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第2話:勘違いで固めた土台、輪切りの塔

 俺は髪が好きだ。

 もう少し言うと、手触りの良いものが好きなんだと思う。

 犬や猫の毛とか好きだし、上質なカーペットとかを触るのも楽しい。

 とにかく、そういった手触りの良いものが好きだ。



 俺が日茉莉と知り合ったのは7年も前の小学4年の時で、ちょっとした出来事があった。


 日茉莉はその頃、クラスの男子にいじめられていた。

 理由はわからない。

 暗いとか、背が小さいとか多分そんな理由だと思う。

 その頃の日茉莉はいつも俯いていた。


 俺は参加しなかったけど、そのいじめを止めようとか、そういう気もなかった。

 そいつらは一応、クラスメイトって括りで友達みたいなもんだったし、日茉莉の方は名前は知ってる程度の人間だったから。

 小学校の頃は、クラスの男はみんな友達。

 みたいな思い込みがあった。


 ただ、大勢でってのはどうかと思ってた。

 一対一ならお好きにどうぞって感じだが、寄ってたかってってのは好きじゃない。

 数の暴力が許されるのは、弱い奴が集まって強いのと戦う時だけだ、と思う。

 でも、止めるつもりはなかった。

 俺にはそういう正義感みたいなものはなかった。


 雄大なら止めたいと思っただろうけど、雄大は別のクラスだったし、そもそも内気な雄大には行動力がない。


 それと、日茉莉はその頃、なんか女の友達もいなかったらしい。

 男に嫌われる女は、女にもあまりよく思われないのか。

 俯いてばかりの日茉莉は暗いので、相手をしたくなかったのか。

 とにかく、友達はいなかったらしい。



 それである日、給食の時間が終わって、先生の居ないお昼休み。


 誰かが上履きを投げたのか飛ばしたのか、日茉莉にぶつけようとした。

 ひゅーんって飛んでく上履きが、俺の近くを通った時に咄嗟に掴んでしまった。

 何故か取れてしまった。


 「あっ」って声が聞こえた。

 俺も「あっ」って思った。


 どうしようってなって、とにかく頭が空っぽになって。

 小4の頃の俺が何を思ったか覚えてないけど、何故かその掴んだ上履きで日茉莉を叩いた。肩のあたり。

 上履きを投げてぶつけようとしたんだから、それを邪魔しなかったことにしようとしたんだと思う。


 ベシって音が鳴ったような気がする。


 もちろん叩かれた日茉莉は泣いた。大泣きした。

 先生がすっ飛んできて、誰かが俺がやったって言って、先生が激怒して俺をぶっ飛ばした。

 殴ったんじゃなくて叩くように振り抜いた。その所為で俺は吹っ飛んだ。

 俺は机をなぎ倒しながら教室の床を転がった。


 体罰どころか虐待だろって思わなくもないけど、自業自得だし、先生に対しては今でも特になんとも思っていない。

 まあ、悪ガキにふさわしい末路だなって。


 それからちょっとした大事になって、親を呼び出されて、怒られて。

 先生もなんかすごく怒られて、それでその件は終わり。

 先生も辞職とかってのはなかった。

 でも、減給とかされたんだろな多分。今考えると。


 そんな感じで、気がついたらいじめはなくなっていた。

 先生にビビって日茉莉にちょっかいを出す奴はいなくなった。

 今にして思えばちょっとムカつくけど、お咎めなしのあいつらはズルい。

 こんど報復するのもいいかも。



 とにかく、それで全部終わったと思ったら数日後。

