【1年 5月-3】ないものねだり
夕飯のあと、また勉強を再開して、気がつくと21時を回っていた。若色さんの門限はバイトと同じ22時だけど、いきなりギリギリに帰るのはよくないので、勉強の区切りのいいところでお開きになった。
せめて平等に、ということで、綾菜を1軒挟んだ隣の家まで送るという限りなく無駄に見える儀式をしてから、若色さんを家まで送ることになった。
帰り際、若色さんが丁寧に俺の家族にお礼を言っていたのが印象的だった。
◇ ◇ ◇
しばらく無言で、俺たちは歩いた。
気まずいわけじゃなく、お互いちょっと疲れているのだとわかる。なお、紳士として、若色さんのスクールバッグを持っているので、俺のスタミナゲージは更に常に削られ続けている。
外はもちろん真っ暗で、ふたりの足音がやけに響く。
綾菜が夕日は寂しいから嫌いと言っていたけれど、それに似たものを感じる。何かが静かに終わっていく感覚というか。後ろ髪を引かれつつ、非日常から日常へゆっくりと歩いているような、そんな不思議な肌触りがする。
「楽しかったね」
と、若色さんがぽつりと呟いた。
「私、こんなこと初めて。友達の家で勉強するのも、友達と一緒に夕食にピザを食べるのも」
「俺も綾菜を除けば実は初めてだよ。ずっと陰キャのぼっちだったから」
「放課後に幼馴染の男女で勉強してるなら、それはリア充って言うんだよ」
俺を蹴るふりをする若色さん。
「綾菜が俺を無料家庭教師扱いしてたんだよ。若色さんは勉強大丈夫そう?」
「どうかな……。でも、楽しかったから良かった」
「楽しかったからって、目的は——、まあいいけど。綾菜と俺の距離感バグっててごめんね」
「ううん。幼馴染ってすごいね」
「いや、俺らは特殊なんだよ。あんな足拭きとか——」
「わかってるよ。冗談。ふたりがすごい」
あ、天然じゃなかったんだ。俺たちをからかってたのか。
「あと、若色さん、男に足拭きなんてお願いしちゃダメだよ」
「うん。あれはね。少しだけ、疑似体験したくなっちゃった。ずるいとわかってたんだけど。——マキくんには、自覚あるのかな……」
「何の自覚?」
「マキくんが白駒さんのお世話をするたびにね、マキくんが白駒さんに『愛してるよ』って言っているように私には見えた。それがすごく羨ましくて。そういう距離感をお互いが許し合っているから、歪んだ関係のようで、本人たちの間では正常なんだなって思った」
若色さんの目には、さっきの俺たちふたりの光景が映っているようだった。少し口元が上がっている。嫌がられることを覚悟していたのに、意外だ。
「我ながら、奴隷みたいだと思ってたけど」
「恋の奴隷?」
「うーん……。実は内心としては甘やかしに近い感覚なんだけどね」
「甘やかしてくれる幼馴染男子か。いいなあ」
あれ? そう言われたら響きは悪くないぞ。しかも俺、『金持ち』幼馴染男子だった。
「でも、私の人生には、そういう幼馴染の男子はいないから、どれだけ望んでも、永遠に手に入らない。ないものねだりなのに、疑似体験ができる機会をもらえたから、つい、それに甘えちゃった」
つまり若色さんは、あの瞬間『綾菜』になってみたかったってことか。
「私はたぶん、恋愛すらちゃんとできないだろうし。あ、これ、『そんなことないよ』を求めているわけじゃないよ。本心からそう思っている——と言うより、理解しているだけだから」
うーん。重いな。……バッグがね。
「じゃあ、俺も本心で。『そんなことないよ』」
「うーん。マキくんには、『ちゃんと』の意味が伝わっていないと思う。男子から表面上の好意を持たれて、それで満足する恋愛ならできるかもしれない。でも、その好意に対して何か『お返し』できるような能力が私にはないの」
「それは、俺が前に言っていた、『励まし』みたいなこと?」
