死のための死
01
追い求めたのは、苦しまずに死ぬ方法だった。
親が死に、金も無く、食料を盗み、捕まり、蹴られ、殴られ、苦しみ、苦しみ、苦しんだ。
散々苦しんだから、せめて死ぬときだけは苦しまずに死にたいと、そう願った。希った。
そして、ついに見つけた。死神を。痛む暇さえなく一瞬で命を刈り取るその人を。僕は見つけてしまった。
迷路じみた路地の一角。人の目に入らない袋小路。僕が隠れ場所としてたまに使っていたその場所に、彼女はいた。
彼女。そう、死神は女だった。髪色は珍しく、この国に多い金髪と対照的な黒。そんな黒髪をストレートロングで腰まで伸ばしている。目の色も髪に合わせたかのような黒色で、なんと服の一切までもが黒で統一されていた。
しかし、彼女が死神たる所以は、そんな彼女の風貌には無い。むしろ、眼前の光景の、彼女以外の全てにあった。
まず、壁が赤い。黄味がかった石造りの壁を上から塗りつぶすような、赤。そして、眼下に転がる夥しい数の人間だったもの。全て一刀の元に斬り伏せられているようだ。酷いものでは胴が斜めに分断されているものや、頭が顔面の中心で飛ばされているものまであった。
その中に一人、一切の血を浴びずに佇む彼女の姿は、まさしく死神と呼ぶに相応しいだろう。
あぁ、最高だ。人生でここまでの奇跡が起きたことが、果たして今まであっただろうか。目撃者となった僕はきっと、すぐに口封じに殺される。
僕にはもう死神の姿が、自分を救ってくれる天の遣いのようにも感じられた。
「ヌシよ、何がそんなにおかしいんじゃ」
唐突に死神が口を開いた。指摘されて初めて、自分が口角がつり上がっていることに気付く。
「こ、これは……別に……」
乾き切った口から声を出す。自分のものとは思えないほど掠れていた。
「まあ、よいわ。儂は帰る」
ぞんざいにそう吐き捨てて、死神は袋小路の出口——僕の立つ方へと歩み寄ってくる。
——来た! 死神が! 僕を殺しに!
口角がさらにつり上がり、心臓は煩いくらいに高鳴って、魂が歓喜に震えた。恐らく僕は、人生で一番の喜びに見舞われている。
しかし、そんな希望が叶う筈が無いのだ。他でもない、僕の人生において。
「え……?」
振り返った先に、死神の背が見えた。
——何も、されなかった!?
理解と驚愕。そして憤激。
「おい!」
気付けば僕の口から怒鳴り声が発されていた。自分でも驚くほどの声量である。
「なんじゃ?」
首だけを回して、死神が応じた。
その仕草にも、腹が立つ。
「いいのか? 僕を殺さなくて。顔まで見たんだぞ?」
ほら、殺せよ。殺せ。殺せ。殺せよ。僕を殺さないと面倒なことになる。僕を殺さないと大変なことになる。だから! おまえは! 僕を殺すべきなんだ!
「別に、構わんじゃろ。顔なぞとうの昔に割れとるわい。……それともなんじゃ? 殺されたいのかおぬしは。悪いが、儂は別に好きだから殺しをやっとるんじゃあないからの。仕事以外の殺しはせんよ」
……なんだ、それは。これだけの大量の人を殺しながら、それだけの技量で人を殺しながら、一切の嗜好的殺傷が無いなんてそんなこと、あるわけないだろう!
いや、これも偏見なのか? 僕の創り上げた『死神』という虚構の存在に対する、僕の創り上げた偏見なのか。
「じゃあ、依頼だ。仕事の依頼」
この機会を逃せば、僕はまた苦しむ。それだけは嫌だと、引き止め続ける。
「仕事。仕事か。そうじゃのう。仕事なら引き受けようか」
そこでようやく、死神の身体がこちらを向いた。
「改めて、死神の二つ名を継ぎし者、アリーシャ・リ・グリット・レイシスドローだ。よろしく頼む。雇い主よ」
口調と共に、雰囲気がガラリと変わった。妖艶な微笑みを口元に湛え、剥き出しの殺意を見せつける。
どうやら本当に死神という二つ名を持っていたらしい彼女の、その圧倒的な気迫に気圧された僕は、息が詰まり、何も言えなくなってしまった。
「ふむ、すまない。職業柄自分を売り込むことが多くてな。やりすぎた。……して、誰を殺してほしいんじゃ?」
威圧が収まり、硬直していた喉の筋肉が緩む。二、三度の荒い呼吸を挟み、告げた。
「僕を。……あなたには、僕を殺してほしい」
言った! 言ってやった!