 連れションとかしない俺は一人でトイレに行った帰り、なんか廊下に日茉莉が居た。

 俺を待っていたらしい。


 呼び止められて、「ありがとう」って言われた。

 もう終わった話だと思っていたので、何のことだか一瞬わからなくなってしまった。

 何日も前の話だったし、今更ってのもある。

 そもそも俺は何もしていないし。


 ただ、お辞儀をした時に髪がふわってなったのを見て、俺はその頭を撫でた。

 撫でたんだっけ? なんか髪に触ったのは覚えてる。

 日茉莉は背が小さかったので、丁度いい位置に頭があったからつい、反射的に。

 俺、髪とかカーペットとか手触りの良いものが好きなんだ。子供の頃から。


 トイレ帰りでハンカチなんか持ち歩かない俺は、ちょっと湿った手で日茉莉の髪に触れたのは覚えてる。

 子供の頃の俺は雄大とばかり遊んでいたし、女っていうのがよくわからないから普通に髪に触ってしまった。


 えへへ、って日茉莉が笑った。

 照れたような笑顔を俺に向けた。


 そんな簡単なことで俺は日茉莉を好きになった。

 当時、他に好きな奴とか居たはずなのに、自分だけに向けて笑った日茉莉を好きになった。

 子供の頃の俺は、そんな簡単なことで好きになった。


 それから俺は日茉莉に懐かれて、一緒にいることが増えた。

 雄大と遊ぶ時にもなんか混じる事が多くなって。クラスが変わってもそれが続いて。

 今も続いている。




「でも、違うよな。日茉莉のそれ」

「何が?」


 つい言葉が出てしまったらしい。雄大に聞き返される。

 今のはやばい独り言だった。


「まあ気にするな」

「陽太って独り言多いよね」


 マジか。

 俺はそんな悪癖を持っていたのか。


 ……確かに言われてみると、俺って結構独り言多いかもしれない。

 というか、独り言ってどうやって直すんだ?

 気づいたらやめればいいんだけど、こういうのって気づかずにやるもんだろ?


 薬かなんかでささっとなんとかなれば良いんだけど。



「ねえ陽太」

「なんだよ」


 独り言で日茉莉の名前を出した。


 なんて恥ずかしすぎる事をしてしまった俺は、内心ビクビクしていた。

 これをネタにされたらどうしよう。口封じしておくか?


 信号待ちをする俺の頭によぎっちゃいけない考えが浮かぶ。


「やっぱり、日茉莉ちゃんにも言った方がいいんじゃない?」


 とりあえず追求はなかったようだ。

 でも、あまりよろしくない話題のようで。


「言わない」

「……でも」

「大体、言ってどうするんだよ」


 日茉莉はお前と違って弱いんだ。

 まず間違いなく取り乱して、泣いて、俯いて、笑わなくなる。

 笑わなくなった日茉莉に用はない。


 それに、言ったって何が出来るわけでもない。

 だから、知らせる必要もない。

 日茉莉は知らなくていい。


「例えば俺が一年後に死ぬとして、今教えたら一年メソメソした日茉莉を見るだけだろ」

「それは……」

「半年後に教えたら半年だけで済む」


 どのみち死んだら落ち込むのはいつ教えても同じなんだ。期間は短い方がいい。

 流石に死んでから、とか直前になってから、ってのは問題外だと思うが。


「そうだけど……」


 まだ渋る雄大。


「それに通学路で話すような話題じゃねえだろ。誰かに聞かれたらどうすんだ」

「うん……」

「ボケナス」


 そういや、日茉莉はいつから一緒に登校しなくなったんだけ?


