【1年 7月-3】筋肉は全ては解決しない
リビングに行ってアイスレモンティーを作った。飲みながら、父がこういうときは筋トレだと言っていたのを思い出した。
——無理だって。
お腹はまだ空いていなかったけれど、若色さんが食べなかった最後の1枚のクッキーも食べた。味がしなかった。
若色さんが買ってきてくれたゼリー飲料や栄養ドリンクは、まだ手を付けられる心境にないので、棚に仕舞っておいた。
あ、そうだ。これは綾菜に言っておかないと。
俺は綾菜にメッセージを送った。
[言い忘れてたけど、若色さんのことは悪く思わないであげてね。期末テストの間悩みに悩んで、終わってからようやく俺に言ってくれたんだから]
これだけだと足りないかな。
[若色さんは俺たちを『推しカプ』って言って応援してくれてたから、すごくショックだったみたい。俺からうまく言っておくよ]
クッキーを食べ終わって、レモンティーで流し込んだ。俺が使ったコップと、まだ洗っていなかった若色さんの使った食器をまとめて洗った。
恋愛がどんなにしんどくても、そんなのお構いなしにやらなきゃいけないことって溜まっていくんだな。明日もバイトだしさ。
励まされる言葉が欲しくて、スマホで失恋についての名言を検索していたら、芥川龍之介の言葉が見つかった。
『われわれを恋愛から救うものは、理性よりもむしろ多忙である』
つまり筋肉バカのメンタリティがやっぱり最強ってこと? 病弱なイメージがあるあくたんですらそう言ってるんだから、間違いないよね?
しかし流石に今日は無理だ。俺はまた自分の部屋に戻って寝ることにした。とにかく今日だけは寝よう。寝るしかない。明日から筋肉バカになろう。
◇ ◇ ◇
ベッドに横になっていたら、林さんから、通話がかかってきた。
「もしもし」
「もしもし、さっき言い忘れたことがあったんですけど」
「うん」
「マキくん、綾菜ちゃんの将来の夢ってわかりますよね?」
言葉に詰まった。
「そう言えば、聞いたことない」
林さんが嘆息している音がする。
「なんで聞かないんですか。マキくん、そういうとこですよ」
「……。多分、聞くのが怖かったんだと思う。綾菜の将来の夢によっては俺と生き方が分かれるから」
俺の金を当てにしているような将来の夢なら、別の問題も出てくるし。
「チキン野郎ですね」
言い返す言葉がない。
「綾菜ちゃんに最初にマキくんのプロジェクトの話を聞いたとき、綾菜ちゃん、言ってたんですよ。『本当は絵の仕事に就きたかったけど諦めてたから、背景だけでも携われるなら嬉しい』って」
「綾菜が絵を描くのが好きなのは知ってたけど……。綾菜が優しいから手伝ってくれてて、だからお返しにこっちは機材とかは良いものを用意するって認識だった」
「バカヤロウ、コノヤロウ。綾菜ちゃん、中学のとき、マキくんがきっかけで美術部辞めてますよね」
「うん。その話、聞いたんだ」
「でも、絵は続けたかったから、家でこっそり描いてたんですよ。マキくん、知らなかったでしょう? 綾菜ちゃん、マキくんが気にすると嫌だからってずっと黙ってたんですよ」
「…………。知らなかった」
「もう、ぶっちゃけますね。綾菜ちゃん、『幼馴染が引きこもりになりそうだから、いい部活ないか』って、初対面の私にも声をかけてきたんですよ。私、最初は幼馴染のために親切に頑張ってる娘だな、って思っていました」
そう言えば、入学したてのころ、綾菜が部活やってみれば、って俺に勧めてきたっけ。昼に漫画文芸部の部室が空いていると綾菜が知ったのも、そういうことがあったからか。
「でも、最初にマキくんに会ったとき、はっきりわかりました。これはただの親切なんかじゃない、愛なんだなって。綾菜ちゃんがマキくんを大好きなんだなって」
…………。
理解が追いつかない。
だってさ、耳かきは有料だったり、マッサージとかお世話させられたり……。それに何より俺、何回もフラれてるし……。
「バイト、もう辞めようよ。こういうデート、あたしはもっとしたいよ」
ショッピングモールに行ってぬいぐるみ買っただけだったのに、綾菜はそう言ってなかったか。
綾菜がもし、本当に俺のことを好きだったとして……。俺は金を持っているくせにデートよりバイトを優先していて、しかもそれは若色さんと一緒のバイトの先で……。
冷める。
冷めるわ、それは。
「最初のランチミーティングで、綾菜ちゃん、マキくんが自分の婚約者だって言ったの覚えてますか?」
「……うん。覚えてる」
「あれは私への牽制ですよ。イチャイチャも全部牽制です。本人がどこまで自覚あるのかはわかりませんが。イラッとしましたけど、あんなにかわいいのに私をライバル視してるってことでもあるから、それはそれで悪い気はしなかったんですけどね」
「過度にイチャイチャするな、とは思ってた。ごめんね、あのときは」
「謝るべき相手が違いますよ。マキくんが綾菜ちゃんを切るって言ったとき、だから私はキレたんですよ。何やってんだ、お前! って」
「…………」
胸の奥で、後悔が渦になって心臓を締め付けてくる。
本当に何をしていたんだ、俺は。
「だから、私が言いたいのは、しんどいとか言わずに動けよ、ってことです。大切なものを逃すなよってことですよ」
どう言おう。
林さんにどう説明しよう。
「林さん、ありがとう。言ってくれて、本当にありがとう。でも俺、まだ混乱してて。少し冷静になって考えたい」
「ごめんなさい。私もヒートアップして言い過ぎました。他人がここまで言うべきではないのはわかっているんですけど。でも、もしかしたらふたりの関係が終わるかもって思ったので、つい、我慢できなくて。今言った話、綾菜ちゃんには内緒にしておいてくださいね」
「うん、内緒にする。ありがとう、林さん。また報告する」
「いい報告を待ってますよ。では」
通話が切れた。
頭がぼうっとする。
——俺はどうしたらいい。
もう手遅れだと泣けばいいのか?
他の男と寝たかもしれない綾菜に、こっちに振り返ってもらうように手を尽くせばいいのか?
何をしたいのか、自分の心に聞いてみても、反応がない。
ひとつ確かなのは、綾菜はもう俺には愛想が尽きているということだ。
俺はいつも自分のやりたいこと優先で、綾菜のことをちゃんと見れていなかった。
家でのおもてなし。LINEでの情報収集。たまにかける甘い言葉。
目的は何だった?
綾菜を振り向かせるためだ。
つまり、俺のためだ。
そんなんだから、綾菜の将来の夢すら知らないんだよ。
そんなやつに嘘までつかれたら、そりゃ冷めるよ。
——俺は本当にバカヤロウだ。
…………。
頭がぐちゃぐちゃだ。
もう限界。
寝よう。一旦寝よう。
全部忘れて寝てしまって、あとのことは起きたあとの俺に任せよう。
…………。
エアコンの駆動音がやけに耳に響く。
神経が尖って、全ての刺激が——俺の呼吸すら、癇に障る。
寝れない。
腹に何か入れれば寝れるかも、と思いついたとき、俺の部屋のドアがノックされた。
「宅急便です」
はい?




