鬨の声をあげよ ~武芸の国~
~武芸の国・Einhenyal~
人間と人外の者が共存する国。
この国で開催されている武芸大会は世界中に知られており、また、この国の国民のほとんどが武芸を嗜んでいることから「武芸国家」と言われる。
特産はトウモロコシ。
夜空に堂々と咲き誇っている満月が俺の身体を照らし上げていた。
冬季。比較的暖かい地方である、武芸国家と呼ばれているエインヘンヤル国だが、この時期になると少しばかり肌寒くなり、身体の節々が僅かに軋むようになる。
だが、個人的にはこの位の気温の方が暑苦しい夏よりも格段に好きだ。夏は直ぐに道着が肌に張り付いて動き辛くなるのだ。その幾らかの違いが試合には影響するから夏はなおさら嫌いである。
――この国は武芸国家と呼ばれている通り、武芸大会と言うものが存在する。
世界中から様々な武芸者が集まり、その武を競い合い頂点を目指すという、至って単純なモノ。
そして、俺はその国に住んでいる、武芸者の一人だ。
今は夜の鍛錬の時間。
そして、明日は大会だ。
大会は月に二回、『型』と言うものと『組手』と呼ばれるものの二つが行われる。月の初めに『組手』が、月の半ばに『型』の大会がある。
俺が出場するのは『組手』。まあ、要するに戦闘技術を競い闘う競技だ。
武芸大会に参加するのはこれで八回目である。
因みに、毎月参加するような事はしていない。と言うか出来ない。一ヶ月程度の鍛錬では前回の結果と余り変わらないものになるだろうし、何より大会には最善の状態で挑まなければならない。確かに実戦経験を積む事は大切だが、全力で挑戦出来なければ自己の為にはならないだろう。
明日は四ヶ月ぶりの大会だ。次は勝てるよう俺は意気込んでいた。
息を吸い込むと冷たい空気が肺の中へと溜まっていき、身体を内側から冷やしていく。そして、ゆっくりと吐き出すと身体の熱を奪った空気が白い形で口から漏れる。漏れた空気は暗闇の中、音もたてずに消えていく。
それを何度か繰り返し、余計な力を抜いていく。
両の手に持った刀身が二尺ばかりの短剣を握り締め、目を閉じる――。
****
――目蓋の裏に映し出されるのは、一人の男。
この国、いや、この世界では見たことも聞いた事の無い緑色の髪をした一見そこまで強くなさそうに見える男性。その腰には二本の短剣を差している。
初めて彼を目にした時はそこまで強い武を持っているとは到底思っても見なかった。
しかし、その男は殆ど飛び入りで参加した武芸大会、それも武の舞(武芸を使って舞う事)を競い合う『型』の種目ではなく、鍛え上げた身体を使って戦い合う『組手』に参加したのだった。
男を見た人々は皆、こう思った。すぐに負けるだろう、と。
だが、その予想に反して男は圧倒的な強さで予選を勝ち進み、本選でも素晴しい試合を見せながら勝っていった。
そして、決勝戦。
相手は何度も武芸大会で優勝した経験がある、世界でトップを競う選手。身の丈ほどもある大剣を自在に操り烈火の如く攻撃し相手を圧倒する武の持ち主だった。
しかし、男は彼と互角の戦いを見せ、見事に優勝した。
その戦いはまさに嵐と呼んでも過言ではない戦いだった。二人が動くたびに空気は振るえ、切裂かれ、うなり声を上げた。人外の武人の剣は大地を粉砕し突風を起こす。男の双剣はそれを綺麗に受け流し、竜巻のような剣捌きを見せる。
その試合を見に来ていた全ての観客は声も出ないほど二人の武に見入っていた。響きあう剣戟は観客の目を釘付けにし、呼吸を忘れさせた。そして、試合が終わった時、皆立ち上がり割れんばかりの歓声が響き渡った。
そうして男は大会の優勝者になった。
――試合を見ていた俺は、その武に心震えた。
それはまさしく俺の理想の存在。俺が目指すべき境地に立っている存在。
強い者は沢山いる。しかし、一番心引かれたのは、その男の姿だった――。
****
俺はその幻想とまったく同じの構えを取る。そして、想像している男が動くと同時に俺も同じ動きをする。
真似るのは決勝戦で見せた剣舞。
圧倒的な質量を持った攻撃を何度も何度も綺麗に受け流し、その受け流した後の一瞬の攻め。両の剣は踊り狂い通常では信じられない様な動きを見せる。
その剣武はただ振り抜いては引き戻し、刃を僅かにずらして敵の攻撃を受け流す。それだけなのだが、その閃光のような速さと、それをする為の身体の使い方が尋常じゃ無いほど凄い。
俺は自身が持てる最高の身体能力を使ってそれを真似ているが――
「――っ」
途中で幻想に追い付かなくなってくる。
幻想の中で男がした行動よりワンテンポ遅れて俺の動きが始まる。そして、俺の動きには切れが無くなってきている。その動きの差はウサギと亀ほどあるだろう。もし男が此処にいて俺と一緒に剣舞を舞っていたらその差ははっきりと分かる位、俺の動きは遅かった。
