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1-6 上げ底の底

 月が雲に隠れ少し肌寒さを感じる頃合いになると、(せい)(らん)と黎明はゆっくりと池の周囲の調査を開始した。

 

 湧いた沼気は池の水で冷やされて水面にわだかまり、それが風向きによっては邸の方に流れてくる。それが幻覚の原因であるというのが(せい)(らん)の考えだ。

 実際に池に近づくにつれ、昼間は感じなかった腐臭が漂ってくるのがはっきりとわかるのだ。(せい)(らん)の言ったとおりの展開で、黎明は少し彼を見直していた。


「どんどん匂いが強くなりますね……こっちの方が臭い気がします」

「そうか。すまんな。もし匂いが分からなくなったらすぐに言ってくれ」


 (せい)(らん)は不快そうに鼻をひくつかせると、黎明にそう言った。匂いが強すぎるせいか、逆に(せい)(らん)(きゆう)(かく)が麻痺してしまったらしい。黎明には吐き気を堪えるのがやっとの匂いだというのに、(せい)(らん)は逆に何も感じないらしい。

 匂いの感じる方向の先に宮女の霊がぼんやりと立っているのを確認しつつ、黎明は慎重に歩を進めていく。

 それ以上進むな、と宮女の霊が手を前に突き出して通せんぼしてみせた時だった。不意につま先にこつりと何かが当たるのを感じた。


(ここ?)


 足下を指さすと宮女の霊が大きく頷く。手に持った(あん)(どん)で足下を照らすと大きく割れた石畳の破片が突き出しているのが見えた。そっと周囲の草をかきわけるとポッカリと大きな穴が空いており、えずくような不気味な音が湧き上がっている。


「どうやら水道だな。水は流れていないようだが。臭いはどうだ? ――吸い込まないようにな」

「……酷い臭いです」

「変わろう。穴の中を照らしてくれ」


 これは腐臭などというものではない。べっとりと死臭の染みついた棺桶の匂いだ。

 (せい)(らん)に場所を譲り、穴の中を照らし出すと、黎明が想像していたよりも大きな石の路が広がっていた。高さは子供の背丈ほどもあるだろう。底の方には藻や水草が絡むようにこびりつき、あちこちがひび割れてそこから水が染み出していた。

 大きく穴の中に身を乗り出した(せい)(らん)が中をうかがいやすいように奥まで順に光を伸ばしていく。


沼気(しょうき)が沸くにしては水量が少ないな……っ!」


 奥に何かが見えた気がした。

 身を乗り出した(せい)(らん)にはそれが何かはっきり分かったのだろう。(せい)(らん)の身体がびくりと大きく強ばるのが分かった。


「……黎明、もう少し右を照らしてくれ」


 ゆっくりと黎明が(せい)(らん)の視線の先に(あん)(どん)の明かりを向けると、そこにはボロボロの塵に塗れた小柄な白骨が横たわっていた。




 


 目が痛くなるような臭いが立ちこめる中、水道に潜り込んだ(せい)(らん)は遺骸に向かって手を合わせると静かに遺骸の裾を軽く持ち上げる。ぼろりと腐った布が千切れ、(せい)(らん)の指の中にわずかな切れ端だけが残った。


「完全に朽ちているな。彼女がお前の言う宮女、か?」

「……はい。たぶん」


 確信を持てず、黎明は弱々しくうなずいた。気がつけば、今まであれほどはっきり見えていた宮女の姿が見えなくなっている。

 自分の()(きがら)が見つかって未練が晴れた、というわけでは無いはずだ。

 

 黎明はどんどん強くなる腐敗臭に吐き気を堪えながら、足元に目を凝らした。足首を浸すほどの(わず)かな水が淀んで、水草や苔がぬめっている。しかし、匂いの原因はそこではない。もっと、下の方から吹き上げてくる。

 吹き上げてくる沼気――否、瘴気に混じって無数の生白い手が(せい)(らん)の裾を掴み、黎明の足首に手を伸ばす。


 瞬間、黎明の脳裏に宮女の死の瞬間が浮かび上がった。


 猿ぐつわをかまされ、喉首に火箸を押しつけられたような熱く鈍い痛み。身体から血と共に熱が流れ落ち、そして暗い水道に投げ込まれる。石の(ふた)が閉ざされ闇に落ちる寸前、奈落の底から哀れみと歓喜の気配が自分を若柳(ようりゅう)を引きずり込もうと絡みついてくる。

 冷たくなる身体よりも喉を焼く痛みよりも、死よりもそれが怖ろしくて()()逃げました。気がつけば()が沈められた水の引き込み路は埋められ、宮が建てられ、いつしか空宮となり………………きがつけば………………


