【1年 4月-11】いつもとは違うこと
翌日の日曜日。
朝から家に来た綾菜はグレーのスウェット姿で、いつもの綾菜だった。
いつものように俺の部屋のベッドを占領されて、いつものコーラを要求された。
1階のキッチンでコーラを用意し、2階の俺の部屋に戻ると、綾菜はベッドに仰向けになって漫画を読んでいた。2階にある漫画専用部屋からパクってきたものだ。
少女漫画か。好きだな、相変わらず。
倒しても中身がこぼれないシリコン蓋にストローを刺した(ほぼ綾菜用となっている)いつもの黒猫のコップを綾菜の方に持っていくと、綾菜が起き上がる。
……が、手は動かさない。
この場合、俺はストローを綾菜の口まであてがう。
綾菜が一口飲んで「うむ」と言う。
これは終了の合図なので、コップは丸テーブルの上に置く。
……この人、本当に俺に弁当作ってくれた人?
「けんこー、昨日疲れたから肩揉んで」
いつも過ぎる。
ちなみにこれ、要求を徐々に上げるフット・イン・ザ・ドアのテクニックで、結局は全身マッサージになる。
おかげで女性の体を触ることに免疫できちゃったよ、俺。
綾菜は椅子のように足を曲げてベッドに座るのに対して、俺は綾菜の後ろに正座して座る。
妹が俺を奴隷と言っていたけれど、絵的には確かに明確な上下関係があるように見えるだろう。
だが正直、昨日の関係より、こうして肩を揉む方が安心する。我ながら情けないけれど。
「もちょっと下の方、そう、そこ」
ハグされると怖くなって、肩揉むと安心するって、どういう状況?
「首筋も。そうそう」
綾菜、昨日買ったオレンジの匂いの香水をつけてるな。今、いい匂いとか言うのは、キモいかな。
「腕も揉んで」
俺がMだからってわけでもないんだよな。してあげているというか、甘えさせてあげているような感覚に近い。
「手も」
綾菜は親指の付け根と小指の下を揉まれるのがお気に入りだ。自分で揉んでみても、確かにこの部分は気持ちいい。
「次、背中ね」
結局これは、綾菜に何かをしてもらうより、何かをしてあげる方が俺は落ち着くということなのだろうか。——でも、何で?
「次、腰」
腰の定義が難しい。お尻と近過ぎる。思い切って下までいく方が明らかに気持ちよさそうなんだけど、毎回遠慮して様子を見てやっている。
「ふくらはぎも」
俺という存在が求められているからかもしれない。考えてみれば、そういう機会自体、綾菜を除けば、ほぼ皆無に等しい。
「足の裏もやって」
これは押すと痛そうなところを中指の関節で強く押すだけ。足ツボはよくわかってないが、綾菜は満足しているので、よしとしている。
「コーラ」
——はい、どうぞ。
こうして甘えさせていることで、逆に優位に立っている感覚も少しある。親が子の世話をするように。あと、無意識に貸しを作っているような気もする。
「はー、満足。少し寝るからよろしく」
本当は俺も寝たいけれど、黙ってベッドから出ていく。
まあどうせ、例の漫画のプロジェクトについて、簡単なプレゼン資料を作りたかったからいいんだけどさ。
◇ ◇ ◇
パソコンのある勉強机に向かったが、手が動かない。
綾菜が残した、気の抜けたコーラを飲み干しながら考える。
……結局、俺は自己評価が低いんだよな。
実際、社交性も協調性もないし、だから友達いないし、良いところがない。
俺に人間的な魅力がないことは、俺自身が一番よく理解している。
綾菜がアプローチめいたことをしてくるのが怖い一因は、おそらく、そこにある。
人間不信もあるけれど、根底に、俺なんか人に好かれるはずがないという考えがあるから、金目的ではないかと疑いやすくなっている。
腑に落ちた。
だけど、これからどうしよう。
脳細胞ひとつひとつを叩き回る勢いで考えた。
◇ ◇ ◇
たっぷり睡眠を取った綾菜は昼に起き、一度帰って昼食を済ませると、また戻ってきた。
綾菜が漫画の続きを読む間、俺は今度こそプレゼン資料を作った。
そのあと、2時間ほど一緒に勉強した。
綾菜はベッドの上に座椅子を置いて座る。いつもと違うガチモードだ。
いつもなら俺に運ばせる丸テーブルも、自分で動かしていた。
勉強にひと区切りついて、綾菜が「そろそろ帰る」と立ち上がった。
俺は、声をかけるべきかしばし迷って、結局、綾菜を呼び止めた。
「待った。言っておきたいことがあって」
「……なに?」
綾菜がベッドの上の座椅子に座り直す。
俺の緊張を察し取って、表情が険しい。
これまでの甘い雰囲気を壊していることに、胸が痛む。
でも、ここまできたら、言わなければならない。
「実は、重過ぎでもないけど、軽くもない頼みごとがあって。でも一方的だと申し訳ないから、お返しに綾菜の頼みごとをひとつ聞く。……お金をあげるのは無理だけど」