 ……ああ、思い出した。

 真綾だ。

 あいつと一緒に登校するようになって、何日かは俺らも一緒したけど、俺が嫌がって空中分解したんだ。

 それで、日茉莉があっちのグループに吸収された形になったんだ。


 まあ、男といつも一緒にいるより、女同士のグループも大事にした方がいいだろ。

 俺も発作を起こしたら学校辞めるつもりだし。

 雄大には悪いけど。


「日茉莉に言うなよ」

「僕からは言わないよ。陽太から伝えて欲しい」

「時が来たらな」

「うん」


 信号が青へと変わり、歩き出す。


 雄大が変な話題を振った所為で、変な空気になってしまった。

 昨日より10分程早い、いつもの通学路は晴れているけど、なんか暗い気がした。


 世界って言うと大げさだけど、周りを歩く人たちはやっぱり早足で。

 前だったら俺も同じ位の速度で歩いていたのに。



 雄大に明かしたのやっぱり失敗だったな。

 打ち明けるべきじゃなかった。

 俺が弱かったから言ってしまった。


 それでも雄大はまだ良い方だ。

 昨日みたいに遊びに行っても暗くならないし、いつまでも引きずらない。

 でも、日茉莉は違う。

 あいつ、なんか俺に依存してるところがあるし。

 好かれるのは悪いことじゃないんだけど。 


 ただ、日茉莉が俺を好きになるのは違うと思う。

 本当は俺じゃなくて、あの先生を好きになるべきなんだ。

 俺は叩いただけで、いじめがなくなったのは先生のおかげなんだから。


 なんかモヤモヤする。





「おっす」

「陽太くん、雄大くん、おはよう」

「夏畑さん、おはよう」


 雄大は中学に上がったあたりから日茉莉のことを夏畑さん、とか言うようになった。

 思春期特有のあれかもしれない。

 それなのに、何故か俺と二人の時は日茉莉ちゃん、って昔のままの呼び方をする。

 意味わからん。きめえ。


「今日は寝坊しなかったんだ」

「失礼な女だな。開口一番からそれかよ」

「ちゃんと挨拶したもん」

「もん、じゃねーよ。泣かすぞ」

「泣かないもん」

「うぜえ」

「……陽太たちって仲いいよね」


 雄大がなんか羨んでいた。


 挨拶を交わしながらもカバンを置き、席に座る。

 当然のように日茉莉と雄大がついてきた。


「雄大がのけ者で寂しいってよ」

「……そんなこと言ってない」

「雄大くん、うさぎみたい」

「だから言ってないのに……」


 俺が言うのもなんだけど日茉莉も人の話聞かないよな。


 それより雄大がウサギって、図体のでけえウサギだな。

 俺よりでけえじゃねーか。気持ち悪い。


「うさぎの冬毛ってもこもこしててかわいいよね」

「雄大の冬毛か。最高に気持ち悪いな」

「変なこと言わないでよ」


 ホントだよ。

 日茉莉が変なこと言うから気持ち悪い想像しちまったじゃねーか。

 何が冬毛だ。気持ち悪い。


 ってか、そういやもうすぐ冬か。

 夏よりはいいけど、寒いから冬もあんまり好きじゃない。

 そう考えると、制服でスカートを強要される女子達は可哀想だな。

 ファッションを捨ててでも下にジャージ履きたくなるのもわかる。


 逆に夏はスカート羨ましいけど。

 俺らも夏はハーフパンツとかにしてくれればいいのに。



「ふと気づいたんだが、なんかジャージの奴多くないか?」


