「釣った魚には餌を与えない」とおっしゃいましたね。逃がした魚は大きくってよ。
「あなた、独立なさったら?」
唐突にそう言われて、クラリッサ・ハーグレイヴ伯爵夫人は目を瞬いた。
「……独立、ですか?」
「ええ」
向かいに座るマリアンヌ・レイフォード侯爵夫人は、さも当然のことのように頷いた。
午後の陽光が大きな窓から差し込み、卓上に並べられた小瓶をきらきらと照らしている。
クラリッサが経営する《リュミエール商会》の新作――春向けの香油だった。
今日は長年の顧客でもあり、友人でもあるマリアンヌに試作品を見てもらうため、侯爵邸を訪れていた。
「でも、私はもう商売をしていますけれど」
「そういう意味ではないわ」
マリアンヌは苦笑して、香油の蓋を閉めた。
「ご主人のお名前から独立なさったら、と言ったのよ」
「アルフォンスから?」
「あなたなら、もうハーグレイヴ伯爵家の威光なんて借りなくても、十分やっていけるでしょう?」
ますます意味が分からず、クラリッサは首を傾げた。
「そんなことはありませんわ」
「そう?」
「ええ。私がここまで商売を続けてこられたのも、夫のおかげですもの」
それは謙遜ではなかった。
クラリッサは十八歳の頃から、小さな石鹸や香油を作って知人へ売っていた。
本格的に商売を始めたのは、アルフォンス・ハーグレイヴ伯爵と結婚してからだ。
二十歳で結婚し、今年でちょうど十年になる。
最初に王都の商人が話を聞いてくれたのも、彼女が伯爵夫人だったからだろう。
銀行から資金を借りられたことにも、夫の名は少なからず影響している。
もちろん、それから十年間、何もしてこなかったわけではない。
商品を改良し、職人を増やし、取引先を開拓した。
今ではリュミエールの商品を扱う店は、王都だけでも十数軒に及ぶ。
それでも――。
もし自分の名前から「ハーグレイヴ伯爵夫人」という肩書を取り除いたなら。
今と同じように、皆が商品を手に取ってくれるのだろうか。
そんなこと、一度だって考えたことはなかった。
「それに」
クラリッサは笑った。
「夫の名を捨てる理由もありませんし」
「……そうね」
なぜか、マリアンヌの表情が曇った。
「マリアンヌ?」
「いいえ。何でも――」
クラリッサがもう一度問いかけようとした時、侍女が来客を告げた。
「奥様。ヴァレリアン公爵がお見えです」
「あら、もう?」
マリアンヌが立ち上がる。
「ヴァレリアン公爵? では、そろそろお暇いたしますわ」
クラリッサが立ちあがろうとした時、マリアンヌは彼女を引き留めた。
「ごめんなさい。少しだけ同席してもらっていい? 彼、領地のことで主人と話があるそうなのだけれど、主人の帰宅が遅れているの」
「もちろんですわ」
ほどなくして応接室へ入ってきた男を見て、クラリッサは自然と背筋を伸ばした。
エドガー・ヴァレリアン公爵。
三十代半ばながら、王国西部に広大な領地を持つ有力貴族である。
夜色の髪に、落ち着いた灰色の瞳。
社交界では寡黙な人物として知られていた。
クラリッサとはほぼ面識がない。
「お待たせして申し訳ありません、公爵様」
マリアンヌは優雅に頭を下げた。
「こちらこそ急に伺って失礼した」
エドガーがそう言って、クラリッサを見る。
マリアンヌはニコリと笑って紹介した。
