私の婚約者を奪うなんて。貴女のための婚約だったのよ?
最愛の妹だ。何においても代え難い、可愛くて、守らなければならない、最愛の——最愛だった、クラーラ・ヤーデルンド。
血を分けた、唯一の肉親だ。
その彼女が、お互いの鼻をくっつけそうなほど、顔を寄せる。いつまでもあどけないと思っていた顔を艶っぽく傾けながら、とろりとした瞳を向ける、その相手は。
カールソン伯爵家長男イデオン——私の、婚約者。
(…………嘘。どうして、クラーラが……私はずっと、あなたのために)
我が家の見慣れたドアの隙間から見えるクラーラは、どこまでも美しく。そんなクラーラを熱心に見つめるイデオンには怒りさえ湧いた。
「ああ、クラーラは可愛いげがあって、美しくて……俺の屋敷にやってくるのが待ち遠しいな」
「ふふっ、イデオン様ったら。駄目ですよ、まだお姉様の婚約者なのですから、今はまだ」
古びたカーテンも、年季の入った絨毯も気にならない。完成された一枚の絵のように、くすくすと笑い合う二人から、目を背けるようにそっと足を引く。震える足がもつれそうになりながらその場を離れた。
(ようやく、ようやく掴んだ婚約なのよ……。——それをどうして、こんな形で)
いつからだろうか。
私の目を盗んで、二人の距離が縮まったのは。
クラーラの容姿をイデオンが気に入ったことは知ってはいたが、何度記憶を辿っても見当もつかない。
婚約して一年。これまで気づかなかった私を嘲笑うかのように、隙間から見えた二人は、お互いの姿しか目に映っていないようだった。
◆
ベッドの上で上体を起こすクラーラに、婚約が決まったのだと伝えると、いつもの白い顔がほんの少し赤らんだ。
あまり負担は掛けたくないから、興奮させないように言葉を選んだつもりだけれど、無理だったらしい。
「ええ!? 本当? おめでとう、お姉様。本当に嬉しいわ……!」
「クラーラ、あまりはしゃいでは駄目よ。また発作が……」
「だって、お姉様が結婚するのよ! そんなの無理。お相手は素敵な人?」
「ええ、私の事情もわかってくださって」
父、ヤーデルンド子爵は、三年前に事故でこの世を去った。それからはクラーラと二人、親族からの圧に耐えてきた。
商人だった父が子爵位を買い、一人で私たちを育てようと奮闘している時、彼らが手を差し伸べようともしてくれなかったことを、忘れていない。父の亡き後、小娘だからと言葉巧みに乗っ取ろうとする彼らの企みに気づくのは簡単で、だからこそ屈するわけにはいかなかった。
「きゃあ! 絶対、素敵ね。お姉様の花嫁姿! 今からもうすごく楽しみ!」
「ほらほら、落ち着いて。そろそろ先生がいらっしゃるわ。そんなに興奮していたら先生も診察で困ってしまうでしょう」
そう言いながら、手を叩いた弾みで肩から落ちたカーディガンを掛け直してあげる。
「そんなこと言っても! あ、メルケル先生! ちょうどいいところにいらしたわ!」
私の背後を見てクラーラが喜んだ。手招きと同時にまたカーディガンがずり落ちた。振り向くと、話題に上がったばかりのメルケルが部屋に入ってきたところだった。
ずっとクラーラを診てもらっている主治医だ。
小ぶりの丸眼鏡に、小麦色の長髪を後ろで束ねたその姿は、もう見慣れたもの。
父が亡くなった時には、クラーラだけでなく、気を病んだ私も随分とお世話になった。年上ではあるけども、私とは八歳しか変わらない。職業柄か、随分と落ち着いて見える。
「まあメルケル先生。騒がしくてごめんなさい」
「やあ、リンダ。姉妹仲が良くて謝ることなんかないでしょう。今日はまた一段と元気がいいですね、クラーラ、何か良いことでもありました?」
ゆったりとした声を聞けばいつだって気が楽になる。
メルケルは穏やかに微笑むと、クラーラの額に手を当てた。熱がないことを確かめるとそのまま手首で脈をとる。
軽く頷く姿を見れば、いつもと変わったところは無さそうで、安心する。
「そうなの! 聞いて、メルケル先生、お姉様が婚約するんですって」
無邪気な声につられるように、思わずメルケルの反応を伺った。クラーラの喜びように、メルケルもまた喜んでくれるだろうと期待して。
彼の様子を気にしてしまうのは、ずっと心配を掛けていたことを知っているからだ。
