みじかい後話
「花阪絵梨香、えりかですよ。忘れてしまいましたか?それとも、私がそれなりに成長したと捉えてもいいのでしょうか。あなたはあまり変わってないって感じですけれど」
硬直し困惑した表情を見せる侵入者――ノイズに対し花阪は穏やかに、そして少し悲しそうなそぶりを見せる。花阪の足元にあったあの鎖はいつの間に消え、ノイズの右腕は元に戻った状態だった。背後には依然鎖が漂うままだったが。
信じられないという表情で花阪を見つめるノイズの脳内では、えりかという名前がぐるぐると回る。……えりか、えりか、えりか。知っている、忘れる訳がない。私はこいつを覚えている。
(たった数ヵ月前の事を忘れる訳が……)
「でも、いや、ありえない……お前はそんなじゃなかった。少なくとも、今のお前は……、まだ子供のはずだ」
一瞬言葉が詰まり、そして改めて花阪を見直し、ノイズはその事実を確かめようとする。もし仮に目の前にいるこいつが、こいつの言っている事が本当ならば。自分もついこの前まで一緒にいた『そいつ』に違いないのだ。違いないはずなのに、こいつは自分が知る絵梨香ではない。どこをどう見ても大人だった。
「どういうことだ?お前は本当にあの絵梨香なのか?……数ヶ月前に、あいつと一緒にいたやつだろ?まだ高校生だった……」
「数ヶ月前……。ふふふ、そうか。あなたと私達じゃあ時間の流れが随分と違うみたいですね」
「え……」
「あの日あなたがアレを探す為に姿を消してから、もうとっくに成人しましたよ。今では大学で心理学を勉強しながらここの司書を務めています。もう……ざっと5年くらいですかね?」
「ご、5年……っ!?」
本気で驚き声を荒げてしまったノイズはそれでもすぐ我に返る。が、花阪にくすくすと笑われてしまい気まずそうに顔を背けた。まさかそんな年月が経っていたとは。自分にとってほんの数ヶ月前の出来事が、まるで昨日の事のように鮮明に蘇ってくる。絵梨香や、『彼女』と一緒に過ごしたあの日々は、いつの間にかノイズにとって代え難いものになっていた。この奇妙な人外が一人の人間を通し得たものは勿論人間の言うそれらの意味とは違うだろうが、それでも本質には変わりない。
この人外が初めて持った「自身の存在意義」を確信づける『思い出』なのだ。
その懐かしい記憶がもう5年も前のものだとは。にわかには信じがたいが、花阪……もとい絵梨香が嘘を吐いているようにも見えなかった。あの異様な力を見ても驚かなかったのが確かな証拠だ。
(何より、私の名前を知っている)
「……そうか。お前は、あの時の絵梨香だ。一瞬分からなかった。雰囲気が変わったし……本当に、私とお前達じゃ時間の流れに相当なラグが発生しているらしい」
「うふふ、やっと思い出してくれましたね。ノイズさん、改めてお久しぶりです。この5年間、あなたを忘れたことは一度もありませんでしたよ」
「おい……さすがにそれは言いすぎだろう。まさかお前が今の今まで私の存在を忘れずに『意識し続けていた』とでも言うのか?」
「えぇ。そうでなくとも『無意識』のうちにあなたのことをずっと覚えていたと思いますよ?」
絵梨香はくすくすと口元を押さえて笑った。昔からその笑い方が変わっていない事にノイズは少し呆れ、そしてほんの少しだけ笑みを見せた。
「……そういう細かい癖は全然直ってないな。少し安心した。いや、それよりもまだこの時代に私の事を知っている奴がいたなら助かる。5年、か。そんなに経ったか……残念ながら、私はまだアレを見つけられていない」
「そうですか……。きっと、何か特別な力が、あなたと私を再度引き合わせたんですね。私もこの年になって色々不思議な体験をしましたから」
「……?」
怪訝そうに絵梨香を見たノイズは、そこでやっと背後に漂わせていた鎖に気付きそれを消した。辺りは何も無かったかのように元通りの静寂が訪れる。「立ち話もなんだし、座りませんか?」と椅子を見る絵梨香にノイズはその場でふわりと浮いて空に座ってみせ「平気だ」と返した。
「まぁ、いい。絵梨香、お前ここの責任者だと言ったな。できればもしここで何があったか上の奴に聞かれても黙っていてほしい。元より私は不法侵入者だしな」
「あ、そういえばそうでした!ここ、夏休み入ってから改装工事で一般の方は立ち入り禁止でした!すっかり忘れてましたよ!」