最後。勝利をつかんだ横なぎの一線の時点では、俺は幻想の中での男よりも三秒くらい遅くなっていた。
終わった瞬間、手を膝につく。呼吸が荒い。身体は熱く限界まで動いた所為か少しばかり悲鳴を上げていた。
まったく。何て様だ。
もちろん、俺が完璧にあの男の動きを出来るとは一片足りとも思った事は無いし、一回も出来た事は無い。
だがこの動きは既に何百何十回としてきているのに、一度するだけでかなりの体力を奪われる。それに本当ならば、これに相手の攻撃の重さなどが追加されるのだから、全然俺では再現出来ていない。
そんなに武が優れていない俺には、それが当たり前なのだけれども。悔しいものは悔しいのだ。
――ああ。なんて遠いのだろうか。
理想の背中はまだまだ俺の手には届きそうに無いものだった。
****
大会当日。
今回の大会。参加者は百三十五人。予選は約四人の勝ち残り形式となった。
ルールは簡単。自分の首にかけているアクセサリーを取られたら負け。降参するのも問題は無い。相手を戦闘不能――気絶でも行動不能でも良い――にするのも問題ない。ただし、殺しはご法度。そのくらいだ。
いつもの予選なら大抵リーグ戦方式なのだが。まあ、気にしても仕方ないことである。
武器は支給されている刃引きされた剣。または、持参。自分の持ってきた武器を使う場合、必ず刃引きされた物を使わないとならない。大抵の武芸者は自らの武器を使う。やはり毎日使っている武器を使った方が闘い易いからだ。もちろん、俺も長年愛用している双剣を使用する。
俺は受付で貰った番号札と試合表を見る。
「俺は……十一試合か」
この時点では対戦相手がどんな相手なのか、どんな武器を使うのか分からない。真の武芸者たる者、どんな相手だろうと臨機応変に闘えなければならないからだ。
ざわざわと周りが騒いでいる中で俺は少しばかり緊張していた。心臓はいつもよりも早く鼓動を刻んでいる。この辺りが他の者より未熟だという証拠だろう。
アナウンスが響く。
『第八試合が終了しました。それでは第九試合目を開始します。第十試合に参加する選手は待合室までお越しください。今から十分以内に参加しなければ不戦勝となりますのでお気を付けください――』
もうそろそろだな。
ふと近くで会話していた奴らの会話が耳に届く。
「――じゃあ、何だ? この間優勝した双剣使いの旅人はドワーフの国に行ったって?」
「ただの噂程度で聞いた話しなんだけどな。噂じゃ何かを探しているんだとさ」
「ふーん。ドワーフの国なんて在るのかも分かんないのにな。――だったら、今年の大武芸大会には参加しねぇのか?」
「どうだろうな。そこら辺は何の噂にもなってないが、元々参加した理由も賞金が欲しかったって言うものらしいぜ?」
「そうか。しかし、またあの武は見たいぜ。今までの武芸者の中でもアレは最高の武芸者だぞ」
「ああ、俺も見たい。出来れば手合わせして頂きたいものだ」
「だな。それで今回の大会で一番注目されているのってやっぱり――」
そこまで聴いたところで聴くのを止めた。
またあの旅人の剣舞を見たいのは山々だが、あの男にも事情があるのだろうから期待はしておかない。期待していて落胆するよりも、いきなり現れてくれた方が良い。
それよりも俺はもう直ぐ始まる試合の為に気持ちを落ち着かせなければならない。
大きく深呼吸をして目を閉じる。
やはり目を閉じて浮かんでくるのはあの男だ。圧倒的で美しい武を踊る姿が直ぐに浮かんでくる。
それを思い浮かべていると自然と身体から力が抜ける。
――よし。緊張はもうない。
もしかすると、コレをすればいつでもリラックス出来る様になっているのかもしれない。そう考えると、あの模倣もちゃんと為になっているみたいだ。
『第九試合が終了しました。今から第十試合を開始します。第十一試合に出場する方は待合室までお越しください。今から――』
ようやく俺の番が回ってきたみたいだ。
立ち上がり、控え室へと歩を進める。
――さて、一体どんな相手だろうか。
少しばかり胸を躍らせながら控え室へと赴く。控え室に着くと、番号札を控え室の前に立っている役人に渡し試合中に付けるアクセサリーを貰い中に入る。
中には俺以外の選手が全員揃っていた。
一人は細身の人間。年齢は三十代位だろうか。腰に片手半剣を差して左腕には少し大きめの盾を装備していた。
他の二人はヴォールだ。その内一人は半巨人と呼ばれる種族――その名の通り背の高さが三メートル近くある人外――の男だった。背に人間が扱うには到底無理そうな巨大な斧を担いでいる。
もう一人は細身の女性だ。一見人間のように見えるがその頭には獣の耳らしき物が生えている。おそらく獣人とカテゴリされるヴォールなのだろう。腰には細い片刃の剣が差してある。
全員が俺を一瞥する。
俺は緊張ではないモノで心が震えていた。
――この人達、強い!