メルケルは、丸眼鏡の奥で目を見開いた。彼のグレーの瞳に、私の姿が映ると、なぜか喉の奥がきゅっと狭くなった。
「…………え。そうなのかい? それは、また……めでたいことですね。クラーラの喜びようもわかる気がします。……お相手はどなたなのか、お聞きしても?」
「はい。カールソン伯爵家のイデオン様です。こちらの事情も汲んでくださり、納得できる条件を提示いただけまして」
「そ、うか。……カールソン伯爵家の」
瞳が翳ったのは、ほんの少し。けれどその一瞬を見逃せなかった。そうなる理由も、わかるから。
「私には勿体無いほどの方です。女二人では、何かと不便ですから。本当に良かったです」
「ああ……そうだね、そう、良かった。おめでとうございます、リンダ」
「ありがとうございます」
そんな様子をにこにこと見守っていたクラーラが、メルケルの袖を引っ張った。
顔の位置の差から、自然と上目遣いになったクラーラはとても可愛らしい。もし社交界に出れたなら、その美貌と愛嬌で、きっと注目の的だっただろうに。
「ふふ、メルケル先生、だからね今日はお祝いよ。ご飯、一緒に食べていってくれるでしょう?」
「ちょっと、クラーラ! 何を勝手に。今日作るのは私でしょう? 急に言われても食材だって」
給金の都合で使用人の数は最低限。
今日は全員帰らせて、私とクラーラの分だけ夕食を用意するつもりだった。
「お姉様の手料理よ? いつだって美味しいもの、今日だって美味しいに決まってる。メルケル先生だって食べたいに決まってるわ。ねえ、先生」
「ええ、ご招待いただけるのなら、喜んで。足りないようでしたらお買い物も行ってきましょうか?」
こんな日々も期限付きになってしまった。
そのことが少し、寂しいけれど。
結婚するときには、なんとなく心が苦しくなる。そんな女性も多いと聞くから。
私もきっと、マリッジブルーなのだと思う。
◆
初めてイデオンに会った時のことだ。
出会った瞬間、不躾に、頭の上から足の先までじろりと見定められた。感じた不快感を笑顔で飲み込んだことは、忘れられない。
「ふぅん、君がリンダ?」
「ええ、初めまして、イデオン様」
カールソン伯爵家の薔薇が咲き誇る庭園の中、似つかわしくない質素な装いで、丁寧にお辞儀した。
「君の妹が病気だってね? それで俺に助けてほしいと」
「はい。治療費が……いえ、薬代をお願いできればと考えております」
「薬代ね、その程度、容易いことだが。…………ハッ、どんな女がこの俺に婚約の条件を付けてくるのかと思ったが、まあ、そこまで見目も悪くはないじゃないか」
そう言いながら、私を見る目には何の興味も湧いていないようだった。
女好きだという噂のイデオンには、噂に違わず、たくさんの恋人がいて。
だからこそ正妻の座が空いていた。
恋人と夫では、求めるものが違うのだろう。
正妻となれば、浮気者の妻となるのが明白だ。
良縁の女性たちはやんわりと距離を置く。
そんな中、広めの土地を持参金にできる私は、彼にとって、彼の親族たちにとって、都合が良かった。それだけのこと。
「申し訳ございません。どうしても譲れないものでして。他には、何もございませんから」
遺された土地も屋敷も、父との思い出も、妻としての幸せも、矜恃も、全部いらない。
別にそれで構わない——構わなかった。
私にはクラーラがいて、クラーラのためならばと、そう思っていたから。
足早に自室に戻り、内鍵をかけて、ベッドへと倒れ込む。
クラーラの部屋の隙間から見えたのは、嘘みたいな光景だった。決して見てはいけなかった。私のこれまでの全てが否定されたような、疎外感が胸の真ん中に植え付けられた気がする。
脳裏を離れないイデオンとクラーラの、その甘ったるい空気に吐きそうになりながら、枕に顔を埋めた。
(——あんなクラーラの顔を、私は知らない。できれば、知りたくなかった)
愛されていると自信に溢れたその顔で、イデオンと向かい合うクラーラ。
その場を離れる直前、目が合った彼女は、罪悪感一つ見せず、勝ち誇ったように美しい笑みを浮かべた。
クラーラはイデオンのことが好きになったのだろうか。
それとも、イデオンの金の力に目が眩んだか。
(まさか正妻という肩書きが欲しくなったの? いいえ、どれも違うわね。……薬代では満足できないと言うのね?)
