大罪の絶氷
遥か続く地平線、空は薄暗く夜の闇に沈み、歪な植物、通常ではまずお目にかかれないであろう妖魔悪鬼が跋扈する。
そんな中、遥か続く雪原野を一人、何も言葉を発することなく黙々と進む者がいた。
体躯は頑丈ではあるが偉丈夫という程ではなく、普通の人間くらいはある。
「ようやく…」
背に背負った戦太刀が鞘と揺れてがちがちと鳴り一人孤独な旅の終着点の終わりが見えてきたことを意味する。
吹雪の止んだ雪原に、いつしか彼の耳に聞こえてくる音が複数。音を薄く聞き付けて彼は駆けると目の前で繰り広げられる出来事に目を見開いた。
それは心身ともに冷たく痛く凍てついた彼の心に、高揚とも言える熱を差した。
自分はここまでいろんな苦難を越え、どうにかしてここまでたどり着いた。一面の銀世界を駆け、体を切る風の音高らかに、音のする方へと向かって跳躍――――寒気を軽く帯ながらもその正体を見る。
聞こえてきた音は、どうやら数人の人影が起こした騒ぎらしい。雪原の中、陣形を組むようにして立ち尽くす三つの人影、それを囲むようにして各個で威嚇する狼の群れ。
狼の群れの中には、一人だけ小柄な人影が見える。ボロボロの布を纏い、各所を毛皮で寒さをしのいでいるのだろうか。
一見、小柄に見える少女は蠱惑的な美を無表情のうちに醸しているが、彼女は人間ではない。尾ていにはえる灰色の尾っぽに、身体を覆う適度な量の体毛、鋭い犬歯、牙。耳の付け根から同じくアイスブルーの手入れのされていないボサボサ頭の頂点にはぴんと狼の耳が立っている。
さらに言えば体型も若干肉付きの控え目な狩猟に適した・フォルムをしている。
彼は華麗に着地を決めると頭のなかで情報を反芻しながら急ぎ駆けて行く。
あれは恐らく魔界の凍土に生息する、大罪の氷狼フェンリルの子孫、末裔を名乗る魔物の一族―――グラートウルフだ。
着ている旅装束の裾を向かい風にはためかせ、額につけた鉢巻きは覚悟と共に闘志を滾らせる。
7
冷たい風がいつしか徐々に強く吹き始め、まるでこれから始まるであろう戦いの予兆とも言うべき不気味さを、剣呑な雰囲気を周囲にさらす。
黒髪を短く、彼は決意の宿った焦げ茶色の双眸をあと少しの位置で対峙している一行に向ける。
「こんなはしっこの魔界にわざわざ狩りに来るのか…!」
背に背負った通常の太刀よりも一回り大きな、無骨な刀身が銀色の闇に鈍い光を受けてぎらめいた。
一振りすると大きく音をたてて切り返す刃が空を切る。
彼がその一触即発の両陣営の下へとたどり着くにはいささか距離が遠すぎたようで、相対している人間側の詳細が見てとれる頃には、三人のパーティーが役割分担して攻撃を開始、グラートウルフも応戦を開始しているみたいだった。
広大な雪原での小規模戦闘。どちらかが敗走すればやがて片方は必滅の道を歩むことになるだろう。
「ああ、不毛な争いなんてしやがって…!」
彼は人間だ。だが、その心にあるのは魔に対する敵意でもなく人嫌いでもない。
ゆえに一歩身を引いた観点からその愚行を止めるべく、奔走する。
旅装束の上から纏った軽装鎧が彼自信の行動の放熱とは裏腹に、寒気を帯びてより冷たくなる。
――――ここは魔界。世界には天界、人界、魔界の三つの世界に別れており、天上の時を光のもとに過ごす天界、天の下に築かれた大いなる大地で人の暮らす人界、それよりも深く隔離され、安穏な闇の世界で魔性の者達が集う魔界の三つに世界は別れている。
そして、彼が今争いを止めんとひた走っているのはその魔界でもさらに辺境で、深い深い凍土絶氷に閉ざされた地。
魔界に住まう魔性の者達は総じてそこを、大罪の凍土と呼ぶ。
一方、青年が急ぎ駆けているとき、等の本人達はそれに気づくことなく本来語られる魔物と人間の縮図通りに両者対峙していた。
「…何か用」
グラートウルフの少女が群れの狼の前に出て、三人の人間の冒険者らしきパーティーに淡白、かつこの凍土のように無表情に問いかける。
少女の青い美しい宝石のような瞳で、敵意を押し止めて睨む。
