一 やるべきコト
主人公が異世界に召喚される物語が人気を博すのは、現実で起こりえないことが起こるからだ。主に勇者として扱われるものが多く、子供の英雄に憧れる心理を上手に取り込んだと考えられる。主役が成長する経緯を自らに重ね、あたかもそうなったかのように錯覚するのである。
これを小児期の英雄病というらしい。子供の登場人物へシフトする能力を逆手にし、英雄譚はしばしば注目されてきた。
と、何かで得た話を現在進行形で思い出さねばならないのは、たった今置かれている状況がよく似通っているからに他ならない。
「一八歳って言ったら大人だよ? 英雄病はない、と思いたいな」
僕は途方に暮れていた。草原のど真ん中に放り出され、馬が喜びそうな匂いを嗅いでいる。生まれてこれまで、こんなに嗅覚を敏感にさせる緑の香りを意識したことがあったろうか?
住んでいた場所は都会で、昔まで住んでいた場所も、町の外は荒野が続くような場所だった。お世辞にも緑に触れ合えたと言えた記憶がないが。
いや、それはどうでもいい。問題は――街にいたのに、どこの国に瞬間移動したか、の方だ。
だから現実逃避しそうになったのだ。何らかの物語の冒頭らしき事態に陥るとは、と。厳密にはそうであるかどうかは解らないのだけど。
まず記憶が定かであることを確認する。名前は、サトル・オガワだ。カフェでコーヒーを飲んでいたら、なにかが突っ込んできてはねられた。
待てよ。そもそも、何でそんなところにいた? 僕が何をしようとしていたか、何をするためにそこに来たのかも思い出せない。他に、誰かいたんだろうか?
他には身分が学生。ハンターの資格を持っている。刀剣の心得が少しある。家族は偉いハンターの爺さんがいる。この程度の記憶しかない。どうやら頭が――正常のようでない。
不幸中の幸いは、視界も鮮明で腕も触れられるからに、最悪の状態という様子ではなさそうな点か。ただ、自分の体にしては疑問点が多い。この違和感の持ち方も変な話だが。
服装はコットンシャツに革のジャケット、いかにも旅人な格好だ。肌は標準よりも白いほうで、細腕の割にはしっかりと筋肉がついている。腕を回せば肩関節の動きは滑らか、人間独特の関節が制限されているぎこちなさを感じない。
ハンターの端くれだから分かる――これは、刀剣や格闘術の扱いに長けている証拠だ。僕は、こんなにも戦闘向きの体をしていなかったように思う。
「でもって何か動き辛い。本当に僕の体なのか? って、なにを言ってるんだろうな……」
自分に突っ込みつつ、服装を見下ろして溜息が出た。こんなにオシャレと無縁だったか。旅装束に機能美以外を追求する方がおかしいかも知れないけれど、背格好も何か違う気がするし。
考えながら再度、広い緑の絨毯と地平線に視線を這わせた。ふと、草に視線をやって思い出したように、ピッと一本だけ髪の毛を抜いてみる。
「っ!? ……えー、この色はプラチナブロンド、か。僕の髪は黒だし、ねぇ?」
顎に手を当て、しきりにウーンと唸って見る。そうして解決するなら早い話だが、悩んだ気分が出ただけで、疑問は程よく深まってくれた。やっぱり溜息だけが出る。
「ていうか、一体ここ、どこさ?」
状況を全く飲み込めない乾いた唇は、言って置かないと始まらないと言うように、最初の疑問にお帰りなさいする。髪の毛を抜いて痛いということが、夢だとか死んでいるとかでないのを裏付けはしたものの、逆に言えば瞬間移動しか説明がつかなくもなったのだ。
「ま、まぁ。死んでないならいいか。……アレ? でも、絶命したような気がするんだよな。大体、死んでたら痛くないとか、死んで帰って来たやついないのに何で分かるんだ?」
屈んで額を抱える。そんな肩を、指先でちょんちょんと誰かに突付かれて振り返らされた。
「水汲みに行ってる間に起きて、なに勝手なこと言ってるの? あなた、死んでないわよ? あたしが助けてあげたんだから感謝してね? はい、これ水飲んでからでいいから」
振り返った先には耳の尖った、物語によく出てくるエルフと呼ばれるはずの美しい妖精少女がいた。空色の肩下までの髪、血色のいいピンクのぷりっとした唇、鼻筋通った可愛らしい少女が片手を腰に遣り、片眉を寄せた表情でこっちを見下ろしている。
「ど、どうもありがとう?」
彼女から押し付けられた水袋を少し含んで口に流し込むと、渇いた喉を清涼が撫で付けた。
少女は青色のレース付きワンピースの上に、白く可愛らしい魔道装飾衣を羽織っている。改まって姿を見ると、見事に暑そうな着衣としか言い様がない
振り返り終わる直前で、死んでないとか、助けたとか言っていた。まじまじと相手を確認してから溜息はでる。見たこともない場所に投げ出され、耳の尖ったファンタジー少女が仁王立ちで掻い摘んだ説明をしても、質のよろしくない思考回路じゃ処理し切れない。
好意的に解釈すれば、瞬間移動で命を助けたのが少女の仕業ということになる、が。
「それで。えぇっと、どちらさまでございましょう?」
質の悪い口から、出来の悪い敬語が漏れ出した。自分の発言を気に留める余裕もないほど混乱しているのだが、割に頭の深い部分だけは、淡々と事実を受け流して頑張ってくれてもいる。
ともかく、この特殊な状況を何とかせねば、とんでもないことに巻き込まれる気がして仕方ない。既に巻き込まれていた場合、熨斗つけて返却させて頂こうか。程よいプラス思考で、まだ巻き込まれてない。と根拠もなく願おうとした期待は早々に少女によって打ち砕かれた。
「いきなりじゃ無理かしら。……正確には死に掛けてたけど、あたしが誘魂の術で、こっちの体にあなたを移し変えたのよ。でね? ここはあなたの世界とは違う世界。さすがに解ったわよね? だから、あたしはあなたにとって命の恩人でご主人様」
ああ、やっぱり。なんか訳の分からないことを言いだした。誰だか尋ねる質問には抽象的で、色々と端折った説明が圧倒的に多く、さっきとそれほど変わり映えしていない。
この異常の状況を、端的な説明で理解しました。などと、何割くらいの人間が納得してくれるかは考えてみるまでもあるまい。そんなわけで、目が点のまま口元を猫のように歪め、首を横倒しにして『にゃ?』と鳴いて見た。
少女はその所作が大層に癇に障ったようで、青筋を浮かべながら腕組みをして顔を引き攣らせる。次いで、こちらと目線の高さを合わせて睨み、目にも留まらぬ速さで腕を解いた。にっこぉりと福笑いも吃驚の不気味な笑顔を浮かべたかと思った次の瞬間。
横からフォン! と空を切り裂いて、僕の麗しき頬に固い握り拳がメキョっと音を立ててめり込む。同時に体が横に引っ張られ――否、吹き飛ばされた。
「ぷぇっ!?」
余りの速さに悲鳴は遅れて出た。石のように硬くて、とても女の子の腕力での一撃と思えない。もう少しで死川の向こうに飛ばされ、対岸に戻る術を失うところだった。
「ね、おバカさん? 分かりやすく説明して差しあげたのにまだ分からないの? あなたは元の世界でたぶん死にました。その魂をこの有能な美女エルフのあたしが拾いあげて、この世界で死んだ若者の体に注ぎました。誘魂の術っていう秘術でね? だから元の世界ではダメでしょうけど、ここでは立派に生きています。……今度こそ、解ったわね?」
あっさりと、パンケーキ焦げてダメになっちゃった。的なノリで、元の世界の体とやらへの淡い期待を滅多ボロに打ち砕いてくれたことが微笑ましい。違う、腹立たしい。
少女は胸に手を当て笑顔で得意げに説明した後、真面目な顔に戻り、じっと返答を待っている。本当に誘引の術だか誘惑の術だかで助けたという説明を信じるべきか?
