幕開けと、0.01%の奇跡
湿った土と、腐った葉の匂いが鼻を突いた。
「……ここ、は?」
トシが重い瞼を開けた時、視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど巨大な樹木が天を覆う深い森だった。
全身が痛む。つい先刻まで現代日本の見慣れた街を歩いていたはずなのに、周囲にはアスファルトもコンクリートもない。あるのは圧倒的な大自然だけだ。
「ギャギャッ! ギギィ!」
不快な高音が鼓膜を揺らした。反射的に音のした方へ顔を向ける。
そこには、緑色の醜悪な肌をした子供ほどの背丈の怪物が、錆びた鉈のようなものを手に、こちらを睨みつけていた。
「……ゴブリン?」
ファンタジー小説の中だけの存在。それが現実に、明確な殺意を持って立っている。
冗談ではない。トシの背中に嫌な汗が吹き出した。
「ギャアッ!」
ゴブリンが地を蹴った。
「うわあっ!」
トシは無我夢中で立ち上がり、反対方向へと駆け出した。運動靴が泥を跳ね上げ、心臓が破裂しそうなほど早鐘を打つ。後ろからは、獲物を追い詰めるのを楽しむような下卑た笑い声が追いかけてくる。
(逃げなきゃ、殺される……!)
周囲は見渡す限りの密林だ。トシは木の根に足を取られながらも必死に走り、倒木と斜面が入り組んだ複雑な地形に滑り込んだ。大きな岩の隙間に身を潜め、息を殺す。
やがて、ゴブリンの足音と舌打ちが遠ざかっていった。
助かった。しかし、安堵したのも束の間、すぐに絶対的な孤独と恐怖が襲ってきた。
日が落ちると、森は完全な闇に包まれた。名も知らぬ獣の遠吠えが響き、トシは岩の隙間で膝を抱え、ただ震えながら長い一夜を過ごした。
*
翌朝。木漏れ日で目を覚ましたトシを襲ったのは、胃袋を雑巾のように絞り上げられるような、強烈な飢えだった。
「何か、食べないと……死ぬ……」
水は近くの小川で確保できた。しかし、食料がない。
ふらつく足で周囲を探索していると、茂みの奥に、丸々とした野ウサギのような生物を見つけた。額に小さな角が生えているが、間違いなく肉だ。
トシは武器を探した。落ちている木の枝では軽すぎる。
彼は着ていたシャツを破り、蔓と組み合わせて即席の「投石紐」を作った。そして、小川で拾った野球ボール大の滑らかで重い石を包む。
遠心力を利用して石を飛ばす、原始的だが殺傷能力の高い武器だ。
トシは息を殺し、風下からウサギに近づいた。
距離は約五メートル。心臓がうるさいほど鳴っている。外せば逃げられる。
大きく息を吸い込み、投石紐を頭上で勢いよく振り回し――放った。
「ビュッ!」と風を切る音と共に、石は真っ直ぐに飛び、ウサギの頭部にクリーンヒットした。
「キュッ……!」
短い悲鳴を上げてウサギが倒れ込む。トシはすぐに駆け寄り、近くにあった太い木の枝で、動かなくなるまで何度も何度も叩きつけた。
手が震え、罪悪感が胸をよぎる。だが、それ以上に生存本能が勝っていた。
火を起こすのには半日かかった。靴紐と木の枝を使った摩擦式の火起こしで、両手の皮が剥けた頃、ようやく種火ができた。
毛皮を石器で剥ぎ、内臓を出し、焚き火で肉を焼く。
パチパチと脂が跳ねる音。
一切の調味料もない、ただ焼いただけの肉。しかし、一口かじりついた瞬間、脳髄が痺れるほどの旨味が口いっぱいに広がった。
「美味い……っ」
涙が出そうだった。命を食べる行為が、これほどまでに美味しく、力強いものだとは知らなかった。
しかし、その「匂い」は、人間以外の鼻も刺激していた。
「――ギギッ」
背後の茂みが揺れた。
トシが振り返ると、昨日彼を追い回していたのと同じ、醜悪なゴブリンが立っていた。焼けた肉の匂いに誘われてやってきたのだ。
ゴブリンの視線が、肉からトシへと移り、残忍な笑みを浮かべる。
(見つかった……!)
トシは瞬時に悟った。逃げられない。やるしかない。
彼は肉を放り出し、手元に置いてあった投石紐と、二発目の重い石を掴んだ。
ゴブリンが錆びた鉈を振り上げ、トシに向かって跳躍する。
ウサギを仕留めた時と同じだ。落ち着け。相手の頭を狙え。
トシは腰を落とし、投石紐を全力で振り回した。
「いっけえええええ!!」
放たれた重い石は、空中でゴブリンの顔面――鼻柱を正確に打ち抜いた。
「グギャアアアッ!?」
顔面から緑色の血を吹き出し、ゴブリンが背中から地面に墜落する。
しかし、まだ生きている。もがいて起き上がろうとするゴブリンに、トシは焚き火から燃えている太い薪を掴み取り、炎のついた先端をゴブリンの顔面に突き立てた。
「死ねっ! 死ね!!」
悲鳴が止むまで、何度も、何度も。
やがて、ゴブリンは完全に動かなくなった。
「はぁっ、はぁっ……」
尻餅をつき、荒い息を吐く。手は血と泥で汚れ、全身が震えていた。生き残ったのだ。
その時だった。
突如、ゴブリンの死体が淡い光の粒子となって空中に霧散した。
「え……?」
呆然とするトシの目の前。光が消えた地面に、ポツンと、白く四角い「何か」が落ちていた。
トシが恐る恐る手を伸ばし、それを拾い上げる。
それは、精巧に彫り込まれた麻雀牌の『一萬』だった。
その瞬間、トシの脳内に無機質な機械音が響き渡った。
『条件達成。固有スキル【麻雀】を解放します』
『ゴブリンの討伐を確認。ドロップ判定……成功(0.01%)』
『【一萬】を獲得しました。手牌に加えます』
視界の端に、透明なウィンドウが浮かび上がる。そこには自分のステータスと、空っぽであったであろう十四個のスロットのうち、一つに「一萬」が収まる様子が映し出されていた。
*
【トシの現在の手牌】
[一萬] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空]
*
「これが、俺のスキル?麻雀……? 」
ゴブリンが麻雀牌を落とした。しかもドロップ率は「0.01%」。一万匹に一匹という気の遠くなるような確率を引き当てたらしい。
牌を握りしめると、ほんの少しだけ、体に温かい力が巡るのを感じた。
「役を揃えれば……強くなれるのか?」
ここはただの森ではない。モンスターが蔓延る異世界だ。
理不尽な世界で奇妙な麻雀牌を手にし、後に国士無双と呼ばれる人間は、ここから幕を開けるのであった。
【トシの現在の手牌】
[一萬] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空] [空]




