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1-1 洗冤院の巫女は文字を愛でる

 黎明(れいめい)は文字が好きだ。


 口伝はいつしか忘れ去られ、絵物語は意味を伝えきれない。しかし、文字は悠久の時間を飛び越えて、書き手の想いを余すこと無く伝えてくれる。

 そして、何よりも美しい。


「……はふぅ」


 ため息と共にもう一度、そっと文字を指でなぞる。この文字が書かれたのは今からおよそ百年前。黎明が生まれるよりもずっと前のことだ。

 百年後もきっと誰かが今の黎明と同じく、この文字に込められた想いを愛でるだろう。


【我思】の二文字は時を越えて誰かを魅了し続けるのだ。


 黎明は思う存分、心を文字の海で泳がせるともう1度「はふぅ」とため息をつく。


 満足と共にゆっくりと意識が洗冤院の薄明るい書庫に戻ってくる。すると、くぅくぅという恨みがましい音がずっと自分の腹から鳴っていることに気がついた。

 

 気がつけばとっくに午を越えている。窓の外を見上げれば、そろそろ春も終わりを告げる雨の匂いが立ちこめ始めていた。


 記録の整理という、いつもの名目で書庫に引きこもってそのままどっぷりと嵌まってしまったらしい。

 さて、甘い点心(おやつ)で摘まもうか。たしか蓮実餡の月餅が余っていたような——と考えた時のことだった。


「だから! 黎明でなくては話にならんのじゃ!」

「ただの貴族の娘の我が儘ではないか、阿呆らしい。とにかく、内洗冤にはやらん!」


 不意に聞き慣れた2人の爺爺(イェイェ)の声が飛び込んできた。

 もうとっくに古希(70)は越えているはずなのに、とにかく洗冤院のご老体は元気が良い。


「黎明、入るぞ!」


 大きな声と共に最初に戸口に姿を見せたのは、いつものように礼部の官服を着崩して煙管を帯に差した厳松という老官僚だった。

 枯れ木のように背が高く痩せこけているが、声と力は洗冤院で一番だ。文字は豪快の一言で竹簡にチマチマ書くよりも壁に書き殴るような文字といえばわかりやすい。

 昔はやり手の官僚であったそうで、今でも外朝には顔が利く。外洗冤の名物爺ぃである。


「厳松、待たんか!」


 続いて姿を見せたのがでっぷりと太った宦官の福円。名前の通り実に福々しい。こちらは後宮の内洗冤を取り仕切る老宦官である。

 見た目に反して実に(たお)やかな文字を書く。うっかり恋文でも書かせようものなら、百戦錬磨の妓女でも恋に落ちると評判である。


 2人とも都に身寄りらしい身寄りのいない黎明の、まあ祖父代わりと言うところだった。


「厳松様と福円様。どうしました?」

厳松爺(おじいちゃん)と呼べと言っておろう」

「そうじゃそうじゃ。他人行儀な。どうじゃ小遣いは足りとるか?」


 黎明の言葉にいきなり相好を崩す厳松と福円。黎明に向ける視線は柔らかいが、ここは一歩も譲らぬと互いに前を塞ぎ合っている。


「お給金は十分に戴いています。それよりも、何かお急ぎでは?」


 黎明が先を促すと、福円が大きくうなずいた。


「おお、それじゃそれじゃ。実は皇太后陛下より――!」

「だから、それはお主が勝手に――!」


(また、始まっちゃった)


 察するに、黎明に用があるのはどうやら福円の方らしい。厳松はそれを止めにくっついてきたというところだろう。

 いつもは逆なのだが珍しいこともあるものだと思いつつ、黎明は心の中でそっとほくそ笑みながら愛でていた書を文机の脇に寄せる。


「厳松様、福円様」

「「爺爺(イェイェ)」」

「……厳松爺、福円爺」


 気がつけばつかみ合い一歩手前にまでヒートアップしている二人に、黎明はペシペシと壁に掲げたとんでもない悪筆の額を指し示した。


『お話は文書で。文字には心が余すこと無く顕れると書にもあります』


「分かってますよね?」 


 厳松と福円が押しかけてくると、こうして喧嘩になってしまって話が全く前に進まない。仕方ないので互いの言い分はまずは書に纏めてください、と黎明は二人にお願いしていた。


 もっとも、半分以上はただの大義名分で主な目的は別にある。

 この二人の字、とても味があって黎明の大好物なのだった。


◇ ◇ ◇


「後宮ですか?」

「うむ。後宮で宮中養育を受けておられる皇后候補の姫君がな。鬼霊が宮を徘徊しており、恐ろしくて夜も眠れたものではない。まことに畏れ多いことだが宮を出たいと言い出されたそうな」