何しろ信憑性のカケラが一つもない。欠片どころか、彼女の言う別世界かどうかも怪しいくらいだ。大体、いくら僕の世界でも広大な草原の一つくらいは、……ないな。
何にしても、耳のとがった彼女がエルフなのは確かなようだった。遥か昔にエルフとドワーフが滅びている歴史を加味すれば、ここが自分の世界であると証明する方が不可能になる。
いつの間にか非常識なことに対して考える力が戻って来ていた。頬のどうしようもない痛みで現実を認識し落ち着くしかなかったとも言えるが。ひとまず、痛みを堪え起き上がる。
口を使おうにも、痛みで声が喉から上に行かない。ので、低姿勢で頷いて置こうか。
「よろしい」
少女は満足そうに頷いた。
くだらないと思ってきた物語の世界を自分が身を持って体験している。もはや架空じゃなく、現実だから史実。これで有り得ないとか有ってはならないを口にする機会は絶たれた。
どのみち否定と肯定の二択は自分の周囲を歪めるだけではあるけれども。
この流れで唯一の発見だったのは、彼女のフックによって骨の軋む音と共に死線の境を垣間見て、逆らったら本当に笑えないことになると知ったことだ。
「まぁ、今すぐ理解しろとは言わないわ。あたしも理知的なエルフだから、心が広いのよね」
「はあ。それは、どうも?」
自画自賛する少女を冷たい視線で見守ってあげた。
この子は、清廉で人間をよく思わないエルフの通念とは似ても似つかない。彼女だけが変という線もないことはないとして。
どうであれ、常識が通じない方が今は好都合ではある。
助けてもらったことを素直に感謝し、元の世界に戻ることを考えよう。戻っても体がなくて天国か地獄行き九割以上っぽいのが逃れようもないので、体再生の期待の程は五割以下安定だ。
雄弁に自分のことを自慢し続けている少女に、再びの低姿勢から尋ね口調を試みる。
「助けてくれてありがとう。感謝するよ。ところで――」
「知らないわよ? 元の世界に戻る方法なんて? この秘術は別世界の死に瀕した魂を誘い導くもので、別にあたしが選んで助けたわけじゃないもの。その体に相応しい魂が選ばれたっていうのはあるけど、それがあなたなのは偶然の域よ」
はいはい、二割弱を下回った。諦めた方がスムーズな確率、最早どうでもよくなってきた。このままここで暮らすという選択肢もありではある。どうせ記憶が曖昧なのならば。
「帰す方法は長老なら知ってるわ。死んでる可能性が高いのに戻りたいとか物好きよね。いいのなら連れてってあげるけど、しばらく護衛と荷物持ちしてくれる?」
今更もういいです。とも言いづらくなる展開に発展させてくれた。早口な彼女に適当に切り返す言葉だけが浮かんで、とりあえずそれを口にして置く。
「要は壁になれ、ってことね?」
「うん、飲み込み早いじゃない。そういうこと。あなた今から肉壁ね」
キッパリ言い放ち、小悪魔のように笑う彼女に、本日何度目かの溜息さん来訪。
「ま、いいか。で、何か記憶が曖昧なんだけど、これはどういうことです?」
「死に掛けの体から魂を無理矢理にむしり取ったのよ。お茶入ったカップに穴あけてるのと同じだから、取り零すことくらいあるでしょ? 後遺症みたいなものよ。記憶なんてまた埋めればいいんだし、そんなに気にすることでもないわ。どうでもいいじゃない?」
「どうでもよくないよ!?」
色々抜け落ちて積み重ねたものが分からないのは、自分であって自分でないも同然だ。
元の性格とも見事なくらい差は出るだろう。別にそう拘るつもりもないと言えばないけど。
助けてもらって文句を吐く訳にも行かず、空を眺めると隠れて嘆息しておいた。
南には山、西にも山、東に鬱蒼と茂る森。そんな見渡す限りの大自然の中を南東へと、彼女の後をついて歩いている。さっきまで違う世界にいたらしい右も左も分からない人間には、どこに向かっているのやら定かではない。変なところに連れて行かれないことを願うばかりだ。
「そういえば、物語だとこういう形で呼び出された場合、異世界の勇者? だとかって位置づけで、魔王と戦ったりするけど、これってそういう系?」
荷物持ちとしてやたら大きなカバンを背負わされた僕は、街道をのんびりと手ぶらで歩く少女の後姿を憎々しく見やり、重たさにヒィコラ言いつつも問うた。
質問に対し、彼女は少しだけ間を持たせてから振り返らず応えた。
「勇者、ね。どういう系だか知らないけど、この世界には勇者も魔王もたくさんいるわね」
意外な応答だった――勇者と魔王が複数いる――どんな世界だ。興味が沸き疑問を含んで、最後の部分を繰り返す。
「たくさんいるわね?」
相手の語尾口調まで真似てしまったのは少し恥ずかしい。
しかし、彼女は気にした風もなく、説明が面倒臭いと言うように張りのない声で告げた。
「勇者や魔王なんて称号みたいなものだし、ね。力がありさえすれば、望む望まざるに関わらず背負わされる不名誉なものよ。因縁まで一緒にくっついて、ね?」
因縁。興味深い単語にそれとなく含みを持たせているように感じた――まるで食いつかせるかのように?
力に優れたものが背負わされるのは、ハンターの免許に似ているようで、少し違うか。少なくともハンターは望まなければなる必要がない。例え境遇に強要されていたとしても、だ。
「因縁、って?」
彼女は一瞬、肩越しにこっちを見た。その顔に、意味深な笑みが浮かんで見える。
「この世界は魔族により統治されているの。これに異を唱える人間が、勇者を擁し戦争を起こした。魔族もまた反撃をし、両者の間で泥沼の争いが何百年と続いているのよ。魔王や勇者になるということは、その争いに自ら身を投じるということなの」
耳がおかしくなったかと思った――勇者が戦争を起こす側で、魔王が秩序を守る側?
道理と違う。実際にいたのはハンターか賊くらいだし、勇者や魔王は本か劇でしか見たことがないとしても、それとは異なっていた。勧善懲悪の子供のための読み物が、常に魔王と言えば悪い側を想像させるせいだ。
が、それを常識だとすることこそが異常なのかも知れない。争いを始めるものの口実よりも殊更に危険な思想に取って代わりかねない。
それでいて事実はもっと不条理。望まずとも争いの火種を背負わされて駆り出される。平和を願うものでも戦わされ、逆改悟される。歪んだ意志が罷り通るその先には一体なにが残る?
「人間が戦争、か」
「人間だから、なんでしょう? 昔からずっとよ。いつも仕掛けていたのは、あなたたち人間の方。だからといって、そんな人ばかりじゃないでしょうね。でも、魔族を悪しきと決めつけ、戦争を望む存在は圧倒的に多い。……あたしには分からないわ。本当に悪しきものって、誰にどのようにして、決める権利があるの?」
彼女の言う通りだ。確かに僕も、魔族と聞いただけで元凶を選定しそうになっていたじゃないか。何も知らない内から結果を求めようとするのが人間という生き物だ。
この世界も人間の性質は同じなのかも知れない。関係ないからと、見てみぬ振りをすることが本当に悪しき考え方に派生したりする。
(本当に、関係ないのか?)
「あれ、今のは?」
「どうしたの?」
「あ、いやなんでも、ないのかな……」
耳の内側から聞こえたような声は男のもので、彼女でない。自分の体じゃないし、元の主が空耳や幻聴持ちだった、ということは有り得なくもないが。なんかすごく、嫌だ。
首を振って振り払い、口を一文字に閉じた。幻聴を気にする暇に、今は少しでも多くの情報が欲しい。僕が人間である以上、彼女がいつまでも味方であるとは限らないだろうからだ。
「勇者って勇ましい者、だろう? もう勇者じゃないね」
変なところに目をつけたと言わんばかりに、肩越しに横目を向けた彼女は、すぐに顔を前方に戻して、少し声を低くし神妙な口調になった。
「その昔、ある男が魔王と二人で世界を火の海にした巨竜に挑み討ち果たした。世界を救った彼は、悪の竜に挑む勇ましい者として、始まりの勇者と呼ばれて勇者の起源になったのよ。現在は歪んで継承されてるけれどね」
ありふれた英雄譚だ。そう、納得できるのなら越したことはなかった。
――勇者と魔王が手を取り合い、大いなる敵を倒す――何とも前代未聞。これもレールに合わない車輪で走ろうとすることが間違っている。従って、その前提で話を進めるしかない。
「何でそんな仲よし子よしな勇者と魔王が今は争いを?」
「世界を救った勇者と魔王の間に子が生まれ、この子はすごく力を持った賢人だったわ」
勇者と魔王の、子供。前代未聞の次は荒唐無稽がおいでになった。いくら何でも信じられないが、信じられない話を取り上げるのなら今更だった。自分の体を見下ろして嘆息する。
混乱していない今は自分の体でないと言い切れそうだ。これを成り行きで見守ろうとしていること自体に、でたらめな真実という言葉がお似合いだった。
郷に従う人間は不思議なもので、受け入れた次には、まさか。と変な想像に支配される。
「待った。勇者と呼ばれたのはとある男なワケで、エート?」
「魔王は女よ」
ああ、そうか。なるほど! 僕の無理な予想が当たっていなくて良かった!
いくら色々と尺度が違うと言えど、男同士でも子供が生まれるとか、今すぐにもこの世界から逃げ出したくなる想像が当たっていなくて本当に良かった。
にしても、魔王が女と言われるとセクシーなお姉さんしか浮かばない。記憶はなくとも、健全な青年の反応はきちんと残っているのが喜ばしい。
「女だからって、可愛い子とか綺麗な子ばかりじゃないけど?」
何だろう。痛快に僕の心の中の欲望という魔物の正体が見破られている気がする。むしろ読まれているが正しいか。彼女の読心術に恭敬しそうになった――待てよ。ばかり、とは?
