【1年 4月-1】おっかぁ、おっかねえ
家を1軒挟んだ隣に住んでいる俺と綾菜は、かなり長い期間、一緒に登校してきた仲である。
中学前半の多感な時期を除けば、ほぼ毎朝一緒だ。
「おはよっ! 今日も一緒に学校行こっ」
——なんて挨拶、ありはしない。
宝くじが当たった上に、そんな幼馴染までいるとしたら、俺はきっと『現実に戻る赤い薬』を飲むべきだ。
インターフォンが鳴った。
玄関に向かうと、目が半開きの綾菜が、気だるそうに立っている。
「おう……」
この綾菜の低い声で、ここが現実だと確信できる。
小学1年のときは、ちゃんと「おはよう」だったはずだ。それがいつの頃からか「はよ」になった。しばらく経って「よう」に変化した。そして中学3年になり、現在の「おう」に最終進化を遂げた。
ローマ字で『ohayo』と書くとわかりやすいが、前半の音がどんどん削られ、最後にoだけが残ったようだ。
「おはよう、綾菜」
なお、俺は原語を尊重するタイプだ。
◇ ◇ ◇
「今日から授業かぁ」
と、綾菜があくびをしながら言った。
朝日を浴びた綾菜の長い金髪が、風に揺れてきらきらと輝く。その眩しさが、黒髪陰キャの俺を拒んでいるようで、少し寂しくもある。
「けんこーも夜ふかししちゃった? 前髪、寝癖ついてるよ」
綾菜が俺の前髪を指ではじく。
「春眠なんとやらの時期なんだよ。はあ、しんど。俺、学校に行く必要あるかなぁ」
「はい、それダメ」
綾菜が俺に向かってビシッと指をさしてくる。
「入学早々、学校が自分に『必要かどうか』なんて恵まれし者の悩みだよ。『ウンがツいてる』オーラがドバドバ出てるよ」
「『ウンがある』か『ツいてる』かどっちかにしてくれ。大体、金持ちだろうがそうでなかろうが、学生なら一度は考える類の——」
綾菜がキョロキョロして周囲を警戒する。
「しーっ。今の話は完全にアウト。けんこー、もしかしてまだ、自分が死なないとでも思ってるんじゃない?」
——昨日読んでた漫画に影響されてるな、これ。
綾菜がこんな、世話ばかりかけちまいそうな発言をするのには訳がある。
俺の宝くじ当選が判明した直後は「100万円ちょうだい♡」だの「家買って♡」だのと浮かれていた綾菜だったが、その日の夜、真城家の家族会議に緊急召喚されると、顔面から垂直急降下で現実に叩きつけられた。
「誰かに知られたら、健康の人生が破滅するんだよ。詐欺、脅迫、誘拐。どれも現実に起こり得る話だと思ってね」
作り笑顔で目を細めた母の圧が、『口外したら命はない』と静かに警告していた。
母性の含有成分に殺意ってあるんだね。
以降、綾菜が自発的に俺の当選金の話をすることは、ほぼなくなった。
むしろ、俺をたしなめるくらいだ。
俺は精神支配の実例を見ているのか?
「ねえ、聞いてる? 闇バイトにやらせたら、けんこーなんかイチコロだよ!」
——だとしたら、ちょっと暴走してるかも。
「あ、あのおばさんがそうじゃない? あの凶器持ってさ」
綾菜が、前に見えるおばさんの『横断中』と書かれた旗を指さす。
「緑のおばさんだよ。善意の人だよ」
「馬鹿! それが傲慢なの!」
今度は俺とおばさんの間に立って、俺をガードしてきた。
どこまでが冗談なんだろう。笑っていいのか迷うんだが。
「昨今のSNSに潜む裏の繋がりを甘く見ちゃダメ。最悪の場合、あたし、全裸になって注目を集めるから、そのスキに逃げて」
——それもそれで、昨今のSNSを相当甘く見ていないか。
綾菜がすっと俺の横に戻ってきた。
「ねえ、今想像してたよね? あたしの——」
「色んな意味で逃げたくなった。……真面目な話、学校に行く理由が見つからないんだよ。遊ばないゲームのチュートリアルをやらされてる感じ」
「人付き合いがあるでしょ。けんこーの性格だと、学校行かなかったら引きこもりになって、それはそれで人生終わるよ」
「まあそうなるか。……でもクラスガチャもハズレだしなあ」
「あたしがいないから?」
「まあ、うちのクラスの女子のひとりと綾菜をトレードできたら、ベストではあるかな」
「ふうん」
綾菜が、虫眼鏡で観察するように、俺の顔をじろじろ見つめてくる。
いたっ。
前髪を引っ張られた。
「直らないなぁ、ほんと」
「そんな簡単に直らないよ」
「ねえ、席が隣の人とかとさ、もっと話してみたら? お母さんの代わりにお尻叩いてあげようか。ぺしぺし、って」
……それ、慣用句なんだけどな。
「……あーもう。わかった、やってみるよ」