武をある程度収めた者は、立ち会った瞬間相手がどの位強いのか大体分かる。それは研ぎ澄まされた本能が自身に警告するようなモノ。この相手には気をつけろ、とか、何も感じない、などと言ったものが瞬時に分かる。
そしてこの三人は俺の警報に物凄く反応している。警報レベルは殆ど最大レベルだ。
――特に、あのヴォールの女性。服装からこの国の人では無いので旅人なのだろうが、度々この大会で見かけたことがある。確か何度も本選で勝ち進んでいた事があった筈だ。
なんとも強いグループに入ってしまったものだ。少なくとも、全員、俺よりも強い筈だ。
だが俺は落胆することは無い。感じているのは喜びだけだ。
強い者と闘える。それは俺の武をさらに高みへと後押ししてくれるモノだ。自分より力無き者と闘っても武は上達しない。強者と闘った時、武は成長するのだ。
俺が心の中で喜んでいると半巨人の男が口を歪ませた。
「ほうほう。何とも、若いが強き者が来た様だなぁ! いやいやコレは良い! 久しぶりに参戦したが、何とも良いグループに入ったことか!」
その言葉に人間の男が首を縦に振る。
「まったくその通りだな。私も久々に大会に参加するが早くも強者と闘える事になるとは。このグループを組ませてくれた神には感謝しよう」
二人の顔は心底嬉しそうな表情をしている。
それに対して、獣人の女性は苦笑いを浮かべていた。
「何よ何よ。私が入ったグループは何で、こう……好戦的なグループなのかしら」
「ん? 嫌なのか? 大会上位者である君が我々の様な者を恐れていのかね?」
「いや、違うのよ。ただ、前回参加した大会、まあ半年くらい前だけど、そこで戦闘狂と闘った事を思い出しているだけよ……」
女性は何だか遠い目をしながら苦悶の表情を浮かべた。
そのセリフにヴォールの男と人間の男は声を上げて笑った。どうやらこの二人は女性が何故こんな顔を見せているのか理由を知っているらしかった。
ま、と彼女は暗愁そうな表情を一変させて言い放つ。
「もっとも、最後には私が勝つのだけれど」
「たいした自信じゃのぉ! その心意気、よし!」
「おいおい、私を差し置いて誰が勝つというのだね?」
三人は声を高く上げて笑う。だがその瞳は爛々と輝いていた。
自分が一番だと、誇示するかのように。
さて、と人間の男が呟いた。
「今年の予選はバトルロワイヤル形式という何とも詰まらない物となってしまったのだが――どうだい。ここは二組に分けて一対一の勝負をしてみないかい?」
何故か昔から強い武芸者ほど一対一をしたがる。理由は、闘いとは決闘であり自身の武と言う名の誇りを賭けた闘いであるから、相手とまったく同じ土俵に立たなければならない、と言った考えだからだ。
その言葉に二人は当たり前だ、と言った風に頷いた。
「少年も、それでいいかな?」
「えっ、あ、はい。構いません。その方が俺も良いです」
少年、と言うのが俺だと気付くのに遅れてしまい、返事が早口になってしまった。
俺の発言に全員が口の端を大きく歪める。
「よし、全員の了承も得たところだし、どの組み合わせで闘おうか? 私としては――この少年と闘いだいのだが」
「うむ。ならばワシは彼女とて合わせる事にしよう。構わぬな?」
「ええ。私も構わないわ。でも何で貴方はその少年と戦いたいのかしら?」
その言葉に人間の男は顎を抑えながら答えた。
「なに、只の勘だよ。――この少年は面白い、と私の勘が言っているのでね」
そう男が言った時、闘技場への扉が開き、外から役人が入ってきた。
「第十試合が終わりました。それでは、第十一試合に参加する皆様方、準備はよろしいでしょうか?」
役人の言葉に全員頷く。
「それでは、入場をお願いします」
****
闘技場の舞台は弊社物が何も無い、半径約十五メートルの円形をしている。その場へと行く道は入場する場所から伸びている階段を上れば良い。
人間の男、半巨人、獣人の女性、俺の順番で舞台へと上がっていく。
不思議と緊張は無い。
その代わり、心は高ぶる。
身体は早く刃を打ち合いたいと叫ぶ。
闘技場の舞台へと足を進めていく度に高揚していく。
それを必死に押さえ、舞台を登りきる。
瞬間、歓声が辺りを包んだ。
周りを見渡せば数十メートル離れた客上に沢山の観客。
その歓声は爆発音の様に大きく響いている。
身体は震える。
それは決して緊張や恐怖、歓声の衝撃で震えている訳ではない。
――言うならば、それは武者震い。俺の身体が、心が、魂が、闘いという舞台に上がる事を喜んでいる。武を競い合う事に歓喜の声を響かせている。
舞台へと上がった俺たちは自然とそれぞれ五メートル辺り離れた。
全員、自らの獲物を引き抜き、構える。
観客の喧騒が響く中、それを破ったのは人間の男。
「さて、試合が始まる前に名乗らせて貰う。――我が名はジェムナム・ロット! 国を捨て、世界を放浪し、至高の武を求める人間だっ!」
彼は高々に叫ぶと右手に持った片手半剣を胸の前に持ってきて礼をした。
それを見た全員が同じ様に己の武器を胸の前に持ってくる。
「ワシの名前はイズカンデ・ロミナール! 半巨人の戦士にしてこの国出身の武芸者なり!」
「私の名前はテレシア・マルグリット! 武の高みを目指す獣人の旅人! 自身の武を証明する為に刀を振るう者!」
「俺の名前は遜韓義風! この国に住んでいる二刀使いの武芸者! 自らの理想を追い求める者だ!」
それぞれ名乗りを上げた所で試合開始の太鼓が鳴り響く。
――いざ尋常に、勝負!
