母が悪役令嬢拾ってきた
「貴博、あなたいい人いないの?」
電話口で母に聞かれたが、そんな人はいない。母がこんな質問するなんて珍しいなと思ったが、母曰く、自分のような年頃の母親というのはそのような質問をしなければいけないとこの前俺の伯母で父の姉である女性に説教されたのだという。
余計なお世話である。母もおそらく、電話の向こうで首をかしげているに違いない。
まあ俺は、おそらく恋愛に興味のない母の遺伝子を受け継いでしまったのだ。俺はスマホで母の言葉に適当に相槌を打ちながら、モーニングスターをゴブリンの頭に振り下ろした。奴は一言、「グェッ」とうめいて死んだ。
俺の母親は、息子の俺が言うのも何だが、美人でグラマラスな女性である。もう五十も過ぎてるというのに、いまだにその美貌を保っているのだから驚異の一言に尽きる。しかし酔っぱらった父いわく、昔はもっと美人だったらしい。
しかし彼女は自分の美貌に関心を持たず、男たちの熱い視線も気に留めなかった。というか、めちゃくちゃ鈍感だったので気づいていなかった。気づいたとしても彼女は自分より弱い男などに興味はなかった。
彼女の足元に失恋した社長子息や若き医者、弁護士などの屍が死屍累々と積みあがっていく中、果敢にもその屍の山をよじ登り、あきらめずにアプローチを繰り返し続けたのが俺の父親である。
「たまには帰ってらっしゃいよ」
「わかった、じゃあ今度の日曜日にでも帰るわ」
「お土産、クッキー缶がいいわ。デパートで売ってるやつ」
図々しくもお土産のリクエストをした後に電話は切れた。俺はスマホをポケットに戻し、ゴブリン狩りを続ける。「ゲート」が開いて以来、知性があまり無いが狂暴性はある、ゴブリンなどのモンスターが近隣の山で住み着くようになった。奴らは山を荒らすので、困った自治体はゴブリンの首に懸賞金をかけ、一首三千円ほどで買い取るようになったのだ。
許可さえとれば、これが実に美味しい小遣い稼ぎになるのである。別に金に困ってはいないが、ストレス発散にはなる。
ぼろぼろのローブらしいものをまとったゴブリンメイジらしい奴が魔法の杖らしい棒きれを振り回してきたので、俺は躊躇なくモーニングスターをお見舞いしてやった。こいつの首は五千円くらいにはなる。
まあ別に女性がいなくてもいいよな、と彼女いない歴イコール年齢の俺は思った。こうやって休日はゴブリン狩りに精を出し、帰りに近場の温泉でひと風呂浴びて一杯飲ってから帰るのは最高に楽しい。仕事は大きいのを任せてもらえるようになってきたし、部下はいいやつだ。
俺の人生は女性がいなくとも最高に充実している。そう、思っていた。
◆◇◆
約束していた日曜日がやってきた。俺は新宿のデパートで可愛い絵の描かれたクッキー缶をひと箱買って、電車を何本か乗り継いで実家に帰ってきた。
「ただいまー……」
「あ、おかえりなさい!あれ……おばさまじゃない……?」
玄関に立っていたのは、俺の人生史上最高に可愛らしい妖精のような生き物だった。美しく、艶やかに輝くはちみつ色の髪を後ろでふわふわ揺れるポニーテールにして、水玉模様のシュシュでまとめている。肌の色は象牙みたいに真っ白だが、わずかに桃色に上気していて、それがまた愛らしい。大きな深い青色の瞳は、まるでこの前社員旅行で行った沖縄の海のように輝いていた。
各々のパーツが完璧なのに、それがおそらく神の手で完璧な位置に配置されている。どこをとっても文句のつけようのない、完璧すぎる美少女だった。天使ではないことは確かだ。実家の玄関が天国につながったというなら話は別だが。
彼女は白いレースに縁どられた、たいそう可愛らしいデザインの茶色いチェックのワンピースの上に、おそらく母のものであろう所帯じみたエプロンをつけていた。だがそれもまたいい。
俺は口を二、三度、馬鹿みたいにぱくぱくと口を開け閉めしてからようやく言葉をひねり出した。
「あの、俺、息子の貴博です」
「まあ、では貴方がタカヒロ様ですのね!おばさまからお話は伺っておりますわ」
「あの、君は」
「申し遅れましたわ。わたくし、ソフィア・オクタヴィア・カリーノと申します。先月からこちらのお宅でお世話になっておりますの。おばさまは今、お買い物に行っていてお留守ですわ」
