横に倒れることも出来ない。机に突っ伏していたのがまずかった。
声も出ない。
呼吸が出来ない。
息を吸っても、吐いても、息苦しさが無くならない。
全ての音が遠い。
心臓が半分位の大きさになってしまった気がする。
心臓が動いていないような気がする。
血の匂いがした。
どこか出血したのだろうか。
喉が一瞬で渇いた。吐き気がする。
――はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
吸って、吸って、吸って、吐いて、吐いて、吐いて。
苦しい。目が痛い。耳がキーンとしてきた。
誰か、気づかないのか?
誰も、気づいてくれないのか?
わかってなかった。
タイミングなんて選べないと自分で言いながら。
いつ来るかなんて誰にもわからないと自分で言いながら。
明日の保証はないと言っておきながら。
2回目とか3回目の発作があるなんて勘違いしていた。
もうちょっとドラマチックに終わるとか勝手に思っていた。
変な期待をしていた。
俺は馬鹿だ――――。
こんな、
◇
陽太が死ぬ。
子供の頃からずっと一緒だった陽太が。
いとこよりも付き合いの古い陽太が。
病気だって、心臓の。
いつものように嘘だって言って欲しかった。
でも、本当だった。
診断書も見せてもらった。
本当に心臓の病気だった。
でも。
不治の病じゃないのに。
移植すれば治るのに。
ドナーが見つからないって何?
しょうがないって何?
だから何?
なんで諦めるの?
なんでこんな所でかっこつけるの?
だって死んじゃうんだよ?
陽太、死んじゃうんだよ?
日茉莉ちゃんは陽太のこと好きなのに。
陽太だってそうでしょ?
どうして陽太なんだろう。
どうしてどこかの誰かじゃないんだろう。
どうして僕じゃないんだろう。
ねえ陽太。
僕はどうすればいい?
いつものように指示してよ。
いたずらだってするから。
悪いことだってしてみせるから。
ねえ陽太。
◇
「陽太っっ!!」
雄大の声が聞こえる。悲鳴な声だ。
その声で思い出したけど倒れてたのか、俺。
発作だ。
机に突っ伏した状態だったらしい。
結構な時間そうだったのか、上体を起こすとベリっと顔が机からはがれたような気がした。
胸に手を当てると、心臓は普通に動いていた。
まだ生きていた。
「……岡部、大丈夫か?」
先生の心配そうな顔と声。
それで身体の方に意識が行く。
喉の渇きとか目の痛みとかは全部なくなっていた。
ただ、ちょっと頭が重たいような気がする。
そういや、なんで雄大は俺に気づいたんだ?
寝てるのと発作で倒れてるのはなんか見た目で違ったのか?
まあいいや、どうでも。
それよりもこの状況が嫌だな。
クラスの奴らに好奇の目で見られてる感じ。
「大丈夫です。とりあえず早退します」
荷物はいいや。
多分もう使わないだろうし。
発作を起こしたら学校辞める予定だったから。
まさか、こんなタイミングになるとは思っていなかったけど。
「日茉莉も、ちょっと来てくれ」
日茉莉を呼ぶが、状況を理解できていないのかキョトンとした顔をされた。
もしかしてさっきの俺が寝てたとでも思っているのだろうか。
だとするとほんとになんで雄大は気づいたんだろ。
今度聞いてみるか。
「陽太、言うの?」
「言うよ。10分……いや、20分したら回収に来てくれ」
きっと、日茉莉はダメだから。
全部伝えた後に、自力で帰れるとは思わないから。
「日茉莉、行くぞ」
「う、うん」
日茉莉を連れて教室を出る。
クラスメイトがヒソヒソと何かを言い合っている。
ああ、もうホント、この視線やだ。
◇
「もしもし、母さん? 迎えに来て欲しいんだけど。……いや、平気。余裕。……そう、わかった。校門の所で待ってる」
電話が終わり携帯を閉じる。
母さん、思ったより冷静だったな。
俺が直接電話したからかも。
日茉莉には間接的に言いたくないから電話では濁したのに、察してくれてよかった。
もしかして、俺の話術がよかったのかも。
今は授業中なので廊下は静かだ。
ここに来るまでに少しは察したらしい日茉莉は、何も言わずに後を付いてくる。
今、何を考えているんだろうか。
さすがに俺が死ぬって所までは思い至ってないと思うけど。
逆の立場になって想像してみようと思ったけどダメだった。
先入観が邪魔をしてうまく想像出来ない。
「…………」
黙々と付いてくる日茉莉を見ると、昔を思い出す。
内気だった頃の日茉莉。
「どっこいしよ」
昇降口の外側、花壇の縁に腰をかける。
ここなら校舎から見えないし、邪魔が入ることもないだろ。
見上げた空は、久しぶりに曇りだった。
予報では今日も晴れだって言っていたのに、今にも降り出しそうなねずみ色。
丁度俺たちの内面を表しているようで、少し暗い。
「……」
日茉莉も何も言わずに隣に座った。
けど、いつもより距離がある。
長い髪で隠れていて、表情は見えなかった。
好きな人が死ぬってどういう感じなんだろう。
俺の周りで死んだのは祖父さん位だし、それだって小さい頃だったからよく覚えていない。
冷たくなった祖父さんを、小さい布で拭くのが嫌だったのは覚えているけど。
骨になった祖父さんを、長い箸でつまむのが嫌だったのは覚えているけど。
死んだ祖父さんを前にして、何を思ったのかが思い出せない。
多分泣きもしなかった。
柩に入った祖父さんに向かって、なんて言ったんだっけ。
「日茉莉」
「っ……」
名前を呼ぶと怯えられた。
俺だって正直、こんな話はしたくない。
誰かが代わりに言ってくれればいいのに、とか思う。
でも、そういうわけにもいかない。
雄大にも念を押されてるし。
「膝の怪我ってのは嘘なんだ」
なんて言ったらいいかわからないから、はっきりと言ってしまおう。
濁さず、遠回りせず、嘘を付かず、本当の事を。
出来るだけ心が揺らがないように努めながら。
「本当はこっち」
親指で胸を指す。
みぞおちよりも少し左。
多分、臓器の中で一番重要だとされている器官。
「本当は心臓の病気なんだ俺」
「……わかんない。陽太くん、なんですぐ嘘つくの?」
日茉莉は嘘だと思うことにしたらしい。
「本当だ。俺な。心臓の病気で死ぬんだってさ」
「嘘つき」
「本当だ」
「嘘だよ。陽太くん、いつも嘘つくもん。前もそんな嘘ついてた」
俺だって最初に言われた時は信じなかったけど、信じて欲しい。
そうしないと話が進まない。
中途半端なままじゃいられない。
だって、明日はないかもしれない。
「日茉莉、聞いてくれ。俺、死ぬんだ。病気なんだ。心臓の。診断書ももらった。雄大も先生も知ってる。さっきの見ただろ?」
雄大の悲鳴のような声を聞いただろ?