クラーラの薬代のため、と結んだ婚約だ。夫の愛など必要ないと思っていたが。
婚約期間ももうすぐ一年となり、そろそろ結婚が見えてきた——このタイミングで、まさか私から婚約者を奪おうとするなんて。
このまま進めば、何の不都合もなくずっとクラーラの薬代を手にできた。
それがどうだ。他でもないクラーラが私の想定を覆してくる。
もし、クラーラが私の婚約者に色目を使わなければ。
いいえ、私にイデオンを引き留めるだけの魅力があれば。
過去を嘆けばいいのか、これから泣いて縋ればよいのか。それとも——怒ればよいのか。誰に向かって?
婚約者を下ろされるかもしれない、そんな恐怖の中、一人の影がちらついた。
ぎゅっと瞑った先で思い浮かぶのは、きらりと光るメガネのレンズ、その奥のグレーの瞳。
いつだって私を落ち着かせてくれた先生は、一体何と言ってくれるだろう。
こんな時でさえ、脳裏に浮かぶ彼の姿に、ほっとする。
ぎゅっと握りしめた手が真っ赤になって震えていた。押し隠した気持ちを握りしめたまま、その手にキスを落とす。
——たすけて、先生。
縋るような思いも、今はただ身体の真ん中がずっと痛い。
どれほどの時間が経っただろうか。
これまでのこと、これからのことに思いを馳せ、近づいてくる足音に気づけなかった。
ドアが鳴る。コン、コンと控えめに鳴らされた音は、叩いた主が誰なのか、教えてくれる。
「リンダ? どうしました? 今日は何だか、家の中が静かですね?」
「メルケル先生……」
ドアを開けばメルケルが手土産のフルーツかごを片手に立っていた。
彼がいるということは、イデオンはとっくに帰ったのだろう。顔を合わせるのがどこか気後れするのだろうか、イデオンがいる時に、メルケルは決して顔を出さない。
今見たことを話そうか、逡巡した。醜いところは見せたくなかったけれど、結局聞いてもらうことにした。頭も、心も、安らぎを求めていた。
「……そう、クラーラが。でもクラーラも子供じゃないでしょう、リンダがそこまで心配することかい?」
「わかってるわ! そうではないの。もう子供でないのだから、婚約者のいる相手に近づいてはいけないことくらい、知っているでしょう?」
「そうだね。それはクラーラに責がある。もちろんイデオン卿にも。……それでもですよ、リンダ。イデオン卿がそういう方だっていうのを、君は知っていたでしょう。僕だって婚約話を聞いた時、気が気じゃなかった。でもそれを全部知った上で、リンダが婚約したとわかったから……わかってしまったから。僕は、何も言えなかった。そんな僕にも責がある、だから決してリンダだけで背負わないようにしてください」
心配をしてくれている。それはわかっても、味方にはなってくれない。
悔しい。
優しい、メルケルも。不敵に笑うクラーラも。
「……私は、クラーラを守りたかったの」
「うん、そうだね。クラーラもそれはわかっていたでしょう」
「反抗期かしら」
「ふふ、そうかもしれませんね。クラーラには僕がそれとなく聞いてみますから。……僕は、君が心配なんです。ずっと頑張っていることも知っています。リンダには必ず幸せになってほしいのです。どうか心配ぐらいはさせてください」
そう言い置いて、メルケルは部屋を出て行った。クラーラの診察に向かったのだろう。
離れていく足音を聞きながら、握りしめていた手をそっと開いた。血が巡り、じんじんと指先を温めていく。
再び訪れた静寂の中。メルケルの優しさと、イデオンの不遜さと、クラーラの笑みを、順に思い返して、それからまたメルケルの温かい手のひらを思い浮かべた。