 ハーフパンツじゃないけど、クラスの4分の1位がジャージ姿でウロウロしている。

 部活の朝練にしても多すぎる。

 ということは。


「一時間目から体育だからね」

「うぇー、マジかよ」


 またあの嫌な時間がくるのか。


 大体、見学ってなんだよ。

 参加出来るわけでもないのに、他人がはしゃいでるの見てどうすんだよ。


 憂鬱過ぎて、ため息が出るわ。


「……膝、大丈夫?」


 さっきまでとは一転して、表情に暗い陰を落とす日茉莉。

 何故か同じように暗い様子の雄大。

 他にも聞こえたのが居たのか、微妙に教室内が静かになった気がした。


 本当に悪いのは心臓の方だけど、そちらを言う訳にもいかないし、かと言って運動ができる訳でもないので、学校では"膝"が悪いということになっている。


 一応、心臓のことを知っているのは親、雄大、教師位か。

 教師から漏れるかと思っていたけど、これだけ重い内容だと口も硬くなるらしい。

 正直ちょっと見くびってた、ごめんなさい。


「日茉莉」

「……なに?」

「変な気は使わなくていいから」


 そう、同情されると情けなくなってくる。





 グラウンドでクラスの連中が準備運動をしている。

 どうやら高校ではラジオ体操なんかはしないらしく、簡単なストレッチ。

 雄大にもちゃんと相手が居るようだ。

 いいことだ。


 グラウンドの手前、校舎との間にある段差に腰を掛けてぼーっと眺める。


 ブレザーだけ脱いでジャージを羽織り、下は制服のまま。

 こんな格好に意味はない。なんとなくだ。

 俺にはもう、運動着なんてものに意味はない。


 空を見た。

 青い。それと雲がゆっくりと流れている。

 惨めだった。


 雲を見てもソフトクリームだとか、ドーナツだとかそういうものに見えたことはない。

 俺はどうやらそういう感性はないらしく、ただ、雲があるなーって思う。


 そういや来週は文化祭か。

 出し物の中にはソフトクリームも、ドーナツもないけどそんなことを思い出した。

 体育祭はサボればそれで済んだけど、文化祭は準備期間もあるから面倒臭いな。

 本当に。



 俺が死刑宣告をされたのは、去年の春の健康診断。

 聴診器を胸に当てて何かを聞くアレ。

 何の意味もないと思っていたアレで、俺は見事に引っかかった。


 呼び出された俺は、大きな病院に行くことになり、そこで色々な検査を受けた。

 レントゲンとか、エコーとか、心電図とか、CTとか。

 色々な検査の結果、俺は心臓の病気ということになった。


 親は泣いていた。

 何日か掛けて、俺もダメだと理解した。


 俺は死ぬらしい。まず避けられないらしい。後数年あるかないからしい。

 らしい。らしい。らしい。らしい。

 全部医者の言葉だ。

 理解も納得もしたつもりだけど、実感なんてほとんどない。

 胸に手を当てればちゃんとドキドキと鼓動を感じる。

 でも、検査結果も俺の死を告げていた。


 専門的な用語で、噛み砕いた言葉で、念入りに説明をされた。

 診断書みたいなものを渡された。


 特発性の心筋症っていうのは原因が特定できない心臓疾患で。

 でも、遺伝的なものじゃないそうだ。


 でも、ってなんだ?

 親の所為じゃなくて、もちろん医者の所為でもなくて、俺の所為とも言えない。

 じゃあ誰の所為なんだ?

 俺は誰の所為で死ぬんだ?


