【1年 4月-3】魔女Aについて
俺が魔女Aと呼ぶ、桜井 優悧子の話をしよう。
桜井優悧子は、小学校の何学年かと、中1・中2で同じクラスだった。黒髪ストレートの少し影のある感じの美人で『魔女』っぽくはある。しかし、俺が彼女を魔女と呼ぶのは容姿が理由ではない。
ちなみに『A』という記号は、いつか俺の人生に『B』も現れるだろうという予測に基づいている。RPGの敵によくあるアレだ。
桜井さんは——今はまだこう呼ぶとしよう——、中1の尖っていた俺に判然と優しかった1人である。クラスの中心グループに属していたから、俺がいじめられなかった一因は彼女にあったのかもしれない。
「マキくん、それ何読んでるの? 英語の本? 難しくないの?」
「ちょっと、マキくんの邪魔しちゃ悪いでしょ。マキくん、頑張ってね」
「マキくん、辞書がクタクタだね。使い込まれてる。私のは全然使ってないから恥ずかしい」
「もしかして、もうちょっとで終わる? マキくんすごいね」
というように、かなりの回数声をかけられたことを覚えている。最初の席替えで横の席になったのがきっかけで、席が変わっても何かと気にかけられていた。
俺は桜井さんを少しウザいと思いつつも、悪い気はしなかった。承認欲求的なものが満たされている感じがした。昔の若色さんの印象が弱いのは、この頃の桜井さんの印象が強かったせいもある。
中2になると桜井さんとの会話の頻度が減ったが、これは綾菜が俺と同じクラスになったからだ。綾菜はよく、会話の途中で俺に話を振る。それに伴って、俺も軽い会話をする知り合いレベルのクラスメートが増えた。
もし綾菜が幼稚園、小1、2、5、6と俺と一緒でなければ、俺はもっと孤立した少年時代を過ごしていただろう。しかし、綾菜がいなかった小3、4のときもそれなりにクラスに馴染んではいたはずなので、中学に入って拗らせた感はある。
事件が起きたのは中2の9月後半、その頃には『ホビットの冒険』はとっくに終わっていて、3冊目の洋書、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『ハウルの動く城』を読んでいた。ちょうど魔女が登場する話だったから、よく覚えている。
ある朝、机の中を見ると、こんな手紙が入っていた。
『放課後、体育館裏で待っています 桜井優悧子』
それは間違いなく女性の筆跡で、イタズラではなさそうに思えた。これは告白される……のか? 正直、ピンとくる理由がなかった。桜井さんにはよく話しかけられてはいたけれど、それ以上の特別なことはなかったはずだ。
「マキくん、すごいね」
「マキくん、頑張ってね」
桜井さんの言葉が頭の中で何度もリフレインする。そのうち、あれはそういうことだったのかもしれないと思うようになった。今思えば『ハウルの動く城』が純愛物語であったことも、俺の脳内の雰囲気づくりにひと役買ったのかもしれない。
とはいえ、まだ半信半疑である。放課後、何もなかったらそのまま帰れるように、リュックサックを背負って体育館裏に向かった。辺りに人影はない。少し待って誰も来なければ帰ろうと思った。
木の裏から、桜井優悧子が出てきた。
俺はまず、リュックサック姿で来たことを恥じた。いかにも『用事が終わったらすぐ帰ります』という格好で、相手と向き合う誠意に欠けていると自省した。まるで初期の猗窩座だ。
このときの桜井さんの表情は、よく思い出せない。おそらく、俺が彼女の顔を長く直視できなかったせいだろう。
「マキくん、来てくれてありがとう」
風が吹いていたような気がする。放課後特有の部活の掛け声や吹奏楽部の練習音もあったような気がするけれど、俺の記憶ではこの部分だけ無音だ。桜井さんの発言を一言一句聞き漏らさないように集中していたのだろう。
「いいよ。どうせ暇だし」
格好つけてそんな返事をしたと思う。桜井さんを改めて見て『美人だな』とも思った。これから起こるであろうことが信じられなかった。
「マキくん、あのね……」
それから少し、間があった。俺はただ黙って待っていた。
「好きです、付き合ってください」
そのとき俺が真っ先に思ったのは、失礼なことに『すごい勇気だな』である。陰キャの俺にはこんなことはできない。両想いの確度が高いとも思っていないだろうに。