全員がその言葉を言い放ち、相手へと突っ込んでいった。
****
身体を低くして俺はジェムナムと名乗った男へと疾走を開始する。相手も俺に向かって走り出していた。
俺は右の短剣を横に一閃する。
風を切裂き疾走しながら振るわれたその一撃は彼の左手にある盾で甲高い音を響かせながら綺麗に防がれる。逆に相手は右に持った片手半剣で俺の心臓めがけて空気を貫きながら突いてくる。
俺はそれを左手に持った短剣を下から円を描くようにして振り上げ、弾く。そして、弾いてがら空きになっている筈の場所を狙って剣を振るおうとする。しかし、それは盾を前にして体当たりして来たのを見て、強制的に中断。とっさに後ろへ飛びのく。
飛び退いたのを狙っていたかのように、突撃しながら片手半剣を真上から振り下ろしてきた。それを俺は両の剣を交差させそれを受け止める。
――衝撃。
しっかりと踏ん張ってその攻撃を受け止めれた俺は剣を弾き両の剣を躍らせる。
ジェムナムもそれを迎撃する為に剣と盾を自在に操り、奔放させる。
そこからはひたすら金属同士の打ち合う音が響きあう。
薙ぐ。
風切り音。
弾く。
金属音。
突く。
防ぐ。
金属音。
俺が攻撃すれば彼は防ぎ、彼が攻撃すれば俺が防ぐ。単純だが少しでも気を抜けば切裂かれる攻防。
お互いの武器が合わさる度に軽く火花が散る。衝撃が腕を通して身体にくる。
「――っ」
――やはり、強い。
攻撃回数の多い俺の攻撃はすべて盾と剣によって綺麗に迎撃されている。恐らく彼は見た目からして力よりも技術を高めていった武芸者だろう。彼の攻撃にはそこまで重さは無い。だが、的確に俺の隙を狙った一撃を繰り出し、また精密に俺の攻撃を防ぐ技量を持っている。
何度打ち合っただろうか。俺も相手もそんな事は覚えていない。いや、そんな事を考えている余裕など存在しない。だんだんと剣戟は勢いを増し、白熱し、お互いの武器を振るう回転数は上がっていく。
二人の間に生物が通れる隙間など存在しない。
「――良いぞ、少年! 素晴らしい剣術だ!」
「どうも!」
視線が交差する。ジェムナムの瞳は爛々と輝き、心からこの闘いを楽しんでいるようだ。
剣は煌き、蠢き、空気を蹂躙していく。
俺は持てる限りの速さで剣を振るっていた。人生の中でコレだけ武器の回転数が上がった事は殆ど無い。
この攻防に俺の身体は、意識は、心は酔いしれ加速していく――。
「――っ」
しかし、このままではジリ貧だ。
俺の剣術は相手がどう動くかを闘いの中で読み取り予測し、隙を作り出してそこに攻撃するといったモノなのだが……。如何せん、この人。その隙を作らせてはくれない程、強い。
そして恐らく彼の方が俺よりも体力がある筈だ。それはただの実力差、鍛錬の差、経験の差だろう。――多分彼もその事を分かっていて、俺が疲れ始めたときに見せる筈である大きな隙を今か今かと待っているに違いない。
――ならば、そうなる前に早々と勝負を仕掛ける!
「――おおおぉぉ!」
腹から雄叫びを上げ、俺は両の短剣を横なぎで叩き付けるようにして振った。
ジェムナムはそれを左の盾で纏めて防ごうとする。その攻撃自体の軌道は簡単に読めるからだ。そして攻撃した後の隙だらけである俺に向かって右の片手半剣を振るおうと――
「――な、に!」
驚きに満ちた声。
彼の身体が浮く。正確にはぐら付く。
俺の全力の一撃は結構強いものだと自負している。それこそ俺より重い物でも吹き飛ばせる自身は十分にあった。そして、彼は俺より力が無く、俺の全力を込めた一撃は彼の左腕では受け切れない――。
そう分析してみたが、思った通りだったようだ。
彼の振るった一撃は俺を掠める。だが、中りはしない。
両の剣を思い切り振りぬき、盾ごと彼を弾き飛ばす。
一回二回と回転しながら地を転がっていくが勢いが衰えたところで起き上がってくる。が、その衝撃の所為か少しよろめいている。
彼が体制を立て直す前に、俺は彼のもとに疾走し首先に素早く剣を突きつけた。
首もとにある剣を見て彼は苦笑すると、持っている剣を手放し、自らの首に手を伸ばし、そこにあったアクセサリーを引きちぎった。
「……降参だ。やはり私が思った通り強かったよ。しかし、負けるとはな……。負けた理由は油断と慢心、か」
それを投げ渡される。突きつけていない方の手で上手く受け取ると、ポケットに入れる。そして突きつけていた剣を下げた。
「俺の腕力がどの位強いのかを貴方が知っていれば負けていましたよ」
「いやいや。それを分からせない様に剣を振るうのは素晴らしい事だよ。しかし、私もまだまだ精進できるという事か。次は精神をしっかり鍛えるとしよう。ではな」
また会おう、と言い残し彼は俺に背を向ける。
****
ふぅ、と息を吐く。
俺がジェムナムに勝てたのは正直言って奇跡みたいなものだった。
そう、元々ジェムナムの方が俺よりも強かった。ただ、守る時に受け流さなかったのが失敗だっただけだ。色々とあった防御方の中でそれ以外のモノを使われていたら確実に負けていた。もう一度戦えば俺は負ける。その位、実力差はあった。
その背に俺は頭を下げ、続いてまだ闘っているであろう二人の方に顔を向ける。
そこでは嵐のような攻防が行われていた。
攻めているのは半巨人の男。
その手に持った巨大な斧を縦横無尽に振り回している。
その一撃一撃が死をも想像させるような力を秘めている。俺の目ですら追う事が難しいくらい速い。斧が通った後には旋風が巻き起こり、それが闘技場の地面を叩き付けると、粉砕される。こんな攻撃、刃引きされていたって一発で致命傷レベルだ――!
