亡くなった妻
省吾は、妻の葬式に出席した人々の香典の封筒の整理に追われていた。もう、喪服は脱いで部屋の壁のハンガーに掛けてある。
妻の弓枝は、よく出来た貞淑な女性であった。彼も、それは生前からよく理解していた。遊びに出かけることもなく、よく家事をこなして、子供の居ない省吾にとっては、弓枝の存在が、唯一の生きがいともいえた。だから、弓枝が膵臓癌を突発して、すぐに入院から、亡くなってしまうまでの短い間は、省吾にとっては、ショックな出来事であり、亡くなってしまった今でも、その事実を受け入れることはなかなかに難しかった。しかし、妻が死んだという事実はもはや変えようがない。省吾は、妻の葬儀の段取りをすべて終えて、一人きりとなった自宅に戻り、孤独のうちに、亡き妻のことを思い返しては、深くため息をついていた。省吾の頭の中で、弓枝とのたくさんのかけがえのない思い出が蘇っては、彼を悩ませた。しかし、誰ひとり居ない簡素な応接間で、革のソファに身を沈めて周囲を見回すと、まるで今にも弓枝が現れそうな不思議な錯覚に陥るのである。
その日の晩は、なかなかに寝つけなかった。何度も寝返りを打ち、サイドテーブルの水差しから水を飲んでは心を落ち着けて、何とか眠ろうとした。しかし、近くに置いた亡き妻の写真を見ると、また落ち着かなくなり、そんなことを繰り返しているうちに、やがて我知らず、眠りに落ちていった....................。
翌朝は、ベッドの中でも、省吾は、なかなか起き上がれない。何だか、悪夢でも見たような気分だった。水差しから水を飲み、何とか気を取り直して、上半身を起こしてみる。そして、ふと、サイドテーブルの妻の写真立てに目を向けた。そして、驚いた。
ないのだ。写真がない。妻の写真がないのだ。おかしい。確かに置いてあったはずである。
そして、次の瞬間に、もっと驚くことが起こった。
寝室の扉が開くと、亡くなったはずの妻の弓枝が、いつもと同じように白いエプロン姿で現れると、ベッドの省吾に忙しげに声を掛けてきた。
「あなた、もう時間よ、早く起きてよ、朝御飯の用意はもう出来てるから、降りてきてちょうだい」
声が出ない。驚きのあまりに、声が出ないのだ。しかし妻が、
「どうしたの?風邪でも引いたんじゃないでしょ?早くしてくれないと、あたしも忙しいんだから」
「お、お前......................」
「何なの?どうかしたの?」
「生きてるのか?」
「何寝惚けたこと、言ってるの?何かあったの?」
「い、いや、何でもない」
弓枝は、さっさと階下へと降りていった。省吾は、まだ現状がうまく呑み込めない。それは、あり得ないことであった。しかし、現実として弓枝は居る。元気に朝の支度をしているではないか?
省吾は、結局、昨日までのことを弓枝に朝食の時に席をともにしながら言い出せないままに、出社した。しかし、通勤の満員電車に揺られながら、彼は実に複雑な心境であった。昨日までのこと、妻の膵臓癌や、入院、そして、葬儀の記憶は確かに明確にあったのだ。その複雑な思いで、その日の仕事は、机のパソコンを前にしながらも、ほとんど手につかなかった。
そこで、省吾は、思い切って、隣の席にいる同僚の桜井に尋ねてみることにした。
「なあ、桜井、俺の弓枝って、膵臓癌じゃないよな?」
「うん?」
と、桜井が聞き返してきた。
「何を訳の分からんこと、言ってんだよ?膵臓癌って何のことだ?」
「いや、いいんだ。忘れてくれ」
省吾は会社の社屋の屋上にいた。鉄の柵に、両腕を組んで煙草を吸っていた。空は、澄み切って青かった。彼の悩みなど、ごく小さなことと思えるほどに、青い空であった。彼は思っていた。
結局、妻は生きている。そして、出社する前に彼が確かめたように、喪服や、写真、その他の彼女が病気であったことの証となるものすら消えて亡くなっていた。昨日までの現実が、すべて消えていたのだ。もう、どうしようもない。
彼は考えた。これが現実なのだ。今、目の前にある現実。こっちを選ばなければ、生きてはいけない。過去が、たとえどうあれ、ひとは前へ進まなければならない。人生なんて、そんなものなんだ。そう、自分の心に言い聞かせて、彼はまた、一服、煙草を吸った。やけに、煙草が苦く感じられたような気がしてならなかった...................。