1-2 後宮に立つ宮女の影と覆面の官吏
「……湖まであるんですね」
書庫の整理の合間に他の衙門にお使いに行くこともあるので、外朝の大きさは体感として知っている。
しかし、皇帝とその 妃嬪達が住むという内朝の広さは黎明がぼんやりと想像していた規模を遙かに上回るものだった。
皇帝や皇后、その御子たちの生活と密議などの政治の場である内廷。
そして、煌びやかな妃嬪たちが皇帝の寵を争う後宮。
双方を合わせて内朝と称するわけだが、内廷だけでも数々の衙門がひしめく外朝と同じぐらいの広さがあるという。
これに加えて、さらに後宮が追加されるわけなのだが――黎明の目の前に広がっているのは水をたっぷりと湛えた巨大な池とその向こうにある果ても見えない庭園に巧みに溶け込んだ数々の離宮だった。
「瑤海と言うてな。ここから先が主上をお慰めして御子を産むお役目の妃嬪たちが住まわれる場所になっておる。まあ、今はほとんど空っぽじゃが――これ、黎明。勝手に動き回ってはいかん」
「あ、ごめんなさい。つい……」
フラフラと黎明が吸い寄せられた先には巨大な朱と黄金で飾られた橋がかけられており、欄干の扁額には見事な文字が刻まれている。
一向に娘らしい装いや飾りものには興味を示さないくせに、文字となるとこれである。
厳松ではないが、これは少し育て方を間違ったかもしれんと心中ため息を吐きながら福円は黎明と連れだって橋を渡った。
「想像していたよりも、ずっと寂しい感じなのですね」
橋を渡り終えると、いきなり街の中から郊外に来たような不思議な感覚に襲われ黎明は落ち着かなげに周囲を見回した。
屋根のついた渡り廊下が庭園を分断するように縦横に配置され、生け垣を利用して巧みに区画分けされている。
広大な庭園には季節ごとの花や木々が植えられ、どちらかというと賑やかと言っても良い。
季節は春を終えようとしており、曇りであってもじっとりと汗ばむほどの陽気だ。
にも関わらず、なんとなしにうそ寒い。
たしかにここなら居てもおかしくないだろうなと思いながら、黎明は度の強い眼鏡の奥で目を細めた。
「うむ。なにせ、先帝陛下は後宮を避けておられたからの。お渡りが無ければ、どうしても寂れるのはやむを得ん——見えてきたようだの」
福々しい身体をゆすりながら福円が指さす先に、朱塗りの門と白く塗られた塀が見えている。豪奢ではあるが、さすがに通ってきた内廷の建物ほど大きくは無い。
とは言っても、庭もあれば小ぶりの池まで備わった立派な宮である。
門をくぐれば、たちまち華やかな侍女達の声が黎明と福円に打ち寄せてきた。
声の方向を見れば、邸の玄関の辺りになにやら人の輪が出来ている。どうやら先客がいるらしい。
侍女達が取り囲んでいるのは背の高い一人の男のようだった。少し離れて、こちらは小柄な袍服姿の宦官が控えているのが見える。
だが黎明は、そんなことよりも小さな池の方に気を取られているようだった。
福円がそっと黎明の横顔を伺うと、眼鏡の隙間から見える青い瞳の色が心なしか明るく澄んでいる気がする。
これは黎明が人ならぬ存在を視ているときの目の色だ。
「はて。誰ぞ来ているようだの——黎明? お主、もしや……視えておるのか?」
「はい。庭の小さな池の前に。ちょっとここからではよく分かりませんけど……」
やはり連れてきて正解だった。
福円はそう思いながら、黎明と同じように池の方に目を凝らす。しかし、異能を持たない福円にはただ静かな水面が広がっているようにしか見えない。
黎明はかつての部下が先帝の外征先から連れ帰ったみなしごだった。
子細は不明だが、先帝直々の命により都に連れてくることになったらしい。
それが黎明の異能が故である、と福円と厳松が悟ったのは黎明の親代わりとなった部下がこの世を去った後のことだ。
死者の冤罪を晴らし、もって怨霊の発生を防ぐ。
それが洗冤院の役目であれば、おそらく先帝の深慮遠謀があったのだろうと勝手に福円は想像している。
もっともそんなことは今となってはどうでもよく、黎明はひたすら可愛い孫のようなものである。