――どうやら俺は彼の実力見誤っていたみたいだ。
半巨人の彼は物凄く強い。
普通、あんな風に斧を振るうと絶対に隙が出来る。事実、振った後はしっかりと隙が出来ている。
だが、その隙を攻め入る暇が無い。その攻撃を避けるのが難しい程、速く強いからだ。
攻撃は最大の防御。
正しくその言葉を体現していた。
俺が彼の前に立てば数刻と待たずにやられてしまう。ジェムナムならばその技巧で隙を見出せるかもしれない。だが、俺には無理だ。
その位、俺との実力差が離れている。
見たことは無いが、彼も闘技場の上位者だったのだろう。見た事が無いと言う事は、ひたすらどこかで武を磨いていたのかもしれない。
――一方、女性の方はその凶刃な攻撃を剣も抜かずどこか軽い感じに飛び回って避けていた。
何と言う運動能力と反射神経を持っているのだろう。
攻撃が始まったときには地を蹴り、恐ろしい攻撃を難なく避けている。その表情には微笑すら浮かべているくらいだ。――やはり、この女性は強い。ちらりと昔見た事が有ったが、その時よりも遥かに強くなっているのは疑い様も無い事だった。
「どうした、テレシア・マルグリット! 避けてばかりでは戦いは終わらぬぞ!」
イズカンデが声を張り上げながら猛烈な勢いで斧を振るう。
それに何も答えないまま、その激烈な一閃を軽く飛び跳ね避けるテレシア。
彼女の目的は、もしかするとイズカンデの体力切れなのかもしれない。あんな風に焦り一つ見せない表情でかわせる余裕があるのならイズカンデの持久力が先に尽きてもおかしくは無い。多分、実現可能だろう。
しかし、何故剣を抜かないのだろうか。
そう俺が思い、イズカンデが巨斧を横に振り始めようとした時、彼女が口を開いた。
「――そろそろ、準備運動は終わりにしましょうか」
は? と頭の中に疑問符を浮かべた俺の目の前で、到底信じられない様な事が起こった。
先程までと同じ様に軽く彼女は跳躍し、凄まじい勢いで振るわれた斧がその下を通過する――と思ったその時。
トン、と軽い音と共にその斧の上に降り立ち――
「――っ」
斧を踏み台にして、彼女はイズカンデに向かって真っ直ぐに跳んだ。
「な――!」
俺とイズカンデの目が驚きで見開かれる。そんな芸当が出来るなんて――!
その眼下で、彼女は彼との距離を一回の跳躍だけで一気に縮めながら腰の剣に手を当て――
キン、軽い金属音。
テレシアは空中で一回転し、音も立てず地に下りる。
それと同時に、イズカンデの首にかけていたアクセサリーが地に落ちた。
テレシアの右手には細身の片刃剣がいつの間にか握られている。
――見えなかった。
その剣を引き抜く瞬間が、その剣の軌跡が、まったく見えなかった。
なんて、速さだ。何をどうすればあのような神速の斬りが出来るのだろうか。刃は潰している筈にも関わらず金属で出来た鎖を切裂くなんて何て速度だろうか。まったく持って分からない。
更に言えば、あの斧を踏み台にした跳躍。あんな事、常識の範囲外の出来事だ。どれだけ凄まじい身体能力と身体の強靭さを兼ね備えているのだろうか。
俺が目を限界まで開けて驚いているのと同じ様にイズカンデもまた驚きで動けずに居るらしかった。
テレシアが振り返る。
「――で、私の勝ちでいいのかしら?」
その言葉にようやく半巨人は動き出す。
「……構わぬ。あれほどの武を見せ付けられ、何も反応できなかったワシの負けだ」
その顔に悔しさと言ったモノは一つも見当たらない。むしろどこか喜んでいるようにも感じられた。
そう、と彼女は呟くと地面におちているアクセサリーを拾う。
「では、敗者は早々と去るとしよう。――小僧、精々頑張るんだな」
俺にそんな事を言い、軽い地響きを起こしながらイズカンデは闘技場を降りていった。
****
残されたのは、神速の剣士と未熟な二刀使い。
「――さて、残ったのは私たちみたいね。でも、少年が勝ち残っているとは思ってもみなかったわ。正直、あの男の方が実力は上だと思ったのだけれど……違ったみたいね」
面白いモノを見つけたような瞳で見られる。
その目は、明らかに嬉しそうだ。
「……いえ、それは間違いじゃないですよ。只運が良かっただけです。もう一度闘えば俺が負けるでしょう」
「ふーん。まあ。どうでも良いわね。今は関係無い事だし。さあ――」
――始めましょう。
彼女は剣を鞘に戻し、柄に手を添える。
無意識に、一歩下がる。
無意識に、呼吸が荒くなる。
何かが俺を包んでくる。
それは、目の前に居る強者の圧力。強者を前に、本能が逃げろと発している。
――くそ、なんて威圧感だよ!