「おい、黎明! 大丈夫か!?」


 気がつけば、(せい)(らん)の腕の中だった。

 私、わたし、黎明。

 ぼんやりと意識の焦点が自分(れいめい)に合っていく。一瞬、意識を失っていたらしい。視界の端に宮女の霊が無数の腕に絡め取られて、藻と水草に沈んでいくのがみえた。


(せい)(らん)様、すぐにここから離れないと!」

「分かっている。詳しい調査は日が昇ってからだ」


 (せい)(らん)の肩を借りながら黎明が水道の崩れた穴に手をかけた時のことだった。


 ごぼりと足元が崩れ、無数の生白い腕が水道の底を崩し、穿ち、そして(せい)(らん)と黎明と宮女の霊を地の底へと引きずり込もうとのたうち回る。


 そして、水道の底が崩落した。


 



 意外にも落下の衝撃は少なかった。

 強く背中を打ったものの、骨は折れていない。頭上を見上げれば天井にぽっかりと穴が空いており、さらにその上には微かに水道の天井の穴が見えている。


「おい、黎明。大丈夫…………」


 か、と言おうとして(せい)(らん)は言葉を失った。

 青白い燐光に照らし出された巨大な岩室には、何人分か見当もつかない骸が散らばっている。


 しかし、そんな数多の骸よりも目を引いたのは、霊感など欠片も無い(せい)(らん)の目にもはっきりと見える何人もの霊が一人の少女を取り囲んでいることだった。


 亡霊の輪の中心にいる黎明は眼鏡をかけていなかった。

 今までよく見えなかった顔立ちが暗闇の中、亡霊達の燐光に照らし出されてはっきりと見えている。


 瞳が蒼い。それは明るい夏の空では無く、どこまでも澄んだ深い秋の空の色だった。

 思わず(せい)(らん)がこの世ならぬ風景に見惚れていると、ふと黎明が今気がついたというように(せい)(らん)の方に顔を向けた。


 とたん、一斉に死人が(せい)(らん)を見つめる。その表情は未練があるようにも無念を噛んでいるようにも何も考えていないようにも、とにかく捉えどころのない表情だった。


 

(せい)(らん)様。大丈夫ですか?」

「あ、ああ……」


 震える四肢にぐっと力を()めて立ち上がる。

 死者達が、死者の霊達が黎明を取り囲んだまま、じっと(せい)(らん)を見つめていた。


 知らず、身体が震える。

 (せい)(らん)も巡按監察御史として、地方を巡回しいくどか死を身近に感じたこともある。しかし、今、(せい)(らん)を取り囲んでいるのは()そのものだった。


 これは沼気による幻である。

 己の内に秘めた恐怖心が見せているに過ぎない。


 (せい)(らん)は自分にそう言い聞かせようとして――失敗した。


 ゆらり、と死者たちの口からうめき声が漏れる。恨んでいる。聞き取れぬ言葉もあった。

 (せい)(らん)に襲いかかるわけでもなく、ただ虚ろな瞳で腰の抜けた(せい)(らん)に何かを呟いている。否、訴えている。


「よ、寄るな!」


 (せい)(らん)が腰を抜かしたまま後ずさる。背中が冷たい岩肌に当たり、逃げ場がないことを悟ると腰に提げた刀を探す。しかし、今の(せい)(らん)は巡按監察御史ではないし、後宮にそんなものを持ち込めるわけもない。

 

 静かに取り乱す(せい)(らん)を黎明が静かに見つめている。

 黎明は死者達に深く一礼すると、しゃがみ込む(せい)(らん)にすっと手を差し伸べた。


(せい)(らん)様。確か、筆と墨をお持ちですよね?」

「あ、ああ。そ、それがどうかしたか?」


 巡按監察御史の任に就いていたころは野外で調べ物をすることも多かった。その頃の習慣で職人に作らせた携帯用の筆と墨は常に持ち歩くようにしている。庭で沼気の湧きそうな場所を書き記していたのを覚えていたのだろう。


「この方々は訴えています。罪無く殺され、ここに塵のように埋められたと」


 黎明は(せい)(らん)の懐に()(ぞう)()に手を突っ込むと、竹簡とそれに(くる)まれた筆と墨を収めた筒を取り出して強引に(せい)(らん)の手に押しつける。


「手伝ってください。彼らの話を聞いて、書き残す必要があります」

「そ、そんなことをしてどうする?」


 話を聞くだけでは駄目なのか? それで死者の恨みや未練は晴れないというのか?