それにともない率いていた他の狼の群れも彼女の意思と同調し、静かに唸り、そろそろと周囲を警戒する。
このような辺境をわざわざ人間の冒険者が訪れるなど、普通ではあり得ない。
この大罪の絶氷は寒く、厳しい気候ゆえに土地も貧しい。広さこそあれどそれが生きるものがない。
特に名所もないためか、訪れる観光者など皆無で、この地には罪人や凶悪な類いの魔物、変わり者が多い。
全てが掃き溜め、吹き溜まりで、それでいて無駄のない洗練された銀世界。
そうこの人間達を前にして思考に更けると、人間のうちの一人が彼女の敵意に対して応じる。
だが、それは言葉ではなく刃での一撃として彼女に返ってきたが。
「…くっ!」
氷狼の少女は刹那繰り出される攻撃に間一髪で回避し、慌てて後ずさり距離をとる。
「いきなり何を!?」
「俺達には必要なんだ…魔物の心臓が!」
「何を…殺される言われなんてない」
魔物の心臓―――絶大な生命力を誇り、喰らった者には如何なる者の病をも治すという秘宝であり、特殊な一部の魔物が持つ臓器。
過酷で、厳格な環境を生き抜いた種族にもたらされる唯一無二の秘宝。
彼女は狙われているのが自分達だと解ると、そのパーティーの三人から異常なまでの執着、残忍な視線を感じた。
背に冷たいものが走り、途端、背筋を這う死神の吐息が首筋にかかったようなおぞましい感覚。
三人の目的を悟るが否、周囲の狼達が守るように立ちはだかり、少女の護衛形態へと移行する。
パーティーは三人のうち男が一人、女が二人、明らかな前衛は男のみで、後はそれぞれが弓、魔法を得意としていることが解る。
「確かに、貴女のような理性のある、魔物を襲うことはしたくない。でも、こちらにも事情がある」
男の後ろで弓を取り、矢を番える女が少女に狙いを定めながら語調を弱めることなく一射、また一射と集中して弓を射かけてゆく。
男は前へと進んで後方の脅威たる他の狼の群れに剣を振るってゆく。
一匹、一匹と着実に切り、魔法で命を奪われ死んでゆく同胞達の姿に少女は顔を悲しみに、怒りに歪めてとうとう前へと反撃に向かう。
「やめて…どうしてそんな惨いことができる…!!」
嘆き、死の恐怖に戦きつつ戦う少女に与する群れの数はどんどん減っていき、この三人がいかに実力があるかを物語っている。
「はあっ!」
「くっ…」
予想以上に重い斬撃に少女は剣圧でそのままじりじりと押され、後方の二人が援護にと弓と魔法を投射してくる。
それが意味することは群れの数はすでに両手で数えられるくらいに減少し、後方が直接援護をしてくるくらいの余裕が生まれたということだ。
いくら人間と魔物のからだの丈夫さが違うと言えど、人間はその弱さを克服して知恵をもって進化を遂げた生き物。こうなる可能性自体は高かった。
「ごめんなさい、母さま。母さまが身体を直すまでの間、私は群れを…自分の命すら、仲間の命をも無駄に…」
少女は凍てつく凍土の中、自らのふがいなさに士気、精神疲労が重なり、俊敏さが取り柄の動きが死に体になる。
そこに矢じりが彼女の身体を掠り、魔法が周囲の回避地点を火球で焼く。
ここは辺り一面何もない、銀色の雪原。当然身を隠す遮蔽物もなければ攻撃を避ける手段も限られる。
被弾に驚愕、他の狼達のフォローの手が噛み合わずに少女は当然のように正面から…襲い来る男に斬りつけられ、腹を蹴り飛ばされる。
「ぐ……っ」
「これで…リネーシャも…」
勝ちを確信したのか、男や後衛女子二人は気を緩めた。
正に亡者が金を求める形相で、痛み、傷、体力の消耗で起き上がれずに倒れたままのグラートウルフの少女へとふらふらとした足取りで歩んでいく。
「う…く…」
―――声がでない。叫ぼうにも叫べない。
少女は自信の脇から横腹にかけて引かれた剣傷から、徐々に血がにじみ、体温が抜けていっていることに改めて命の危機を実感する。
自分と、仲間の血肉を抉り引き裂いた刃がまっすぐ自分をとらえ、離さない。