武がとても強い者は、その威圧だけで勝負をつける。
圧倒的な武の力は、相手の戦意を容易く奪い、怯えさせるのだ。
彼女から発せられている、見えない圧力は俺の身体を重くしている様に感じられた。
まったく、こんなに強い武芸者だったとは想像だにしていなかった。自分の相手を見る目ははどうやら節穴だらけみたいだ。俺も運が良いのか悪いのか分からないじゃないか。強い武芸者と当たるのは己の為になるが、相手が強すぎても話しにならない。
――覚悟を決めろ!
目を閉じながらゆっくりと息を吐く。――一瞬、あの男の背中が幻視される。
目をあければ、当たり前のようにそこに男は居ない。だが、身体は静かだ。最早、威圧感に対して何も感じない。
相手を見据える。
――正直、負けは見えている。
考えろ、思考をとめるな!
――だが、それで引く者は武芸者に有らず。
目を凝らせ、見逃すな、集中しろ!
――真の武芸者なるもの、弱い心に負けてはならぬ!
両の剣を中段に構える。
俺と相手との距離は約八メートル。先程の戦闘から見た彼女の身体能力からして、三蹴りも有ればこの距離を縮めることが可能。
おそらく、先程と同じ剣技がくるに違いない。あれは多分居合という技術を応用したモノだ。その剣速は通常のモノより遥かに速いと聞く。だが、横に振り切ったと言う事は、攻撃は横か上への一直線のモノに違いない。
直感が優れている武芸者ならば、その鋭い勘を働かせて防ぐことが出来るかもしれない。
しかし、俺はそんな才能、欠片も無い。あんな速さの一閃を目で捕らえる事など到底不可能。
――ならば、その矛先を誘導するしかない。
勝負は、一瞬だ。
「――いくわよ」
言葉と共に、彼女は疾走する。その速さは、まさに獣。
一蹴り目。
俺はうつ伏せに倒れるかのように身体を傾けていく。そして地面を蹴る。姿勢を低くすれば、当然真正面から見た俺の面積も少なくなる。それが狙いだ。右の剣は肩あたりへ。視線は彼女の右腕の筋肉へ。
彼女は俺が距離を縮めてきた事を瞬時に判断、対応しその目を光らせる。
二蹴り目。
俺は既に彼女の間合いだろう。その距離はもはや二メートルとない。
――彼女の右腕に力が走るの見逃さない。
必殺の一撃が放たれる――。
――俺の予想が正しければ、彼女は俺の腹めがけて剣を振るう筈だ――!
右の剣を下げる。
見えないほど速いのならこの時点で動かしていなければ確実にやられるだろう。願わくば、この下げている一瞬を見逃していると思いたい。
そして、防げる事など思わずに左の剣を下から上へ切り上げる――。
――衝撃。
右腕の剣に凄まじい衝撃が走る。身体には、ギリギリ当たらない。
防ぐことが出来た!
そう刹那の間に思ったが――
――物凄い力と共に身体が横に流れる。
そう、それは先程の試合で俺がジェムナム相手にした事と同じ様な事。更に言えば、俺は踏ん張るような体制をしていない。
速さは重さ。吹っ飛ばされる。
「――ぉぉおおおおお!」
身体を捩曲げながらも左の剣を気合で振るう。
もっと腕を伸ばせ! これは最大のチャンスなんだぞ! ここで中らなかったらこの勝負、殆ど負けに等しいんだ! ――ならば中てるんだ、遜韓義風――!
身体を吹き飛ばされながらも振るったその剣は――
――相手のわき腹を掠めただけに終わった。
硬い衝撃と共に地面を転がっていく。視界が回る。剣を手放しそうになるが、必死の思いで握り締める。
ようやく止まったのは、剣を振るった所から六メートル程、離れた場所だった。
痛みを堪え、急いで視線を相手の居るはずの方へ向ける。もし、ここで迎撃されたら一溜りも無い。
しかし、相手は中腰の姿勢で剣を振り切った姿のままそこに居た。
俺は素早く起き上がろうとするが、食らったダメージは大きいらしい。右腕は強烈な一撃の所為で震え、足はよろめき、再び倒れそうになる。
倒れるな!
踏ん張れ!
――闘え!
俺は自分を叱咤する。
「――ぁぁぁあああああ!」
ダンッ、と足を地面に叩き付ける。
息が荒い。足が震える。右腕は力無く垂れている。
先程の一瞬でしかなかった攻防は想像以上に俺の体力を奪って行ったらしい。
だが、まだ闘える。
無事な左腕を正眼に構える。
相手は殆ど無傷だ。それに比べこちらは強烈な衝撃の所為で右腕は殆ど使えず、吹っ飛ばされた衝撃で足を踏ん張ることが出来ない状態だ。
誰がどうみても、俺が圧倒的に不利。
――だが、諦めるなんて言葉は捨てている。
ほんの僅かでも勝機があるのならばそれにしがみ付け。闘って無様に負けるのならば、もっと酷く無様に倒れてやろう!