「魔王って女が多いんだ? ということは勇者も男が? 魔王が女で、勇者が男?」
「単純なことよ。魔王としての魔力が高いのが女、勇者としての聖力に優れるのが男。と言っても一般的な話よ。魔王に男もいる。逆も然りね。種族だって関係ない」
よくわかったが、聖力に優れた男というのは何かあれな想像をしてしまいそうになる。世の男子諸君に言えば深く頷いてくれるのだろうが、目の前にいるのは女の子だし憚られた。言った日にはロクでもない烙印を頂戴し、罵られても文句が言えず、一生惨めな低姿勢になるのが受け合いだ。つまり、黙っておけという天の啓示に違いない。
まぁ、この世界の私欲に溢れているだろう勇者には、アブノーマルなイメージの方が適度にはまっている。とりあえず僕の煩悩よ。今は真面目な話の最中だから霧散せよ。
「話を戻すわ。子供は両親の力を受け継いで賢人だった。けど彼の二代後の子孫は野望と欲望に満ち、始まりの勇者以上の力を持っていた。魔王が女と知るや手当たり次第に捕らえて襲い、奴隷にして用済みになれば……。そんな男が自らを大勇者と号したのよ」
想像して気分が悪くなった。百歩譲って、男ならハーレムに興味が出てくるとして、今のこの話はそれには程遠い。襲って奴隷にし挙句は……。彼女の噤んだ言葉の先が想像通りなら腐っている。そうまで惨たらしくあっての大勇者、愚の骨頂と言うべきだろう。
「魔王たちは闇雲に立ち向かうだけで身を守れないと悟って、何人かで手を組み大勇者に立ち向かったわ。……徒党を組まれ、押され始めた大勇者は自らの駒となる勇者を増員し、魔王を討伐させた。お金と捕らえた魔王の身柄を好きにする権利を与える代わりに、ね」
「…………」
言葉に窮した。詰まったという方が的を射ているかも知れない。
何故、同じ身命として扱えない? それは最たる疑問だった。
大勇者に対し、他の勇者の行き着くべき先はアンチテーゼだと、中途半端な僕にでさえ分かる。理想論だと分かってもいるが、でも一人くらい異を唱えるものがいてもいいだろうに。
「この話で怒れるなんて、あなたは人なのに正常みたいね。こんな世の中じゃ、正常がだんだんと形を変えていっちゃうけど……。あたしも、なにが正しいか解らなくなりそうよ」
いつの間にか立ち止まり、こっちを見ていたエルフ少女は自嘲気味に笑って言った。
彼女の科白を確かめるように顔に触れれば、頬の辺りの筋肉が強張っているのが判った。話しを聞く中で、とても穏やかとは言えない表情に変化していたのだろう。
「正常じゃないよ。人間を信じたい気持ちも少しはある。でもさ、人の数だけ正義もあるんだろうけど、認めるわけには行かないよ。昨日まで笑っていた人が消えて、それが自分の大切な人だと思ったら悲しすぎるからね。……その歴史の上で争いが続いているなら、尚更だ」
「あなた、泣いて……?」
「へ……?」
言われて触れた頬には涙の筋が出来ていた。辛い話ではあるけど、涙を流すほど悲しいところまでは極まっていないはずだ。とりあえず、濁して置くしかない。
「目に砂埃が入ったんだ。……まぁ、僕なら無慈悲に戦って勝ち取るだけの正義はいらない」
少し心配そうに表情が曇ったように見えたが、すぐにも彼女は無表情に切り替える。
「三百年前、大勇者と魔王の全面戦争があってね。その戦いで大勇者が命を落として少しだけ戦争の兆しが弱まった。今は十七代目の女王ロザリーヌ・アスフィ・カトライアが中央大陸を統治して、魔族も人間も妖精たちも、皆が平等な暮らしを享受してる。見かけはね」
大勇者が死んだという話を聞いて、少し安意した。魔王少女たちを虐げる存在がいなくなったのも喜ばしい。けれど、根本的には何一つ解決していないし、誰かがやられれば終わる戦い、そんなものに何の価値も意味も感じられない。
それにその種族にとって英雄であった存在がいなくなったとて、また新たな英雄を歴史は生むだろう。そうやって混迷を深めて、元の問題から歪曲し、最後に残るのは憎み憎しみ合う関係だけだ。無作法な血の争いを聖戦と銘打ち、ありもしない大義名分を掲げては、私利私欲という最大の武器で仲間に牙を剥くのが人間という生き物。僕は奥歯を噛み締めて目を閉じる。
「けど、それは表面上の平和で、水面下では確執も対立もあるんだろう?」
「そうね。大勇者がいなくても、勇者はいるわ。中央大陸以外、今いるこの周辺諸国に住む魔族は今も勇者の被害に遭っていて、魔族を守るために戦う魔王もまた……」
敢えて濁したようだったが、何を言わんとしているか分かった僕は視線を下げた。
勇者の質が留まるところを知らずに腐敗しているのは確実だ。分かってはいても、どうかするという行為は再び争いの兆しになる。是正の必要を意識しても、求めることが逆の価値観を生み落とす。進むべき共存に進めずに膠着し始める意思は、次第に尊厳を侵食し、無頓着さを覚えさせ、最後には二律背反が信念を打ち砕いて終わる。本質に盲目となった人々は名前に踊らされ、害悪の正体を見極めず討つべしと声高に発言し、争いを否定する少女ですら構わず駆り立て続けよう。
それが、そんなことが許されてしまっている世界が、ここにある。
「原因を取り除けば終わるといい。その言動すら原因になり、悲惨な爪痕が増えるんだろうな。繰り返す歴史、矛盾とも知って、偽りの平和を本物に摩り替え、ねじれた甘い夢に奔走する」
馬鹿だね。と吐き捨てたものは愚痴のようで、単純にそうと言い切って聞き捨て出来るものでもない。だから彼女は、研磨し切れない哀愁に、ほんの少し首を縦に傾けてくれた。
その仕草が彼女にとっても重くて処理しきれないと認めている、そんな風に感じられる。
「そうね。犠牲の上の平和なんて虚構だわ。だけど、痛みの伴わない平穏もただのまやかしなのよ。それに今の世界が抱えているものは、なにも勇者と魔王のことだけじゃないしね」
「他に、も?」
変に遠まわしなその言葉に要らない好奇心が反応してしまった。
「いつか来る災厄を見極めて、それに対処しなきゃいけないの。異世界の技術だってアテにしたいくらいよ。そんな時に人間と魔族が争ってるんだから」
「災厄って、世界が収縮し始めました、とか?」
「判ってたら苦労してないわよ。……最近の地鳴りで出土した遺跡から古代文字で書かれた碑文が見つかったの。一部分を解読した学者の話だと、災厄を示すものだって言うから」
なにやら勇者の出番的な流れは濃くなってきた。わざわざそんな出番は要らないが。出来れば、すべからく平和で何も考えず、存在の意味を疑われる程度の情勢が一番望ましいもの。
「解読出来た部分は『黒煙は二辺を分』っていうとこだけよ」
「何でそんな中途半端に気になるところで切れてるかなっ!」
「それ以降、解読できなかったらしいのよ。中央大陸観測台の調べで、東大陸に霧が掛かり始めたって聞いたけど、それが黒煙を意味するのか分からないし、霧なら白でしょ?」
そこでエルフ少女は、可愛らしい顔を台無しにする侮蔑の表情を浮かばせて、僕を見るなり溜息をついた。
「あなたは見たところあんまり頭よくなさそうだし困っちゃったわ」
無神経な一言が、僕の心の柔らかい場所を一回と言わず、数回は突き刺してくれた。
「あのさ、頭いいとは言わないよ? だけど、合って間もない人間に失礼じゃないか。大体、お前は……、じゃない君は頭いいわけ?」
少女の悪態にそれ相応の態度で返したつもりだった。が、当の本人は言ってないというような涼しい顔をしてから、ニンマリと笑いかけ、どこから出したか硬そうなワンドを突き出した。
「命の恩人に対してお前、ですって? あなたの世界じゃ、恩人にそんな口の聞き方なさるの? 身の程を弁えてないなら、土葬してグールの触媒にして差し上げますわよ?」
「いや、ちゃんと訂正したんだけど!?」
さっきまで砕けた調子だった口調はお嬢様よろしく丁寧なものに変わっている。いや、そんなことよりも、グール=屍食鬼?
とんでもないぞ。シャレになってない!
