1話 始まり
『龍』とは生態系の頂点である。その巨体は山の如く巨大で、その鉤爪は鋼をも容易く切り裂き、その咆哮は大地を震わせ、その顎は万物を切り裂く。
まさにこの世界の頂点だ。
だか、約二百年前に起こった種族間の争いで多数の龍が命を落とし、今では昔のように龍たちが世界を跋扈することは無くなった……。
◇◇◇
「ふっ!」
「やぁ!」
様々な生き物が生息する森、『アルクールの森』。通常では考えられないほど巨大な獣や『魔獣』と呼ばれる危険生物も多く生息する危険地帯に2つの可愛らしい息遣いが木霊する。
「はっ!」
「えぃ!」
声の主はこの危険地帯には不釣り合いの幼い少年と少女の声だった。
黒髪黒眼の短髪のまだ幼さの残る齢10歳ほどの少年と、それに反して純白の髪を肩まで伸ばした翡翠色の眼をもつ齢8歳ほどの少女が森の奥で手にした木刀を素振りしていた。
一見、子供が剣の真似事をしている様にも見えるその光景は、熟練の剣士でも目を見張るほどの洗練された太刀筋をしており、木々の隙間から射す太陽の光に照らされたその光景はまるで1つの絵画を見ているかのような神秘的な美しさすらある。
――ガザッ
「ねぇ、お兄さま」
「ああ、分かっている」
彼らの傍らから何かが身動きをしたような音が聞こえた矢先、茂みから体長約3メートルは超えるだろう巨大な体躯の虎が少年たちにその太い牙を突き立てようとまさに襲いかかろうと飛び出してきた。
その強靭な顎から繰り出される一撃は彼らの柔らかな肉を容易に切り裂き、赤き鮮血が激しく噴き出すだろう。
虎の牙が彼らを捉え、その体から大輪の赤き花が咲き乱れる――
「まだまだ遅いな」
――事はなかった。
少年は飛びかかってきた虎を半身を翻すだけで躱し、その腹に向け剣を叩きつける。
少年が叩きつけた木刀を振り切るとそこにはべったりと粘着質な赤い液体が付着していた。少年はそれを払うかのようにサッと木刀を払うと、地面に赤い一筋の軌跡が刻まれ、ドサリと鈍い音を立てて虎の巨体が地面に倒れた。
地面に倒れる虎の腹をよく見ると、なにか鋭利なもので切りつけられたような大きな真一文字の傷が深く刻まれており、そこから鮮血がドクドクと流れ出ていた。
「はぁ、さすがお兄さまですぅ♡」
少女の瞳には命を狙われた恐怖の色はまるで無く、唯その瞳には涼しい顔で木刀を腰に収める少年の姿が映し出されていた。
◇◇◇
『アルクールの森』の中腹付近。危険な魔物や魔獣が蔓延る最も危険な森として知られる場所に1軒の木造の家がポツンと建っている。
虎を討伐した少年たちはその家へと足を運び、 少年がその家の扉の錠に手を翳し、『解除』と一言言霊を発するとカチリと小気味良い音が鳴り、その錠が外れ扉が空いた。
「ただいまー」
「ただいまですぅー」
少年達は家の玄関を潜ると廊下の方へ声をかける。
「あらぁー、おかえりなさい。随分早かったのねぇ」
すると、一泊を開けて廊下の奥からまるで鈴の音の様な凛とした透き通る声が返ってきた。
「うん、剣の鍛錬をしていただけだから」
「はい、私も剣を振っていただけで今日は魔法の練習はしてませんでしたからぁー」
彼らが森の中にいた理由。それは彼らの目的が剣の鍛錬であったからだ。
家の中で剣を振ると怒られる、だから家の外に行って剣を振っていた
そこで虎に襲われるというアクシデントにあったが少年達にとってはその程度の事アクシデントでも何でもない。
だから彼らにとって今日の出来事は“剣の鍛錬をしていた”それで完結されるのだ。
「そう、でもレインから獣の血の匂いがするのだけどそれは気の所為かしらねぇ?」
「あぁ、剣の鍛錬中に虎に襲われたんだよ。でも返り血一つ浴びてないし、魔法で一応きれいにしたのに気が付くなんて流石だね」
「お母さまもすごいですけど、お兄さまもすごかったですぅ!最小限の動きで攻撃を躱し、最速の一太刀を振るう。かっこよすぎてルーナ濡れちゃいそうになっちゃいましたぁ♡」
「ふふ、ルーナったらおませさんなんだから」
廊下の方から1人の女性が少年達の前まで歩いてきた。
純白と漆黒が混じるアンバランスなのに何処か妖艶な雰囲気を漂わせる長髪を自分の胸当たりまで伸ばし、髪色と同じ衣を肩が出るほど着崩したこの世のものとは思えないほど美しい若い女性はからからと面白がるように笑う。
「うーん、俺としては濡れるというのがよく分からないけど褒めてくれて嬉しいよ」
頭に「?」を浮かべた少年は嬉しそうにほほ笑む。
そのまだ幼さの残る笑顔を目にした女性と少女は一斉に少年に抱きついて、
「はぁ、どうしてこの子はこんなに可愛いのかしら♡ もう食べちゃいたいわぁ♡」
「はぃ、お兄さまはかっこよくて可愛くて強くて、もう最高ですぅ♡ お母さま、一緒にお兄さまを食べてしまいましょう! あーーん♡」
「えぇ、あーーん♡」
そう可愛らしい事を口にすると二人は少年の左右の耳に噛み付いた。
「「ぱく♡」」
はむはむはむ…。
両耳から可愛らしい声が聞こえたと思ったら両耳を甘噛みしだした母親と妹を同時にチョップした。
「「あいたっ!」」
「はぁ、二人とも何してるんだよ……。 俺の耳なんて食べても美味しくないよ。そんなのよりも今日捕った虎の肉の方が美味い」
そう発し、二匹のケダモノに蔑んだ眼差しを向けた。
すると彼女らは、一瞬表情から笑みが抜け落ちると、その顔を怒りに赤く染め、少年に詰め寄った。
「何を言うのレイン!貴方の耳を超えるご馳走は私達には無いの!」
「そうです!私とお母さまにとってのご馳走は“お兄さま”なのです!お兄さまの存在全てが私達の生きる意味!お兄さまこそが全て!ですからそんじゃそこらの獣風情がお兄さまに勝てるわけないのです!」
そう熱弁する二人は何処か狂気じみていた。そう簡単に言えば目が逝っているのだ…。
「そ、そっか。二人の気持ちはよく分かったよ……」
少年はそう答えるしか無かった…。