【1年 7月-5】不幸せな幸せ
「ごめんね、けんこー。嘘だから。嘘だからね。ごめんなさい」
魔女Bがティッシュを取ってきて、カーペットに散らばった俺の吐瀉物を吸い取らせている。クッキーしか食べていなかったので、水っぽいだけで大した量ではない。
「菜月が証明してくれるから。先輩はそもそもタイプじゃなかったって。連絡先は流れで交換させられたけど、何もないよ。やりとりも数回だけで、見せられるよ」
魔女Bの声が震えている。
「出て行ってほしい」
「ごめんなさい。けんこーが嫉妬しないと思って言い過ぎた。ごめんなさい。これで口拭いて」
魔女Bがティッシュを渡してくる。
俺はそれを払いのける。
「出て行ってほしい」
「ごめんなさい。カーペット洗うのとか、全部するから。本当にごめんなさい」
「出て行って。頼むから」
「コンドームってどんなのかなって、1個開けてみただけだよ。ごめんなさい」
魔女Bが出ていかないので、俺の方が部屋を出ることにした。
1階に降りて、洗面所で口をゆすいで顔を洗った。
……あのときと同じだ。
◇ ◇ ◇
魔女Bが、丸めたカーペットを抱えて、階段を降りてきた。
「もういいよ。帰って」
魔女Bは、その場で立ち尽くしている。
俺はカーペットを強引に奪った。吐瀉物の酸っぱいにおいがした。
「帰って」
魔女Bは帰らない。
「じゃあ、服が汚れてるから着替えてきて。そのままなのは見てるこっちが辛い。汚してごめん」
それでようやく、魔女Bが帰って行った。
カーペットは洗濯機では洗えそうになかったので、とりあえず風呂場の浴槽に突っ込んだ。
そのままシャワーで洗おうとしたけれど、力が出ない。昼飯を食べてなかったから当然だ。
リビングに戻った。確か、若色さんにもらったゼリー飲料が棚に……あった。ソファーに座って、それをちびちび吸った。
栄養ドリンクも飲んでみた。
——少し回復したかな。
後ろで物音がして、魔女Bがもう来たのかと思って振り返った。
柚梨だった。
「おかえり」
「ただいま」
「お兄ちゃん、どうしたの?」
俺はきっと酷い顔をしていたのだと思う。
いつもと違う柚梨の優しい口ぶりに、何の裏もない家族の純粋な愛情を感じて、勝手に涙がポロポロと出てきた。
「どうしたの?」
柚梨がスクールバッグを放って駆け寄ってきた。
「柚梨ぃ……」
言葉が出てこなくなった。泣きじゃくってしまって、自分を全く制御できなくなった。ここ最近の溜まった感情全てが吹き出してくる。まるで荒波に心が飲み込まれているようだ。
ソファーの真ん中に座っていた俺の左隣に、柚梨が寄り添うように座ってきた。
そのまましばらく、無言の時間が続いた。それが心地良くて、ありがたかった。まるで航海士がそばについていてくれたみたいだった。
感情の揺れが小さくなって、少し冷静さを取り戻した頃、柚梨が言った。
「お兄ちゃん、なんかゲロ臭い」
そうだ。着替えないと。
「お兄ちゃんの部屋から着替え取ってきてあげる」
柚梨が立ち上がって階段に向かった。
あ、まずい。
「俺の部屋は——」
遅かった。柚梨が階段を上がっていった。動こうとしたけど、動く気になれなかった。
——なるようになるさ。
やがて柚梨が、俺の替えのTシャツと短パンを持って降りてきた。その表情は、階段を上がる前と、少しも変わっていなかった。
「アレ、とりあえず机の引き出しに入れといたよ。確認だけど、お兄ちゃん、綾菜ちゃんを傷つけたの?」
「いや、アレは綾菜が買った」
「……そっか」
柚梨の肩がふっと下がった。それから数秒の間があったあと、柚梨は言った。
「私、お兄ちゃんの部屋掃除するから、お兄ちゃんは着替えてて。あ、先にシャワー浴びた方がいいと思う」
……甘えさせてもらおうか。
「ありがとう」
柚梨が着替えを脱衣所に持って行ってくれて、俺は重い腰を上げた。
◇ ◇ ◇
シャワーと着替えが終わって戻ってくると、柚梨と魔女Bが対峙していた。
魔女Bは上下グレーの夏用ルームウェアに着替えている。あと、目が腫れている。
「けんこー」
魔女Bがこっちを見て弱々しく呟いた。
……ダメだ。
俺はまだ綾菜が好きだ。魔女だとしても、こんなに傷つけられても、やっぱり綾菜が好きだ。
理屈じゃない。
こんなに弱っている綾菜を見て、そのまま帰れとは言えない。
「柚梨。着替えと部屋の掃除ありがとう。俺は大丈夫だから、ふたりきりにさせてほしい」
「お兄ちゃん、本当に、大丈夫……なんだね?」
俺が頷くと、柚梨は黙ってその場を離れて2階に向かった。
「綾菜。ソファーに座って」
綾菜が俺の言ったとおりにソファーに座る。
「何か飲んだ方がいいね。スポドリあるはず」
綾菜のいつもの黒猫のコップに、スポーツドリンクを入れて渡した。
「あのね——」
「待った」
綾菜が何か言おうとしたのを、俺は遮った。
「冷静に考えれば、あんなの『おかしい』ってわかるから。あんな、探り探りで嫉妬するかって聞いてきてさ。『1個使った』としか言ってなくて、『何のために』は言わなかったのは、ストレートな嘘を避けたからだろ?」
「ごめんなさい」
「問題はそこじゃないんだ。桜井さんのときと同じだったんだよ。あのときも俺の心をオモチャにして遊ばれた。『俺があなたのことを好きなら、そんなことをされたら傷つくよ』ってことをされた」
「……ごめんなさい」
「桜井さんもそう言ってたよ。意図的に傷つけることをしておいて、謝って終わりにしようとしてた。そのことに怒っているというより、その自分勝手な行動自体がトラウマなんだ。トラウマで、なぜだかわからないけど、吐いてしまう」
「ごめんなさい。あたし、どうしたらいい?」
「とりあえずスポドリちゃんと飲んで」
綾菜が素直に従って、ひとくち飲む。
「フラッシュバックみたいなものなんだと思う。トラウマが乗っかってるから、100%綾菜のせいってわけじゃない。そこは理解してほしい。全部を自分の責任だと思わないでほしい」
綾菜は、ただコップを黙って見つめている。
「今でも俺の心はギリギリで、綾菜にまた何か変なことを言われたら、今度こそ壊れる予感がしてる。帰ってほしいって言ったのは、本能的にそれを防ぎたかったんだと思う。怒ったんじゃなくて、自己防衛なんだよ」
今も目の前の綾菜の存在には抵抗感がある。
でも、綾菜をひとりにしたくない。ひとりで泣かせたくない。なぜかそう思う。
矛盾している。不条理だ。判断力が鈍っている。
そしてだからこそ、少し前の綾菜も、そうだったのだとわかる。
よく見ると、綾菜はソファーの左側が空くような座り方をしていた。無意識なのか、わざとなのか。
綾菜も、航海士を必要としている。
今の状態の俺で、それが務まるのか?