本当にやりかねない気焔と、危ない笑顔を張り付かせた少女が僕に詰め寄る。不本意だが、こんなのとやりあっては命が幾つあろうとも足りない。渋々とだが謝ることにしよう。
「すいあせんで――ボぇッ!?」
――バキィッ――と、木の枝を力の限りにへし折ったような音が響いた箇所は僕の顔だ。
不出来な謝罪が気に食わなかったか、彼女は先ほど手にしたワンドで殴りつけてきた。
「殴ってるわよ?」
「殴ってから言うなよ! じゃなく、殴られてるの分かってるから解説いらないし!?」
――バキッメキッゴシャッ――木の板を力任せに殴って、拳が昇天したときの嫌な音がした。
「ほげぶぉっ!?」
音は三発だったが、体に打ち込まれた数はその三倍の九発に及び、さすがに対人間相手の丈夫さでならそれなりな僕でも地に伏してのた打ち回った。この世界がどうとかの前に、対エルフへの人間の常識という力が働かないような気がした。
「頑張って殴ってるわよ?」
「いや、だから解説は……が、頑張らなくていいし……」
もう数発も殴られれば、顔が緊急事態になる。手加減なんぞあったもんじゃない。
コイツは自分の言動で僕に危害が及び、見知らぬどなたかに事故に見せかけて殺されてしまっても、自分の関係者でないと言い張って捨てていくタイプだろう。
むしろコイツに殺され、捨てるほどの死体も残らなさそうだ。間接に寸分たがわず打ち込んだくらいだ。何か魔法的な力で木っ端微塵にされ兼ねない。
これ以上の被害を頂戴しないためにも、地に伏し苦悶しながら、若干土下座気味でゴメンナサイと頭を下げた。
かなり不恰好なのはなかったことにしたい汚点である。
「解ればいいわ」
「お解り頂けて光栄です。その重そうなワンドをお持ちいたします。お嬢様」
随分と普段の僕からは考えられない至極ご丁寧な執事口調で、露骨に少女の武器を奪――持とうと歩み出る。既に召使扱いのつもりなのか、彼女は疑いもせずに尊大にワンドを差し出し、手をひらひらさせて優雅にお嬢様を気取って歩き始めた。
危険な武器は今や手中にある。攻撃することも反撃に転じることも出来ない、はず。何かやるにしても、こういう杖を媒介として術を使うはずだし、勝機は我にあり。
しめしめと彼女の背後で握り拳を作った。確認して置くと女の子を殴る趣味などない。小生意気をちょっと小突きたいだけだ。一発くらいは大丈夫、モラルに反してはいない。多分。
そんなこちらを見透かしたのか、彼女は突然振り返る。ぎりぎりで咄嗟に拳を開いて、今まさに欠伸していた様子を装った。
「そうそう。杖ないからって後ろから不意打ちとか無理だからね? 杖がなくたって、あなたを吹っ飛ばすくらいはワケないのよ?」
にこっといい笑顔を浮かべて来られては、罰が悪そうに明後日を向くしかなかった。
何とも食えない。抜け目がないとも言える。奥の手や二手三手先を常に隠している印象で、素直に知能の駆け引きに出られそうもない。笑顔で罠にはめる策士の一面がある。
ついでに見た感じは美しいエルフだが、会話だけ見れば凶暴な知能ザルと評せる。
人間じみていて、かといって混血のハーフエルフというわけでもなく。肌は白いし垂れ耳も長く尖り、ぱっと見は本当に麗美な妖精だ。
僕の考えをよそに前を歩く彼女は再び立ち止まった。
合わせて立ち止まってみたが、しばらく振り返らず、時間にして十数秒は経ってから緩慢に体ごと振り返った。また殴られる錯覚に襲われて身構える。
「名前、アールシアナ・エルフィスよ。シアナって呼んでくれていいわ」
いきなり自己紹介され、ポカンと口を空けて身構える格好で止まってしまった。召使扱いを受けるくらいだ。名前を聞いても『下僕に教える名前はない』などと言われるものと思っていた。さっき無視されたことも受けて、彼女から名乗って来るのには面食らってしまった。
ちなみに自分から名乗らなかった理由は一つある。この世界で名乗るための名前を今まで考えていたからだ。決して、彼女に恐れをなして忘れていたわけじゃあない。本当に。
とはいえ、今から深く考えるのでは間に合わない。反応を切り返さないと本気で殴られそうだし、愛着わきそうな名前ならいいか。深く考えた素振りだけして見せ、真剣な顔で口にする。
「元の世界の名前はサトル・オガワ。なんだけど、ここでこの名前は、もしかしなくても不自然だろうし、ウェアライズ・リバーテイルってどうかな? 呼びはライズ」
「ええ、その名前の方が怪しまれなくていいと思うわ。見かけによらず機転利くじゃない」
見かけによらず、は余分だ。褒められている気がしない。多分、褒めていないのだろうけど。
「ま、まぁ。学生だったし? サボってはいたけど地質学者の卵だから、そのくらいはね。地質の面でならさっき言ってた話にも役に立ったり、立たなかったり?」
我ながら曖昧模糊で煮えたぎらないひどい一言だった。
「へぇ、地質ねー。地鳴り多いし、役に立ったりしてね。ある意味あなたで正解なのかしら。エルフの里に入るまでになるけど、よろしくね、ライズ?」
にこりと笑いかけるシアナの笑顔は、さっきまでの横柄なそれとは違い、美しいエルフならではの癒し効果さえ含んでいた。
しばらく、その笑顔に微笑み返しつつ見惚れ、心の栄養を摂って置き、たかったが無理らしい。
彼女が不自然な間に怪訝な表情を浮かべたところで、マズイと思って口を開かされた。ほとんどもう、殴られないための条件反射になってしまっている。
「あ、ああ。うん、よろしくシアナ。名前、可愛いよな。お世辞とかじゃなく、いい響きだと思うし、今のシアナの笑顔も可愛かったよ」
もし、最初にこの笑顔を見せられていたら第一印象で一目惚れ確定だったかも知れないのに。今では暴力エルフの印象の方に邪魔をされる。とは言わないで置こう。
彼女の顔はみるみる真っ赤になった。言われ慣れしていないことが明瞭な反応だ。物凄く照れたようにモジモジともして、これまでとのギャップが堪らなく、いい。
不意にシアナは笑った。さっきよりもたっぷりと愛らしく満面の笑顔で、小さく『アリガト』と控えめにぎこちなくも付け加えた。
こうまで愛嬌があるのは少し予想外だった。昂揚を帯びた心が跳ね上がり掛けるのを、ゆっくりと飲む息で抑え込むほかない。
自らの口元に手をやり鼻までを覆って、赤面しかける顔を俯き加減に隠した。
「無用心だろう?」
「え? なにかいった?」
エルフの耳がいいのは盲点だった。呟いたつもりが聞こえていて、少し狼狽させられたが、隠すことでもない内容を口にする。
「どこの馬の骨とも知れない人間にいい笑顔を見せると色々と。ね? 危ない、ですよ?」
少し軽口も込めたつもりだったが、頭のいいだろうシアナは照れ隠しの意味を悟ったようで、クスリとおかしそうにかすかに吹き零し笑うと踵を返して歩き始めた。
「あらあらぁ。ライズって、そういう言葉で女の子を誘惑してきたのかしらねぇ?」
「いや、そういう意味じゃなくて!」
「安心しなさいよ。あなたみたいに言葉巧みな人間はちゃんと警戒してるわ。本心かどうか分かるんだから。本心じゃない人に笑うほど、大らかじゃないのよ。これでも気位高いし?」
「自分で言うかな、そういうの」
回りくどかったが、つまりお前の言葉には疑いを持っていない、と言いたいのか。予想の斜め上だったけれども、素直に嬉しいと言わざるを得ない。
しかし、安閑のやり取りも束の間のこと、三度振り返った彼女からは笑顔が消えていた。
「ちんたら歩かないで! 走るわよ!?」
「はい? 急にどうしたんだよ。大体、これでも結構早足で、これ以上は……ごぇっぼ!?」
抗議し始めた次の瞬間、彼女に首根っこを捕まれ引きずられ言葉を遮られた。
しばし足がもつれたが、自分の足で走れるようになると、彼女の腕を振り払い絞まった首の調子を探りつつ横に並ぶ。このエルフ、華奢の癖にとても力強い。じゃなく、何で急ぐのかを、舌を噛みそうになりつつも尋ねたい。
「なん――」
「敵ッ!! 追われてるの!」
「最後まで言わせてくれません!?」
「細かいことは気にしないのっ!」
「……はあ。いないじゃないか。その可愛いおめ目はお飾りですかー?」
後ろを確認した僕の頬に拳がめり込み、ゴニャと音を立てて首が変な方向に曲がりかけた。
「褒める気なのか、貶す気なのか、死にたいのか、一体どっちなのよ!」
「何か最後が違うの混じってない!? 因みにお答えすると、どっちもさ!」
「三回くらい死なせたいわね!」
「なんでべっ!?」
ちょっと赤い顔でシアナは怒号を交え、もう一度殴って来る。悲鳴の最後に図ったような衝撃がきて、噴出した僕のセリフはとても喜劇的だった。素晴らしいタイミングを評するよ。
けども、殴打で照れ隠しには程があると申し上げたい。
とかく追われているのなら、寸劇をしている場合じゃなさそうだ。好い加減な自分を律し、患部を押さえて再度振り返り疑問符を浮かべた。誰も追ってきてなどいないので続けて首を振る。その様子に、シアナは呆れた顔で嘆息した。
「見えないだけよ。限られた魔族だけが使う不可視の術。あなたの体は槍と剣の使い手だし、殺気とか気配を感じられるはずよ?」
「そ、そうなのか? ていうか、魔族で追いかけてくるってことは?」
「魔王でしょうね。今追って来てるのは獣か何かだけど、随分と後ろに大きな魔力を感じるわ。走るのが遅いみたいだけど、狙いはライズだと思う。安全な場所まで逃げるわよ?」
シアナの説明を聞いてから後ろに集中すると、確かに一人と一匹の気配が追ってきているのが分かった。だけど、彼女の言う殺気は微塵も感じられない。もし、こちらをどうにかしようという気なら、獣のスピードに人間が勝てるわけもないのだし、すでに襲われていてもおかしくないのでは?
となれば、別の目的があると考えられなくもない。とりあえず勇者の体って便利。と感心する頭に当然の疑問がもたげた――シアナはなぜ剣と槍を使えることを知っている?
が、それも一瞬で吹き飛び、ライズが狙いと言われて自分を指差した。
彼女は爽やかな笑顔で頷くが、その意味を敢えて聞きたいとは思えない。予想だにはせずとも、女王様の彼女が返す反応は完璧に察しが付いた。
何か情報が引き出せると信じて、一応は驚声を挙げようか。
「なにゆえ!?」
「だってその体、誰かに倒された勇者の体だもの。たまたま拾っただけだしね」
「何だ。そういうことか。って納得すると思う!? 変なの拾うなよ! しかも勇者なのになんで装備が一つもないわけ!?」
「全部破壊されてたの!」
な、なんだと? 根こそぎ装備破壊とか、どんだけこの体の持ち主は恨まれていたんだ?
体は超丸腰だ。剣はおろか鎧の欠片すら身についていない。この状態で攻撃を食らったりしたら素敵なことになってしまいそうだ。食らう攻撃方法と狙われる場所によっては、永遠の眠りも約束されるだろう。嫌だよ、そんなの。
――ヒュンと顔のすぐ左隣を何か鋭利なものが通過する――めでたしめでたし。でなく、咄嗟に首を捻っていたから、頬が少し切れた程度で済んだ。数瞬ばかり遅れていれば、頭蓋骨の風通しがよくなり、夏場が比較的すごしやすく快適になっていたところだ。
熱しやすい頭だって冷やしやすくなる。……わけがない。割とストレートに背筋が凍る。改めて元の体の持ち主ありがとう。二度死なずに済んだ反射神経にだけは感謝したい。
続いてシアナの様子を伺い、逃げきれるのか。と目配せする。
「もう少し走れば森があるわ。そこまで行ければ、なんとかする。……それより頭、大丈夫?」
「顔の間違いですよね!? 頭ってなんか悪いって言われてるみたいなんだけど!」
「じゃあ、顔大丈夫?」
「なにその取って付けた感の半端なさ! ……まぁ、ウン。顔より、シアナの荷物になんか刺さったから、それによる僕の命が大丈夫じゃない、というか?」
「あぁー! 何てことを! 大事な食料鞄に穴空けて!! ちゃんと避けなさいよ!!」
何てことを、という言葉が妥当に値するのは原因が僕である場合の話、だろう?