「意味分かんねえ」


 アホらし。なにを浸ってんだか。


 踵を返して校舎に戻る。

 グラウンドでは雄大達が汗水たらしてなんかしていたけど、俺には何の関係もなかった。





 ――ご乗車ありがとうございます。このバスは、鳩見ケ丘病院経由、銀窪バスセンターゆきです。


 バスに乗り込むと、そんなアナウンスが聞こえた。

 プシューッと蒸気のような音と共にドアが閉まる。


 あれ? って思った。

 ここはバスの中。学校はまだ終わっていない。

 授業はサボった。

 でも、気がついたら学校をサボっていた。


 全然そんなつもりじゃなかったのに。

 無意識ってこえー。


 そんな事を考えている間に、容赦なくバスが走り出す。

 まあいいや、知らね。このまま病院に行こう。どうせ今日は元々病院の日だし。



 病院ついでにマナーモードにしようと、携帯を取り出すとメールに気づいた。

 日茉莉からだ。3通も来ている。


 中身は『どこ?』、『大丈夫?』、『勉強遅れちゃうよ?』、と主に心配の内容。


 愛されてるな、と思う。

 それなりに嬉しい、とも思う。

 同時に重いな、とも思う。

 この女ほんと、俺が死んだらどうするんだろう。


 平日昼間のガラガラに空いたバスが行く。

 病院に向かって。


 5文字だけの返信をして携帯を仕舞う。スマホにしなくて本当によかった。

 日茉莉は俺にスマホを持って欲しがっていたけど、俺は頑なに拒み続けていた。

 メールでさえ面倒なのに、LINEとか要求されたら鬱陶しくてしょうがない。



 窓から外を見た。

 ゆっくりとした速度で景色が流れていく。そんな景色の中を人が歩いている。


 白髪混じりの人、腰が少し曲がった人。杖をついている人、は居ない。

 俺は外見から年齢を判断するのが苦手なので自信はないが、50歳から60歳、あるいはもっと上だろう。

 病院の近くだからかもしれないけど年寄りばかりだ。

 若いのは全然居ない。

 未成年っぽいのは一人も居ない。


 少子化とかよく聞くけど、実感を伴うのはかなり深刻なのではないだろうか。

 でも、安心してほしい。俺も貢献しよう。-1だ。

 ……なんてのは、ちょっとブラックジョーク過ぎたか。





 バスは20分も立たない内に病院に着いた。

 大病院というほど大きくはない。けど、小さくもない病院。


 病院の中は、外よりもっと年寄りだらけだった。

 70歳だか80歳だか、それよりもっと。そんなのも居る。

 つまり、この人達は70年だか80年、休まず心臓を酷使してるわけだ。


 そんな年寄り達は、17年しか生きていない俺よりきっと長く生きる。

 そう考えると、病気って理不尽だ。

 妬みさえ覚える。



 ――心臓血管外科。もしくは循環器科。

 俺の掛かっている科。

 本当は午後の予定だったけど、プレートを見ると俺のかかっている医者の名前があった。


 診察券を外来受付に提出したら、それからはひたすらに待つのが仕事になる。

 病院に必要なのは忍耐。

 注射されて痛いとか、待たされて退屈とか。とにかく忍耐を覚える必要がある。


 なるほど、病院に年寄りばかりなのはそういうことか。

 うん、絶対違う。


 それにしても本当に暇だな。学校の授業とどっちが暇だろう。

 自由な分だけ、こっちの方がマシか? わからん。とにかく暇だ。


 暇なあまり、なんかよくわからない主婦向けっぽい雑誌に手が伸びた。

 豆腐を使った料理特集、と書いてあった。


 ペラペラとめくる。

 あたりまえかもしれないけど豆腐の料理が書いてある。

 過程と完成品の写真が載っていて、レシピも載っていて、今日は豆腐が食べたいなと思わせるには十分な内容。


 棚に戻す。

 マジ暇。

 ほんと暇。

 忍耐? なにそれ。





「うん、安定しているね」


 ようやく順番が来て診察室に通される。

 それから問診をして血圧測ったり、いつもどおりの軽い検査をこなす。

 そこで言い渡されたのは可もなく不可もなく。


 わかっていたことだが、俺の病気は良くなるということは絶対にない。

 自然治癒はありえない。そういう病気。

 つまり現状維持だった。


「俺の病気は移植でしか治らないんですよね」

「そうだね。手術や薬で押さえることはできるけど」


 今も薬は出してもらっているけど。

 完治というか、根治は移植するしかないようだ。

 もう何度も聞いたことだけど。


 ただ、俺の場合移植も絶望的だと言う。

 適合性の低さと順番待ち。

 その二つが可能性を限りなく下げていた。


 でも、自分の命が関わっているのに、その低い可能性に縋ろうって気はあまりなかった。

 去年十分取り乱したし、俺は割と諦める性格だったようだ。

 縋るべき可能性が低すぎるせいかもしれない。

 自分の命を他人の心臓で動かす、というのに少し抵抗があるのかも。

 他は全て自分なのに、心臓だけ別人が繋がっているのは不思議だ。

 わからないというのは怖い。


 話によれば、5年生存率とかいうのがあって、俺の病気は60%位。

 つまり、5年後に生きている可能性は3人に2人位。

 俺はもう発症してから2年近く経っているので、後3年。

 3年後がある確率は60%ということだ。

 安定しているとはいえ、明日には発作を起こして死んでいるかもしれない。


 明日の世界は絶対だけど、俺の明日の保証はどこにもなかった。





「ありがとうございました」


 結局。

 あんなに待たされたのに、これっぽっちも進展はなかった。

 いや、進展があるってのはつまり、悪化してるって事なんだけど。

 じゃあいいのか、これで。


 会計を待つ灰色の待合室は、意外と明るい。

 灯りがどうとかそういうのじゃなくて、人の明るさ。

 不思議なことに、落ち込んでいる人というのは意外と見かけない。


 別に。

 俺も、強がってるつもりはないけど。

 ちゃんと諦めてるつもりなんだけど。

 やっぱりさ、死にたくねえな。

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