ああ、きっと自分はこのまま肌を裂かれ、臓物を分けられて無様な死に様を晒し、屍を弄ばれるのだ――。
振られる刃を予期し、せめて死ぬときは、母さまの娘として、堂々と死のう。
少女は自分にかすかな希望もないことを悟り、こんなことなら、最初から自分だけ残り、群れを母様の下へと帰還させておけばよかった。
群れの狼よりも強靭な生命力を持つ擬人種へと生まれた自分は、確かにこのような残酷な環境で病気一つすることもない。
今までもそうだった。ゆえに自分の心臓は、この冒険者たちの言う”魔物の心臓”なる良薬なのだと。
「一つ、聞きたい」
「…言ってみろ」
男がじれったい様子で、しかし、一方的に襲いかかった自分の非こそ多少認めている部分があるのか、些事なら聞いてやろうと思っていた。
無論、この時に後衛の二人も水を差すような真似はしない。
矢を弓から外し、杖を下ろす。周りの狼たちもじっと黙って少女の言を待っている。
「私一人が犠牲になればいいのなら、他の仲間は逃がしてほしい」
「…いいだろう」
後方の仲間二人に男は目くばせすると、二人は黙って狼たちから離れ、男も一端剣を収めて道を譲る。
だが、当の狼たちはどうすればいいかわからず、その場で悲しそうに鳴き、少女の周りへととてとてと歩き出す。
力なく、感覚の薄れていく手で少女は仲間たちを優しく撫でると、今生の別れ、とでもいうように薄らいだ笑顔で見送る。
「お生き。帰還するの、母様の下へ…貴方達がいないと、母様を守る者がいなくなってしまう」
その一言で群れは静かに、とぼとぼと、やがては振り払うように走り去る。
事の顛末を三人は見送ると、目標の身柄を確保するため、作業に取り掛かろうとした。
しかし、よく見ると少女の表情には諦めというよりも、どちらかというと驚愕の一文字が刻まれているではないか。
男はなぜ、この期に及んでそんな表情をしているのかが非常に気になった。それに、視線も自分や、後衛に合わせたものではなく、明らかに違う場所を、ものを見る視線ではないか。
「とにかく、確保―――」
そう言い、力なく横たわる人狼に手を伸ばすと、今度は少女がつぶやく。
「そ、そんな―――どうして」
「何を言って…いる?」
―――音が、聞こえる。
今まで聞こえなかった、自分たちが目標を発見して一目散に駆けてきた方角からだ。
この狼は正反対の方角から来た。なのに、確実に凍土を蹴って走りこんでくる音がこちらにまで響いてくる。
その瞬間、男は急にこのやり取りに来訪者が、いわば邪魔者が来訪したのだと感づき、振り返りざまに腰から鉄剣を引き抜くと、慌てて振り向く。
そういえばそうだ。いくら目標と自分から距離を置いているといい、後衛の二人が駆けつけてこないのはおかしい。
「くそ…時間がないってのに、この期に及んで…!」
「きゃ―――」
短い、普段聞きなれた魔術師のサラの悲鳴が男の耳を貫く。
「サラッ!」
悲鳴と同時に振り返った男が見たものとは、サラが突如乱入してきた邪魔者に攻撃を受け、それと―――あの狼たちに地に喰い伏せられているところだった。
弓士であるエレーンもいち早く優れた聴覚で聞きつけ、彼女は難を逃れたようだが、それも当身を喰らってうずくまっている。
「く、き、貴様ぁ…」
「悪く思うな、戦いを止めようとしたけど、一方的に襲い掛かってきた報いだ」
灰色を基調とした旅装束に、黒い軽鎧を纏った戦士が二人を蹂躙している。
エレーンも矢じりでの格闘術を行うが、やはり近接には近接系の武器の方が長がある。
勝てる道理など、奇襲された状況ではないに等しかった。
きっと、結んだ口に、怒りに曲げられた眉、焦げ茶色の視線。右肩にかかったアーマーには鬼の衣装が施されている。
そこいらの冒険者、傭兵の持つ質素な装備ではない。これは…。
「どうして…どうしてこんな掃き溜めなんかに…」
言うが早いか、向こうがこちらに来るが速いか、男は真っ直ぐとこちらに突っ込んでくる乱入者―――青年に対して驚愕する。