「こちらはクラリッサ・ハーグレイヴ伯爵夫人。私の友人よ。それから――」
「リュミエール商会の方ですね」
思いがけない言葉に、クラリッサは目を瞬いた。
「ご存じなのですか?」
「領地で御商会の石鹸を扱っています」
「まあ」
エドガーの視線が卓上の商品に向く。
「こちらも新商品ですか?」
「ええ。春向けに香りを軽くした香油です」
「大量注文にも対応できますか?」
「数量次第です」
クラリッサは即答した。
「ただ、品質を下げてまで数を揃えるつもりはありません。その場合は納期をご相談させていただきます」
一瞬、沈黙があった。
失礼だっただろうか。
けれど、できない約束をする方がよほど失礼だ。
そう思っていると、エドガーはわずかに口元を緩めた。
「分かりました」
それだけだった。
やがて侯爵が帰宅し、エドガーは別室へ移った。
扉が閉まる。
マリアンヌはしばらくその扉を見つめていたが、やがてクラリッサへ向き直った。
「……やっぱり、言っておくわ」
「何をです?」
「言っていいのか、分からなかったのだけれど」
先ほどとは違う、真剣な声音だった。
「あなたには、知っておいてほしいと思うの」
嫌な予感がした。
「昨日ね。うちの主人がアルフォンス様と一緒に飲んでいたの」
「夫と?」
「ええ。それで……主人があなたの話をしたそうよ」
「私の?」
マリアンヌは一度だけ躊躇した。
「来月、私たちの結婚記念日でしょう? 主人が花を贈ると言ったらしいの」
「素敵ですわね」
「そうしたら、アルフォンス様が笑って――」
マリアンヌの眉が寄る。
「『結婚して十年だぞ。釣った魚に、いつまでも餌を与える必要もないだろう』って」
クラリッサは、何も言えなかった。
部屋の中が妙に静かになった。
「……まあ」
やっと、それだけが口から出た。
「きっと男性同士の冗談ですわ」
「クラリッサ」
「夫は昔から、そういう……言い方をすることがありますから」
「そうならいいのだけれど」
マリアンヌは、それ以上否定しなかった。
ただ、クラリッサの手に自分の手を重ねる。
「私はずっとあなたを見てきたわ」
「……」
「商売を始めた頃も。夜会の翌朝に工房へ走っていた頃も。アルフォンス様が地方へ出れば屋敷のことを全部引き受けて、それでも店の仕事を休まなかったことも」
「それくらい、妻なら――」
「ほら」
マリアンヌが悲しそうに笑った。
「あなたまで、そう言うでしょう?」
クラリッサは黙った。
「余計なことだとは思っているわ。夫婦のことは夫婦にしか分からないもの」
マリアンヌは言った。
「でも、少し、考えて欲しいの。あなたは思った以上に自分を安く見積もり過ぎているわ」
そして最後に、
「何を選んでも、私はあなたの味方よ」
と付け加えた。
◇
帰りの馬車の中で、クラリッサは何度も同じ言葉を思い返していた。
――釣った魚に、いつまでも餌を与える必要もない。
冗談だ。
きっとそうだ。
アルフォンスは浮気をしたこともない。
暴力を振るったこともない。
生活費を惜しんだことだってなかった。
伯爵夫人として必要な衣装も宝飾品も、求めれば買ってくれた。
良い夫だと思っていた。
いや。
今でも、良い夫なのだろう。
ただ少し、不器用なだけ。
――本当に?