さて、どう返事をするべきか。桜井さんはいい人ではあると思う。陰キャで浮いている俺を応援してくれた。しかし正直に言って、この人と恋愛的なことをする自分が想像できなかった。思春期だし、そういうのに興味がないわけではない。だけど、それを理由に付き合うのは誠実ではない。
「ごめん、俺、付き合うかどうかを判断できるほど、桜井さんを知らない」
手紙を読んでから考えていたことをそのまま口に出した。俺なりに考え抜いた結論だった。
「……そっか、そうだよね」
桜井さんはなぜか少し口元を緩ませたように見えた。
「実はね…」
「「「ドッキリでしたー!!!」」」
校舎裏の角から、男2人、女1人が出てきた。
「ごめんね、マキくん、ドッキリで」
女が言う。こいつは中1時代のクラスメートだ。
あ、男2人もそうか。この男どもも何かザワザワ言っていたが、もうどうでもよくなった。
「そっか。じゃ、帰るね」
そう言った俺は桜井さんたちからどのように見えていただろうか。怒るより呆れの感情が強く、恥ずかしさも多少あったけれど、騙した方が絶対的に悪いと理解していたので、自己嫌悪もなかった。
だがその場からは1秒でも早く去りたかった。急いで背を向け、4人を視界から消した。走るのは負けた気になって悔しいと感じて、早足でその場をあとにした。
視界から消える直前の桜井さんは、気まずそうな、居心地の悪そうな表情をしていた。笑ってはいなかったのは少し救いだと思った。
家に帰って、その日はずっとぼんやりとしていたと思う。傷ついたわけではないけれど、窓から外を見ていたら急に背中を押されたぐらいの『なんで?』というショック感はあった。
君は俺をからかって楽しいかもしれないけれど、俺のことはちゃんと考えてる? 落ちてたらどうするの。地面になのか恋になのかはわからないけどさ。
夕食を終えたぐらいで、あれは桜井さんに対するいじめかも、と思い直した。
これまでの桜井さんの印象とは全く合っていないし、俺をからかっていたにしては楽しそうでもなかった。もし強制されていたのだとしたら辻褄が合う。
その場合、俺はどうしたら良いだろうか。何ができるだろうか。そもそも俺がそうする義理はあるのか。脳が絞れるほどに考えながらその日はベッドに入った。
◇ ◇ ◇
それからしばらくは気まずくて、俺から桜井さんに何かするわけでもなく、日々が過ぎていった。俺の見ていた範囲では、ドッキリと言って飛び出してきたあの3人と桜井さんの接触もない。部活が一緒なのだろうか。しかし桜井さんが何部なのかを俺は知らない。
思い切って桜井さんに直接聞いてみてもいいかもしれない。ノーダメージを装った方が、お互い気まずくもない。最近桜井さんの表情はいつも曇っていて、それがあのドッキリのせいだとしたら、そう振る舞うのが正解だ。だけど、一歩間違えれば俺は、嘘告白したらなぜか急に距離を縮めてくるキモい奴だ。
そんな感じで悶々としていたある日の朝。机にまた手紙が入っていた。
『真実を話したいし、謝りたいので、放課後、体育館裏に来てください。桜井優悧子』
うーん。また体育館裏か。今度はちゃんと近くに人がいないことを確認しないとな。しかし、真実を話したいとか、謝りたいとか、加害者が被害者に対して一方的過ぎないか。自分の気持ちを押し付けているだけじゃん。大体、それくらい、手紙で書けば済むのに、なぜわざわざ対面なんだ。
……やっぱりいじめかな。だとしたら、手紙にしないのは彼女なりのSOSかもしれない。いずれにせよ、行くしかない。しゃあない。
放課後になり、前回を反省してリュックサックを教室に置いて体育館裏に行った。桜井さんはまだいなかった。今度はちゃんと体育館裏の角を回って誰もいないことを確認したし、イタズラの可能性は低そうだ。
やがて、桜井さんが来た。
「マキくん、待たせてごめん」
桜井さんの表情から話の内容は読み取れなかった。何らかの決心をしている面持ちではある。両手に力が入っている。前の嘘告白よりもよっぽど告白の雰囲気がある。
「いいよ。どうせ暇だし」
あのときと同じことを言って、場を和ませようとした。桜井さんの表情が少し緩んだ。
「まずは、ごめんなさい」
桜井さんは頭を深く下げた。
