プール (エピローグ)
学校のプール開放日があった。特別なイベントというわけじゃない。ただの「プール授業の後片付けがてら、希望者だけ開放します」という、地味な学校行事だ。
そんな中、おれたちはあえてのスポーツクラブのプールに行った
もはや恒例行事である。
スポーツクラブといっても公益財団法人が経営している地元のやつである。インストラクターやパーソナルトレーナーはいない。本格的なベンチプレス台やパワーラックなどのフリーウェイト設備はほぼない、建物は築40年な場所である。
すなわち平均年齢40歳の世界。高校で埋没している貧弱な心身のおれもここでは健康な十代というだけで文句なしに主人公である。それも無双系とか異世界チート系のよってあらゆるコンプレックスが消えた。
更衣室で着替えてプールサイドに出ると、みことがすでに来ていた。
現れたみことが着ていたのは、装飾を一切排した、ストイックな濃紺のセパレート型フィットネス水着だった。上は露出を抑えたハイネック気味のタンクトップ、下は太ももまで覆うスパッツ状のハーフパンツ。まるでサウナや本格的なトレーニングにでも挑むような、色気よりも「効率」を重視した出で立ちだ。
「……記谷くん。浮き輪の方がよっぽど華やかですよ」
卑下する言葉とは裏腹に、その肉体は隠しようもなかった。
ストレッチで腕を上げた瞬間、サイドから覗く脇から腰にかけてのシャープなライン。磨き上げられた板のように薄く、それでいてしなやかな腹筋。眼鏡を外したことで、ハシバミ色の瞳が潤んで大きく見え、幼い顔立ちと仕上がった体のギャップが、今まで気づかなかった色気を放っている。
「……あ、あの」
おれは気づくべきだったのだ。こういう水着になる可能性がある場所に(過失とはいえ)誘ったのはこちらだ。
「その」
それに難色を示すとか代案を出してこなかった時点でみことには勝算があったのだ。そう、こうやって人前で「水着」という装備品を、「勇者の装備」とか「宇宙服」と同じで、装備しようと思った翌日にいきなり装備できるものではない水着を装備できるように自分を仕上げてきていたのだ。
「……本日の水泳指導係、任命してもいいですか? 」
くすみカラーのラッシュガードを羽織り、薄ピンクに染まった頬を隠すように俯く
「ダメだ。明らかにおれより泳げる身体だからだ」
「それでも、です」
ー
水面に足を踏み入れた瞬間、ひやりとした感覚が足先から一気に駆け上がる。
「……冷たっ」
「今日は少し低いですね」
平然と水に沈むみこと。肩まで浸かる動作ひとつ取っても、妙にすんなりだ。
もう水から上がっても良いだろうか?だいたいおれは中学の選択授業を3年連続で「水泳以外」を選んでしまった変わり者。泳ぎのことなんて謙遜抜きでよくわからない。クロールの手の掻き方も、息継ぎのタイミングも。だからフォームを指導してくれなんて言われても、溺れるからやめましょうというのが。
「……違います」
即答だった。
「今日は、記谷くんが指導係です」
「だから無理だって」
「……だからです」
——技術じゃない。
みことは、上手いかどうかなんて気にしていない。隣にいる存在として、おれが欲しかっただけなのだ。間近で水を掴むように腕を伸ばすみことの横で、おれはただ息を整える。足をバタバタさせながら、必死に後を追う。
「……息継ぎ、ちょっと早いんじゃないか?」
並んで声をかける。みことが顔を上げたその瞬間、距離が近いことに少しだけ息が詰まる。
「……このタイミング、なんかこう少し調整するといいんじゃ」
言いながら、軽く肩に触れる。
指先に伝わる、しなやかな筋肉の感触。おれには真似できない、でもそれでいい。存在して隣にいるだけで、十分なのだ。と、思う。
「……こう、ですか」
逃げずに頷くみこと。ほんの少しだけ、距離が近づく。
その背中を見ながら、おれは小さく息を吐いた。
結局これ、ただ一緒にいる理由が、用意されただけだ。技術じゃない。存在が、おれの役目なのだ。
「……そういうこと、だったのかよ」
小さく呟く。答えはもう、分かっている。
ゆっくりと水面を蹴り、みことが滑るように前へ進む。おれは必死に後を追う。足の動きはぎこちなく、息も乱れる。クロールの手の掻き方も、紛うことなき素人だ。
「……遅いです」
わずかに顔を上げ、みことが水面越しに言った。
「……当たり前だ泳げねえんだから」
なんとか水を飲ま内容に喋り切ると、彼女の横に並ぶ。息継ぎのタイミングも違うし、手の掻き方も正確じゃない。でも、それでいい。みことはそれを求めていない。
「……大丈夫です。記谷くんが隣にいるだけで」
その言葉に、おれは一瞬立ち止まった。泳いでるのに。
存在だけで十分——その感覚を、はっきりと言葉にしてくれるみこと。
こんなずるいやつだとは、初めて知った。
「……息継ぎはもう少し横に逃がして」
指示は出るけど、教えられるのはフォームじゃなく存在のリズム。おれは微かに肩を支え、距離を保ちながら後ろを追う。
水の中で二人分の時間がゆっくり流れる。みことの腕の動き、体幹のしなやかさ、そして小さな水の波紋。おれレベルの指導は必要ないと素人にも感じさせてくれる
「……こう、ですか?」
それでも少し距離を詰めておれに聞く。逃げない。おれもただ、存在をそこに置くだけでいい。
プールの端までゆっくり泳ぎ終えると、みことは軽く水を払って立ち上がった。濡れた髪が肩に張り付き、水滴が背中を滑る。その姿を見て、改めて思う。
こいつは想像以上に泳ぎが上手い。けれど、それを見ておれが焦る必要はない。必要なのは技術じゃなく、ただ一緒にいることだけだから。
「……お疲れ。まあ、存在係としては及第点だったか」
「……はい。満点です」
軽く肩をすくめて笑うみことに、おれもつい苦笑する。ぎこちない泳ぎだったのに、変な緊張が少しほぐれた。
二人で歩きながらプールサイドのベンチに座る。タオルで髪を拭くみことを横目に、足先で水滴を飛ばしてみる。ほんの少し、距離が近いだけで妙に意識する。水中では肩や腕が触れ合っていたけれど、陸に上がるとそれが微妙な余韻になる。
「……泳ぎは上手すぎるな。おれ、何一つ教えられないじゃないか」
「……大丈夫です。記谷くんが一緒にいるだけで十分ですから」
くすんだラッシュガードを引っ張って、少し俯き気味に言うみこと。声は小さいけれど、はっきりとおれに届く。
「……そっか、なら、まあ……いいか」
苦笑交じりに言うと、みことはふっと顔を上げて少しだけ笑ったように見えた。まだ薄く水滴が残る髪、濡れたラッシュガードに隠れるしなやかな筋肉——それでも緊張や意識は、ゆっくりと穏やかに解けていく。
プールサイドの空気は、泳いだ後の水の匂いと温度で満ちている。おれたちは特別なことをしているわけではない。ただ一緒にいるだけ。けれど、その存在感だけで、心の中が満たされる。
「……次は、もう少し長く泳ごうか」
「……はい、指導係さん」
その言葉を聞いた瞬間、微かに胸が弾んだ。技術ではなく、存在——おれは、ただ隣にいる。それだけで、みことにとって意味のあることなのだと、じんわりと実感しながら、再び水面へ足を踏み入れる。