黎明に視えている、となれば疑う余地はほとんどない。実際に、何度もその異能でもって遺族が訴える死者に着せられた疑惑や濡れ衣を晴らしてきているのである。
何しろ、黎明は死者の鬼霊を視るのみならず話すことさえ可能なのだ。謎解きもなにもあったものではない。探して話せば、それで解決である。あとは粛々と証拠を集めれば良い。
そんな黎明はさらにじっと目を凝らして池の方を見つめていた。
「血……なのかな? 首元が赤く染まっているようないないような」
霊がどうこうと言う前に純粋に目の弱い黎明がさらに目を凝らそうと、ざりっと音を立てて庭の玉砂利に足を踏み入れる。慌てて福円は黎明の肩を掴んで、引き戻した。
「失礼。そなたらは?」
黎明が池の霊に気を取られている間に、先に向こうが気がついたらしい。
気がつけば、輪の中心にいた人物が黎明と福円を見下ろしていた。
随分と背が高く、髪は長く伸ばしているが明らかに女の体格では無い。
『空』と書かれた白い紙で顔を覆っており、顔つきまでは分からない。
「これは失礼いたしました。私は内洗冤を任されております福円と申します。こちらは徒弟の黎明。皇太后陛下のご下命により、宮を騒がす鬼霊とやらを調べに参りました……黎明、頭が高い」
後宮は男子禁制の花園である。今は後宮と言える状況では無いが、それでも下臣ごときがズケズケ入ってこられる場所では無い。
であれば、これは高貴な身の上に違い無い。
そう察した福円は深々と頭を垂れると黎明にも礼を尽くすように促す。
しかし黎明はまるで乙女のごとく、男の顔に見蕩れていた。
「……綺麗なお顔ですねぇ」
「顔?」
男の顔は紙で覆われているので当然分からない。はて、黎明には霊を見るだけでは無く透視の異能まであったのか? と怪訝な福円を無視して黎明が言葉を続ける。
「その顔の紙の文字はどなたが書かれたのか、ご存じですか?」
「ご存じも何も、私自身だが……それがどうかしたのか?」
いきなりの黎明の疑問に拍子抜けしたのか、毒気を抜かれたような男の声に黎明がほうと目を輝かせる。
「黎明! 失礼いたしました。この娘、少々変わっておりまして……それよりも、この宮にどのようなご用件で?」
慌てて黎明の頭を押さえつけながら話題を転じる福円に少し気圧されたように男は来訪の意を告げた。
「そ、そうか。私は青藍と申す。目的はそなたらと同じだな。宮女の霊とやらの正体を明かしに来た」
「なんと、これは奇遇な。ということは高名な道士様でございますか?」
なるほど。道士であれば、今の後宮に入れても不思議ではない。道士や巫覡はあの世とこの世を取り持つ存在。故に性差を問われない場合も少なくは無い。
呪符のような面符で顔を隠しているのはそのためだろう。
しかし、青藍と名乗った男は福円の言葉を少しおかしそうに否定してのけた。
「まさかな。私はな、霊などどこにも存在しないということを証明しに来ただけだ。なに、もうここで何が起こっているかの見当はついている。あとは少し調べるだけだな……亡者だの霊だのと、まったく困ったものだ」
青藍と名乗った覆面の男はやれやれというように空を仰いだ。
「けど、あそこにいますよ?」
青藍の言葉に我に返ったのか、少しムッとした様子で黎明が池の辺りを指さした。
「何がだ?」
「たぶん、昔の女官の方ですね。ここからだと、ちょっとよく見えないんですけど……」
「な、何を馬鹿なことを。そのようなことを軽々に口にするものではない。いらぬ風聞を立ててまわれば身を滅ぼすことにもなりかねんのだぞ」
「れ、黎明! 失礼ではないか!」
さすがに気に障ったのか、青藍が黎明を睨むように見下ろしている。いや、紙の面でわからないが実際に睨んでいるに違い無い。
しかし、黎明は真っ向から青藍を見上げて確信を持って同じ言葉を繰り返した。
「いいえ。確かにあそこにいます。もし、あの方が恨みや未練を抱えているならば解きほぐすのが洗冤院の役割です。違いますか、福円様!?」