すっとぼけた調子で声を弾ませた絵梨香は、わざとらしく口元に手を当てた。ひどくびっくりした表情も明らかに作っていると分かった。
「……何がしたいんだ」
「……な~んてね♪そんなこと司書であるこの私が忘れる訳ないのです!そうです、私は待ってたんですよ。そろそろ来る頃だろうから、あまり人が出入りしない方がいいなあと思って。館長さんに改装工事を頼むついでに一般開放を一旦止めたんです」
──ノイズは久々の再会で絵梨香に対する感覚のズレを感じた。こいつ、こんな性格だったか?その無邪気な笑顔はどこか懐かしい面影が重なるようで、不可思議に胸のあたりがざわつく。そしてノイズはたった今、絵梨香が話した内容に疑問を抱いた。
「絵梨香、待ってたってなんだ?私をか?そんな不確かな直感だけでこの図書館をわざわざ封鎖したのか?それとも何か別の理由があってのことか?」
「封鎖したなんて、そんな物騒な言い方しないでくださいよ」花阪が少し困ったように言う。
「それに……待ってたというのはあなたのことです、ノイズさん。さっき言ったみたいに、特別な力が私達を引き合わせたんです。多分」
「……どういうことだ」
上から見下ろすように絵梨香の瞳を真っすぐ貫く赤色の瞳。依然変わりなく威圧的な力をかけられるその瞳を見つめ返し、絵梨香は深く深く、深呼吸をした。
手元に抱えた本を近くの机に置くと薄く舞い上がった埃が絵梨香へと降り注いだ。けほけほと軽く咳き込みながら、絵梨香は中央の一番大きな本棚──の隅でそっと気配を消していた少し小さな扉の前へ進んだ。
「……あなたに、謝らなくてはいけない事があります」
唐突に言葉を発した絵梨香に対し「何だ?」と端的に返すノイズ。絵梨香はエプロンのポケットから鍵の束を取り出し、その一つを錆びた鍵穴に挿し込む。
「私はあの日、誰にも言えない秘密を持ってしまいました。あの子……杞憂と、ある約束をしました。内緒の約束です。決して誰にも言ってはいけない、いつかその時が来るまで、例えノイズにも……喋っちゃいけないって」
そこでノイズは思わず目を見開いた。それは様々な思いが入り混じる複雑な表情。絵梨香の方を向き口を開きかけたが、そのまま何も言わず続きを促す。
「だから私はあなたに謝らなくてはいけないんです。あの時、私は杞憂との約束を守る為にあなたに嘘をつきました。そのせいであなたをこんな長旅に出させてしまった」
「……ごちゃごちゃ話してないでさっさと本題に入れ」
立てつけの悪いその扉を開けると溜まった埃が一斉に舞う。これには絵梨香も後ずさりし手で空気を払った後、薄暗い部屋の中を覗き込んだ。
「……どうぞ。ずっと使われてない準備室なので少し煙たいですけど」
電気を付けてもまだ薄暗いその部屋には小さな引き出しと本棚が数個あるだけで、さっきまで見ていた景色とは程遠いものだった。本棚にも数冊だけが忘れ去られたかのように倒れている。
「私、夢を見たんです。今年の春頃に、昔の夢を」
「昔の……?」
「私がまだ中学生だった頃。杞憂と出会った時のです」
旧友が、変わらず自分に話しかけてくる。それまでは当たり前だった光景。今となっては遠い日々。とても悲しい過去の一頁。
「何日か置きに記憶を振り返る形で、ずっと夢を見ました。起きたらいつも泣いている。いい加減吹っ切れろって話ですよね。でも思い出すたびに泣いちゃって」
埃被った引き出しの上をそっと指でなぞれば、そこだけが綺麗に赤茶色の木肌を見せた。
「段々成長していくの。高校に上がって、夏が来て、秋を過ぎて冬を越してって。それで、杞憂がいなくなった日から先は夢を見なくなった」
「……」
「でもしばらくして、また夢を見たの。今度は何もない空間に私だけがいる。どこからか声がして、私に言うんです。あの本を出そうって。もうそろそろ行くから、って……変わらない声が聞こえてきました」
そして絵梨香は引き出しの一つを開錠し本を取り出す。表紙についていた埃を手で優しく払いのけ、その本に語りかけた。
「ごめんなさい。長い間ここに置いておいたせいでこんなに存在が薄くなってしまっていた。やっと在るべき持ち主が来ましたよ。これで杞憂との約束も果たせます」
絵梨香が顔を上げると、目の前のノイズはその本を今にも泣き出しそうな苦痛の表情で見ていた。