だが、彼女が動かないのを見て訝しむ。
何があった?
そう思ったところで彼女が口を開いた。
「――まさか防がれるどころか、反撃されるとは思ってもみなかったわ」
その声は驚愕の色に染まっていた。
「必殺の一撃だと思っていた技を防がれるのは、コレが初めてよ。うん。一撃で終わらせようと意気込んだ失態か……。まだまだ精進が全然足りないのかな。もっともっと昇華しなければいけないみたいね」
彼女は身体を起こしながら振り上げていた剣を下げる。
「だが、今の攻防は素晴らしいわ。凄まじいまでの洞察力と反射を持っていなければ防ぐことも出来ず、また強靭な筋力が無ければ受けた一撃を支える事も出来なかった筈よ。しかし、あの人間が言ったことも、あながち間違えじゃ無かったみたいね。――喜んで良いわよ、少年。君は既に強者の位置に居るわ」
「……どうも」
素直に頭を下げておく。
この武芸者に賞賛された事は、とても嬉しい。こんな強い者に褒められた事なんて殆ど無い。普段ならば狂喜乱舞しているだろう。
だが、喜んでいる暇など見せてはならない。
まだ、勝負は続いているのだから。
「――さあ、続けましょう。次は一撃だけで決めようとは思ってないから、そのつもりで」
再び威圧感が俺を襲う。
それを吹き飛ばすために軽く息を吐く。
――と、次の瞬間には、こちらへと疾走してきていた。
少しばかり反応が遅れる。
――くそっ!
分析しろ。剣を両手で持って右腰に構えているという事は横なぎの攻撃がくる筈――。
放たれた一撃はあの神速の技と比べ遥かに劣る一閃。
だが、それでも強力な一撃――。
痺れている右腕を動かし、剣を交差させその一撃を防ごうとする。
金属音。
しかし、その音は軽い。
そして、高速で振るわれた剣が上に跳ね上がる。
「――っ!」
――途中で軌道を変えただって!
あの速度で振るわれた剣戟の軌跡を変えることが出来るなんて――
跳ね上がったそれは俺の右上から袈裟斬りを仕掛けてくる!
「――くっ」
痺れている右腕を無理やり動かし、短剣の刃元から刃先に滑らすように攻撃を受け流す。頬に剣が掠り、そこから血が吹き出る。この場面で毎日行っていたあの男の剣技の一部がとっさに出たが、正解だった。もしまともに受ければ剣を弾き飛ばされ直撃していただろう。
血が出た事など気にしないまま、身体を反転させ左の剣を繰り出す。
だが右に振り切ってそこには無いはずの剣に俺の剣戟は阻まれる。
くぉ……! なんて剣の戻しの速さだ!
彼女は信じられない速さで剣を自分の左側まで持っていったのだ。
――相手は俺よりも数段上の実力者。俺には出来ない事が出来ても不思議ではない。不可能だと思った事は可能なのだ。
状況は、物凄く悪い。元々の実力は相手の方が圧倒的に上。さらに俺の右腕は痺れて負傷している。幸い、足の震えは何とか回復したみたいだ。しっかりと踏ん張ることも出来るし、動くことも可能。――一旦、距離をとって戦略を練るべきか――否、彼女の驚異的な身体能力から逃げる事は不可能。もちろん、休んでいる暇などまったく無い。
――ならば、玉砕覚悟で最高の連撃を繰り出せ!
「おおおおおぉぉ!」
叫びながら俺は双剣を己の限界の限り、休むことなく振るう。双剣の最大の長所はその攻撃回転数だ。一刀よりも圧倒的に攻撃回数は多い。強者と言えども一本の剣で盾も無しにその攻撃を捌き切るのは難しい筈。そして、此処に攻撃した後此処に剣を叩き込めば反応し辛い、などを一瞬一瞬で判断しながら斬撃をくりだす。そうすれば、いつか攻撃が届く筈だ。
つまり、反撃されない程の猛攻を仕掛けるだけ!
