【1年 7月-2】近くで見れば悲劇
俺は若色さんに昼食を用意してあげた。冷凍チャーハンと、目玉焼きと、切ったトマト。綾菜についての詳しい説明は後回しにしてもらった。しばらくその話題から離れたかった。
冷凍チャーハンは、チンだけだから簡単だった。
目玉焼きは、ちょっと焦げたけど、若色さんは気にしないと言ってくれた。
トマトを切る手は震えていたけれど、若色さんに気付かれていただろうか。
食事が出るまで、若色さんはクッキーを食べながら無言で待っていてくれた。
1枚食べて勢いがついたのか、もう1枚手に取って食べていた。
少しずつポリポリとクッキーを食べている様が、愛らしかった。いつか見た、白いふわふわのトイプードルが、エサをもらって、作業的に食べる動画を思い出した。食事の提供者に対して媚びることも機嫌を窺うこともなく、ただ純粋に自分の食欲を解消するエゴイスティックな無垢さが、なぜこんなにも癒やしになるのだろう。
若色さんがクッキーを食べ終わった頃、食事の準備が完了した。
「ありがとう。いただきます」
と言う若色さんは本当に幸せそうで、これが素なのか、そうやって明るく振る舞う演技が上手いのか、わからなかった。
若色さんが昼食を取っている間、俺も何か食べようと思ったが、食べる気が起きなかった。腹も減らないし、口に何か入りそうにもない。
俺は若色さんが食べている間、ただ俯いて待っていた。
——この時間が永遠に終わらなければいいのに。
しばらくして若色さんが食べ終わり、俺は覚悟を決めた。
「綾菜のこと、詳しく教えて」
若色さんは、ゆっくり、ときに出来事の描写が前後しながらも、落ち着いて綾菜の話をしてくれた。
◇ ◇ ◇
綾菜が、俺たちの働くコンビニに来たのは、先週の土曜だそうだ。もうすぐ期末テストが始まるギリギリの時期だ。だからこそ、その日俺は休みを取らせてもらっていたし、嘘がバレる前は綾菜と一緒に家で勉強する予定だったのに。
綾菜の服装は、黒いベースボールキャップ、マスク、オーバーサイズの白T、黒のショートパンツ、ピンクの厚底サンダル。
去年の夏休み、友達と遊んだあと、俺の家に寄ったときの綾菜がそんな格好をしていた気がする。ピンクの厚底サンダルは間違いなく持っている。
綾菜が店に入ったのは14時ごろ。綾菜がマスクをしてベースボールキャップを深く被っていたので、若色さんは最初それが誰だか気づかなかったらしい。
綾菜は店内をしばらくうろうろとしていたが、やがてコンドームの置いてある場所を見つけ、1箱取って、レジまで持ってきた。
コンドームの箱をレジカウンターに置かれ、それが何かを悟って恥ずかしくなった若色さんは、客の顔をろくに見ずに会計を済ませた。そして急いで箱を紙袋に入れ、手渡そうとした。
——このままだと持ちにくいかな。
そう思った若色さんは、
「すみません、レジ袋要りますか」
と、間の悪い質問をした。そのとき初めて、客の顔をまともに見た。
目元が、綾菜だった。
しかも、予期していない質問に面食らったのか、首を横に振ればよかったものを、綾菜は小声で
「要りません」
と、言ってしまった。その声で若色さんは綾菜だと確信した。
更に退勤後、店長に「万引きがあったかもしれない」と嘘をついて防犯カメラのログで確かめたので、間違いようがないとのことだった。
◇ ◇ ◇
「でも、その……最初はマキくんと仲直りしたのかな、と思ったの。それで、そ、そういうことを……」
赤くなった若色さんから湯気が出そうだ。
「でも、違ってたらとんでもないことになってると思って。白駒さんとの仲がどうなったのか、この1週間怖くて聞けなかった。私はどうすべきかって、夜中まで悩んじゃって、それも辛くて……。それで、やっぱり、黙ってるより言おうって思った」
あ、若色さんがここ最近何か言いたそうにしてたのは、そういうことだったのか。
「ごめんね、若色さん、迷惑かけて。悩んでくれて、教えてくれてありがとう」
「ううん。あの、でも……白駒さんがそのうち……その……マキくんと、つ、使おうって買ったのかもしれないよ」
「それはないと思う。合コンの日以来、俺はずっと既読無視されてるから」
「でも白駒さんってそんな簡単に——」
「ごめん、今はそこまで考えたくない」
「あ、ごめんなさい。マキくん……あの……なんと言うか……。今すぐ元気出してって言うのも変だし……。——あ、あのね、昔、私が落ち込んでいたときに、マキくん、いろいろ奢ってくれたよね」
若色さんが自分のスクールバッグを開いて、中から、何かがごろごろ入ったレジ袋を取り出し、俺に手渡してきた。
中にあったのは、ゼリー飲料と栄養ドリンクがいくつかと……、顔がつぶれている灰色の猫のキャラの小さいフィギュア?