「嘘だよ。嘘、うそ、うそ」
嘘じゃないんだ。
俺だって嘘だと思いたかった。
嘘だと思ったままで居たかった。
でも、親が泣いた。
俺も思い知った。
「これから、病院に行くけど。じゃあ、聞くか? 病院で。医者の聞けば一発だろ」
「……ねえ、本当に死んじゃうの?」
日茉莉の声から色が消えたように感じた。
俺の心からも色が消えていくような喪失感。
「本当だ。さっき、発作も起きた」
あれで死ななかったのが不思議な位だった。
もうダメだと思った。
ようやく実感した。
俺はいつ死んでもおかしくないんだ。
「手術は? 手術すれば大丈夫なんでしょ? ペースメーカーとか。ほら、ね?」
「ダメだ。手術が成功すれば少しは長生きできるかもしれないけど、発作が起きやすくなるらしい」
心臓に手を加えるんだから、そういうことだってある。
例えそれで少しくらい長持ちになったところで、動作不良を起こすなら意味はない。
本末転倒だ。
「……移植とか」
「移植がうまく行けば助かる、とは言われた」
「ほら、ほら! よか――」
「ただ」
よかった。は言わせなかった。
言わせるつもりはなかった。
「ドナーが見つかればな」
それが一番の問題。
「見つからないんだよ。俺の場合。俺、AB型だろ? ただでさえ数が少ないのに、俺のはすごい珍しいらしい」
組織適合性ってのがあって、血液型が一緒だから「はい、移植しましょう」とはいかないんだ。
数十万人に一人。それが俺の可能性。
しかも、医者が教えてくれた。順番待ちというもの。
心臓を待っている人は意外と多いそうだ。
例え俺のフルマッチのドナーが見つかっても、先に待っている人が居たらそっちに回される。
当然だよな。
先に待っていたのに、なんとなくで俺に回す理由はないんだから。
海外とかだと多大な金を払って、順番を譲ってもらうみたいなこともあるらしいけど。
そもそもドナーの登録自体が少なくて、見つかるかも怪しい。
「……やだ」
「お前がなんて言っても状況は変わらない」
もう一年と半年も前からわかっていたことだ。
俺が黙っていたから、今まで知らなくて済んだ。
「お前のこれからに俺は居ない」
ごめんな。
一緒にいられなくて。
前は――。
病気になる前は死ぬのが怖くなかった。
死んだら何も無くなってしまうんだから、死んだ後の事なんか気にしてもしょうがなくて。
でも、死ぬ手前の時間が怖いと思っていた。
例えば手首を切ってから血が流れていく瞬間が怖かった。
走馬灯って言うのは実際にあるらしい。
脳みそは一瞬を地獄に引き伸ばす手段を持っているらしい。
もしかしたら死ぬ瞬間、苦しい時間が引き伸ばされるかと思うと怖かった。
今は逆だ。
死んだ後の事を考えるのが怖い。
雄大はどうなるだろう。両親はどうなるだろう。
日茉莉はどうなってしまうんだろう。
どうしてお前は俺なんかに依存するんだよ。
考えてもわからなかった。
こんな方法しか思いつかなかった。
死ぬ事実を教えないで、現状維持を続けて。
それでいよいよが来たら遠ざけて。距離を置いて、なんて。
間違ってるのなんかわかってる。
俺だって。
優しくして、優しくしてもらって。
恋とか愛とかどうでもよくて、ただ思うようにして。
死んだ後のことなんか全部放り投げて。
それで終われたらって、俺だって思う。
……違う、こんなのは嘘だ。
本当は、俺が死んだら世界も死んでくれって思ってる。
俺が死んだら皆も死んでくれないかって思ってる。
だって、俺だけ死ぬなんて不公平だろう?
俺だけ苦しむなんておかしいだろ?
でも、そんなこと言えない。
日茉莉、ごめん。
傷つけてばかりでごめん。
好きだって言ってもらったのに何も返せなくてごめん。
日茉莉の未来に俺がいなくてごめん。
先に死んでごめん。
俺だって、本当はこんな所で死にたくなかった。
なあ、日茉莉。