この鬼畜エルフは無茶を言ってくれるよ。自分の体の二倍はあろうかという荷物を抱えていて、かろうじて顔に来た分を回避しただけでも奇跡だと……、顔に――何だこの違和感。
荷物で頭は隠れている。だからカバンに当たって穴が空いたんだろう。だとすれば、頬を掠めたものは、どこから飛んできた?
障害物を飛び越えて攻撃できる可能性があるとすれば、何かの魔術が攻撃物を取り巻き、使用者の意思で飛ばした物の誘導が出来たか、飛ばした物そのものに誘導性がつくか、あるいは物体を対象者の前方に瞬間跳躍させたか、だ。どれかの能力、あるいは最悪すべてを備えている可能性がある。それはつまり――。
それなら命を狙っている訳じゃないという考えもまんざらではなくなるのか。疑問なのはシアナが気づいていないことだ。気づかないフリをしている様子はない。どちらかといえば、なにかしらで混乱していて、正常な判断が出来ていない印象を受ける。常に先手を打っているかのような彼女の出方を考えると不自然だった。
どうでもいいが、この大荷物を華奢なエルフがどうやって運んでいたのかも僅かな疑問だ。ともかく消え入りそうな僕の存在意義は主張して置こう。
「僕より食料の方が大事なのか!?」
「当たり前でしょ!?」
即答だ。一考するいとまさえなかった。もう、今すぐ元の世界に帰りたい。
まぁ、これ以上の損傷を控えて森に逃げ込めば、命まで飛ぶこともないはずだ。
と思えども、そう簡単に運ぶわけがない。今度は三発ほど何かが飛来する。次はシアナだ。狙いが限定されてなかったのが、嬉しいのか悲しいのか分からない。
彼女の背後につくと体を捻り、彼女の使っていたワンドで飛んできたモノを叩き落とす。
飛んできたものは地面に落ち不可視の理から解放された。現れたのはどうみても黒くて硬そうな木の実、僕の頬を切り裂ける火力はなさそうに見えた。
「何してんの! あたしは魔法掛けてるから大丈夫よ。だから自分の心配をしてなさい!」
「え!? 自分だけ!?」
シアナが抗議の声を上げるのに対して僕も抗議を挙げ返した。本来この場面で聞けるのは自己犠牲的な言葉のはずだと記憶している。けど彼女から漏れた言葉はどこか想像の斜め上を突き進んでいてくれた。つくづく期待を裏切ってくれない素敵なお方である。
この時点で守る義務は皆無なのに悲しいかな。さすがは元勇者、危険に体が反応してくれる訳で、後続で飛んでくる僕達を交互に狙った二個の木の実を軽々と叩く。
せっかく身を挺しているので、雰囲気作りのためにも顎に手を遣り格好つけてみようか。
「可愛い女の子が狙われて何もしないわけには行かないだろう? 僕の世界じゃ、男は女の子を守るものなんだよ。だから守られてな。ふっ」
シアナが青筋を浮かべるので言葉選びに失敗したのはよく解った。こういうのを藪蛇と言う。
「また鞄に穴あけといて、よく抜け抜けとそんなことが言えたわね?」
「…………。はい。本当にどうもすみませんでした」
どうやら飛んできた数は実際には三個だったらしい。立場が最弱になった。盛大に頑張って英雄気取りする度に、地味に未来の僕の命が縮んでいくのは気のせいじゃない。
だから笑った。これ以上ない屈託のある笑顔で。
「これでもまだ三割も本気を出していなばぅえぇっ!?」
――メギョッ――首の骨が力強く聞き馴染みのない音を立てた。
「ぎゃあああああッ」
「あたしの慈悲を逆撫でする反応ね! ていうか、フルパワーで行けアホぉ!!」
ここまで罵倒されたら、こっちも挫ける訳に行かない。選択が正しいかどうかはあえて無視をしようじゃないか。
「この世界に僕の常識が通じないように、シアナの常識も僕に通じばぃっ!?」
どこから出したのか、シアナの手に握られた青い宝石のついた二本目の硬いワンドが、脇腹にめり込んだ。激しい鈍痛は表情を歪ませるに十分な火力だ。普通の人間だったら、肋骨が三、四本ほどは名誉の戦死をしている。いや、名誉でもなんでもないけど。
何度目かの感謝をしよう。ありがとう、頑丈な体。ありがとう、クソ勇者。にしても、次から次へと武器を幾つ持っているのやら。
「くだらないこと言ってないで! 森が見えたわ。行って!」
「針の先ほども何一つくだらなくないし!?」
自分で何を言っているか、もう分からない。
シアナの指をさした方向には広大な草原がぷっつり切られたように森が広がっている。彼女は急いでぼそぼそと呪文のようなものを唱えると、腰の辺りから天使のレリーフが施され、青い宝石がはめ込まれた儀礼用らしき短剣を抜き、森の中に放り込んだ。
「魔法結界を張ったわ!」
「そんな簡単に張れるんだ!?」
「二回くらいの攻撃でパキョリンて割れるから!」
「簡単なだけに耐久力も雀の涙! ていうか、そんな可愛い音するんだ!?」
「いちいち、やかましいのよ!」
シアナは叫んで立ち止まった。
が、彼女より先に停止していた僕も大きな声で突っ込みつつ、敵の気配が追ってくる方角を睨んだ。結界の前で停止したこちらのスキを狙って四つばかり何かが飛翔する。
「ちょっと何してんの!」
そう叫んだシアナは、もう一度ワンドを強く僕にめり込ませ、そのまま旋回させて四つの何かをはたいた。脇腹がゴリャっと無理に粘土細工をねじったような音を立てる。
「ぷ。ぷち、じゃないぞ! 超痛いッ!!」
これ以上の説明は必要ない。色々と説明のつかない理不尽な力をお持ちなことを除いて、顔と体に傷の出来た状況が有に彼女の不道徳を物語ろうとしている。
物が小石かなにかだったからいいが、さっきの木の実だったら、今頃は軽傷で済んでいなかったろう。色々と恐怖だ。どう考えても、シアナの方が殺意を持って接している。
次いで、半分ほど気を失ってしまいたい僕の意識を揺さぶり起こすかのように、鳩尾の近くへとワンドを叩き込んだ。
「急所二度はダメぎゃッ!!」
抵抗の声も空しく中ほどで止められると、代わりに醜い声を伴い打ち上げられた。
どう考えても勇者の護衛なんぞいらないほどに彼女は強い。いくら戦いの経験に乏しい学生と言っても、ここでは勇者の体。それを軽々と吹っ飛ばす時点で男よりも腕が立つ。
「痛いけど、このまますっ飛ばされて、女の子を戦わせる訳には行かないよ!」
意思に反応したように、吹っ飛んでいる無様な体勢を空中で捻る。体勢を変え、近くの木を足がかりに踏み蹴り、もとの場所に着地した。
「なんで戻って来てるの! 逝っときなさいよ!」
「ちょっと、どころじゃなく随分と言葉の意味合いが違うよね!?」
「あたしの気持ちの上ならほぼ同じよ! 生首じゃ運びづらいから早く入れ、しっしっ!!」
やっぱりコイツは僕を生き物として扱う気はないらしい。交渉決裂だ。してもいないが。
そちらがその気ならこっちもその気の対応をするまでのこと。きっぱりとこちらの意志とポリシーを断言してやる!
「色々酷いけど、聞かなかったことにして。……女の子一人戦わせるなんて、お前のプライドが許さないって、死んだ爺ちゃんの思い出の声が聞こえたから引けないんだ!」
「なに言ってるか意味わかんないんだけど!?」
同じく。勢いで喋るのをやめなさいという良い戒めだと思った。
「それに、さ。手加減する気ないんだろ? 相手が魔王なら傷つけたくない。向こうは僕らを殺せたのに動きを止める最小限の攻撃に留めている。何か理由があると思うんだ」
僕の真面目な顔に、シアナはなにやらひどく残念なものを見るように目を丸くした。
「ひょっとしなくても、あなたバカなのかしら!?」
率直な心の声をわざわざ口にしてくれてありがとうと言いたい。いや、全然ありがたくはないんだけど。そんなやり取りをしていると、四個の、おそらく木の実が飛んでくる。全て投げられた順番通りに叩き落すと、僕はシアナの前で立ち塞がるように身構えた。
「バカはバカなりに考えがあるとか。……な、ないとか?」
「どうして曖昧なの!? 大体、相手見えないのに武器もなしにどうやって止める気よ!」
木の実の次は何か大きなものが飛んでくる空圧を感じ、シアナのワンドを水平に構え、力を削ぐように横和ぎに打ち据えて、飛ば――せないぞ!?