不意に数年前の誕生日を思い出した。
『今年は何もないのですね』
冗談めかして言ったクラリッサに、アルフォンスは新聞から顔も上げずに答えた。
『もう子供じゃないだろう』
あの時は、自分でも笑った。
確かに三十も近いのに、誕生日に贈り物を欲しがるのも幼いかもしれない、と。
別の年。
『たまには二人で外で食事をしませんか?』
『毎日顔を合わせているのに?』
彼は本当に不思議そうだった。
あの時も、夫婦とはそんなものなのだと思った。
新婚ではない。
いつまでも恋人のようにはいかない。
そう自分に言い聞かせた。
それなのに。
クラリッサは馬車の隅に置かれた小さな包みへ目を落とした。
夫の好きな茶葉だった。
結婚十周年の日に出そうと思い、今日の帰りに受け取ってきたのだ。
彼女は今でも夫の好みを覚えている。
誕生日には贈り物をする。
帰宅が遅ければ食事を温め直させる。
地方へ出るなら天候を調べ、必要なものを揃える。
夫の友人や仕事相手の家族構成まで覚えて、贈答品を選ぶ。
そうすることが妻の役目だと思っていたし、何より自分がしたかった。
では、夫はいつからやめたのだろう。
――違う。
胸の奥が冷えた。
やめたのではない。
ある時点から、する必要がないと思っていたのではないか。
釣った魚だから。
もう逃げないから。
馬車の車輪が石畳を踏む音だけが、長く続いた。
◇
その夜、アルフォンスはいつも通り帰宅した。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
上着を使用人に預け、そのまま食堂へ向かおうとする。
「あなた」
「ん?」
「少し、お話があります」
アルフォンスが足を止めた。
クラリッサは一瞬だけ迷った。
まだ期待していた。
笑って否定してくれることを。
「あの……昨日、レイフォード侯爵様とお酒を飲まれたそうですね」
「ああ」
「そこで私のことを――釣った魚には餌を与えない、とおっしゃったとか」
アルフォンスは一瞬きょとんとして、
「ああ、そんなことか」
と笑った。
胸が沈む。
「冗談ですよね?」
「冗談というほど大した話でもないだろう」
「……どういう意味です?」
「だから」
アルフォンスは、なぜ説明が必要なのか分からないという顔をした。
「結婚して十年なんだぞ。いつまでも新婚みたいに花だの贈り物だの、そんなことをする必要はないだろう」
「必要が……ない?」
「俺は浮気もしていない。生活に不自由もさせていない。君を伯爵夫人として尊重している」
そして少し笑う。
「何が不満なんだ?」
クラリッサの中で、何かが静かに切れた。
「私は……あなたのお誕生日を毎年祝っています」
「それが?」
「好きな茶葉も切らしたことはありません。地方へ行かれる時は必要なものを揃えて、仕事のお客様への贈り物も――」
「クラリッサ」
アルフォンスが呆れたように息を吐く。
「妻なら、それくらい普通だろう?」
目の前の人が、少し遠くに見えた。
「……そうですか」
「何なんだ、今日は」
「私がしてきたことは、妻なら当然で」
「ああ」
「あなたが私に何もしないことも、妻になったのだから当然なのですね」
「そんな言い方をするな」
「では、どういう言い方ならよろしいのでしょう」
声が震えた。
アルフォンスも少し苛立ったらしい。
「大体、君だって俺との結婚で随分得をしただろう」
「……何の話です?」
「店だよ」
クラリッサの心臓が跳ねた。
「君に商才がないとは言わない。だが、リュミエールがここまで大きくなったのは、ハーグレイヴ伯爵夫人の店だったからだ」
「……」
「最初の頃、誰が君を商人として信用した? 俺の妻だからだろう」
何も返せなかった。
痛いところだった。
自分でも、ずっとそう思っていたから。
「俺の名前がなくても同じように商売できると思っているなら、少し世間を甘く見すぎだ」
アルフォンスは悪意なく言った。
だからこそ、余計に傷ついた。
目の奥が熱くなる。
泣きたくなかった。
少なくとも、この人の前では。
クラリッサは一度だけ深く息を吸った。