恋愛だけが結婚ではないと割り切っていただけで、イデオンのことは好きではない。それでも、結婚相手として、いいえクラーラのことを思えば都合の良い相手だと、満足しているはずだった。これからの未来にも。
それなのに、メルケルがずっと優しいから。
クラーラがあんな顔で、私の前に立ちはだかるから。
ツンと鼻の奥が疼く。
(認めるしかないじゃない……やっぱり私は、メルケル先生が好きだったのよね)
そう言葉にしてしまえば、憑き物が落ちたように、喉の渇きも肩の重みも胃の痛みも、消えた。
萎んでいた気持ちが膨らむように、胸も張る。前を向いた先に埃が被った鏡台があった。
ぼさぼさになった髪、乾いた唇に、濁ったような瞳。いつの間に私は、こんな姿になっていたのだろう。気にならなくなっていたのだろう。
緩くまとめただけの髪を解き、丁寧に編み込んでいく。唇には少しばかり紅を差す。鏡を見ながら整えていく姿は、これからの新しい未来を指すようで、勇気が湧いた。
私は——私が、変わらないといけないのね。
近く、大きなパーティーが開かれる。招待状が届いていたことは確認した。
イデオンの性格を考えると、誰をエスコートするのか、わかりきっている。
そして、誘われればきっと、クラーラは喜んで飛び込んでいくだろう。自分の体調を気にもせずに。
なんとも言えない複雑な気持ちを抱えつつも、ドレスに合わせるネックレスを、数少ない手持ちの中から選んだ。
きっと未来が変わるパーティーになる。けれど。
何にせよ、私はまだ、イデオンの婚約者なのだから。
◆
パーティー当日、嫌な予感は的中した。
イデオンの腕に身体を預けるクラーラを、すぐ後ろから眺めて歩く。
クラーラの、儚げな姿に整った麗しい顔立ち。白い肌に、流れる銀の髪も、印象的なピンク色の瞳も、イデオンと揃いの柄の豪華なドレスとともに、参加者の視線を奪っていく。婚約者であるはずの私が、静かに二人の後を歩いていることも注目を集めていた。
約束通りに薬を用意してくれたイデオンのおかげで、クラーラの調子は幾分と良くなってきていた。
だからイデオンは、隣を飾るに相応しい、より美しい方を選んだ。彼のこれまでを考えれば何の不思議もなかったが。
(それでも、この場に、クラーラを呼ぶなんて……)
多少良くなったといえ、無理ができる身体ではない。そうでなくとも、婚約者は私なのだ。
本当にロクでもない。最近はあまり彼の移り気の噂を聞かなかったけれど、恋多き男が婚約くらいで変わるわけがなかった。
全て覚悟していたことだが、相手がクラーラでさえなければ、だ。
微笑み合うクラーラとイデオンの姿を、つい目で追った。
周囲の視線など物ともせずグラスを傾け合い、イデオンは知人にクラーラを紹介し、身体を寄せ合ってダンスを踊る。婚約者の私はずっと壁の端に身を寄せているというのに。
私と目が合うたびに微笑むクラーラの気持ちは、決してわかりたくもないけれど。
幾度となく繰り返されるそれに、私の願いはやはり叶うことはないのだと、最後の執着を捨てた。
(もういいわ。認めましょう、私の負けよ。完敗だわ、クラーラ)
もういっそ清々しかった。クラーラのことがなければイデオンに執着する意味もないのだ。
ぼんやりと二人の踊る姿を眺めていると、困ったように微笑むメルケルの姿が思い浮かんだ。その妄想の中でさえ、私を見る彼の視線は、いつだって優しい。
ずっとずっと隠し通すつもりだったのに、今はただ早く顔が見たい。
自分の愚かさを笑うように喉を鳴らして、ダンスを終えた二人へとカツカツと近づいた。
イデオンが少し驚いたようだったが、クラーラの顔色は変わらなかった。
「——イデオン様、婚約の件、なかったことにさせてくださいな」
