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ボーリングマン

 一限の授業が終わり教室から出ると、寝不足のせいか、頭がボーリングの球のように重たい。「ボーリングか。」そう思うと、河野翔平は廊下を転がってみた。ピンの存在しえない廊下を、ただ何処までも、意味もなく延々に。大学二年になったというのに何をやっているのだろう。


 転がっている時だけは、頭の重さを忘れられた。しかし残念なことに翔平は、案外早くボーリングマンを辞めなければならなくなった。側頭部に誰かの脚がぶつかったのだ。どうやら、そこにずっと突っ立っては彼の転がりを見ていたらしく、止めたやいなや「おい、なにやってんだよ。阿呆か。」とボーリングマンを全否定。それに苛立った翔平は怒鳴りつけようと起き上ったが、どうも怒鳴る気にはならない。頭が重たくて口を開くのさえ面倒だったことが理由の一つだが、それよりも何よりも翔平がぶつかった人物というのが、彼が一年の時から苦手であった一つ上の先輩、十鳥邸矢だったのである。低矢というのは人を見るなり喧嘩を吹っ掛けるような奴で、怒鳴る事を趣味にしたような理解し難い人間なのだ。そんな彼の顔を見た途端、翔平の頭は13ポンドから15ポンドに変化した。「2ポンド増加。えへ。良くできました。えへ。次の問題もできるかな。えへ。」現実逃避の為に心の中でおどけてみたが、なんら効果はなく、彼は、いち早くその場から立ち去ろうとした。翔平が一歩足を動かすと、まるでその時を待ち望んでいたかのように、


「お前、ボーリングが好きなのか。」


と邸矢が質問、翔平からしてみれば尋問をし、「立ち去る」という彼の夢は一瞬にして砕け散ってしまった。さらに頭が重くなった気がしたが、翔平は仕方なく尋問に答えた。


「まあ、好きってほどでもないっすね。友達に誘われたら行きますけど、自分から行こうとは思わないっすね。」


「じゃあ何でお前はボーリングの物真似してたんだよ。そんなマニアックな物真似初めて見たぞ。嘘付くなよ。物真似したくなるほど好きなら、素直に好きと言えば良いじゃねえか。何も恥ずかしい事じゃない。そうだろ?」


翔平は「はい黙りましょうね。」と口から出かかった言葉を何とか堪え、これ以上面倒臭くならないように、


「ばれましたか。流石っすね。実はかなり好きなんっすよ。ストライクの快感が癖になっちゃって。」


と嘘をついた。「どうだ。これでご機嫌か、邸矢。」と思いながら愛想笑いをしていると、邸矢は憤怒の表情を浮かべ、その顔面は見る見るうちに赤くなっていく。眉間には皺が寄り、翔平を睨みつけて、今にも殴り掛かってくるかのように強く拳を握りしめている。「俺は、何か気に触ることを言ってしまったのか。いや、言っていないはずだ。むしろ低矢が求めているのであろう答えを、嘘を付いてまで言ってやったのだし、不機嫌になるようなことなど一言も言ってない。」と、翔平は自分で自分を落ち着かせ、その甲斐あって不愉快な鼓動も治まってきていた。その途端、ボーリングの球のように重い頭を揺らすほどの酷い怒鳴り声が、廊下全体に響いた。低矢の趣味の時間である。


「ふざけるな!ボーリングが好きだと!?ただ無駄に重たい球を可哀想にも床ちゃんに叩き付けては転がし、コケシちゃんのように愛すべき形をしたピンちゃん達を倒すなどという邪道遊びのどこが面白い!?あぁ?床ちゃんとかピンちゃんの気持ちを考えろ!ド阿呆!」



 あれから二日経ったが、翔平のボーリング頭病は治る気配すらなかった。もう廊下を転がるのはトラウマがあるからできないし、キャンパスにいる時は常に、低矢に会わないように注意を払うことで精一杯だった。そんな中、ただ一つだけ、ボーリング頭病を和らげる事があった。それは低矢の言葉を思い出すことである。馬鹿にしながら「床ちゃん」と呟いてみては笑い、「ピンちゃん」と呟いては笑い転げた。そんなところを低矢に見られたら一巻の終わりであるが、込み上げてくる笑いに耐えることは出来なかった。


