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第一話 ブループロム

姫々たちとの練習を続けて二日が経ち、一郎はタキシードを着て約束の場所に向かっていた。


日も落ち、蛍光灯が淡い光を放つ廊下、汚れ一つ無い磨かれた窓の外では満月が淡い光を放ち自らの存在を示している。


体育館よりも大きく煌びやかな装飾を施されたブループロムの会場であるメインのダンスホールがあるほうからはどこかで聞いたことのあるようなクラシックの音色がうっすらと聞こえてくる。


出遅れた訳ではないが満月の夜といった手前、日が暮れる前に行くのはと少し迷った結果としてこの時間になってしまった。


もしかしたらもういないかも知れない。


そんな期待のような落胆のような、形容出来ない思いを持ったまま教室に辿りついた。


他に誰かいるかもしれない、そんな思いもありノックする手を一度止めるがここまで来たなら走りきるべきだと、止めた手を再び動かした。


ノックをして教室の扉を開けると夜風がふわりと頬を撫でその中に薔薇の香りがうっすらと混じっているのを感じた。


それで、その人がいると確信を持てた。


開いた窓の傍でこちらに背を向け、後ろが大きく開いた純白のドレスで着飾ったその人は丸い月を見つめていた。


ゆっくりと振り向く時のその所作さえも可憐で息を呑んでしまう。


青い海のような瞳を輝かせて乙女は笑みを浮かべて言葉を贈る。


「お待ちしていましたわ。一朗様」


鈴の音のように澄み渡る声、そして自分を求めるような台詞。


ここ数日耐性を付けたつもりをしていたが、そんなことなかった。


まだ触れ合うまで数メートル以上距離があるのに心臓はかつて無いほどに収縮と膨張を繰り返す。


緊張すると手が震えるなんてのは冗談だと思っていた一朗だが、これが事実であることを今、身をもって体験していた。


「返事はいただけませんの?」


くすりと笑う乙女を見て、自分の緊張がばれていることを察して今度は恥ずかしさが胸の内に広がっていく。


ここまで恥を晒せばもう恐れるものは無い。


そう自分に言い聞かせて振るえる唇を正すためにぎっと歯を噛み締めてから深く息を吐く。


意を決して一朗は乙女に歩み寄り、右手を差し出す。


「お待たせしました、マイフェアレディ。エスコートさせて頂いても?」


その手を取り乙女は頷いた。


「えぇ、勿論ですわ」


差し出された手から腕に触れるところを変えて乙女は一朗の隣に立つ。


「では、行きましょうか」


精一杯の格好をつけて一朗は歩き出す。


ぎこちない様子だったが乙女はそれで良いと思っていた。


少なくとも一朗がこの数日必死にダンスの練習をしていることを知っていたからだ。


自分が青い薔薇を受け取ったことで一朗のことが学校全体で噂になっており、どんな人物なのかと誰もが探りを入れていたからこそ乙女もそれを知ることが出来た。


最初はダンスすらまともに踊れないのに何故だ、など色々と良くない陰口を聞くことも少なくなかったがそれも数日と経たずに風化し、女子たちの間では少なくとも悪い評判は減っていた。