……いや、さっき、自分本位だった過去を反省したばかりじゃないか。
林さんに叱られそうな気がする。
「そういうとこですよ」
って。
「綾菜、ちょっとそのまま待ってて」
俺は自分のコップにもスポーツドリンクを入れて、綾菜の左隣に座った。ひとくち飲んで、コップをテーブルに置いた。
何を言おう。
どんな言葉が必要なんだろう。
えーと。
「綾菜。綾菜の『これ以上は愛が重すぎて無理』ってラインを教えて?」
「……。どうして?」
「いいから。『これ以上は気持ち悪い、ストーカー!』ってなるライン教えて」
「うーん……。小指送りつけられるとか?」
ふたりで吹き出した。
「そういうのじゃなくて、現実的なラインで。例えば、俺、チョコあげてたじゃん? あれは重かった?」
「え、もっといろいろ欲しかったけど」
「だからそれを言ってくれないとわからないよ、こっちは。これ以上貰ったらキモいってなるのはどのくらい? トラック1台分のチョコはキモいでしょ?」
「食べられないから困るけど、キモくはない。方向性が間違っててバカだなとは思う」
「マジか……。え、じゃあLINEの頻度は? 俺、既読無視されてたけど、どの頻度ならキモい?」
「頻度が高いなら、キモいというか会いに来いよヘタレと思う」
「それ怖くない? 綾菜は既読無視してるんだよ?」
「既読無視の原因は何? けんこーが嘘ついたからでしょ? 面と向かって謝罪しないの? したくないの?」
「だからそれは、会うのを許してもらってからでしょ。自分のしたいことを優先すべき状況じゃないじゃん」
「じゃあ、もしあたしがずーっと既読無視してたら、けんこーはずーっと1日1回何かLINE送ってたってこと? そっちの方がキモいよ。どうしても会いたい! 会いに行こう! ってならないの?」
「だからさ、それはストーカーだろ。相手が同意してないのにやるのは手口が犯罪じゃん。不同意ナンチャラって罪、現実にあるじゃんか。そういうのが相手のトラウマになるかもしれないから、俺はやりたくないし、それが社会的な正解だって!」
「けんこーの、そういう屁理屈並べて言い訳してるとこ大嫌い! 長い間ウジウジモジモジされるより、面と向かって謝罪したいから会う! って行動される方がこっちはスッキリするよ!」
俺たちは互いにヒートアップして息切れしていた。同じタイミングで、スポーツドリンクを飲んだ。
「綾菜。俺には無理だよ。俺のトラウマが、自分を優先して他人を——俺を傷つける可能性のある行動をとられたってことだから。だから逆はできないよ」
「あたしが傷つく可能性がある行動はとったでしょ? 嘘つき」
「それは……ごめん。でも時間をかければ、若色さんとは何も起こらないって綾菜に理解してもらえると思ってたから。俺の中では片方のレールの先が救命可能なトロッコ問題だったんだよ。その認識は間違っていたけど、根本的な信条はブレてないと思う」
「…………」
綾菜は納得していない顔をしている。
「綾菜。嫌な思いをさせてごめん。泣かせてしまってごめん。俺のやり方は間違ってたけど、やりたいことはいつも同じだから。俺は綾菜を笑顔にしたいんだよ。嫉妬なんてさせたくない。自己嫌悪なんてしてほしくない。俺は綾菜のことが大好きだから、綾菜の幸せを可能な限り増やしたい。ただ、やり方がわからないだけなんだ」
綾菜が無言で立って、俺の前にすっと座ってきた。オレンジの香水の匂いがする。
「ぎゅってして」
俺は綾菜の体に腕を回す。
「あたしの幸せ、これだから。お金も物も要らない。これだよ。——でもね、幸せだけどね……、つらい」
「つらい?」
「だって……。だってね……」
綾菜の声が震えている。
「だって……」
数秒の沈黙。
「言ってほしい。綾菜がつらいのは嫌だよ」
「だってあたしの方ばっかり、けんこーのことが好きだから」