「そう。『アイドルのパフォーマンス』のようなことは、私には能力不足だし、やろうとしたらしんどい。お腹が空いているのに、人のためにお料理するようなもので、私には無理。だから『ちゃんと』は恋愛ができない」
「……」
そういう観点なら、比べてしまって申し訳ないけれど、綾菜とは違うな、という感じは確かにある。若色さんは、吉森くんをシメた上で成長させようと動くようなタイプではない。ああいうことができる人の魅力は自分にはないと言うのであれば、若色さんの自己分析は悲しいかな当たっていると思う。
「でも、今の若色さんだって、いいところはたくさんあるよ。ほら、俺が初めて話しかけたときのこと覚えてる? いきなり内緒話したじゃん、俺」
「ああ……。覚えてるよ」
「あのときキモかったよね、俺。昔のトラウマを思い出して話した記憶がトラウマになってて、トラウマの再生産になってる」
「ははは。キモくないよ。トラウマってそういうものでしょ」
「……あ、若色さんのいいところ、それじゃん。受け入れてくれるというか……。キモいデートの誘いまで受け入れる必要はないけど、トラウマでキモいのを受け入れてくれるのは、いいところだよ」
「そうかな……。でも、ありがとう」
信号のない横断歩道に着いた。
俺たちは無言で左右を見て、小走りに渡った。
渡り終えてからも、ふたりとも黙ったまま歩いた。会話が途切れたせいで、再開するタイミングがわからなくなっていた。それはお互いそうなのだと、テレパシーみたいな妙な共感で、はっきりとわかった。
しばらくして、若色さんがようやく口を開いた。
「あと、今日の勉強会も、改めてありがとうね。これで赤点回避できるかは……ちょっとわからないけど、モチベーションにはなったと思う」
「それはよかった。でも、勉強会ができたのは、綾菜のおかげだよ。ちょっと言い方が変だけど、綾菜が嫌なら俺はこの勉強会をやらなかったから。そもそも綾菜がいなかったら、俺は高校進学すらしてなかったと思う」
「え、そうなの?」
「うん。なんか馴染めなくて。綾菜がいるから学校に来てるみたいな感じは今でも少しある。中学のとき調べたけど、高卒認定試験から大学進学の方が俺にとっては楽」
「マキくん、大学に進学するの?」
「うーん。今はわからない。状況が変わったから」
働かなくても困らないからね。
「そっか。でも、道が選べるっていいね。私は卒業しても今のコンビニで働くことになると思う。恋愛はたぶんマッチングアプリとかをやって、全然うまくいかなくて、独身のまま過ごしそう」
「それはネガティブ過ぎでしょ。そんな——」
「現実的なだけだよ」
若色さんは俺の言葉を遮った。少し力がこもった声には、怒りというより嘆きに近いものが混じっていた。
「私の人生はそうなるってわかる。恵まれている人の人生とは確実に違う。今日も痛感した。絶対縮められない差があって、これからもその差がどんどん開いていくんだよ。これは愚痴じゃなくて、冷静な分析」
そんな差、なんとかしてやる! って性格ではないから、って理由もあるんだろうな。頑張るのに疲れている雰囲気もある。
「それ、学習性無力感ってやつじゃない? ストレスに晒され続けると逃げる気さえなくなるって現象。それなら治るよ」
「治ったとしても、記憶と環境が変わらない限り再発するよ。どうしようもないの。だからこそ、ちゃんとした人生を送れるマキくんと白駒さんには、幸せになってほしい。……ふたりは私の『推しカプ』だから。今日のことも『推しに感謝』だよ」
「……そんなこと言わないでよ」
「『推しの幸せが自分の幸せ』って人、世の中にはたくさんいるでしょ? 私もそのひとりってだけ。自分の人生では無理だから、他人の人生に想いを乗せるの。これからも、疑似体験したくなるような人生を送ってね」
「うーん……。頑張る。けど、若色さんも頑張ってみてほしい。それが推される方の願い」
「……わかった」
その『わかった』は全く心がこもっていなくて、それがつらかった。