要因としてはウィンが絡んでいたことから一朗が自分の為にやっているのではなく乙女の為に頑張っているということを包み隠さず話してしまったところも大きい。


その話を聞いた乙女はなおさら胸に秘めた少女の憧れに火がついてしまった。


身分違いの恋にその差を少しでも埋めようとする姿勢、どこをどうみても純然とした理想の男の子であった。


であれば、もう多少の荒などどうでも良くなってしまい、恋に恋する少女は相手に盲目になってしまい自らの理想を重ねて見てしまう。


それを本当に恋だと勘違いしてしまうのも無理はなかった。


自己中心的な思考を持ちえる相手だと想像もしていない一朗はエスコートを続け、ブループロムの会場にたどり着いた。


「緊張していますか?」


乙女の質問に対して乾いた唇を舐めて答える。


「えぇ、この場所ではなく貴女に」


姫々に言われたとおり表情には余裕を持ってにこやかに、そして緊張を和らげるように気の利いた冗談を忘れず。鉄則だといわれていたその通りに対応する。


「まぁ、お上手ですわ」


口元を手で隠してお淑やかに笑う乙女の反応から間違ってなかった、そう解釈してこれを続けられるようにと気持ちをしっかり持ち、ブループロムへの一歩を踏み出した。


入場口で青い薔薇を確認する必要があり、乙女がそれを受付に見せると中への入ることを許される。


通れたことにほっと胸をなでおろす、その様子を見られたのか乙女が不思議そうな顔をした。


「どうかなさいましたか?」


じっと見つめる乙女にこの娘と一緒に居て締め出される事はないかと自らの浅はかさを飲み込む。


「気にしないで、大したことじゃないし」


「そうですか、ならそうしますわ」


クスリと笑う仕草にばれてることを自覚して一朗は誤魔化し笑いを浮かべた。


毅然とした態度で二人は通路を抜けて会場のメインホールに足を踏み入れる。


映画でしか聞かないようなクラシックが本物の楽器から奏でられ、音の粒が鮮明に耳に届き気持ちを高揚させていく。


喧騒とは言うにはあまりにも華麗な談笑があちらこちらで紡がれ、煌びやかな装飾が淡い光に当てられ星を咲かせるように輝き空間を彩る。


そんな物語の中にしか無い様な光景が一朗の眼前に広がっていた。


だが、どれ程輝ける光の星だろうが、誰もが踊り出してしまう美しい音色だとしても、隣にいる彼女。


龍宮寺 乙女の前では触れることの出来ないただの事象に過ぎないが、その雰囲気にあてられて酩酊感に襲われたが右手から伝わる乙女の体温が力強さを与えてくれる。


これは優越感なんてちんけな感情の起伏ではなく、ただもっとまっすぐで純粋な思い、これは惚……。


あってはならない思考が脳裏をよぎった瞬間下唇を噛んで正気を取り戻す。


たとえどれだけスペシャルな瞬間でもそれはダメだと自制して一朗は気を取り直した。


それが功を奏したのか酩酊感はなくなり、周りに目を向ける余裕も生まれてくる。


悪魔の微笑みで愉悦に浸っている姫々が小さく手を振っていた。


その隣ではブンブンと音がしそうなくらい笑顔で手を振るウィン。


二人とも綺麗に着飾って普段とはイメージが全然違う、特にウィンは普段の元気そうな雰囲気ではなく触れてしまえば壊れてしまうような儚さを感じるが、本人の行動がそれを無に帰しているのはご愛敬。


他の女子に目を向けていることが分かったのか乙女は腕を掴む手に力を少しだけ込める。


「一朗様はずいぶん異性交遊が広いのですね」


「広いっていうけど、女の子とはクラスメイトの二人だけじゃないかな。しっかり話したことあるのって」


しみじみと思い返してみればつるむ時は大体総司も一緒で他のクラスメイト達と出かける事は少ないことに気が付く。


しかし、それにしては視線を向ける女子が多い事を乙女は顔には出さず不満げに思う。


つまり、隣の芝は青いのだ。


要するに冴えない一般庶民だとしても隣に立つ乙女の存在がそれを価値のあるものに塗り替えているのだ。


きっと自分の知らない素敵なところがあるのだと錯覚してしまう。


無論、ウィンが流布した一朗の性格と態度を含めての評価ではあるが。


「ではそのお言葉を信じますわ。ですが」


乙女はわざとらしく立ち止まり一朗の顔を見つめる。


「今日の一朗様の花はわたくしですわ。他の花に目を奪われるのは。その、少し嫉妬してしまいます」


乙女の言はあまりにもその通りで自分には過ぎた花だとしても今その花を手にしているのは間違いなく自分である、そう一朗は考えを改めて乙女の瞳を見つめ返す。


「失礼しましたマイフェアレディ。少し気が早いかもしれませんが一曲踊って頂けますか?」


精一杯の微笑みと強い意思で言葉を紡ぎ、手を差し出す。


「えぇ、もちろんですわ」


乙女はその手を取り、一朗は手のぬくもりを感じ、リードして踊る生徒たちの間を抜けながらホールの中心で向き合い体を寄せ合う。


奏でられる音楽を肌で受け止めて一歩ステップを踏む。


一つ、二つ、ゆっくりながらも一朗がリードして二人はホールの中心で揺らめく白い炎のように踊る。


つたないステップ、味気の無いプレーンなダンス。


それでもなお、美しかった。


白と黒がひらひらと舞う花びらのように同じ動作を繰り返す。


ただそれだけなのに何故か見惚れてしまう。


乙女の魅力とセンスがあるのは間違いなく、相手のレベルに合わせられる器量と技巧もそれを強調しているのは確かだったが、それだけではない。数日ほども練習していない未熟なステップ。しかし、言葉を失ってしまう華があった。