果たして――俺の持てる限りを尽くして振るった攻撃は全て甲高い金属音と共にその片刃剣に阻まれた。
彼女は圧倒的に多いはずの攻撃を信じられない程の剣速でカバーしながら防いでいる。
内心で舌を巻く。どんな風に鍛錬を行えばあのように剣が動くのかが不思議でならない程、その剣速は速く正確だ。しかも、その顔には余裕すら見て取れた。
いくら俺が剣を振るおうとも、それは相手に届くことは無かった。
「――っ」
――そして、俺が繰り出し続けていた攻撃の僅かな隙間を縫った様に放たれた一閃。思い切りわき腹に喰らい、身体をくの字に曲げながらしながら再び吹っ飛んだ。
肺から空気が搾り出される。
背中から諸に地面に叩きつけられ、口から血が吐き出される。どうやら内臓まで傷付いているらしい。灼熱で焼かれているかのように腹が痛い。痛みで頭が回らずクラクラとする。
霞む視界を凝らしながら、それでも震える身体で起き上がろうとした俺の首元に剣が突き付けられる。
――負けだ。
衝撃と痛みの所為で余り働いていない頭に浮かんできたのは、それだけだった。
「……素晴らしかったわよ、少年。その剣戟に才能はまったく見られなかったけど、理論めいた一つの形をなした剣戟だったわ。一番初めの一撃で右腕を負傷していなければ、私は今の一撃を繰り出す事は出来なかったでしょうね」
そう、俺は右腕を負傷した時点で終わっていた。
俺の剣術はどうしても両の剣が上手く連動しないと効果を発揮することはできない。右腕が痺れたことでその剣速が落ち、隙が出来たのだろう。もっとも、それが無くても強引にやられていたような感じはするのだけれど。
とにかく、負けは負けだった。
テレシアは剣を下げ鞘に収めた。
「――そして、なにより賞賛に値するのが――最後まで剣を手放さなかった事。少年。君はきっと至高の位置に達する可能性が有るわ。――誇りに思いなさい」
その言葉に俺は頭を下げた。
こんなに凄い武芸者が俺に可能性が有ると言ってくれたのだ。嬉しいことこの上ない。この賞賛は胸の中にずっととって置く。
俺は首にかけているのとポケットに入れていたアクセサリーを無言で彼女に渡した。
その瞬間、太鼓の音が響く。試合終了の合図だ。
一際大きい歓声が響く。戦っている間も歓声は有った筈なのだがまったく聞こえて無かったとは、我ながら凄い集中力だったものだ。
俺は負傷した所為で立ち上がれないので、役人を呼び担架を持ってきてもらう事になった。
去り際、テレシアは俺の前に立って口端を上に曲げながら言った。
「――もっと高みを目指し続けなさい。願わくば、次は本選で闘いましょう」
去っていくその後姿に、俺はまた頭を下げるのだった。
****
月が明るい。
夜。脇腹に喰らった傷を抑えながら縁側へと歩き、空を仰ぎ見る。
空に輝く月はいつもと変わらずそこにあった。
今夜は鍛錬をしない。いや、正確には出来ない。内臓はひどく傷付いているし、体力も全然残っていない状態で鍛錬なんて出来るはずが無い。もちろん、医者からはしばらく安静にしろ、とのご用達を言い渡されている。 ならばその言葉に従うしかない。武芸者は医者の言う事に逆らってはいけないのだ。それに自分の身体の事は自分が一番分かっている。と言うか普通に動けなかった。
しかし、何も出来ないとなると暇だ。いつもこの時間帯は訓練をしているから寝ようにも眠気が襲ってこない。
まったく。武芸ばかりやっている人間だから武芸が出来なくなった瞬間、生活リズムが滅茶苦茶になるんだ。他に何か取り柄さえあれば暇つぶしも出来るだろうに。もっとも、そんな生活にもう慣れきって居るのだけれど。
少し苦笑をして、俺は今日の大会を思い返す。
――負けた。それはもう圧倒的な実力差で負けた。ぐうの音も出ないくらい負けた。だが今回の闘いで俺は少なからず強くなっただろう。自己流の剣術も身に付いてきている。後は、ただ鍛錬するしかない。負けた事に憂いなどは存在しない。
次に出る大会では本選に上がれるようにしないといけないな。取り敢えず強くなれば良いだけの話だ。
まずはもっと身体能力を鍛えよう。今日闘った敗因の一つとして力も早さも足りない、というのがあった。要するにまだまだ身体強化を計らねばならないという事だ。 特に俺みたいな直感の無い奴にはせめて身体能力が高くないとやっていけない。あ、それにもっと身体を強靭にしなければ。せめて吹っ飛ばされた程度でもふらつかなくなる様になれば良いだろう。後はあの男の剣術を自分の物にしていく事だ。最低でもあの受け流しの剣技さえ扱えるようになれば、俺の剣術はもっともっと強くなる筈だ。それにあの剣舞をしていたら、自然と体力や力もついてくるに違いない。じゃあ練習内容はどうしようか。朝はまず瞑想と筋肉トレーニングをして――。
俺はどんどん物思いに更けていった――。
****
ふいに肌を刺すような風が俺を撫でて、身を震わす。
辺りは暗闇で、空には一つだけ綺麗に輝くモノが遥かなる高みから俺を見下ろしている。
――ああ、取り敢えず色々と考えるのは明日にしても良さそうだ。とにかく、疲れた。身体全部が鉛のように重い。――そうだ。今日は此処で眠るのも良いかもしれない。寒くて風邪を引くかもしれないが、そんな事知ったこっちゃない。それに武芸者は風邪を引かないと言う無茶苦茶な論理があるんだ。きっと大丈夫だろう。
ゆっくりと視界を目蓋で閉ざす。
目の裏に現れた男は、威風堂々と、俺の目指すべき境地に立っている。
目標としては、まずあのテレシアとの再戦を果たして勝つ事だ。そして、最終的にはこの男。まだまだその男が居る距離は見えない位離れている。どの位時間が掛かるかも分からない。でも、少しずつ近付けば良いだけだ。
――そう、俺は武芸者だ。
ならば、高みを目指してただ足を進めていけば良い。
幻想の男に向かって俺は叫ぶ。
――絶対に、その領域に辿り着いてやる!
そう誓いを立てた俺を月は只静かに照らし続けていた。