十年前。
二十歳の自分は、この人と一生を過ごすのだと思っていた。
子供には恵まれなかった。
けれど店があった。
友人がいた。
夫がいた。
充分幸せなのだと思っていた。
では、これからさらに十年。
二十年。
この人と同じように暮らしたいか。
答えは、もう出ていた。
クラリッサは背筋を伸ばした。
「アルフォンス」
「何だ」
「別れましょう」
夫の顔から、初めて余裕が消えた。
「……何?」
「離婚してください」
「待て。何を言っている」
「今、お話ししたことです」
「そんなことで離婚するのか?」
胸が痛んだ。
けれど、それで迷いは消えた。
「あなたには、そんなことなのですね」
「クラリッサ!」
「なら、なおさらです」
クラリッサは立ち上がった。
アルフォンスが何か言おうとしたが、その前に静かに口を開く。
「釣った魚には餌を与えないとおっしゃいましたね」
アルフォンスが眉を寄せた。
「でしたら――」
クラリッサは、十年間夫だった男へ静かに一礼した。
「その魚は、逃げることにいたします」
顔を上げる。
「今まで、お世話になりました」
そのまま踵を返す。
「クラリッサ!」
背後から声がした。
けれど、振り返らなかった。
廊下へ出る。
扉が閉じた瞬間、堪えていた涙が一粒だけ頬を伝った。
それを手の甲で拭う。
そしてクラリッサは、自分の足で歩き出した。
◇
離婚は、思ったよりも早く成立した。
二人の間に子供はおらず、クラリッサ自身にも収入があった。
財産について多少の話し合いはあったものの、大きく揉めることはなかった。
むしろアルフォンスは最後まで、
『どうせしばらくすれば頭を冷やす』
と思っているようだった。
クラリッサは王都に小さな屋敷を借り、リュミエール商会の看板からハーグレイヴ家を示す紋章を外した。
その日。
新しい看板を見上げながら、少しだけ怖くなった。
これで本当に、自分一人だ。
けれど。
「大丈夫」
自分に言い聞かせた。
「十年やってきたのだから」
――そう思っていた。
三日後。
「契約を……保留ですか?」
「申し訳ございません」
商人は気まずそうに頭を下げた。
「事情が落ち着くまで、少し様子を見たいと」
「そうですか」
その翌日にも一件。
さらに翌日にも。
『今後、リュミエール商会の事業について、ハーグレイヴ伯爵家は一切関与も保証もしない』
アルフォンスが関係先へそう知らせたらしい。
離婚したのだから、当然と言えば当然だった。
だが、彼は親しい商人たちにもう一言加えていた。
『これまでは伯爵家の後ろ盾があった。今後は彼女個人の商売だ。契約については慎重に判断した方がいい』
嘘ではない。
脅迫でもない。
それでも、十分だった。
新規契約が一つ消えた。
大口顧客が更新を見送った。
売上見込みは目に見えて落ちていく。
店は潰れない。
職人の給金も当面は払える。
しかし、拡張予定だった新しい工房は白紙に戻さざるを得なかった。
夜。
クラリッサは一人で帳簿を見ていた。
夫の言葉が頭を離れない。
『俺の妻だったから、ここまで成長できた』
「……本当に、そうだったのかしら」
口に出すと、自分の声なのにひどく弱く聞こえた。
商品には自信がある。
十年間、手を抜かなかった。
約束した納期は守った。
無理なら先に謝った。
失敗すれば補償した。
それでも。
皆が買っていたのは、クラリッサの商品ではなく。
伯爵夫人の商品だったのだろうか。
ふと、あの日のヴァレリアン公爵の言葉が蘇った。
『大量注文にも対応できますか?』
けれど、あれから何の連絡もない。
きっと、ただの世間話だったのだろう。
翌日。
マリアンヌが店へ来た。
「聞いたわ」
「早いですわね」
「あなた、笑っている場合?」
「笑っていないと泣きそうですもの」
冗談のつもりだった。
しかしマリアンヌは笑わなかった。
代わりに、いつもの香油を二本、卓上に置く。
「これを」
「え?」
「いつもの注文よ。次の季節の商品も予定通りお願いするわ」
「ですが、マリアンヌ」
クラリッサは迷った。