そうはっきりと口に乗せると、クラーラの口端がぐっと上がる。
見覚えのあるその仕草は、自分の思い通りに事が運んだ時の。
それに少しだけ悔しくも思ったが、私はもう答えを出してしまった。
「いいのか? まあ、リンダがそう言うのならば、俺はどちらでも構わない。元々、正妻の座を埋めたかっただけだしな、そこにクラーラが収まるだけだ。俺としては美しい妻の方が見栄えも良いし、近頃は薬のおかげか体調も良くなってきているし何の問題もない。別に、クラーラの姉として養うくらいしてやってもいいが?」
恋人を何人も囲うような男だ。羽振も良ければ、さすが懐も広い。
そんな様子のイデオンに、つくづく、私は合っていなかったと、小さく笑った。
私にはもっと穏やかで、些細な日常に胸をときめかせる方が、きっと合っている。
「ええ。でももう良いのです。なんだか考えるのも疲れてしまって」
彼はきっと馬車で待っている。クラーラの体調をずっと気にかけているだろうから。私のことでも心配をかけているだろう。
顔を見たらまず、婚約解消の件と、これからのことを話したい。私の想いも伝えられるだろうか。
「わかった。ハッ、後悔しても遅いからな? では今この時をもって、君との婚約は白紙にしようじゃないか!」
最後は綺麗に別れておこうと、ドレスの裾を少し持ち上げて、すっと腰を下げる。これで後腐れなく。なんだなんだと小さな騒ぎを聞きつけて集まってくるパーティーの出席者が証人だ。面白おかしく吹聴されるかもしれないけれど、私には関係ない。
気が急くけれど、これだけは言っておかなければ。
「——クラーラ。無茶苦茶じゃないの、あなた。あなたのせいで私の人生設計、めちゃくちゃよ。でもそうね、ありがとう、あなたのおかげ」
「そうでしょう。お姉様には似合ってなかったのよ全部」
「酷いじゃない、クラーラのためを思ってたのに」
「そんなだから駄目なのよ、お姉様。私は、全部、私のためよ?」
「はいはい、わかったわ。——じゃあクラーラ、私、帰るわね。あなたはどうするの」
聞くや否や、クラーラはイデオンの腕をぱっと離した。次いで埃を払うかのように手をはたく。
妖艶とは程遠い無邪気な笑顔を、久しぶりに見た。
「もう! お姉様ったらいじわるね。一緒に帰りましょうよ! 置いていくなんてひどいわ!」
ここでようやく。
目を丸くしたのは、イデオン一人だ。
「クラーラ!? 何を言ってる!? 君は俺と一緒に屋敷に戻るだろう!?」
「ええ? 私がお姉様のいない屋敷にいつまでも居るわけないでしょう? しかもお姉様をないがしろにする男の隣だなんて、イヤよ」
「どういうことだ! お前が恋人が多いのが嫌だと言うから、他の女の誘いは断って」
野次馬のごとく集まる周囲の目を気にしながら、声量を抑えるイデオンに対して、クラーラの態度は変わらなかった。
「そんなの当たり前でしょ。でもそもそも、お姉様をちゃんと愛してくれる男性でなきゃダメなの。婚約者の妹に手を出す男なんてお断りよ、絶対ね! お姉様はとびきり素敵なんだから、とびきり素敵な男性じゃないとね、似合わないの。それで私は、お姉様と、メルケル先生と、一緒にいるのよ、ずっとね! やっとお姉様の婚約者じゃなくなったのよ、イデオン卿。もう私にも関係ないわ」
待て、と声を荒げるイデオンから逃げるように、馬車へと向かった。
淑女らしからぬ逃げ足を披露しつつ、楽しいと心から笑ったのは、一年ぶりだろうか。
待たせていた馬車の横に一つの人影がある。
やっぱり彼は待っていてくれた。なぜか、花束を片手に握りしめて。