「あれから、なかなかマキくんに奢るタイミングがなかったけど、これどうぞ。その……しばらく食欲なくすかも、と思ったから」
「ありがとう。こっちのフィギュアは?」
「フライパンで顔を潰された『トムとジェリー』のトムだよ。くじの景品。私、こういうのを机とかに飾るのが好きなの。箱がなくてごめんね。でもそれ、私のお気に入りなんだよ。面白いでしょ」
トムは、顔面にフライパンの底をフルスイングされた感じに顔が凹んでいる。
きかんしゃトーマスとキスしたら、ぴったり顔がハマって抜けなくなりそうだな。
「面白いね。ありがとう」
「ごめんマキくん、ひとりになりたいよね。私、今日シフト入ってるし、そろそろ行くね。お昼、改めてありがとう。ごちそうさまでした」
まるで何かに追われるように急いで帰る若色さんを、俺は玄関までお見送りした。
それから若色さんの使った食器を洗おうとしたけれど、手が震えてきたのでやめた。
ひとりになりたいんじゃないんだよ、若色さん。俺はもう、消え入りたいんだ。
そうしたら、何も考えずにいられるのに。
頭を冷やそうと思って、着替えを用意して、冷水でシャワーを浴びた。
無心で水を浴びて、水滴が風呂の床の樹脂素材に落ちる無機質な音を聞いていたら、ようやく手の震えが収まった。
◇ ◇ ◇
部屋着のTシャツと短パンに着替え、トムのフィギュアを持って、自分の部屋に上がった。
エアコンをつけて冷風を浴びると、少し頭がクリアになった。
勉強机の上に、潰れた顔のトムを飾ってみる。
まるで今の俺みたいだ。
凹んでいても解決しない。綾菜にストレートに聞こう。
[今日、若色さんから重大なことを聞かされたよ。今日通話したい。これで通話すら無理なら、綾菜とは縁が切れると思う]
『縁が切れる』と書いてしまったけど、どうだったかな。いや、本人的にはもう切っていると思っているかも。
[もう縁が切れていると思っているなら、そう教えて。これ以上無視されるのは辛いよ]
綾菜から通話が来た。
一回大きく深呼吸をして、通話ボタンを押して話しかけた。
「もしもし」と俺が言う。
「もしもし」と綾菜。
これまで何億回も聞いた綾菜の声だった。胸が潰れるほど懐かしかった。
「久しぶり」と俺。
「久しぶり」と綾菜。
気まずいのか、照れくさいのか、いつもと違う息遣いが聞こえた。
「若色さんから聞いた重大なことって何? 告白された?」
あれ? そういう解釈? それにいきなり本題じゃなくて、もっと近況を探るとか何かワンクッションないの?
「違うよ。心当たりないの?」
「ない」
ここまで言っても、若色さんにバレたことを察せてないのかな。これは予想外だ。でも、もう先に進むしかない。
「若色さんがね、えー……若色さんが……」
言え。言ってしまえ。キツいけど言わないといけないだろ。
「若色さんが、綾菜がコンドームを買ったところを見たって」
「……はあ? コンドーム?」
「そう、コンドーム」
ああ、もう、今すぐ無になって消滅したい。綾菜とこんな話したくなかったよ。
「……人違いじゃない?」
「人違いじゃない。はっきり見たって」
「……でもほら、あの、あれ。えーと、口を覆うやつ、何だっけ。えーと……」
しばらく綾菜の呼吸音だけが聞こえた。語彙を失くしすぎだろ。
「マスクのこと言ってる?」
「そう、マスク。マスクとかしてたらさ、見間違うこともあるでしょ。コンビニなんてたくさん人来るしさ。あたしに似てる人が来ててもおかしくないよ」
コンビニって言葉、俺まだ出してないよな。いや、綾菜のイメージではマスクしてコンビニでコンドーム買うのがデフォルトなのかもしれない。
「そっか。そうだね。ごめん疑って」
「いきなりびっくりしたよ。え、けんこーはあたしが何のためにそれを買ったと思ったの? 誰か他の男と使うと思ったの?」
「ま、そんなとこ。一応確認だけど、咄嗟に嘘ついてしまったってことはないよね? 俺がそうだったからさ。咄嗟の嘘なら正直にそう言って」
「……嘘じゃないよ」
今、明らかに間があったよな。
「そっか、ごめん迷惑かけて。それじゃ」
俺は通話を強引に切った。
耐えられなかった。
これ、クロだろ。
なぜ嘘をつくんだ。
俺に冷めたって言ったのは、そっちだろ。
男ができたなら、それでいいじゃないか。なぜ隠す。
それとも……、何か隠したい事情があるのか?
——林さんなら、何か知っているかも。
俺は林さんに通話をかけてみた。少し待って、林さんが通話に出てくれた。
「もしもし」
「もしもし、林さん。今大丈夫?」
「野球のスケッチ中です。大丈夫ですよ。あ、日傘、ありがとうございました。ちょうど今、役立ってます」
「それはよかった。ごめんね、急に。綾菜のことなんだけどさ」
「あ、なんか今喧嘩中なんですか? 綾菜ちゃんに聞いても濁されてて」
「綾菜はそっちのクラスではどんな感じ? 合コン行ったとか言ってたけど」
「かっこいい先輩がいたらしくて、告白して付き合っちゃえって、綾菜ちゃんイジられてましたね。女子の悪いノリですよ。そのことですか?」
あー。マジか。
「うーん。ごめん、わかった。ありがとう。じゃ、スケッチ頑張——」
「あ、待ってくださいよ。ただのイジりですよ。……多分。あ、嫉妬しているんですか? なら、直接そう言った方がいいと思いますよ」
……もう、そういう段階じゃないんだよな。だって綾菜はコ——ああ、出したくない。
「ごめん、林さん。そういうの、ちょっと今はしんどい。また後日いろいろ話すよ。ありがとね」
「どうしたんですか、一体?」
「後日話すから、今は勘弁してほしい。スケッチ頑張ってね。応援してる」
「ありがとうございます。頑張ります。マキくんも仲直り、頑張ってくださいよ」
「……うん、わかった」
通話を切った。
ふう。
これは……きついね。