「あ、はい」
持ってきたクッキー缶を差し出そうとして、俺はようやくそれが手から滑り落ちてしまっていることに気づいた。床に袋ごと落ちている。俺は何でもない風を装い、袋をなんとか拾い上げた。
リビングにたどり着いた俺は、ソファに腰かけて、目の前でいそいそとお茶の準備をする彼女をひたすらに見ていた。
「カリーノさんは、あの、えっと」
「あの……よろしければ、どうぞソフィアと呼んでくださいませ、タカヒロ様」
「ソフィアさんは、交換留学生とかですか?」
「コウカンリュウガクセイ……?いえ、違いますわ。路頭に迷っていたところを、おばさまに拾っていただいたのです」
母さん、グッジョブ。
俺は心の中で母を褒め称えた。クッキー缶を1つではなく、2つにするべきだったかもしれない。俺はマグカップに紅茶を注いでくれるソフィアさんを見ていた。そうしていると、彼女の耳がみるみるうちに真っ赤な色へ染まっていった。
「あの……タカヒロ様、そんなに見られると……恥ずかしいですわ」
「あ、あ、あ、すみません。そうだ!クッキー食いませんか!?美味しいですよ!?」
「え、じゃあ、いただきますわ……」
「お、俺のおすすめはチョコチップのやつです!チョコチップのやつ!」
とっさに叫んだが、俺は焦った。ここの店のは、いつも何気なく食っていたから、お勧めできるほどこだわりがない。ソフィアさんはチョコチップの入ったクッキーを手に取り、一口上品に食べて、「美味しいですわ」とほほ笑んだ。
天使だ。天使がいる。
俺ははっきりと自覚した。
小津貴博、たった今、恋に落ちました。
◆◇◆
書類に美しい文字ですらすらとサインする彼女を見ながら、俺は、ソフィアはボブカットにしても最高に可愛いな、と心の中で悶えていた。あれから3か月、俺は毎週薔薇の花束とクッキー缶を手土産に帰省し、彼女に俺の少ない語彙でなんとか作り出せるありったけの愛の言葉を捧げてきた。
ソフィアもありがたいことにあの玄関先で俺に一目惚れしてくれていたのだという。
俺たちは、平日はビデオ通話で逢瀬を繰り返し、週末は映画館や公園で清らかなデートを重ね、愛を育んだ。
その間俺の叔父はソフィアがカリーノ公爵家の当主に無事なれるように奔走してくれ、俺は俺でカリーノ公爵家の当主になるソフィアを立派に支えられるよう勉学に励んだ。ソフィアに惚れてもらうのに忙しくて、俺はさっぱり山に行かなくなったが、最近あの山ではゴブリンが人間をあがめる宗教的活動を始めたらしい。異世界から学者が来て研究を始めたそうだ。ゴブリンのご神体は木彫りの像だが、その手にはモーニングスターらしきものを携えているという。
「はい、これで君たちは立派な夫婦です!イェーイ!」
外にソフィアの元婚約者を放り出しに行った叔父が帰ってきて、にこやかに拍手をしてくれた。俺はカバンから取り出した指輪をそっと彼女の指にはめる。プラチナにダイヤモンドが輝くシンプルなデザインのそれは、悩みに悩んで決めたオーダーメイドだ。
「ソフィア、俺の妻になってくれてうれしい。一緒に領地経営、頑張ろう」
「タカヒロ様……。わたくしを愛してくださって、ありがとうございます……」
「俺こそソフィアが愛してくれるなんて、世界一幸せな男だよ……」
結婚式は、とりあえず異世界と地球の二か所で開催することにした。ウェディングドレスを着たソフィアはさぞかし美しいだろう。地球側でやる結婚式はソフィアの主張により和式でやるので、白無垢を着たソフィアも最高に楽しみだ。というかソフィアは何を着ても最高に美しいと思う。それに、彼女は美しいだけじゃないのだ。頭も良いし、何より凛とした姿勢を崩さない。
こんな素晴らしい人が俺の妻になってくれるなんて、俺は世界一の幸せ者だ。マジで。
日本での結婚式を終え、俺たちはソフィアにとっての故郷である異世界にやってきた。神殿で結婚の誓いを終えた後、俺たちは公爵家使用人の皆さんの手を借りて、それはそれは盛大な披露宴を開いた。来客は裕福な商人から近隣諸国の王族まで、いろいろな人たちがたくさん来てくれて、俺たちにお祝いの言葉を述べてくれた。と、同時にお祝いの品も頂いた。