「もう、ハーグレイヴ伯爵家の信用はありません」
マリアンヌが目を丸くした。
「あなた、本気で言っているの?」
「……」
「私は十年間、アルフォンス様から香油を買っていたわけではないわ」
思わず俯いた。
「ありがとう」
「礼なんていいの」
マリアンヌは言った。
「でも、私一人では足りないのでしょう?」
痛いところを突かれた。
「……ええ」
「なら、泣くのは今日まで」
「まだ泣いていません」
「顔が泣いているわ」
その時だった。
店の扉の外が急に騒がしくなった。
従業員が駆け込んでくる。
「クラリッサ様。ヴァレリアン公爵閣下がお見えです」
「……え?」
マリアンヌと顔を見合わせた。
ほどなく、あの日と変わらない落ち着いた様子でエドガー・ヴァレリアン公爵が入ってきた。
「突然失礼します」
「公爵様」
クラリッサは立ち上がった。
「何か商品の不具合でもございましたか?」
「いえ」
エドガーは一通の書類を差し出した。
「契約のお願いに参りました」
「契約?」
目を通す。
途中で、手が止まった。
「……これは」
桁を間違えたのかと思った。
ヴァレリアン公爵領にある宿泊施設、療養院、貴族向け商館で、リュミエールの商品を年間供給する契約。
失った契約分を埋めて、なお余る。
「この数量を……当店から?」
「対応できないでしょうか」
「いえ。工房を一つ増やせば可能です。ただ――」
クラリッサは書類を置いた。
「公爵様。事情をご存じなのでしょうか」
「離婚された件なら」
「はい」
「存じています」
「私はもうハーグレイヴ伯爵夫人ではありません」
「存じています」
「伯爵家も、当店を保証しておりません」
「それも聞いています」
あまりに平然としているので、クラリッサの方が戸惑った。
「でしたら……なぜ?」
エドガーが少し首を傾げた。
「ハーグレイヴ伯爵家と取引したければ、伯爵家へ参ります」
「……」
「私はあなたと契約するために来ました」
クラリッサは何も言えなかった。
エドガーは続ける。
「三年前、香油の瓶に不具合が出たことがありますね」
「え?」
「まだ苦情がほとんど出ていない段階で、御商会は販売済みの商品を自主的に回収した」
「……はい」
「昨年、原料価格が急騰した時も、職人への支払いを減らさなかった」
「どうして、それを」
「調べました」
あっさりと言う。
「納期に遅れそうになれば、先に連絡して代案を出す。商品に問題があれば自分から補償する。無理な注文は断るが、できない約束はしない」
あの日。
侯爵邸で交わした会話を思い出した。
『品質を落としてまで数量を増やすつもりはありません』
「十年間、それを続けてきたそうですね」
「……よく、お調べになったのですね」
「大きな契約を結ぶ相手ですから」
エドガーは当然のように言った。
「調べるのは当然でしょう」
胸の奥が、熱くなった。
「良い商品を売る店なら、ほかにもあります」
「……」
「それでも私はリュミエールを選びました」
灰色の目が、まっすぐクラリッサを見る。
「あなたが信用できると思ったからです」
クラリッサは唇を噛んだ。
泣きそうだった。
でも、これは悲しい涙ではない。
最初の扉を開けてくれたのは、確かにアルフォンスの名前だったのかもしれない。
伯爵夫人だったから会ってくれた人もいただろう。
けれど。
その後。
一本一本の商品を作り。
一つ一つの約束を守り。
失敗すれば謝り。
職人を守り。
顧客へ商品を届けてきたのは――。
「……そうか」
小さく呟いた。
「クラリッサ様?」
彼女は笑った。
「いいえ。ようやく分かったのです」
最初の信用は、夫から借りたものだったのかもしれない。
でも。
十年間続いた信頼は。
自分が積み重ねてきたものだった。
「公爵様」
「はい」
「その契約、お受けいたします」
「ありがとうございます」
「ただし」
エドガーが僅かに笑う。
「何でしょう」
「最初の三か月は、ご希望の数量すべてを納品できません。新しい職人を急いで雇って品質を落とすつもりはございませんので」
数秒の沈黙のあと。