「酷いことをしたと思っています。申し訳ありませんでした。本当に、本当にごめんなさい」
本気で謝罪していると感じた。それに裏に何か事情があることも雰囲気で察せられた。桜井さんもまた被害者なのであれば、この謝罪は可哀想だ。
「ごめんなさいって、まるで俺の方が告白して振られてるみたいじゃん。頭を上げてよ」
咄嗟にカッコつけた言葉が出た。
桜井さんはゆっくり頭を上げたが、俺の目を見ず、視線を下に落としている。
「それより手紙に書いてあった真実について聞きたい。何か意味ありげだったけど、どういうこと?」
「それは……あまり気分が良い話ではないけれど……その……。清水くんがね」
清水くんって誰だっけ。……まあいいか。
「マキくんみたいな……その……タイプは、女の子に告白されたら、すぐに飛びつくだろうって。そういうもんだって」
「俺って、そういう感じに見られてたのか」
「私は『マキくんは違う、そういう人じゃない』って言ったよ! そうしたら、それなら証明しろって。付き合う気がないなら傷つきもしないだろうって。それで、私もムキになっちゃって……」
「だから、俺を試した?」
桜井さんがこくりと頷く。
あれ? この話が真実なら、いじめでも何でもないじゃないか。
「でもそれって、もし俺が本気で桜井さんのことを好きだったらどうするつもりだったの? ずっと前から桜井さんと付き合いたいと思ってて、それがようやく叶ったと思っていたとしたら……。それってただの純愛だよね。嘘で傷つけていいものじゃない」
「それは……。でも、実際はそうじゃなかったでしょう?」
「それは結果としてそうだっただけで、そういう可能性は考えるべきじゃない?」
「それは考えたけど——」
「ちょ、おい」「やめろって」「あっ」
体育館裏の角から例の3人組が崩れるように出てきた。さっきは確かにいなかったはずなのに。いつの間にか来てたのか。
「来ないでって言ったじゃん!」
桜井さんが声を荒らげる。
「でも俺らも謝らせてよ~。ごめんって」
と男の1人が手を合わせる。
「ごめんね、マキくん。もしかしてマキくん、実は優悧子のことちょっといいなって思ってたりする? 優悧子、かわいいもんね。だとしたら、ごめんね。優悧子、彼氏いるから」
「そーそー。俺が彼氏。ごめんな。でも、別にいいよね。キミ、優悧子をフッたんだしさ」
もう1人の男が桜井さんの肩を抱き寄せる。
——これが、謝罪?
頭から血の気が引くのを感じた。周囲の音が聞こえなくなった。
本能的にそこにいるのは危険だと判断して、その場を離れた。歩いたか走ったか覚えていない。
俺は人柄を試すために嘘告白をされ、嘘告白の罪悪感をなくすために謝罪を受けさせられ、最後は恋愛弱者としてマウントをとられたってことか。
桜井さんがいじめられているかもしれないって?
助けが必要かもしれないって?
とんだ大馬鹿だ俺は。
怒りでも恨みでも嫌悪でも失望でもないどす黒い感情が体の中を巡った。
あまりにも気持ち悪くなって、校舎の影で吐いてしまった。
なんだこれは。ナンダコレハ。
吐瀉物に足で土をかけて誤魔化した。
この吐瀉物は俺の尊厳そのものだ。俺はあいつらに汚されたそれを、みじめに、誰にも見つからないように、必死で隠そうとしている。
悔しい。馬鹿らしい。
校舎に戻ってトイレの手洗い場で口をゆすいで顔を洗った。水を少し飲もうとしたらまた吐き気を感じたけれど、喉が渇いて無理矢理飲んだ。
思い返せば、嘘告白をバラしたあとで桜井さん——あの魔女Aが気まずそうな顔をしたのはきっと、『俺に対する罪悪感』からではなく、彼氏の見ているところで嘘でも他の男に告白してしまったという、『彼氏に対する罪悪感』からだったのだろう。
さっきの魔女Aは最後にどんな顔をしてたっけ。記憶までどす黒く塗り潰されていてわからない。
もしかすると、俺にかけられた言葉の数々も『いい人』を他の誰かにアピールするための材料だったのかもしれない。何もかも信じられなくなる。吐き気がぶり返す。
正気に戻るまで、どれくらい時間がかかっただろう。
何とかふらふらと歩いて、教室の自分の席に戻った。座ってしまうと、もう動く気力もない。
俺は教室にひとり、ぐちゃぐちゃの泥みたいになっていた。