「……何故お前がそれを持ってる……何故だ?嘘って、そういうことだったのか、私からわざとその本を遠ざけようとあんな嘘をついたのか……何故あの時私にそれを渡さなかった!ずっとお前が持ってたっていうのか!?だったら私は何のためにこんな無駄な時間を……ッ!」
悔しそうに吐き捨てるノイズ。絵梨香も泣きそうな顔をして胸の中へと本を抱き寄せる。
「仕方、なかったんです。約束だったから……約束、したんだから。でも、もういいんです……杞憂がいいって言ってくれたの。それは、もうあなたに渡していいんだって。ノイズさん、これはあなたの物です。受け取ってください」
絵梨香は手元にあった本をノイズの目の前に差し出した。ゆっくりと顔を上げたノイズはしばらくの間それを黙って見つめていたが、やがて絵梨香の力強い瞳に気圧され受け取った。
腕にかかるその重さから取れる感触は、その本への『想い』の重さを形作り強く伝わってきた。あの頃には無かった感覚。うっすら黄ばんだ紙とそこから漂う独特の匂い。あの日から止められてしまった時間が、また動き出そうとしているかのような。
ノイズがそれを受け取るのを確認した絵梨香は少しだけ元気を取り戻したように微笑んだ。
「これで私の頼まれ事も無くなりました……もうここにいる必要もありませんね」
踵を返し部屋を出ていこうと扉へ歩き出した絵梨香を「待て!」というノイズの声が止めた。
「どこにいくんだ。お前にはまだ聞きたい事がたくさん……」
「大丈夫ですよノイズさん、図書館からは出ませんから。私、今はとりあえず館内の見回りに来たことになってるので。流石にそろそろ管理人室に戻って館長さんに報告しなきゃいけないから……あぁ、もちろんノイズさんのことは言いませんよ。というか、言ったところで信じてもらえなさそうですが!……それに本館を閉めきって貸し切りにしておけば、あなたにとっても都合がいいでしょう?」
念のためここは開けておきますね。そう言って準備室の鍵を閉めずに今度こそ絵梨香は本館の扉へと向かう。それを追ってふわりと飛んだノイズは天窓からの光を浴びた。
「何かあったら私に言ってくださいね。さすがにここを荒らされたら後片付けも大変ですし……思い出話なら、その本を読み終わってからでも」
それじゃあ、と再び歩き出した絵梨香の後ろ姿を見つめ、ノイズはいやらしく大きめの独り言を呟いた。
「なら、もう少し整理整頓を徹底した方が良いだろうなぁ。管理者ならせめて掃除くらいはしておけよ?」
気恥ずかしそうに笑みをこぼし、やがて絵梨香の背中は扉に遮られ見えなくなった。窓から流れてくる風は優しくノイズを包み込む。
人の気配が無くなった本館は一番最初にノイズがここへ来た時の様にしんと静まり返り、何者をも寄せ付けない雰囲気を漂わせている。唯一その場に浮かんだままだったノイズは我に返り、手渡された本を持ち直すと薄く目を閉じ精神を集中させた。ノイズの周辺にまた鎖が漂い始め、どんどん束が出来上がっていく。やがて空中には鎖で出来た大きな一人掛けの椅子が姿を現した。
その椅子にやんわりと腰掛け、自分の体にフィットするように微調整を加える。鎖で出来た椅子とは思えないような柔軟性と背中が深くもぐりこむような感触。思わずノイズにあるはずのない眠気を誘った。久しぶりに人と長く話したせいか身体への負担が大きい。元々肉体は持たない身だったが今では質量を持った肉体も生み出すようになったのでその反動だろう。しばらく休息しなければ。睡魔を追い払い、改めてその本を膝の上に乗せる。
『泡沫アグリゲート』
細い線で彫られたタイトルを指先でなぞる。何百頁かありそうな分厚い本を手の中で弄びながら、ノイズは様々なことを思い出す。
彼女は一体、何を書きたかったんだろうか。
(特に意味なんてない、のだろうか)
彼女が最後に遺したかったものとは、何だったんだろう。
(私にも、読めば分かるものか?)
もちろん返事は返ってこない。今更ながらに、あの時の杞憂の気持ちがほんの少しだけ理解できたような、そんな気がした。
『急にいなくなったから寂しかったよ、すっごく!』
(……、)
そうだな、それは本当に、……そうだ。
そうしてその『意識体』は、ゆっくりと【世界】を開く。