後でリストアップしてお礼状を送らなければならない。
ソフィアと一緒にひたすら挨拶へ回ったが、白いウェディングドレスを着たソフィアに見とれるのと、挨拶するのを両立させるのがめちゃくちゃ大変だった。ウェディングドレスはシンプルなラインに豪華なレースをふんだんに使っていて、ソフィアにとてもよく似合う。着るのが1回きりなんてもったいない。
「お疲れ様、ソフィア」
「流石に疲れましたわね。お茶でも頂こうかしら?」
「かしこまりました、奥様。すぐにご用意させていただきます」
披露宴が終わった後、俺たちは公爵邸の居間に着替えて戻ってきていた。ウェディングドレスからくつろぎ用のワンピースに着替えたソフィアが、ほっと溜息をつく。
メイドさんがあっという間にハーブティーを用意してくれた。ソフィアの世界にはチャノキが無いらしく、こうして飲まれるのはもっぱらハーブティーなのである。地球から持ち込むという話も出ているが、生態系に影響をもたらすかもしれないので、まだ計画段階だ。お茶の葉なら徐々に入ってきているが、高価な薬として扱われているそうだ。
「すごいパーティだったね。俺、ああいうの初めて」
「まあ、そうなのですか?とても堂々とされていましたので、わかりませんでしたわ」
「すごく緊張してたのと、ウェディングドレスを着たソフィアに見とれるのが忙しくて、もう大変だったよ。食べ物もろくに食べられなかったし」
「旦那様、お腹がおすきでしたら何か用意させますが……」
「え、じゃあお言葉に甘えて、サンドイッチ程度の軽いものを……」
「かしこまりました。それと旦那様、敬語を使用人に使うのはおやめくださるようお願い申し上げます」
「すみません、慣れてなくて」
だって目の前にいるこのダンディな家令さんは、間違いなく俺より年上だ。どことなく大企業の上役をほうふつとさせる。俺みたいな若輩者は、つい敬語を使ってしまう。
それに、この公爵家が没落せずに済んだのは、間違いなくこの公爵家に仕える優秀な使用人さんたちのおかげなのだ。ソフィアへの虐待に加担していた使用人は、俺がソフィアと一緒に戻ってから紹介状無しで叩き出したが、そんなに数はいなかった。せいぜいメイドが数人といったところだ。彼女たちは泣きながら許しを乞うたが、俺はどうしても許せなかった。
非情だと罵るなら罵ってくれていい。もし将来、俺たちの間に子供が生まれたとして、平気で少女に虐待を加えるような人間を子供の傍に置いておくことはできない。
そして、俺にはまだまだ叩き出さなければならない人間が残っていた。
◆◇◆
「じゃあ、楽しんでおいで」
「行ってまいりますわ、タカヒロ様」
お出かけ用に新調した緑色のドレスに身を包んだソフィアが、ふわっと笑って護衛騎士とメイドさんと一緒に出ていく。ソフィアはこれから、長年連絡を取ることのできなかった叔母さんが開いたお茶会に招待されていくところだ。
何人か年の近い女性が招かれているのだそうで、もしかしたらソフィアに友人ができるチャンスかもしれない。
俺はうまくいくことを願いながら、馬車に乗って出かけていくソフィアを玄関先で見送った。そして、家令さんにそっと目配せする。
「かしこまりました、“連中”を連れてまいります」
家令さんが残った護衛騎士とともに出ていくと、俺はもう一度必要な書類をチェックしながら応接間のソファで待った。数分後、怒りで顔が真っ赤になった大柄な男と、キツネ顔の女を連れて家令さんが帰ってきた。俺はにこやかに対応する。
「やあどうも、さあ座ってください!何か飲み物を持ってこさせましょうか?お茶でよろしいかな?」
「茶などいらん。それよりもどういうことなんだ、婿殿。我々に屋敷から出て行けというのは?」
「そのままの意味ですよ。一週間前にお伝えしたはずですが?」
「お前が俺に出て行けという権利はない。この家は俺のものだ!」
この男はソフィアの父親だ。二週間ほど前から同じ敷地内の別邸に軟禁していた。昔はイケメンだったんだろうが、暴飲暴食が影響したのだろうか、今や見る影もない。