それは恐らく、一朗が笑顔を崩していないからだろう。


乙女も同じで少女が初恋の人にであった時のように蒼い瞳を潤ませ、頬をほんのり赤く染め、あどけない笑顔をしている。


一朗は乙女のために、乙女は自分のために。


二人の思いはすれ違えど願いは同じところへ向かっているからこそ魅了されてしまう美しさがあった。


ホールを彩っていた鮮やかな花々だったが、次第に花びらを舞わせることをやめてしまい、最後には二人のために光と音のシンフォニーはホールに充満していた。


幻想的とも言える光景が広がっているのだが、一朗は誰に見せるために頑張ったわけではなく、ただ乙女のために必死だったせいで周りに気を配る余裕もなく、ただステップと潤んだ乙女の瞳から目をそらさない様にするだけで精一杯であった。


そのせいで明らかな異常事態に気づけていない。


乙女の方も自らの願いの中にある少女漫画のような事態を拒むはずもなく、誰も彼もの視線を受けて、むしろ見せつけるかの如く指先から揺れる髪、交わるステップに瞬きに至るまで、そのすべてでこの場にいる全員を魅了するつもりで踊りに耽っていく。


音楽があけぼのの中に沈む月のように遠のいていき、二人はどちらとなく足を止める。


互いに見つめ合いながら上気した頬をさらに赤らめながら息を整えていると小さな拍手が一つ生まれる。


それを皮切りに伝染する熱のように拍手が広がっていく。


瞬く間に歓喜の音はホールに響き渡り、音が衝撃のように一朗たちに浴びさせれる。


「なっ、なになに?」


何一つ理解できていない一朗を横目に乙女はこれ以上ないほどに嬉しそうに笑って一礼する。


それを見て一朗も合わせておかないといけないと考えて頭を垂れてしまう。


まったく理解できない状況であっても、ある意味一番信頼できる人物に視線を向ける。


そこには当然のごとく、重力という概念が当たり前であるように姫々が大笑いして手を叩いているのが見えた。


俺、また何かしちゃいました?


頭の中にはそんな馬鹿なセリフが流れて首を振って思考を切り替えて思わず乙女の手を取りその場から逃げ出してしまった。


モーセでも人の波を分けるのはもう少し苦労するだろうと言いたくなるほどにスッと生徒たちは道を開けてくれるので今度は違う意味で顔を真っ赤にして一朗は駆け抜ける。


ブループロムの会場を抜け出して二人は月明りだけが水面を照らす噴水のある広場に居た。


「ご、ごめん。なんか急に走り出したりしてこんなところまで来ちゃって」


シンデレラに掛けられた魔法が解けるように、一朗が張り詰めていた格好よく居ようという緊張感もほぐれてしまい、普段のどこにでもいる青年が顔を出してしまう。


「いえ、大丈夫ですわ。それよりも、とても楽しかったので」


にこやかに乙女はそう口にする。


「そう? そう言ってもらえるなら頑張った甲斐があるかな」


照れを隠したくて一朗は視線をそらして頭を掻く。


さっきまでの様子とは全然違うあどけない雰囲気の青年に精一杯恰好を付けていた先程までの姿を重ねて乙女は胸が締め付けられるような思いでぎゅっと手を握りしめる。


何度も読み返した物語では主人公が自分のために頑張ってくれる男の子がこんなにも可愛くて素敵だと語っていたのを思い出して、その意味を言葉ではなく心で理解して胸の内から言葉にならない思いが溢れ出てくる。


いつまでも照れる男の子の淡い笑みを見ていたいと思ってしまう。


「一朗様」


思わず名前を口にしてしまう。


「よかったら、ここでもう一度踊ってくれませんか?」


「えっ? ここで?」


「はい。だってまだ満月の夜は終わっていませんもの。もう少し、踊っていてもいいと思いませんか?」


その時、初めて乙女が恥ずかしそうな表情を見せる姿がとても愛らしくて、無意識に手を差し出してしまう。


「ぜひ、踊りましょう。そして、今夜は俺だけの花でいてください」


取り繕う言葉もなく、ただ今叶えたい願いを一朗は口にする。


それに乙女は手を取る形で答える。


「よろこんで今夜だけは私は貴方の、一朗様の花ですわ」


触れ合う手から互いの体温を感じながら、優しい光の中で薔薇の香りが混じる夜風がただよう広場で夜が深まるまで二人は見つめ合いながらあどけないステップを楽しんだ。


まさかそんなことをしている間にブループロムではとんでもないことが起きているとは知る由もなかった。


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