「ふん、余裕! じゃなく、クソ痛いッ!?」
見事に破砕できずに腕やら眉間に刺さった。小さい木をまるごと投げられたらしい。元の世界の僕なら蓄積ダメージでそろそろ他界できる。
それでも一つ安心した。傷が赤い。最低勇者も血の通った人間だったらしいから更正の余地はあるのかもしれない。いいことを知ったので、当たった腕と体をヒクヒクさせ歯を食いしば――りきれずに、背後からシアナに殴られて地に伏した。
「バカ! 大バカぁぁぁ! ヒビはいったじゃないの……。高かったのにこれ!」
買い直せない体を問答無用に痛めつけ、ヒビ入らせようとする者のセリフとは到底思えない。
「さっき出した予備あるんだしいいじゃないか!」
落胆するシアナに突っ込んでいると、第三波の獣の地を駆ける足音が聞こえた。
ワンドをシアナに押し付けて返すと、空気の流れを読みジャンプして襲い掛かる獣の攻撃を伏した状態から低姿勢で避ける。そのままバックステップで森の中に飛び込めた。
思った通りのことが出来るとか、運動神経のいい体だ。
「なにするかと思えば、それが狙いだったのね。さすがは地面に詳しい地質学者」
「それ別に地質学者関係ないし!?」
僕が森に飛び込む様子を見て、シアナはへぇと感心した声を上げた。馬鹿にされているようにしか聞こえないのは、僕の心が曲がっているからということにして置いてやろう。
すかさず獣が猛追を掛けるが、動きは軽やかだ。受身を取りながら、もう一度転がってかわし、獣が着地した場所の雑草や木々の枝が動くのを見計らう。
「そこだ! ……ぃてっ!?」
獣へと飛びつく。暴れて引っかかれるが放す気なんぞない。さして大きくなく犬か狼か、というサイズだし口を抑えてしまえば、大したことも――ないこともなく噛まれた。
『クゥン……』
しばらく口を抑え大人しくさせると、シアナの近くまでバカは戻る。否、僕は戻る。
「やるじゃない。生け捕りにするなんてなかなかのバカだわ」
「バカバカうるさいよバカ! バカなりに考えあるって言痛いィィィッ!」
ビキッという音と共に間接に決められた可哀相な僕の悲鳴がこぼれる。
壊れそうなワンドの代わりに握り拳で、さっきまで二度打ち据えられた急所を狂いなくぶち込まれ痛みが再発する。恩人にバカと言い返した当然の報いではあるとして、殴る場所は変えて欲しいと切に願う。そろそろ患部の按配も悪くなってきたことだし。
「さ、魔王さん。もう、この近くにいるんでしょ? そろそろ姿を見せなさい? ライズはいいけど、あたしまで攻撃した理由を教えてもらいましょうか?」
確かにそうだ。元の中身が勇者の僕はともかく、シアナが攻撃されるのは変と言っていい。
しかし、無条件で攻撃。という意思が感じられないのが見境ないわけではないとの証明でもあろう。
シアナが攻撃されたことを加味して、逆ということもないわけではない。余程の使い手と目される以上、逃げる敵を追って狙撃するよりは、二人一度に至近距離で対処する方が現実的ではある。兵法の一つ、一網打尽だ。ただし、それは戦い方に確実性を要求される。安定性皆無の獣を使うとも思えないし、罠などがあれば今頃は切り抜けきれていないはずである。
うっかり考えすぎて、突っ込みのタイミングを逃すところだった。
「僕だって攻撃されたくないんですけどね!?」
「三秒数える間に出てきなさい? でないと――」
「うわ、無視された!?」
「ライズが酷い目に遭うわ!」
「なぜ!?」
『ぷっ。ふふ、あははは』
掛け合いが面白かったのか、何もない場所から可愛らしい少女の声が聞こえてくる。
「そこかぁ!!」
シアナの力んだ声が背後で聞こえたかと思うと、振り返るより早く明らかに狙ったとしか思えない角度から、僕の肩甲骨を裏拳で打ち据え殴り飛ばした。
無論、いくら鉄拳とはいえ普通に殴っただけでは体は飛ばない。体が宙を舞っているからには拳に魔法的な力でも込めたんだろう。よく折れなかった。よく頑張ったよ、肩甲骨。
ちょうど飛んだ理由を解き終わった刹那、見えない誰かにドンッとぶつかった。
『きゃぁっ!?』
「まずいっ、超回転竜巻海老反りぃぃぃっ!!」
すごく可愛い悲鳴と、口にしなくてもよかった僕の間抜けな技名が辺りに響いた。
類稀な運動性能により決まった華麗な海老反り回避は、顔面を地面に擦りつけるという愚を冒しつつも、声の主に接触した瞬間に抱きとめ下敷きにすることだけは回避した。
そこに慌てた様子のシアナは駆けつけてきた。
「ラ、ライズー!? か、顔半分がズタボロよ!?」
「誰のせいだよ!?」
シアナが指さしてプフフと噴出しながらも、大笑いに至るのだけは堪えて心配そうに言った。本当に心配そうなのは声だけで、爆笑寸前で口角を釣りあがらせ肩が震えている。事の原因を作ってここまで笑えるとは、傍若無人という言葉をプレゼントしてあげたい。
が、余計なことを言うとさらにボロ度合いが増しそうなので頷いて無難な声を出す。
「存外この体が丈夫らしいから、醜い顔がさらに醜くなった点だけを配慮すればナントカネ?」
「じゃあ、大丈夫ね。ところで、それ……」
すごく殴りたい。今すぐ右ストレートをぶち込んでやりたい。
色々を抑えつつ、シアナの差した手元を見る。何か掴んでいた。ふにゅふにゅっと柔らかくて、マシュマロを触っている感触だ。全く心当たりのない感触じゃない。つまり?
『う、うぅ……。ふぁぅっ!? やめ、てぇ……!』
まず抱きとめた体勢で手の位置がここにあることが不自然だ。ゴツゴツしてるのは鎧だろうし、鎧の中に手をすべり込ませたことになる。僕にこんな能力があったと認めるべきか。
手を止めた時には遅く、背筋はゾクリと本能的な危険を感じとった。
『やめてくださいってばぁっ!!』
「うわっ! ごめ、んげっ!?」
少女の悲鳴と共に、バチィンと分厚いゴムで弾かれたような音が響き、遅れて頬に強烈な痛みを伝える。衝撃のせいか謝罪が途中で苦痛に呻く声に変わった。
魔法集中が途切れたのか溶け出すように、僕の上に乗ったフード姿の少女が現れる。
「あ。ご、ごめんなさいっ!?」
「いや、こっちこそ。何ていうか、……ごめんね。やわらかくてつい」
「じゃあ、柔らかいあんたの頭も揉んであげるわね!?」
ゴジィンと重たい一撃が走り、頭がリーンと震えた。今度はワンドの一撃なのは痛さで判る。
彼女の姿が見えると同時に、吹っ飛ばされた衝撃で森の入り口に置き去りだった獣も姿を現す。狼のようにも見えるが、狼よりも二周りは大きい白銀の毛を持つ獣だった。
が、獣からすぐに視線は、少女の見えそうで見えない捲れたスカートと綺麗な足に移動し釘付けになる。男がダメな生き物だと思える瞬間だ。けれど、眼福。
「で、大丈夫? 怪我はない? それと本当にごめん」
凝視モードの視線を悟られないように、頭から血を流しつつ、爽やかな笑顔で気遣う声を挙げてみた。対して少女は、そそくさと裾を直すと、白くて人形かと思わせる細い手に力を込めて、僕の上から慌てて離れる。とても残念で仕方がない。
「あ、はい。こちらこそ、いきなり襲ってごめんなさい。……でも、その。じっと見つめるのは気付かれないようにしてくださいね? ちょっと、反則ですよ? ね?」
すごくバレてら。僕は見ていないという意思表示のためスカした態度を決め込む。
「それは何か理由があるのだろう? それから反則って何のことだろうかな。ははっは」
「もちろん、返答次第じゃ容赦しないけどね。こんな風に!!」
フォローに続いたシアナの言葉が僕の優しさを台無しにし、挙句に脇腹をギョリッといわされて拳がねじ込まれた。注意するべき視線は、少女よりこっちの暴力妖精か。
高圧的な彼女の意気に気圧されたような少女は顔を俯けてから口を開いた。
「あ。は、はい……。こ、この近くの町の人に、勇者とエルフの二人組みに商団が襲われてるから懲らしめて欲しいと、そう依頼をされて、この辺りで見張っていまして」
「近くの町というと、マイロね。で、あたしたちが通りかかって、その二人組みだと思ったの?」
「はい……。あ、でも危害を加えるつもりなんてなくて、動きを止めて貰えたら、きちんと説得するつもりでした。なのに勇者さんを怪我させてしまって、ごめんなさい。加減が難しくて」
魔王少女がちらっと僕を見ると、申し訳なさそうに目を潤ませ項垂れた。
「そんなに気にしないでいいよ。丈夫だし……、それに七割はシアナのせ――」
「そう、ですか? でも、本当にごめんなさい」
フードの少女は深く頭を下げた。逆にこっちが改まってしまいそうな礼儀正しさだ。
はっきり申し上げた僕の頬がワンドでひしゃげかけたので八割に訂正しなければなるまい。
「そうね。無駄に丈夫よね」
「決して。決して、無駄じゃないですけどね!?」
「まぁ、有利な状況を作ってから交渉するのは常套手段だわ。でもね、人違いよ。商団なんて襲うほど困窮してないし、あたしとこのヘンタイのアホでヘタレのスットコドッコイはさっき会ったばかりよ。こんな丸腰の勇者も普通いない」
言いたい放題だ。ここまで貶されたのが生まれて初めてで泣き崩れたくなってきた。
「そうですね。この方は、人間なら迷わず噛み付くハーディーが心を許すような人、ヘンタイのアホでヘタレのスットコドッコイで薄汚くても、優しくて素敵な人が誰かを襲うなんてあり得ませんよね」
褒められてるのか褒められてないのか分からなくなる復唱プラスアルファは、人の傷を抉る追い討ちとして有効なのが身をもって思い知らされた。再び口の中が塩辛い。
「あたし、そこまで言ってないんだけど。そうそう、あなたを傷つけたくないって言ったのも、この薄汚いバカだったわ」
「え? そ、そうなんですか?」
シアナとの会話で、少女がほんのりと頬を染めるのに、心が高鳴った。可愛いは罪だ。
それはそうと、人間に迷わず噛み付くとか、酷く物騒なものを一度でも抱いたことに恐々とする。
ていうか、普通に噛まれたよ。まぁ、いいか。なかったことにして置いても。
「ハーディーっていう名前なのか。よし、おいでハーディー!」
僕は意気揚々と笑顔で白い毛の犬の名前を呼んだ。『アン!』と鳴いて嬉しそうに駆け寄ってくるハーディーは、近くまで来るとジャンプして僕に飛びつき、腕に噛み付いた。
「のおおおおおう!?」
牙が食い込んで、痛い痛い、痛いッ!