 (せい)(らん)の言葉に黎明はゆっくりと首を振った。


「それでは真相が分かりません。この人たちの言うことが真実かどうかは――分かりませんから」


 黎明の言葉に怒ったのか、うめき声をあげて死者達が黎明に手を伸ばす。

 しかし、黎明は動じることもなく言葉を続けた。


「だから、調べる必要があります。真実、罪科(つみとが)なく殺されたのか。誰が、まではもう難しいかもしれませんけれど。少なくとも、あなた方がどうなったのかは洗冤院の記録に残せます。(せい)(らん)様はとても書に堪能なようですから、書き取りをお願いします」

「か、書く? こ、この状況でか!?」

「そうしなければ、後で調べられません。(せい)(らん)様、このまま忘れたりしようものなら……恨まれますよ? 着いてきますよ? 毎夜、枕元に立ちますよ?」

「っ!? わ、わかった。書く。書けばいいんだな」


 書類作成なら自身がある。()()に科挙に至るまでの試験を山ほど突破してきているわけではない。

 筆を持つと長年の習性のおかげか、手の震えが嘘のように止まる。ただし歯の根は合わぬままだ。


 黎明はそんな(せい)(らん)の様子を少しおかしそうに眺めながら、最初の霊の言葉に耳を傾けた。

 死者の言葉はか細く、要領を得ない。言葉も辺境の方言が都言葉と入り交じったりして、とかく聞き取りづらい。だが、黎明は辛抱強く聞き取り、意味が通らぬ場合は確認をしながら(せい)(らん)へと伝えていく。


『皇太子のお渡りを見てしまい、毒を飲まされ……』

『不義の濡れ衣を着せられ……』


 黎明の言葉を(せい)(らん)は経文のように繰り返しながら、手元以外を見ないように書き綴っていく。

 竹簡に書ける文字は限られている。故に簡潔明瞭に記さねばとても足りない。文案に没頭して恐怖を追い出しながら、文字を連ねていく。

 おかしなもので、没頭していくにつれて生来の生真面目さと完璧主義が顔を出す。

 言葉が合わないと思えれば、黎明に手をあげてしばらく待たせ、小刀で文字を削って書き直すほどだった。


 (せい)(らん)が一人の訴えを書き終えると、不思議なことにすぅと姿が薄れていく。一人、また一人と記すうちに気がつけば岩室(いわむろ)の中には(せい)(らん)と黎明、そして喉を裂かれた宮女の霊だけが取り残されていた。


 宮女の霊が口を動かすも、かすれた笛の音のような音が聞こえてくるだけだ。

 困ったような顔の黎明を見て、宮女は(せい)(らん)の前に進み出た。

 (せい)(らん)は悲鳴を噛み殺して身を固くするが、宮女は静かに一礼すると、(せい)(らん)の手にある筆と竹簡を指さした。

 

「あ、そうか。最初からそうすれば良かった」

「な、何がだ?」

「喋れないなら、書いてもらえば良かったんですよ」

「か、書けるのか!? 筆を持つ指がないだろう!?」


 まさか白骨が筆を持って書くというわけではないだろう。ならば、どうやって筆を持つというのか。竹簡を支えるというのか。

 そんな(せい)(らん)の疑問を余所に、宮女の霊は(せい)(らん)にそっと寄り添うとその手に自らの手を重ねた。


 もはや声も出ない。冷たい感触が指先から染み入ってくる。そして、宮女が手ほどきするように(せい)(らん)の手を使って(せい)(らん)も驚くほど美しい文字を竹簡に記していく。


 記されているのは、この貯水槽になぜ()(ぞう)()に大勢の死体が投げ込まれていたのか。

 そして、埋められ宮が建てられることになったのか。その経緯であった。

 書き進むにつれて、宮女の姿は薄れてゆき、そして最後の一文字と共に姿を消した。

 

「……お、終わったのか?」


 返事がない。

 息も絶え絶えに黎明の姿を探すと、いつの間にやら(せい)(らん)が広げたままの竹簡にむしゃぶりついている少女の姿があった。


「……美しいです」

「そ、そうだな」


 自分の手――正確には宮女の霊だが――で書いたとは思えない柔らかく美しい筆跡だ。これだけの書を記すのは(かん)()百官を並べても、まずいまい。


(せい)(らん)様! これ、欲しいです!」

「な?」


 出し抜けに叫んだ黎明から(せい)(らん)は反射的に竹簡を取り上げた。

 いきなり何をぬかすのだ、この小娘は。

 

 うっとりしながら恨みがましい視線という器用な目つきで黎明が(せい)(らん)を睨んでいる。


「ずるいです……」

「馬鹿抜かせ! こ、これは証言だぞ? こ、この骸たちを弔ってやるのに必要だろうが! そんなに欲しいなら写しの許可を取れ」

「いやです! これがいいんです! わたしはこの、彼女の書いた文字が欲しいんです!」

「書いたのは私だ!」


 不毛だ。

 とてもとても不毛だった。

 この不毛なやり取りは夜が明けて、お目付役の宦官と福円が二人を探しにくるまで続いたのだった。


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