勝手に婚約破棄。
どこかの席から「ほらあの人」との声が聞こえてきた。彼は『見るなよ』と口を噤み、顔を可愛い文字で彩られたメニューで覆って、ベルを鳴らしメイドを呼んだ。
「水を二つ、後オムライス…あっ、絵はさぁちゃんで」
注文を受けた子に代わり、さぁちゃんと呼ばれる子が彼の目の前にくる。
「お、一昨日ぶり、元気してた?そ、卒業今日だよね?」
早口で話す彼と対照的に落ち着いた声で、
「あっ、今日もお友達さんと妹さん?ご一緒なんですね。そうです卒業、みんなとお別れ寂しいです。さて、絵は何がいいですか?」
「さぁちゃんが好きな、イルカで!」
彼女はサッとイルカの絵を描くと颯爽と去っていった。
彼が彼女を好きになり、通い始めてもう何年経っただろうか。
ある年の誕生日は花を、ある年は指輪を、受け取ってもらい、彼はそれを婚約OKだと信じた。
「・・・」
『何だよ、文句あるのか』彼は照れ笑いをしながら小声で話し始めた。
『さぁちゃん卒業したら俺と結婚すんだよ。』
『まじか?羨ましすぎるだろ!本当だったらな(笑)』
『お兄ちゃんは私のだから嘘です!』
彼は少し不機嫌な顔で、机をトントンと叩いた
『まじになんなって、本当なら祝福するし、駄目でも慰めるぜ!その時は、旅行に行こう!北がいいな(笑)』
『お兄ちゃん、私も北が良い。お兄ちゃんと旅行したい!』
『勝手に決めるな』
そんな幸せのカウントダウンを噛み締めているうちに、卒業の挨拶が始まり、卒業の理由が本人から語られた。
「もう一部のお嬢様、ご主人様は気付いておられるとは思いますが、実は妊娠6か月となりました。身体や赤ちゃんの事を考えて卒業させてもらおうと思います」
顔を真っ赤にして祝福する常連達、そして推しだった男達は顔面蒼白となった。
もちろん彼もそうだったが、勇気を出して何かを言いかけた瞬間。
彼女は彼の顔を見ながら語気を荒げた
「私の事が好きなら祝福してくれますよね」
彼は椅子に崩れ落ちた。
「あぁ」
『大丈夫か?』『お兄ちゃん大丈夫?』
うなだれ、ぼそりと
『大丈夫…じゃないな』
『元気出して!お兄ちゃんには私がいるじゃない!!』
『そうだよ、俺もいるしな。旅行だ旅行』
作り笑顔でまっすぐ前を見ながら
「そうだよな!俺には可愛い妹も大事な親友もいるんだよな」
そう言葉を放つと彼は大声で泣いた。
そう彼には、本当は可愛い妹も大事な親友もいない。
いるのは、椅子の上に置かれた物言わぬ2つの人形があるだけであった。