プロローグ
ワタシは2246日前、初めてあの子の声を聞いた。
それを聞いた時、ずっと歩き続けて止まらないボロボロの足が自然と止まった。
地面に横たわる砕けた瓦礫、生え散らかった雑草、辺りを舞う砂塵。折れた信号にひび割れた道路。
辺り一面にはそんな光景が広がっていたのを覚えている。
ワタシは違和感を覚えた。
なぜか。
聞こえてきた声は、本来ありえない声だったからだ。
私の意識は半ば強引にその悲鳴の方へ向いていく。ゆっくりと、だが確実に導かれるようにして歩き出す。その時のワタシの行動には、ワタシの意思も、大層な理由なんてものを持ち合わせてなんて無いはずだった。
ワタシがたどり着いたのは、研究施設だった。
既に彼らに攻撃されたのか、大部分が崩壊しもう研究施設としての役割は果たせない様子である。
そんな倒壊した建物の瓦礫の下、ぐちゃぐちゃの挽肉から溢れた血の水溜まりにその声の原因があった。
数ヶ月の赤子だった。
彼女のすぐ後ろには、倒壊した建物に押し潰された、てらてらと陽を浴びて妖しく光る肉塊が見えた。
押し潰された際のおびただしい出血によって出来た紅い海が、既に事切れている事を静かに諒解させる。
ただ、赤子だけは投げ出されるような形でぎりぎり倒壊に巻き込まれることはなく、今も仰向けに転がっていた。
彼女のその大きな眼からは、大粒の涙を零し、大きな声で叫んでいる。助けを求めるように宙に手を伸ばしている。
このまま誰の助けも無く、ただ叫び疲れて飢餓で死ぬ。
見れば分かった。ワタシにはどうしようもないと判断し、助ける気も必要もなかった。
気づいたら、ワタシは彼女を拾い上げていた。
それは同情ではなかった。目的があったわけでもなかった。まして愛情では無いだろう。
彼女の眼が大きく見開き、私の目を見る。
泣き声が止む。彼女は彼女はゆっくりと垂れた髪の毛を掴む。その不思議そうにこちらを覗く紫紺色の大きな眼は、宝石のように光を反射して輝いていた。
無意味な行動だ、なんて、そんなことは頭では分かっていた。
だが──だが、僅かに陽を浴びて、その脆く儚い命の炎を燃やして泣き叫ぶ彼女の姿は、ワタシに何かを植え付けた。ああ、きっとその時ワタシは、 ある種の羨望を覚えた──、抗いようのない残酷な運命に逆らうその姿は、ワタシ自身の矛盾を無視させるほど、大きな質量を持って襲いかかってきたような錯覚を感じさせたのだ。
──これは前の話だ。正直なところ....前のワタシの記憶の殆どは曖昧だ。
だが驚くことに──その前のワタシが見たその光景は、そしてこの鉄板の内に湧いた何かは、ワタシの記録メモリに過剰なまで焼き付いて、今日に至るまで、まるで昨日あった事のように思い出せるのだ。
ワタシは造られてから初めて、本来システムに存在し無いエラーが表示されているのを見た。
思えば──ワタシには最初から何も無かった。
あるべきはずの命令もなく起動したのはワタシだけだ。
いや、もしかしたら過去にあったのかもしれない。
周りにはワタシと同じ量産機の起動台が無数にあったが、それに寝転がっているのはただワタシ1人だけだった。他の量産機は既に皆起動して居なくなっていた。
それならば何故ワタシは起動しなかったのか。それは単純な理由で、きっとワタシが不良品だったからか。それとも、誰も必要としていなかったからだろうか。それとも──
──とにかく、ワタシには造られた意味なんてはなかった。果たすべき命令も、使命とやらも。
ただあるのはボディと燃料が尽きるまでの、長い長い時間だけ。
そしてワタシはあの廃工場から出て、外の世界を見た。
当たり前だが、何も感じなかった。
そうしてワタシは歩き始めた。
何も目的も当ても無くても、脚部がエラーを吐いて使い物にならなくなっても、そしてワタシは空っぽのまま各地を彷徨い続けた。
それはきっと、いつか壊れて動けなくなってしまうまで続けていただろう。
だが、この子はどうか?
自意識はないのに、誰かを求めていた。
温かい、溢れる命の杯を晒していた。
生き物としての本能のまま、振る舞っていた。
だか──不幸なことに、彼女は無力で彼女はどこにも行くことも出来ない。
きっともうじき死という冷たい事実のみを得る。
押し潰された男女は、きっと彼女を助けるために死んだ。
その求められて繋げられた命の灯火は、もうじきに掻き消えるだろう。
嗚呼、それは──ワタシの在り方とは正反対で。
....美しかった。
鋼鉄の身体がうち震えるほどに。
気の迷いと呼ばれればそれまでだ。
合理性なんて一片も無いことなど重々承知していた。
壊れている?...だがその不自然で非合理的な行動こそ、私にとっては当然なことだった。
なぜか。ワタシはアンドロイドとして不良品であり──だれにも必要とされていなかったから。
その事実は、ワタシにすぐ決断をさせた。
度重なるエラー。拒否するかのように震える身体。その全てを無視し、ワタシはこの子を育てる事を決めた。
その行いが、ワタシの本来の造られた意味と違っていても構わなかった。未来に何が待ち受けていようと関係がなかった。
...それでも、なぜ拾ったのかと聞かれたならば──ワタシはただ──変われなかった。そう、変わろうとも思わなかったワタシを、有無を言わさずに変えた存在だから、とでも答えようか──。
もうずっと、こんなことを考えている。
だが、答えは出ない。
「みてこれ!ねぇ、みてってば、アズ!」
...だけど、これだけは言えそうだ。
「.....」
「これ、きれいでしょ?うひひっ、セー君にも見せてあげるんだ!いいでしょ?」
彼女は小さく揺れる黄色い花を持って、ワタシの元へ駆けてくる。
少し黒い肌。紫紺色の大きな眼。肩まで伸びた、彼女の肌と対称的な白髪。軽やかに跳ねるその姿は、年相応な無邪気さがある。
「アズ、はやくもどろう?セーくんがまってるよ」
ワタシの鋼鉄の手を握って、待ちきれないと言わんばかりに思い切り引っ張る。ヒトを模倣して作られたワタシの手は、彼女の手はとても暖かだという事実を伝える。
「...フォリア」
彼女の名を呼んだ。彼女は大きく目を開き、不思議そうにこちらを見る。「なぁに?」
「...今日は、ステキな日だ」
彼女はにこり!と笑うと、もう一度強くワタシの手を握る。
彼女の成長と共に変わるこの今のワタシは、とても修復不可能なほどに変質してしまって。
彼女の速さに合わせて歩く脚部は負担がかかって、そして度重なるエラーまみれで。
──でも。この事実が、この感情が、たまらなく愛しい。
「最も人間に近い機械」。
6年のうちに多くの適応、更新を繰り返したワタシはそう呼ばれるようになった。