これで僕は……
「ふむ。して、報酬は?」
「え?」
「報酬。金じゃよ、金」
再度味わう絶望。一銭たりとも持っていない僕には、あまりにも理不尽な問いかけだった。
「金は、無い。持ってない」
「なら、依頼は受けられんの。いいか? 世の中は金じゃ。求めるものを得たいのなら金を積め。金が無いのなら諦めろ。ここはそういう世界じゃ」
結局、そうなのか。僕はまた、金という理不尽な壁に阻まれて、望みを絶たれるのか。
「金が無けりゃ、生きることもできない……楽に死ぬこともできない! 稼ごうにも、誰も雇っちゃくれないし、もう、苦しむのはたくさんだ……」
吠えながらも、涙を流すことだけは堪えた。一銭にもならないことは知っていたから、せめてもの意地として。
「あー……ぬしさえ良ければの話じゃが」
しかし、死神の話は終わっていなかった。
「何? 殺してくれるの?」
「殺しはせん。殺しはせんが……
儂の元で働かんか?」
それは確かに、死神が差し伸べた、救いの手だった。
02
死神の元での仕事は、大層楽なものだった。そもそも、基本的に仕事が無いのである。唯一仕事と呼べるのは死神の家の掃除くらいだが、元から汚れが見当たらないほどに綺麗な家だったためにやることがないのである。他にも、軽くナイフによる殺人技術を教えられたが、それも仕事というよりは死神の暇潰しという感じが強かった。
対して俸給は、仕事の内容とは釣り合わないほどに良いものであった。基本給こそ無いものの、生活に困らない程度の衣類と、一人部屋。加えて一日三食の食事は毎回とんでもなく豪勢なのだ。曰く、豊かな食は豊かな人間を育む。らしい。
そうして、過去に一度として経験したことのないような生活を続けて十日、僕が死神に殺して欲しいとせがむ回数が半分に減った頃、その男は来た。
「仕事の依頼が来たぞ」
顔に斜めに裂けた傷痕のある、大柄の男だった。なんの前触れもなく堂々と正面玄関から入り込み、死神がソファで寛ぐリビングの扉を開くと共に先の台詞を言い放ったのである。
「おい、このガキは誰だ」
続けて、隅の方で立ち尽くしていた僕を視界に入れ、怒気を隠そうともせずに死神に問うた。返答次第では殺すぞ、と言外に言っているような迫力があり、本能的な恐怖心が煽られる。
「儂が雇ったんじゃ。そう威圧するでないわ。……して、依頼の内容を聞こうかのう」
死神の言葉に男は身体の力を抜いた。それでも僕への視線は冷たいままであったが。
「八日後に行われるとある式典で要人を殺して欲しいらしい。的はS級で報酬は前三後七の十だ。ちなみに天引き分で前三はお前の元には渡らねえがな」
「ふむ、委細承知じゃ。適当に殺してくるわい。……喜べ新人。初仕事じゃ」
初仕事って、今までのはなんだったのだろうか。いやまあ確かに仕事未満のことだとは思っていたが。
「あ? そのガキも連れて行くのかよ」
「当然じゃろ。雇ったからには使わなんだ」
いえ、なんか怖いんで嫌です——などとは口が裂けても言えない身分である僕は、成り行きに身を任せるしかない。
「そうか。しくじるなよ」
しかし、残念ながら男はその決定を覆させるようなことはしなかった。ガキなんて足手纏いだろうくらい言って欲しいものなのだが。
「儂を誰だと思っておる。死神じゃぞ」
ソファに踏ん反り返りながら、傲慢とも取れる台詞を返す死神は、そもそも僕を連れて行くかどうかなどは論点だとも思っていないらしい。
「知ってるよ。だから来てるんだ。十二代目死神様よ」
殺人の共謀者となる未来の僕を憂いていた最中、気になる単語が男から紡がれた。
十二代目死神。
——確か死神本人も名乗りをあげる時、『死神の二つ名を継ぎし者』と言っていた。それはつまり、そういうことなのだろうか。
「新人、今日から本格的に殺人の技術を磨いてもらう。……期待しとるからの」
それは果たして、短期的な意味での、この仕事に対してのものなのか。それとも、長期的な意味での、死神の後継者としてなのか。僕には分からなかった。
03
騙しもしたし、盗みもした。それでも、殺しだけはしたことがなかった。
そのことに、特に理由は無い。無いと思う。殺人に忌避感があったわけでもなく、ただ単にその選択肢を選ぶ機会がなかっただけのようにも思える。
それとも、そうするだけの技術が無かったからだろうか。
今になっては理由も判然としないが、とにかく、僕はどれだけ窮しても殺人だけは行ったことがなかったのである。
それ故に、と言えるのかもしれない。この状況はある種の必然だったのだと思う。
「うおぇっ、うっ、おぉ、おぇ、ケホッケホッ」
吐瀉物が水洗便器へと落ちて行く。それは紛れもなく僕の体内から吐き出されたものであり、僕の嫌悪の象徴であった。
便器の縁を掴み、半身の体重を支える腕は震え、地についた膝も笑っていた。自分の身体に怪我が無いのは分かっていたが、それでも、動けるようになるまで時間はかかりそうだ。
そこで不意に、背中を誰かにさすられた。
「最初は誰だってそうじゃ。……少なくとも、儂もそうじゃったよ」
振り返ろうとした頭を、皮膚の硬くなった手で制される。顔は見せなくても良いということなのだろう。
その態度に甘えて、僕は少しだけ涙を零した。
「殺す者にも、殺されるものにも、勿論殺さない者にも、殺されない者にも、等しく感情はある。ヌシのそれは、人である証じゃよ」
頭をゆったりと撫でられながら、静かな声を聞く。慰められているということはすぐに理解した。
ああ、情けない!