「重過ぎでもないけど、軽くもない……ってことは少しは重いってこと? ごめんけど、やってあげるかどうかは、ぶっちゃけ内容によるよ」
「それはもちろんわかってる。俺からは言うだけで、どうするかは綾菜次第でいい。あと、エッチなことではないから」
「……それは先に言ってよ」
綾菜の顔が少し赤くなった。
……勘違いさせて、すみません。
「でも、俺が先に言うとまずい事情があるから、まず綾菜の頼みごとを教えてほしい。限度はあるけど、無理めでも叶える。迷惑料だと思ってほしい」
「頼みごとかぁ。急に言われてもなぁ……」
「今すぐじゃなくてもいい。ただ、俺の話は綾菜の頼みごとのあとにさせてほしい。気になると思うけど、ごめん」
「無理めってどの程度? スキンヘッドにしてって言ったらする?」
「する」
「ガチじゃん。そのくらいのことなんだ。……もしかして、もう家に来ないでほしいとか?」
泣き始める前の子供のような顔をする綾菜。
不安になるよな。ごめん。
「綾菜が家に来るのは大歓迎だよ」
「……そっか」
綾菜の顔は少し緩んだ。けれど、スウェットの裾をぎゅっと握りしめた指先は、血の気が引いて白く強張ったままだ。
「その頼みごとは、あたしにとって嫌なこと?」
「嫌かどうか、俺にはわからない。嫌かもしれないし、もしかしたら全く負担じゃないかもしれない」
「全く負担じゃない……。あ、前に言ってた、一緒に世界旅行に行きたいとか?」
綾菜の声に張りが戻る。
「それも違う。でも、それが可能なら、俺の頼みごとも解決するかもしれない」
「何だろう……。なぞなぞみたいになってるけど」
「話が先に進まないから、俺の頼みごとを当てようとするのはナシにしてほしい。でもその代わり、綾菜の頼みごとは結構重いものでも構わない」
「どのくらい大きい話なのか、まだよくわかってないから……。たとえば、あたしが結婚してって言ったらするレベル?」
「……!」
それは想定していなかった。……でも、まあ。
「する。結婚する。ただし、その場合は『俺の頼みごとを必ず実行する』って条件になる。そうじゃないと、さすがに客観的に考えて条件が釣り合ってないから」
「ちょっと、ちょっと待って。あたしとけんこーが結婚するってことだよ? それをOKするレベルってこと?」
「うん。厳密には今は未成年だから婚約だけど。成人したら、ちゃんと結婚する」
「子どもが欲しいとかじゃないよね?」
「エッチなことじゃないって言ったじゃん」
「ごめんごめん。じゃあ、あたしの頼みごとはまだ保留にしていい? 結婚ですら通るんだったら、もっとちゃんと考えたい」
「わかった。悩ませてごめん。念のためもう一度言うけど、お金をあげるとか、高いものを買うとかは無理なので、それだけ候補から外してほしい」
「りょーかい。……ところでさ、昨日、罰ゲームするって約束したよね? 覚えてる?」
そうだ。あのときも、なぞなぞみたいなことしてたっけ。
「覚えてる。軽いのって話だったよね。いいよ。やる」
「後ろからハグしてほしい。ぎゅーって。……実はそういうの、夢だったんだよね」
……えーと。罰ゲームの意味わかってる?
「ほら、ここ座って」
綾菜が立って、自分が座っていたベッドの上の座椅子をぺしぺしと叩く。
そこに俺が座って、綾菜が俺の脚の間に入る感じか。
俺に拒否権ない流れのやつだ。
——あ、でも、待った。
「ごめんけど、何と言うかその……。男性特有の問題が……」
「それはわかってるし、気にしない。そんなこと気にしてたらあたし、一生結婚できないじゃん」
俺が座椅子に座ると、綾菜は容赦なく俺の前に来て座った。
——もうどうにでもなあれ。
綾菜が俺の腕を取り、自分の体に回す。
「はい。ぎゅーってして。ぎゅーって」
ぎゅー。
「へへへ。ねえ、あのさ……」
綾菜が俺の腕を握ってくる。
「何?」
「手を繋いで学校行こうよ。昔みたいにさ。これ、頼みごとじゃなくて、提案ね」
「うん。昔みたいにしよう」
「ねえ、あとさ……」
「何?」
「お弁当、やっぱり毎日でもいいよ」
「それは嫌。それが綾菜の頼みごとだとしても拒否する。俺もちゃんと修行したいから。一方的にやってもらうのは嫌」
「そっか」
綾菜の手の握りが弱くなる。
「ねえ」
「何?」
「どこにも行かないって言って」
「……」
嘘は、言えないな。
「綾菜の頼みごとが終わるまでは、どこにも行かない」
「……そっか」
綾菜の声から落胆が伝わる。
こう言うしかないんです、ごめんなさい。
「このオレンジの香水、やっぱりいい匂いだね」
「……言うのが遅い。気付いてないのかと思った」
ヘタレでごめんなさい。