このまま食いちぎられそうな気がして、無理矢理ハーディーの口をこじ開けて腕を抜く。
「ハーディーがあたし以外にこんなに懐くなんて、本当に優しい人なんですね?」
「僕が優しいかはともかく、これ本当に懐いてる? 攻撃の延長としか思えない、けど?」
だくだくと流れる血まみれの腕を指差した。見かねたシアナは、手の平から暖かい光を出して腕に当てる。見る見る傷口が塞がった。これが治癒魔法というやつなのだろう。
「ハーディーの親愛の印です」
「良かったじゃないの、ライズ!」
「懐かれる度に僕の体に傷が増えそうで、まったくもって喜ばしくないよ!?」
必死の叫びに、クスクスと声を立て少女とシアナが顔を見合わせ笑った。
続けて彼女は、あ。と何か思い出したように手を打つ。こういう自然な仕草が似合う辺りが、シアナとはまた違った意味で様になっている。
「あ、あたしはメルティーナです。メルティーナ・エルレイン・フラウニース。メルとかメルティって呼んでくださいね」
「ああ、そっか。忘れてた。僕はウェアライズ・リバーテイル。ただの冒険者、だよ」
「あたしも、ライズさんとお呼びしても?」
「もちろんだよ」
承諾に嬉しそうに微笑んだメルはフードを取る。その瞬間、花の香りと共に銀色とミルク色を混ぜた、絹のように柔らかそうな波がかる長い髪がフワリと舞い揺れた。
一瞬で僕の目は奪われ、彼女の髪と笑顔から視線が外せなくなった。これが異世界の魔法と呼ばれる魅了、ではなさそうだ。純粋にキラキラと輝いて見える。僕の脳内フィルターのせいだろう。歳の頃はシアナとそう変わらないだろう十五、六歳くらいか。シアナの場合は、見た目より中身の歳は上なのだろうが。
「少し幼い顔つきに優しくまるい瞳、鼻筋通って、薄いけどふっくらとした桃色の唇。天使のような神々しさにお姫様かお嬢様かという柔らかく可愛らしいオーラ! その上白いノースリーブフリルドレスに鎧。かすかに鎧の間から見える白い素肌がっ!?」
ドムっと、かわしようのない速度で脇腹に拳を食い込まされて膝から崩れ落ちる。
「ちょっとライズ。心の声、漏れすぎて気持ち悪いから殴るわね?」
「殴ってから言うたらあかん……。あかんよ、君」
酷いや、シアナさん。さすがの僕も何度目か覚えてないが、それだけともなれば膝をついて脇腹を抱えて震えます。膝抱えたのも何度目か分からないけど。
今回ばかりは突っ込みでそれ以上の醜態を晒さなくて済んだのが有り難いが、わざわざまた同じ場所を攻撃するとか鬼だよ、あんた。
だが、メルの可愛さと可憐さに癒された僕は数分で復活した。誰かさんの所為で余計に感じるのは間違いないものの、完璧高潔乙女と評してあげたい。名前もなんだか美しい。
シアナが美少女なら、メルは神がかり超美少女。高貴さでエルフを越えるのは素晴らしい。
「すごいっ! 攻撃が見えませんでした。感動です」
だが、彼女はどこかずれているらしい。
絶対にそこは感動するところじゃない。百歩譲ってそんな場面だったとしても、被害者をまず気遣ってくれ。
「よろしく、メル。ライズのご主人様のアールシアナ・エルフィスよ。シアナでいいわ」
「いつから僕の肩書き増えたんだよ!?」
「細かいこと気にするとハゲるわよ、下僕」
「追加された!?」
「ふふ、お二人とも本当に面白いですね。……いいな、そういうの」
気づけばメルはおかしそうに笑っていたが、その顔には羨望の眼差しが込められている。
「僕を苛めたい、って?」
「えっ!? ち、ちがいますっ、そういう意味じゃないです! ただその……、そんな風にして誰かと一緒に笑いあっているのは楽しいだろうなって、そう思って」
メルは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに悲しそうに笑んで首を振る。
今まで仲間という存在がいなかったのか。それとも、仲間を持つことが出来なかったか。
足りない頭で考えた末に率直に聞くことに決めた。
「メルは、勇者と魔王が仲良くできたら、とか思うかい?」
脈絡のなかった不自然な質問に、彼女は疑いを挟まず、『はい』と力強く芯の通った声で応え頷いた。
「言葉で分かり合えると思うんです。ライズさんみたいな、優しい人が増えていけば、きっと……。きっと、いつかは勇者と魔王の戦いを終わらせる架け橋になると、信じているんです」
似たようなことを考えるメルに親近感を覚えた。だからか、思いついた一言は滑り出すように出る。彼女の褒めてくれた優しさの篭った笑みと一緒に。
「そっか。できるかもしれないね。僕とメルはもう橋を架けたんだから」
「あ。え……っ?」
「だって、そうだろう? こうして話して笑ってるんだ。……争い、なくせるよ。僕らは、やり方を知ってる数少ない橋を架けたもの同士。続けていけば、魔王と勇者が昔みたいに手を取り合える日は来る。二人分なら、想いは強くなって、きっと叶うと思う」
僕は自分で発したものを反芻する――二人分なら、きっと叶う――どうして、こんなに? 胸の奥がチリチリと痛むんだろう?
問いかけに対し、彼女の反応は一瞬呆気に取られたものだった。勇者からそんな返しが来るとは思っていなかったのか。まぁ、厳密に僕は勇者じゃないのだけど。
「はい。そうですね……。二人分なら、きっと叶いますよね?」
満開の花が咲くような表情がどこか懐かしく、メルの顔と声が二人分にダブって見えた。
この笑顔を、色んなものから守ってあげたい。なぜ――こんな気持ちになる?
(その意味を、知っているから)
また、この声だ。空耳なのか――いや、今は幻聴かどうかなんてどうでもいい。それよりも知っているというなら、初めて会ったはずの彼女に感じる気持ち、その因果を知りたい。
「じゃあ、一緒にバカ勇者たちを捕まえて改心させに行かないか?」
気を引くのに急いて、ついとんでもない提案をしてしまったが、メルは表情を曇らせて首を振った。悪いことを言ってしまったのか。と思案しかけた時、それまで腕を組んで見守っていたシアナが口を挟んだ。
「ダメなのよ。中身がどうあれ、見た目が勇者のライズと魔王のメル……。相容れないもの同士が一緒に旅をすること、それは無益な争いを生む火種になるの。あなたにとっても、メルにとっても、目指すところと反対のところへ向かうことになるわ」
「僕は勇者じゃないんだけど?」
「中身がどうあれって言ったでしょ。こんなご時世よ。ライズがそう思わず、そうでない行動をとったって、周りは人間の男を勇者だと思うわ。残念だけど、それが今の人間や魔族の偏った考え方なの」
「そ、か……」
決め付けだけで、世界が動いてしまう。その事実に落胆を覚えた。
そうだ、さっき自分で行き着いた答えだった。望みを成そうとする気持ちが強い程、矛盾が生まれて逆向きに作用する。そうやって、思い掛けない方へ歴史という魔物は進んできた。
周りが歪んでいることを知って懐疑を感じても、誰も差し障りの少ない現状を望む。
誰かが異議を唱えて決壊させるまでは何も変わらない。
「そうです。だから一緒に行きたくても行けなくて。本当に、ごめんなさい。……でも、すごく嬉しかった。初めて理想を真面目に聞いてくれた人が優しい人で、会ったばかりの敵のあたしを信じて親切にしてくれて、一緒に行こうって言ってくれて。それだけで十分な贈り物なんです。同じ気持ちの人がいるだけで、すごく温かい。ありがとう、ライズさん」
自分を奮い立たせるよう強い表情で微笑んだメルが眩しくて、やっと彼女の儚げな表情の意味を理解できそうだったのに。君が謝る必要なんかない、その言葉は喉から上に行かなかった。
こんなにも気持ちが強いなら、望めば同調者は集まる。望まずとも、信念がある彼女に志を同じくするものは呼応しようとするだろう。なのに仲間がいないのは、メルの置かれた状況、あるいは生まれつきの境遇が仲間を作ることを否定させているからだと思えた。
本当は、この子は強くなんかないんだ。すぐに壊れてしまいそうで、弱々しくて。泣くことも許されない少女の精一杯の強がりは、戦争の死神に煽動された多くの人々が押し付けた、小さな虚勢が居座って作らせている。
メルの後姿を知ってなお、僕はまだ元の世界までの一時的な居場所だと背を向けていられるのか。勇者と魔王が手を取り合えると言って置いて無責任に逃げるのか――彼女の真剣な思いに向き合えない冒涜者――それで、いいわけがないんだ。絶対に。
「一緒に行けないのなら、しょうがない。のか……?」
仕方なくない。分かっているのに、不安にさせないよう微笑むだけしか出来なかった。
「はい。これが、あたしの運命ですから。そんなに悲しい顔はしないで、ください」
「へ?」
悲しい顔をしている。僕の、ことだろうな。相変わらずの仏頂面で口元に握り拳を当て、深く熟慮するよう噤んでいるシアナに言ってはいないだろう。
けど、笑っているはずだった。顔を触って確認しても口角はあがっているし、目じりは下がっている。何となく悲しく見えたのだとしても、彼女の言うそれは、少し重みが違う気がした。
「いつか、お二人とお茶とかお食事とかしたいです。……一緒に、できる日が来ますように」
メルは叶わない想いを乞い願うよう口にして、寂しそうに笑った。
少女らしくいて当たり前の年頃の娘が、埋め切れない大きな溝に悩んで、身の丈に合わない理想を掲げ、どうして無理に笑顔を作らなければいけない?