自分が、——死神に慰められている自分が、酷く情けなく感じた。
「あなたも、ですか?」
だからこそ、その恥を払拭するように少しばかり気を張って問うてみた。残念ながら声は震えていたが。
「儂か。儂は……そうじゃな。昔は、そうじゃったよ。ただ、今はどうじゃろうか。そんな感情もあるような気もするが、たった一つの望み以外、擦り切れてしまった気もするのう」
応えると同時に頭を撫でていた手が止まった。
少しばかりの寂寥感を覚えながらも、僕は死神の言った『たった一つの望み』という言葉が気になっていた。
死神は金を持っている。恐らく殺し屋稼業で稼いだ金を、たんまりと。だが、それでも叶わない望みなのだろうか。世の中は金だと言い切った死神が、叶えられない望みとはなんなのだろうか。
あれやこれやと考えたが、当然ながら分からない。僕は僕であって、死神ではないのだから。
しかし、死神本人に聞くこともまた、僕はしなかった。
ちらと振り返った時に見えた、虚空を眺める死神の目が、冷め切った諦念を物語っていたから。
「泣くのは終いか? 震えも止まったか。なら、帰るぞ」
僕の視線に気付いた死神は、何事もなかったかのように外へと出て行った。
便器の水を流して後を追うが、水と共に流れなかった何かが、心にしこりとして残っていた。
04
「ヌシよ、仕事は順調か?」
僕宛の簡単な仕事をこなして死神の家へと帰ると、唐突にそんなことを聞かれた。
「まあ、はい。技術は拙くとも、それなりには」
そう、僕は今や個人として依頼をこなす殺し屋になっていた。昔の僕に、未来のお前は三桁もの人間を殺しているぞと言えばひっくり返ったことだろう。
「いや、ヌシの技術はもう儂と変わらん程じゃよ。……逆か。儂ももう老いた。儂の技術は、今やそんなに大層なものではない」
確かに出会った頃の若かりし死神の姿はなくなっており、今でもその美貌は衰えていないながらも、華奢であった体躯は更に細り、筋力の衰えは目に見えるほどだった。
「そんなことは無いですよ。誰がなんと言おうと、あなたは死神なんですから」
笑顔でそう言うと、死神にも笑顔を返された。殺し屋には似合わないほどに弛緩した空気が漂う。
僕は決して彼女に殺して貰うのを諦めたわけではない。ないのだが、彼女が提示した額は、この殺し屋という稼業に身を染めていても到底一生の間に稼げるような額では無かったのである。
言外に、「ヌシを殺す気はない」と言われているようで、困ったものだが、それでも僕は諦めることができなかった。あの日見た死神に殺されることを。
結果として何百人もの人を殺めることに繋がったが、それを悪いとは思っていない。結局僕は、善人では無いのだから。
「ヌシよ、物は相談なのじゃが……儂の仕事を代わりにやってくれんか?」
故に、その引退するとも取れる台詞が僕には許せなかった。
「嫌です。あなたには、生涯現役でいて貰わないと困るんですよ」
言葉に怒気が混ざるが、気にしてはいられない。一大事なのだ。
「生涯現役は貫くつもりじゃ。じゃが、どうしてもヌシに任せたい仕事があるんじゃ……頼まれてくれんか?」
「……生涯現役を貫くと誓うのなら、いいですよ」
「誓おう」
即答された。
「……依頼の内容は?」
「二日後、老人を一人殺してほしいそうじゃ。老人本人の依頼らしく、抵抗は無いらしい」
「わかりました。引き受けましょう」
この選択を後悔することを、僕はまだ知らなかった。
05
「ほら、報酬……と、手紙だ」
「手紙?」
老人殺害の仕事を終えた僕の元へ、仲介人である件の男が来た。
手紙を携えて、である。
「じゃあな」
そして、渡すや否やすぐに帰ってしまった。
不思議に思いつつ、手紙を開く。
『君が十三代目の死神だ。今までありがとう』
内容はこれだけだった。
ただ、その署名に、僕は愕然とした。
『アリーシャ・リ・グリット・レイシスドローより、愛を込めて』
そこで僕は初めて、これが先代死神の遠回しな自殺であったことを知ったのだった。
??
歴史は廻る。
自らの過去を想いながら、十七の死体に囲まれた死神は、少女に告げる。
「僕の元で働かないかい?」
死神が追い求めたのは、死神達が追い求めたのは、ただ一つ。苦しまずに死ぬ方法だった。