反射で剣を薙ぐが、それも容易に止められ、代わりにどてっぱらに蹴りが走るのが見えた。
「魔王軍の輝精兵なんかが」
そのまま男は蹴り飛ばされ、腹部に鋭い痛みを覚える間もなく、
「いるんだあぁあああっ」
凍土の冷たい地面に体はすべり、何秒かしてようやく男の体は止まった。
先ほどの三人とは打って変わって今はそれ以上の力を持つ者の登場で顔は青ざめ、地に伏せられている二人に関してはかたかたといつ食い破られるか狼の牙に、己の体が震えている。
「これにて、一閃。抵抗する気はあるか?」
ずい、と手に持った戦太刀を男の目の前に突き付けると、男は観念したように装備を棄て、地面にそのままへたり込んだ。
とはいえ、直接手傷を負っている者は無く、あくまで無効化を図った戦い方に男はさらに驚愕した。
「あ、貴方は…」
か細い声が太刀を突きつける方向とは違う場所から投げられ、青年は脱力し、絶望している表情の男を一瞥すると、少女に対して屈みこみ、腹部から溢れる血を必死に手で覆っている少女を発見する。
「これは酷い…」
体力が尽きかけているらしく、少女は問いかけたまま、ぐったりと首を垂れる。
「あまり魔法は得意じゃないけど…軽い治癒くらいなら」
深くもなく、浅くもない傷を確かめ、青年は精神を統一すると、そのまま何かをつぶやき、手をかざす―――傷口をなぞるように翳されたそれは徐々に、淡い光とともに傷を覆ってゆき、なんとか血液の流出だけは防ぐ。
「…あり、がとう…」
それだけ言って、自身の傷がふさがったのを少女は確認すると意識を失い、その場で駆けつけてきた狼の数匹が支えた。
「もういい…好きにしてくれ…すまない、すまない…」
少女の治癒を終えると、今度は男が呻き、落涙しながら凍土に突っ伏しているのが見えた。
よほど執念が、執着せざるを得ない理由―――この狼たちが敵の眼を欺いてようやくだした救援。それらから話を聞き、事情を察した青年は、この三人も悪意ではなく、その手段に縋るしかなかったことを理解していた。
魔物の心臓、いわゆる喰らった者に生命力を、どんな難病も快治するという希少すぎるもの。
しかし、それはあくまで言い伝えに過ぎず、今まで何人もの貴族や、権力を持った独裁者などが欲望のままに狩り、それを食したが、いずれもすべて晩年には死に絶え、確実な効力などないことを青年は知っている。
このような辺境では、それすらもまだ縋る者がいるこの現実に苦い顔をすることしかできない。
「本当に、そんなものが存在するなら―――とは思わなかったのか」
最早交わすのは刃ではなく、理と理性と言葉。
三人は既に解放されており、狼たちは既にその場から離脱し、少女を安全な場所まで運ぶために去って行った。
「…解ってはいた、そんなものが存在するなら、誰もかもが死ぬことなどなく、こうして俺たちみたいに縋る者なんていないだろ、って…でも、あきらめきれなかった…」
「ディーン…」
サラ、エレーンがすっかり別人のように落胆し、一人成し遂げられない悔しさに苛まれる剣士を慰めては、うつむく。
かたかたと震える握り拳は自分への憤りの証拠なのだろう。男泣き、ディーンと呼ばれる男はその場でようやく立ち上がると、自分たちがもと来た道を戻っていく。
「解ってはいたんだ。でも…それでも…」
ディーンは最後にそういった言葉を残すと、二人に支えられながら道を戻っていく。
未練を断ち切れない、自分たちの周りの境遇に嘆き帰路に着く後ろ姿はどうにも直視できない部分があり、青年は目を逸らす。
「本当、どうしてこの世界はこんなに理不尽なんだろうな…」
懐からごそごそと太刀をしまった後に何かを取り出す青年。小型の薄い四角形のそれは、彼がかつて通信媒体、便利な周辺機器として使用していたものだ。
今は既にエネルギーとなるバッテリー残量が切れてしまっているためか、つかえないが。
「俺の居た場所は、本当に恵まれていたんだな…」
青年はそれをしまうと、狼たちが進んでいった方角へと一人歩きだし、この小規模な戦闘は終了した。