理不尽だ。選ぶ言葉を用意できない自分自身も、慈悲のない全ての事物も、何もかもが情けない。
「魔法でお茶の間だけ姿を消すのは、ダメかな。って、ダメだよね」
破れかぶれな案だった。そうまでしても慰めにならないと解っていながら、お粗末だ。
「いい、ですね。でも――」
「でも?」
「いいえ。なんでも、ないんです」
問い返さなくたって気づいているのに残酷な口だ。何者に憚ることもなく、他愛ないお喋りで笑い合い、小さく幸せな時間を過ごす。争いある限り、口が裂けても言えない不幸の種。何百年掛かるか判らないそれを、メルが固く信じているだろうことを僕は察しているのに。
「それじゃ、名残惜しいですけど、そろそろ荷物配達の護衛に行きますね。本当にご迷惑をおかけしました」
「あ、うん。引き止めちゃ悪かったな。じゃあ、気をつけて……?」
「無理はしないようにね。何かあったらライズ呼べば飛ばしてあげるから」
「僕はなんの英雄だ。しかも飛ばすのがシャレになってないよ」
「ふふ、期待してますね。また、どこかで……」
別れの言葉を聞き届けると、メルはハーディーを従え、少しだけこちらに微笑みを送り、手を振って背を向ける。それきり振り返ることもなく後姿は遠ざかった。
視線で空を撫ぜ、長嘆する。無事を祈るだけしか出来ないのか。僕が、人間だから?
「可愛いものね? あの子」
待っていたかのようにクフフといやらしい笑い声をあげ、ニンマリと悪い笑顔を浮かべたシアナはこちらの表情を覗き込んだ。僕も演技で下卑た笑いを漏らす。
「ん。まぁ、下心のない男は男じゃないしねぇ?」
鼻の下を伸ばして見せると、気持ち悪い汚物を見る目でシアナは後退さった。ひどい速度で態度が悪化している。そろそろ汚名返上しないと、未来の知名度にも影響しそうだ。
「否定しないのが男らしいのか、男らしすぎるのか評価しづらい」
困り顔で首を振る姿を横目で見ながら、僕は後ろ頭を掻いて真面目な顔をする。
視線と顔色に気づいたシアナからも、茶化しが薄れて静かな声色になった。
「あの子の背負うものを考えたら、穏便な手段に思い馳せたくなるのも分からなくないのよね」
「やっぱり、周りからそうさせられてるんだね」
「気づいてたの、びっくりね。さっき話した中央大陸を治めてる女王のこと覚えてる?」
そう聞かれると、僕は記憶の海の中の名前を引っ張った。
「ロザリーヌ・アスフィ・カトライア女王、だったかな」
「よく覚えてるじゃない。それに、続きがあってね。中央を治める女王は四つの属性を象徴する家系の中から決められて、それぞれを支持する諸侯や諸国の名門貴族たちの合議で選ばれているの。現王家カトライアの統治はもうすぐ終わるから、今は合議の真っ最中よ」
「…………」
「土のカトライア、風のハーミュニ、火のアーファイア、そして水のフラウニース」
無言の促しの後、メルのミドルネームが出たところで理解した。気づかなくていい問題ほど頭が回る自分の無駄な機転を恨みたい。どの道、シアナに気づかされていただろうけれど。
「メルのフラウニース家は次の王家として有力視されている?」
回答に対してシアナは驚いた顔をしたが、間を置いて少しだけ頷いた。
「どうして分かったの?」
「連想、かな。次期女王と期待されていれば、勇者との争いを望まなくても背負わされるだろう? 魔族の命運を背負うとなれば重責だ。その身の上で仲間を持つことは危険に晒すことに同じ。それが僕らをあんなに羨ましそうに見ていた理由」
シアナはきょとんした顔で固まり様子を伺って来る。どうせ、変なものを食べたのかとか思っているのは分かっている。
「拾い食いはやめときなさいね?」
「どこまで見境ないと思われてるのかな!?」
突っ込みつつも顔は綻ばせた。メルのことを気にしすぎている僕への、シアナ流の励ましだと思ったからだ。首を突っ込みすぎるなという牽制のつもりもあるのは分かっている。
「冗談は置いといて、変なところで頭が回るのね。感心するしかないわ」
「じゃあ、合ってる、のか」
「有力視されてる噂がある、が正しいわね。で、女王向きの性格じゃないから、こんな風に女王修行みたいなことさせられてるのかしら。……あの子、あのままじゃ狙われるわね」
勇者と反目する王家を継ぐ修行と考えるなら、相手が狙うだけの大義名分も与えることになる、ということか。メルがいなければ四公家に混乱を与えられるのだ。勇者側が狙う価値は十二分以上に出てくるが――何故、わざとらしくフラウニースがそんな種を落とす?
一つだけ、説明できる兵法はある――要人をあえて囮にし、敵対勢力に抵抗する組織を矢面に引きずり出そうとするものだ。ただし、フラウニースに深甚する勢力であるのが必須で、メルを完璧に守り切れる護衛を必要とする――何にしても、彼女を血に飢えた獣の中へ放逐したに同じだ。考えが当たっているなら、フラウニース家だって許せるものじゃない。
「気づいて、あげたかったな。それで、なにが変わるわけじゃないとしても」
「思いに引きずられてる。そんなだと、どっかでつまづくわね」
シアナの言うとおりかもしれない。
けど彼女が危険と知りながら、見てみぬ振りをすれば必ず後悔する。胸が痛んだ理由も笑顔の意味も何一つ知れないまま、自分に嘘を付いて逃げ出すくらいなら、運命に飲まれてもいい。
「ちょ、ライズ? ど、どこ行く気なの? あなた、まさか?」
シアナが言い終わる前に森の方へと歩き出していた僕は、背後から呼び止められた。
振り返り言いたいことを目で語ると、彼女は何事か分かったように厳しい顔を返した。
「勇者にしか見えないライズじゃ、何の力にもなれないって言ったじゃない!?」
「肉壁くらいにはなれると思うよ」
へらりと表情を崩して軽口を叩くと、シアナは本気で呆れた表情で額を抱えた。
「バカね。そんなことしてライズが傷ついて、あの子が喜ぶとでも思ってるの?」
「言葉の綾だよ。バカなりに考えてるの、まだ分からないかな? 何年一緒にいるんだよ」
やれやれと肩を竦めれば、予想通りに突っ込みは返ってきた。
「さっき会ったばかりよ!」
「本当に無策じゃない。要はさ、僕が周りから見て勇者じゃなくなればいいんだろう?」
言わんとすることに見当がついたらしいシアナは長嘆した。本当に失礼だな、コイツ。
「具体的にどうする気?」
「それはまだ、考えてないけど」
「バカでアホだわ……」
固有名詞の上につく罵倒が増えてしまった。
「でも、やるべきことは解ったよ。助けられる命から目を背けたくない。言ったことに責任を持つのが男。それに……、僕も笑いながら三人でお茶が飲みたい、そう思ったから」
「厄介なこと言うわね。やるからに覚悟、あるの?」
「一度、死んでる人間に聞く言葉かなぁ、ソレ。まぁ、命はシアナに貰ったし無理だとしても、片腕くらいなら賭けてもいいよね?」
「そこまで肩入れする理由を、聞かせてもらえるのならね?」
「不条理が許せない。想いが積もれば奇跡が起こるって、証明して見せたいのもあるかな。けど、一番の理由は、メルの笑顔を知ってる気がしたんだ。遠い昔に見たような曖昧で好い加減なものなのに、とても尊く感じた。あの子の本気の笑顔が見てみたい」
彼女はもう一度、大きく長嘆すると、じっと真摯な目で見つめてきた。
「しょうがない。付き合ってあげるわ。でも、ホントにいいのね? 元の世界は?」
そう言われると少し逡巡し、かける程も記憶がなかった。多分、何も覚えていないことに意味があるのなら、ここにいることだって一つも偶然がない。そうも思える。
やるべきことをやるために与えられた機会と命なら、メルが二人いるように見えたのにも大きな意味があるはずだ。二人ならきっと叶う、この引っかかる言葉の意味も見つけたい。
「今はいい。疑問を消化するのが優先順位だし」
その一言に不思議そうな顔を返された。何を考えているか図りかねている表情だ。
正直に自分でもおかしいと思う。逢って間もない少女にこうまで固執する。笑い話としても不出来でしょうがない。難しい顔で考える僕に向けた彼女の表情は『あ、コイツはロクなこと考えてない』だ。全くもって心外極まりないな。
「じゃあ、いいのね?」
自分の中で折をつけたらしいシアナが確認するのに、無駄な言葉は含まず簡潔に応えた。
「よく考えなくても、最初に聞いたときにもういいや、とは思ってたんだよね」
繕ろわずの声に対し、数秒も経たないうちに心で悔いた。
「あのね、あたしは……。今まで長く生きてきて、こんな気持ち初めてよ?」
「な、なんだい。プルプルと震わせて誰かを殴りたそうに上段に構えたその拳は? シアナさん? 落ち着こう! 相談に乗るから」
「ありがと。お言葉に甘えるわね。相談したいことは、あんたを物凄く本気で力込めて殴りたいってことよ!!」
「痛いとかいうレベルじゃないくらいの切なさに襲われる脇腹ァっ!?」
メルとお茶する頃まで僕の体は、ちゃんと人間の形を保っているだろうか。そう、苦悶しながら仰向けに転がって空を眺めた。