 怒鳴り散らす趣味と、「ちゃん」を付ける習性。それが翔平のイメージする十鳥邸矢の全てであった。


 授業が終わり、翔平が大好きな焼きそばパンを買いに行こうとしていると、

「ハロー。翔平ちゃん。何やってんだい?」

と後ろから声が聞こえた。翔平は思わずビクッとしたが、逃げられそうもない距離だったので演技モードに入った。低矢を怒らせないキャラである。


「今、購買行こうとしてたんっす。」


「何買うんだよ?」


低矢は、この前あれ程怒鳴った事に一切反省の色を見せず、何事も無かったかのように話を続ける。


「腹減ったんで、パンでも買おうかと思いまして。」


「パンちゃんか。何パンだよ?」


「焼きそばパンっすかね。」


「焼きそばパンちゃんか。お前、焼きそばパンちゃん好きなのか?」


翔平は低矢の、アンパンマンの登場人物的「ちゃん」の使用方法が可笑しくて、つい噴き出しそうになったが、何とか会話を続けた。


「焼きそば自体は、そんなに好きじゃないんっすけどね、焼きそばパンはパンの中で断トツっすね。」


御待たせしました。低矢さん、御趣味の御時間。真っ赤な御顔と、御眉間の御皺、翔平を睨む御目と、強く握りしめた御拳。


 翔平は覚悟した。そして、開幕。



 「ふざけるな!焼そばちゃん自体はすきじゃない!?焼そばちゃんにはな、麺ちゃんは勿論のこと、人参ちゃんやキャベツちゃん、ましてや豚肉ちゃんまでも入ってるんだぞ!」


「わかってますよ。嫌いとは言ってないんですし、良いじゃないっすか。」


「わかってねえな!!お前は、ソースちゃんを忘れてんだよ!!!」


まさかの言葉を聞いて翔平は遂に笑ってしまった。腹を抱えて笑ってしまった。一回笑いだしてしまうと止まらず、もう諦めて、込み上げてくる笑いを自分の身体に任せた。


「ブオオンン!!」


 風を切る音がしたと思った途端に何かが翔平のこめかみに直撃した。低矢の拳である。


 その瞬間、ついさっきまで腹を抱え笑っていた翔平の表情が一変した。顔面が赤くなるにつれて、眉間の皺が深くなり、低矢を睨みながら、拳を強く握りしめている。


「おい、どうした。お前が人を笑うから殴ってやったのに逆切れか!?焼きそばパンちゃんよ!!」


低矢は翔平を威嚇した。どうやらまだ怒鳴り足りないようである。


 翔平は今まで経験した事のない頭の重みを感じていたが、低矢への怒りで何が何だかよく分からなくなっていた。


「うるせえ。」


声を出してみると、思いのほか頭の重みが、身体全体にダルさを充満させていたらしく、やっと出た言葉がそれだけで途切れてしまった。


「あぁ!?てめぇ誰にそんな口利いてるんだよ!?それとな、焼きそばパンちゃんがパンの中で断トツとかいってたな!?お前は、この世の全てのパンちゃん達を食べ尽くしたのかよ!?食ってねえだろ?食ってねえくせに調子に乗んな!」


翔平はぶち切れた。それと同時に、頭の重さがどんどん重くなっていく。もう一度、低矢を睨みつけた。その目さえも重くなっているような気がした。眉間にダンベルが入っているような感覚。崩れ落ちそうなほど身体全体が重たい。それでも翔平は拳を振り上げて、低矢を殴ろうとした。


「ブオオン!!」


自分の拳に自分が振り回されてしまった。


「ふっ、ド阿呆!当たってねえよ!」


そう言いながら低矢は逃げて行った。翔平の異変に気付き、身に危険を感じたらしい。


 翔平は地面に倒れこんでしまった。もはや立ち上がることは出来なかったが、怒りが治まらないので、どうにか低矢を追おうとして、身体を転がした。一回転、二回転、三回転、四回転…。転がるにつれて、身体がどんどん重くなっていく。そして、徐々にスピードも上がった。五回転、六回転、七回転……



「あああああああああ!」


悲鳴が聞こえたかと思うと、翔平は何かにぶつかって、その上を転がった。



 怒鳴り声に似た悲鳴と共に、十鳥邸矢は潰れてしまった。

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