エドガーは声を立てて笑った。
初めて見る笑顔だった。
「ええ。それでこそ、あなたと契約した意味があります」
◇
そこからは早かった。
ヴァレリアン公爵家がリュミエールと直接契約した。
その噂が広まると、保留していた商人たちの態度が変わった。
『やはり契約を再開したい』
『以前と同じ条件でお願いできないだろうか』
クラリッサは微笑んで答えた。
「申し訳ございません。現在は生産計画が変わっておりますので、新しい条件でお願いしております」
以前なら遠慮したかもしれない。
今はしない。
ハーグレイヴ伯爵夫人の店ではない。
クラリッサの店なのだから。
数週間後。
店を訪れたマリアンヌが呆れたように言った。
「だから言ったでしょう?」
「何をです?」
「独立なさったら、って」
クラリッサは笑った。
「あの時は、本当に何をおっしゃっているのか分かりませんでした」
「今は?」
少し考える。
「……今なら、分かります」
マリアンヌも笑った。
◇
アルフォンス・ハーグレイヴ伯爵が、自分が何を失ったのか理解し始めたのは、それより少し後だった。
「いつもの茶葉はないのか?」
朝食の席で尋ねると、執事が困った顔をした。
「申し訳ございません。あちらは奥様が個人的に商人へ注文されていたものでして」
「なら、その商人を呼べ」
「それが……以前は奥様を通じてのお付き合いでしたので」
「直接連絡すればいいだろう」
その時は、それだけだった。
だが数日後。
商談のため、以前何度も屋敷へ来ていた大商会の主人へ面会を申し込むと、返ってきた返事は予想外のものだった。
「……予定が空かない?」
「はい」
執事が言いにくそうに答える。
「先方は、今後その分野のお話でしたらリュミエール商会を通していただきたい、と」
「なぜだ?」
「そもそも、あちらの商会とはクラリッサ様のご紹介から始まったお付き合いでしたので……」
アルフォンスは眉を寄せた。
その日の夜。
レイフォード侯爵と顔を合わせた。
「最近、ずいぶん苦労しているそうだな」
「大したことじゃない」
「そうか?」
侯爵はグラスを傾けた。
「俺はてっきり、お前はクラリッサ殿がハーグレイヴ伯爵夫人だったから人脈を築けたと思っているのかと」
「実際、そういう部分はあっただろう」
「もちろんあっただろうな」
侯爵はあっさり認めた。
「だが逆は考えなかったのか?」
「逆?」
「お前が付き合えていた人間の中にも、クラリッサ殿がいたからお前と付き合っていた者がいたかもしれない、とは」
アルフォンスは答えなかった。
そんなことを考えたことは、一度もなかった。
さらに数日後。
「リュミエールがヴァレリアン公爵家と大口契約を取ったそうですよ」
友人からそう聞いた。
「……公爵家と?」
「ああ。新しい工房も作るらしい」
耳を疑った。
自分の名を失えば、クラリッサは苦労すると思っていた。
苦労すれば、戻ってくるかもしれないと。
なのに。
彼女は自分の名前で、以前より大きな仕事を始めていた。
茶葉。
贈答品。
商人との繋がり。
それまで、そこにあるのが当然だったものが、一つずつ頭に浮かんだ。
自分は妻に何も与えなくても困らないと思っていた。
けれど。
もしかすると――。
◇
「……分からなかったんだ」
数日後。
リュミエール商会を訪れたアルフォンスは、そう切り出した。
クラリッサは静かに彼を見る。
「何がです?」
「君がいなくなってから、妙にいろいろなことがうまくいかなくなった」
「……」
「茶葉一つ買うにも、商人一人に会うにも、今までと同じじゃない」
アルフォンスは苦い顔をした。
「最初は腹が立った。どうして急に全部変わったんだと思った」
クラリッサは何も言わない。
「でも……変わったんじゃなかったんだな」
アルフォンスが視線を落とす。
「今まで君がやっていたから、俺には見えていなかっただけだった」
その言葉を聞いても、クラリッサの胸には以前のような怒りは湧かなかった。
ただ少し、寂しかった。
「店のことも」
アルフォンスは続ける。
「俺の名前がなくなれば、立ち行かなくなると思っていた」