「メルケル先生、お待たせしてしまいました。そちらの花は?」
「リンダへ、渡したいと思いまして。あなたの紫の髪によく映えるでしょう?」
白い花弁に、花の中央が黄色く染まっていた。
大きくもなく小さくもない、ガーベラの花束だ。
「……クラーラがあなたのために動いていた。リンダがクラーラの行動を見かけた日、妹思いで優しい君は、全て知ったでしょう。リンダを苦しめまいとするクラーラのことも、自分のせいでクラーラがやりたくもないイデオン卿の相手をしていると心苦しく思っていたことを知っています。が、僕だって、リンダがこのままで良いとは思っていませんでしたから——リンダにバレないよう、クラーラとイデオン卿の密会のお手伝いを」
「メルケル先生!?」
「早々にバレてしまればきっと、リンダはクラーラを想って妨害したでしょう?」
取られた手に花束を載せられる。
ふわりと香る花が、ドキドキと鳴る心臓を幾分か落ち着かせてくれた。
「先生も協力してたなんて、ひどいわ」
言葉とは裏腹に、心は温かくなるだけだ。
笑顔で花束を受け取った私の手を、メルケルが両の手で包む。思えば、父を亡くした時にも、この大きな手が私を導いてくれた。
「クラーラの薬ですが、この国では手に入りにくく、高価だ。だけど隣国であれば……もっと手にしやすい。必要な薬草が育ちやすい気候ですから。だからもし、もしあなたが僕と来てくれるのなら、隣国へ参りませんか。ようやくその算段が整いまして、やっと伝えられる——リンダをずっと隣で支えていきたいのです。その、お金ではイデオン卿には敵いませんが、想う気持ちであれば、誰にも……」
負けませんから、という言葉を聞きながら胸の中へ飛び込んだ。
「知っていますか? イデオン卿との婚約は白紙になったんです。クラーラと先生のせいよ。本当にどうしてくれるんです」
「……それは……良かった! いえ、欲望に負け、クラーラを止められなかった僕が悪いでしょうね。どうか僕に責任を押し付けてくれませんか? 責任を持ってクラーラを治し、貴女を幸せにすると誓いますよ」
背中に回された力強い腕の温もりを感じながら、破顔した。
一度は諦めた。いいえ、気づかないようにしていた恋。
「私もやっと正直に言える。——私はメルケル先生が好きなんです、ずっとね」
◆
メルケルが隣国で見つけてくれたのは、私とクラーラが穏やかに過ごせる可愛い家だった。
大きくはないけれど、青い三角屋根の一軒家。今日もまた煙突からは揺らぐ白い煙が上がっている。
小さいながらも庭があり、その一画では白い花が咲き誇っている。
私はその花を眺めながら、ベンチに座るクラーラの様子を窺った。
穏やかな気候と薬のおかげでクラーラは随分と良くなり、ベッドに座ることも無くなった。
例のパーティー以降、自分からの愛を一身に浴びながらクラーラが靡かなかったことでイデオンは何かに目覚めたらしく、「俺にはクラーラだけだ、冷ややかな目も俺の気を引きたいためだろう?」と明らかに拗らせた内容の手紙が届く。時々だ。
こっそり調べてみても、彼の女遊びはなくなったらしく、一つの噂も聞かなくなった。
あまりの変わりように、私は苦笑いを浮かべるのだけれど、クラーラはいまだプンプンと怒っている。
お姉様に謝りに来るまで許さないんだから、と頬を膨らませるクラーラだが、いつか彼を許す時はくるだろうか。
くすりと笑って、私は隣に立つメルケルの手を取った。
手のひらの温もりを感じながら、覗き込んだグレーの瞳には、生き生きと輝いた私の姿が映っていて。
愛する人の隣で幸せを噛み締める。
そんな穏やかで、些細な日常に、私は毎日胸をときめかせている。