こちらを恫喝しているつもりなんだろう、大声で叫んでいる。隣にいるキツネ顔の女は、その愛人でアンナとかいう少女の母親だ。図々しくも、ソフィアの継母だと名乗って社交界に出入りしている。
俺はにこやかに男の言い分を否定してやった。
「それが違うんですよ、残念ですねえ。元々この家は亡くなられたソフィアの母親のものです。というか、貴方が今まで好き勝手に使ってきた財産のほとんどはソフィアの母親のものであって、貴方には何の権利もない。貴方は一応、ソフィアの後見人という立場でしたが、ソフィアはもう成人し、こうして私と結婚しました。つまりもう後見人は必要ないわけです」
「それがどうした。この家をつぶれないように管理してきたのはこの俺だし、あれの母親と結婚して公爵家を継いだのはこの俺だ。俺にはこの家に住まう権利がある。お前みたいな若造に好き勝手言われる理由もない」
「それが貴方は継いでいないんですよ。継いだのはソフィアで、貴方の立場は女公爵が成人するまでの代行。便宜上は公爵と皆さま呼んでおられましたが、本当は公爵代行が正しいんです」
ソフィアが婚約破棄されてから、何百回も言われてきたであろう言葉を、俺はもう一度言ってやる。おや、顔がどす黒くなってきた。
「お前じゃ話にならん!ソフィアを呼べ、モノの道理を教えてやる」
「そう言ってソフィアに暴力を振るうおつもりですか?」
護衛騎士の皆さんが一斉に剣の柄に手をかける。男は立ち上がりかけたが、その様子を見て座りなおした。
この男はソフィアに、躾と称してよく手をあげてきた。顔にあざや傷跡があると噂になるから、体の見えないところに暴力を振るってきたのだ。性的暴力にまで至らなかったのは、この男にとってソフィアは高く王家に売りつけるための“商品”だったから。俺はこの男を決して許すつもりはない。
「だいたい、父親の許しもなく結婚するとは何だ。しかもお前のような、何の後ろ盾もない異世界の若造と」
「この結婚は王家と神殿の許しを受けていますので問題はありません。確かに私は若造ですが、実績ならこれから作りますので。それにソフィアも貴方のことは父親とは思っていません。私がどうしようが構わないと言っていましたよ」
「あ、あたくしは?あたくしはどうなるのですか?」
キツネ顔の女が耳にひりつくような声で言った。豪華な青いドレスに、全く似合わないデザインのこれまた豪華なダイヤモンドのネックレスをしている。あのダイヤのネックレスは、確かソフィアの母親のもののはずだ。財産目録に載っていた。
「何って、貴方はここにおられる元代行の奥様だ。当然、屋敷から出て行ってもらいますよ。騎士様と結婚した娘さんを頼ってはいかがでしょうか。ああ、その前にそのネックレスは置いて行ってくださいね。ソフィアのものなので」
「あたくしを泥棒呼ばわりするの?これは旦那様から頂いたものなのよ」
「残念ですがそれをプレゼントする権利は貴方の旦那様にはないんですよ」
しゃらっと音がして、見事なテクニックでいつの間にか後ろに立っていたメイドさんが、女の首からネックレスを抜き取る。さすが元旅芸人で、手品の名人という触れ込みなだけある。俺もあの技術を教わりたい。
「返して!返してよ!」
「さて、何度言っても聞いていただけないので話はこれでおしまいですね」
「待て、若造。俺は出ていかんぞ」
「もう荷物は包ませましたので、大丈夫です。貴方に権利のある持ち物はすべてカバンの中に入っています」
豪華な刺繍のある夜会服や、散歩着、高級な身の回りの品々は押収させてもらった。代わりに郊外にある小さな家と、それに付属する猫の額ほどの土地の権利書を入れておいた。そして、慎ましければ一生を過ごしていけるだけのお金も。これはソフィアの温情だ。俺としては無一文で放り出してやりたかったのだが、後で復讐なんか企てられると面倒だ。
鍛え上げられた護衛騎士たちが、男と女をむんずとひっつかんで引きずっていった。外には荷物を積んだ馬車が待っていて、彼らを郊外にある小さな家まで連れていく手はずになっている。
「“連中”、喧嘩になっておりましたよ。これでは今度から住む家のご近所の皆さまにご迷惑がかかるのでは?」