「ええ」
「でも、違った」
自嘲気味に笑う。
「君は……俺が思っていたより、ずっと前から自分の名前で信用されていたんだな」
「……はい」
クラリッサは静かに答えた。
「私も、それに気づくまで時間がかかりました」
アルフォンスはしばらく黙っていた。
「すまなかった」
短い言葉だった。
それから、迷いながら続ける。
「もう一度、やり直すことはできないか」
少しだけ胸が痛んだ。
十年一緒にいた人だ。
何も感じなくなったわけではない。
楽しかった思い出だって、確かにある。
「あなたとの十年すべてを、後悔しているわけではありません」
アルフォンスの顔が僅かに明るくなる。
「なら――」
「でも、戻るつもりはありません」
その顔が止まった。
「……もう遅いのか?」
昔なら、ここで相手を傷つけない言葉を探したかもしれない。
今は必要ない。
「はい」
はっきり答えた。
アルフォンスはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「そうか」
店を出る。
振り返ると、窓の向こうでクラリッサが従業員と話していた。
忙しそうだった。
けれど、楽しそうだった。
十年前。
彼女の商売は、本当に小さかった。
だから自分はずっと勘違いしていたのだ。
自分が彼女を大きくしてやったのだと。
違った。
十年の間に。
彼女は自分の力で、大きくなっていた。
――逃した魚は、あまりにも大きかった。
今さら気づいても、もう遅かったのだ。
◇
三か月後。
「この物件なら、工房と店舗を一つにできます」
エドガーが机の上へ図面を広げた。
リュミエール商会の二号店候補だった。
「ただ、表通りから一本入ります」
「賃料は?」
「こちらです」
「……随分安いですね」
「立地をどう評価するかでしょう」
クラリッサは図面をじっくり見る。
「悪くありません。商品を買いに来てくださる固定客が増えましたから、表通りである必要も以前ほどありませんし」
「私もそう思います」
「では、一度現地を見てから決めます」
「もちろんです」
エドガーは書類をまとめた。
話は、それで終わったはずだった。
だが。
立ち上がりかけたエドガーが、珍しく動きを止めた。
「……クラリッサ殿」
「はい?」
一度、言葉を選ぶような間があった。
「今度、私と食事をしていただけませんか」
クラリッサは瞬いた。
「商談として?」
「いえ」
短い答えだった。
それからエドガーは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「これまでは、お尋ねするべきではないと思っていました」
その一言で十分だった。
離婚したばかりの自分へ、彼が今まで一度も私的な誘いをしなかった理由。
大きな契約を交わしたあとも、仕事以上のものを求めなかった理由。
クラリッサには、もう分かった。
胸の奥が、少しくすぐったくなる。
すぐに答えようとして――やめた。
もう、相手を待たせてはいけないからと急いで答えを出す必要はない。
自分の人生なのだから。
「……少し、考えさせていただいても?」
「もちろんです」
即答だった。
クラリッサは思わず笑った。
「お待たせするかもしれませんよ?」
「構いません」
エドガーも、わずかに笑った。
「あなたご自身で決めてください」
クラリッサは彼を見つめる。
それから、ゆっくりと頷いた。
「では、きちんと考えて、お返事いたします」
「お待ちしています」
窓の向こうでは、新しい店の看板を職人たちが運んでいた。
そこにはもう、誰かの家名を示す紋章はない。
刻まれているのは、自分が十年間育ててきた商会の名前だけだった。
クラリッサは立ち上がる。
「少し見てまいります」
「どうぞ」
扉へ向かいながら、ふと思う。
信頼も、愛情も。
一度手に入れたら、それで終わりではない。
少しずつ積み重ねていくものなのだろう。
そして。
誰とそれを積み重ねていくのかは――自分で選んでいい。
店の外では、春の風が新しい看板を揺らしていた。