 太っちょの指から紡がれたばかりの絹のように細く滑かな文字にうっとりしながら小首を傾げる黎明に、福円はそう《《口頭》》で補強した。


「だから、そんなものただの我が侭に決まっとろう。第一、悪霊退治なんぞ洗冤院の仕事ではない。黎明が行く必要はない」


 福円の言葉にフンと厳松が鼻を鳴らす。厳松の言葉に黎明は彼が差し出した短冊の内容に視線を落とした。

 こちらは枯れた小枝のような体つきに似合わない力強い文字である。内容もまた豪快で『構いだて不要』とだけ書いてある。実に分かりやすい。


 久し振りの二人の字だが、やはり良い。見た目と正反対の性格が良く出ている。文字は心の鏡と古書に言うが、本当にその通りだと思う。


「何を言う! 皇太后陛下の思し召しじゃぞ? 主上の大婚の儀に備え、内廷を安んじよと」

「だったら、道士でも巫覡でも使えば済む話じゃろうが!?」

「だから陛下直々のご下命と言っておろうが! わざわざ甥御殿を都に戻して洗冤令に据えるとまで仰せなのだぞ!? せめて鬼霊が事実かどうかだけでもはっきりさせねば面目が立たんじゃろう!」

「続きがあるなら、新たな書でお願いします」


 黎明の言葉に息を乱していた2人の老人が少しばかりバツが悪そうな顔で乱れた衣服を直して互いにそっぽを向く。

 どうやら、追加はないらしい。


 さて、どうしたものか。

 福円の短冊曰く、これは数年後に大婚の儀を控えた幼帝のための後宮整備の一環らしい。であれば、厳松の言うように形だけというわけにはいかない。それにはなんとしても黎明の協力が必要になるというのが福円の言い分だ。


 一方の厳松はというと幼帝はおろか皇太后にもろくに謁見できない姫君が単に騒いで気を引きたいだけだろうとバッサリ切り捨てている。


 皇太后陛下直々のご下命、というのがどれだけの重みを持つのかということは黎明にはわからない。ただ、后候補という高貴な身分の生の書というのはまだ見たことがない。もし、そんなものがあれば是非見たい。


 とはいうものの、それはあくまでも黎明の期待というか妄想である。実際にそんなものがあるかも定かでは無い。

 であれば、ここでいつもと同じく書を愛でていたいという気持ちもある。


 あるかないかも分からない未知の書か、それとも変わらぬ日常か。


 しばらく悩んだ末に、好奇心が上回った。


「分かりました。福円様にお供します。お役に立てるかどうかはわかりませんが」

「おお、そうか! すまんな黎明。そうじゃ、礼と言うてはなんじゃがの。ほれ、黎明が見たがっておった霊符じゃが――」

「見せていただけるんですか!?」


 わだかまっていた逡巡が黎明の中から跡形も無く消し飛んだ。

 ガバリと詰め寄る黎明に福円が思わず後ずさる。


「そ、そうじゃ。もしかするとただの骨折りになるかもしれんしの」

「でしたら、ついでに他山真君の符も!」


 福円に以前からおねだりしていた霊符には対になる符が存在している。どちらも貴重なもので、呪物(まじもの)ということでなかなか福円が許してくれなかったものだ。


「黎明。儂からもお主に馳走がある」


 福円に食いつく黎明の肩に好々爺の笑みを浮かべた厳松がそっと手を載せた。これはもしや、同じく前からおねだりしていた三筆の貴重な掛け軸を見せてくれるという話だろうか。


 しかし、和やかな笑みを浮かべた厳松が取り出したのは握りしめられた拳骨だった。コツンと芯に響く衝撃に思わず涙を浮かべる。


「っ~~~」

「欲張るのも、ええ加減にせい。福円、お主も甘やかすではない! ま、たまには身体を動かすのもええじゃろう」


 スタスタと書庫を出て行く厳松を涙目で見送りながら、黎明は煌びやかな後宮の后候補が紡ぐ文字をうっとりと想像する。


「楽しみですねえ。お姫様がどんな書を書いたりするのか」

「黎明、言っておくがの。物見遊山に行くわけでは無いからの」

「もちろん、分かってますよ。洗冤になるかもしれないお仕事ですよね?」


 だが、1つくらい役得があってもいいと黎明は思うのだった。


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