「隣家まで歩いて5分かかるようなド田舎だから大丈夫ですよ。喉が渇いたな」
「すぐにお茶を手配させていただきます、旦那様」
◆◇◆
「まあ、貴方がタカヒロ様ですのね。あたくし、アンナと申しますわ。ソフィアお姉様の妹ですの」
「ああ、では貴方がアンナ夫人ですね。話には聞いていますよ。で、何の用ですか?」
「何の用って……」
アンナは唖然としていたが知ったこっちゃない。こっちはもう、彼女の両親をたたき出した時点で彼女に用はないんだから。アンナの居室は綺麗に片づけられ、悪趣味な紫とピンクの壁紙や絨毯は取り外され、今はもう剥き出しの床板と壁があるばかりだ。彼女がソフィアから取り上げたものは全部回収させてもらい、ピンク色の見るだけで反吐が出そうなドレスは古着屋に売り飛ばした。
家具も売り払い、二束三文にはなった。将来あの部屋は、俺たちの子供のための部屋になる予定である。
「何って、お義兄さまともっと親しくなろうと思ったんですのよ。最近新しく王都にカフェーができましたの。二人で一緒に参りませんか?楽しいですわよ」
「おやおや。でも貴方には旦那様がいらっしゃるでしょう?その方はいいのですか?」
「アガピト様はあたくしのことを相手にしてくださいませんの。訓練で忙しいとおっしゃっておりましたわ」
アンナのことを見たくもないというのが本音だろうなと俺は思いながら、家令さんに合図をした。にやりと笑って家令さんは書斎のある方向へ消える。
「ねえ、いいでしょう、タカヒロ様。お姉様のような真面目な方より、あたくしのほうが貴方を愛してあげられるわ。ね?」
「その前に、貴方には払っていただくものがあるんですよ」
「……え?」
アンナの顔から笑顔が消える。家令さんがどさりと請求書の束をアンナの前に置いた。
「これは、貴方と閨を共にして破滅した青年たちの家から送られてきた、慰謝料の請求書です。それと、貴方がツケにして払わなかったカフェーの代金やドレスの作成料、宝石店の請求書」
「な、なにこれ!請求書ってどういうことなの?だって、カルロスもイヴァンもホセも、あたくしに愛されて幸せだったって言ってたのよ?」
「本人たちは幸せだったかもしれませんが、貴方が誘惑したせいで縁談が少なくとも四件ご破算になってます。貴方も知っていると思いますが、貴族同士の結婚というのは家同士のつながりのためだそうですね。四人とも結婚することで家を盛り立てていくはずだったんですが、こうなっちゃねえ……。あっちの家は縁談が破談になったことで少なくない金額の損害を被ってます。で、その慰謝料を公爵家に請求したんです。でも貴方はアガピトさんと結婚しちゃったから、独立した大人として見なされる。つまり、公爵家には貴方の請求書を払う理由なんてないんです」
アンナはしばらく考え込んでいたようだったが、やがてその笑顔が蠱惑的なものに変わった。
「何よ、そんな請求書。ねえ、こうしませんか?お義兄様。どうせお姉様はつまらない女でしょうし、あたくしを愛人にしたらいいわ。あたくしを愛人にしたら素晴らしい体験をさせてあげてよ。そして請求書はお義兄様が払ってくださればよろしいわ」
アンナはぐうっと体をこちらに傾けてきた。幼い顔立ちとは裏腹に豊満な胸の谷間が、ちらりと襟の隙間からのぞく。うっとりするような濃厚で甘い香りが漂ってくる。
俺は、鼻で笑い飛ばした。
「アンナさん、それマジで言ってます?自分がそんなに魅力のある女だと、本当にそう思ってるんですか?」
「な、なにを……!」
「言っときますけどね、あんたの魅力なんか俺には全然通じないんです。だまされた連中はアホか、それか火遊びのつもりだったんでしょう。あんたは本当はただの胸が大きいだけの、頭が空っぽな女ですよ。魅力なんかあると思います?」
「し、失礼ね!そんなに言うならここで服を破って、お義兄様に襲われたと叫んでもいいのよ!」
「おっと、そうきましたか」
俺はにこりと笑った。
「残念ながらこの部屋にいるのは俺の味方だけ、この屋敷にいるのも俺の味方だけです。俺はあんたを殺し、こっそり死体を始末することも出来ます。まあ、やんないですけどね」
「どういうことなの、マーサ、カレン、来てちょうだい!お義兄様に襲われるわ!」
彼女は紹介状なしで解雇されたメイドの名前を叫んだが、当然ながら誰も来ない。俺は爆笑した。
「マーサとカレンは来ませんよ。二人とも可哀そうに、紹介状なしでたたき出されてあんたら親子のことをずいぶんと恨んでました。まあ、ご安心ください。請求を支払える手段は手配しました」
「え?」
「アブレゴ侯爵はご存じですね?彼は腕のいい銀細工職人を何人も抱えています。カリーノ公爵領からは少ないですが良質な銀が採れるので、彼はうちと業務提携をしたいと思っていたんですよ。侯爵は愛人を欲しがっていて、とてもいいお手当てを払ってくださるそうです」
「アンタ……まさか、あたくしを売ったの……?」
「売ったなんて人聞きの悪い。俺はただ、あんた当ての請求を全部支払ってくれるなら、あんたが愛人になるよう働きかけるし、業務提携も喜んでしましょうと言っただけです」
「きょ、拒否権は?」
「拒否権?そんなものを使ったら、あんたたち夫婦は借金まみれで、この先一生を狂ったように働いて返していかなければならないでしょうね。安心してください、アガピトさんの許可はとっていますよ。あんたの顔も見たくないから、喜んでアブレゴ侯爵に差し出すそうです」
裕福だが好色で残忍なことで知られる貴族の男性の名前を出され、アンナの顔が真っ青になる。そのまま逃げだそうとしたが、出口には護衛騎士が立っており、逃げだそうとしても不可能だった。
「あたくしをうまく片付けたつもりなの?いつか絶対に戻ってきて、アンタを必ず地獄に落としてやるわ」
「地獄に落ちるのはそちらの方です。よくも今まで俺のソフィアを傷つけ続けてくれたな。その代償はこれからの人生をかけて支払ってもらうぞ」
ドスの利いた声で脅すと、アンナの顔がますます青くなった。
もうすでに王国と、アブレゴ侯爵との間に算段はつけてある。アガピト元王子はこの後、トニトゥルス帝国との小競り合いで“戦死”、寄る辺ない未亡人となったアンナはアブレゴ侯爵に頼るしかない。もちろんアブレゴ侯爵から逃げ出して何らかの生計の手段を見つけて自分で力強く生きていってくれればよいが、俺はそれをアクィラ王国内で行うことは認めない。彼女が何を生計を立てる手段に選ぼうが、俺はその妨害に努めるだけだ。そしてこの女には、その生計の手段を見つけるほどの知恵や能力はない。身体を売って稼ぐことは出来るだろうが、この国で王家に次いで最も裕福な女公爵の夫が憎んでいる女のいる娼館を、商人や貴族たちが利用したいと思うだろうか。
要するに俺は、彼女を憎悪しているというその事実を大っぴらにするだけで、彼女の人生を惨めなものにできるのだ。もちろん、ソフィアの夫と言うだけでは俺の今の立場は、先日叩き出した公爵代行と変わりがない。むしろ異世界人だというだけでマイナスかもしれない。だが、俺には能力がある。そして、ソフィアの人生に暗雲をもたらさないためなら、なんだってやるつもりだ。
「玄関先で馬車が待っています。アブレゴ侯爵がお待ちかねですよ」
「待って、話し合いましょう!お姉様に謝れというなら、なんだってするから!」
「残念ですが、もうすべて手遅れです。来世でやり直すんですね」
俺はまた護衛騎士の皆さんがアンナを外へ引きずっていくのを見ながら、請求書をアブレゴ侯爵に送るため、リボンをかけてまとめていく。アンナは散々わめいていたが、うるさくなったのであろう護衛騎士の一人に、取り出したハンカチで猿ぐつわを咬ませられて紐で手足を拘束され、担がれて出て行った。
◆◇◆
「タカヒロ様、ただいま帰りましたわ」
「おかえりなさい、ソフィア。お茶会はどうだった?」
「とっても楽しかったですわ。皆様大変良くしてくださいましたの。今度遊びにいらっしゃいと招いてくださった方もいましたわ」
大興奮のソフィアは頬を軽く赤く染め、それがまた大変可愛らしい。
「タカヒロ様はわたくしがいない間、何をなさっていたのですか?」
その質問に俺はにっこりと笑ってこう返した。
「まあ、ちょっとゴミ掃除をね」
まさかこんなに長くなるとは思いませんでした。