悲劇の毒婦マルハレータの100人の断罪リスト
「……あら?」
霧の向こうで目を覚ましたマルハレータは、最初それが自分のために用意された新しい舞台の演出だとばかり思った。
しかし足元に広がるのはベルベットの絨毯ではなく、ひんやりとしたぬかるみ。辺りには何千本もの枯れた百合のような甘く不気味な匂いが立ち込め、空には縞模様の雲がうねっていた。
つい数分前まで彼女は湿った土の刑場に立ち、十二人の銃口を前にして、生涯で一番美しい微笑みを浮かべていたはずだった。
「撃て!」という怒号。雷鳴のような轟音。そして、額に感じた──熱い鉄の塊が突き抜ける、あの甘美なまでの絶望。
「嘘でしょう。本当に、本当に死んでしまったの? 私が?」
彼女がおそるおそる自分の額に指を伸ばすと、ひんやりとした空洞の縁が触れた。銃弾は彼女の思考と美貌の境界をためらいもなく貫通し、吸い込まれるような跡ができている。
「死んでる、本当に死んでるじゃない! 冗談じゃないわ、私、何もしていないのに。まだ着ていない衣装も、飲んでいないシャンパンも山ほど私を待っているのよ!」
先刻までの伝説を抱いて死んだ毒婦の気品はどこへやら、彼女は霧を切り裂くような絶叫を上げてのたうち回った。
投げキッスはあくまでパフォーマンスのつもりだった。最期の瞬間まで美しく振る舞えば、誰かが、あるいは運命が己を救い出してくれると信じていたのだ。
「誰よ、本気で撃ったのは。信じられない、あの分からず屋たち!」
怒りで地団駄を踏むと、足元の泥濘から目玉が一つだけ飛び出た魚がギョロリと彼女を見上げた。そこで彼女は、足元に鏡のように澄んだ灰色の湖面が広がっていることに気がついた。
マルハレータは絶望に顔を歪めながら、恐る恐るその水面を覗き込む。そこに映っていたのは、処刑という名の暴力に汚された無惨な死体……などではなかった。
「……あら?」
水面に映る彼女は生きていた頃よりもいっそう白く、陶器のように透き通った肌をしていた。そして眉間にぽっかりと開いた不気味なはずのその空洞は、彼女の大きな瞳と見事な対比を描き、見る者を底なしの深淵へ誘うような、退廃的で危険な色香を放っていたのだ。
「あら……。あらあら? 意外と……セクシーじゃない?」
穴の向こう側から覗く景色はまるで万華鏡のように歪み、むしろそのおかげで彼女の美貌は完成された王朝の宝飾品のようにも見える。まさにこの世のものとは思えない神秘的な魅惑に、彼女は蕩けるような微笑を浮かべた。
「……そうよ、私は世界を虜にした踊り子。死んだくらいで取り乱すなんて、美学に反するわ」
マルハレータはすっと背筋を伸ばし、冷静さを取り戻した。
死んだことは腹立たしい。けれどこの新しい美貌を得たのなら、まだ舞台は終わっていない。
この穴を開けさせたのは誰かしら。私を裏切り、この美しい首を処刑台に並べさせた男たちは、今頃どこで安らかな眠りについているのかしら。
「復讐なんて野暮よ。けれど踊り子は、幕が下りる瞬間まで観客を魅了するの……撃ち損ねた紳士たちに、正しい終幕を見せてあげるわ」
彼女は吸い込まれるような百合の香りの霧の中へと歩き出した。やがて枯れ木が指を広げたような不気味な森を抜けると、目の前に一本の橋が現れる。その先には街灯が溶けた蝋燭のように曲がり、窓という窓からは影が覗く、奇妙な街が広がっていた。
「あら、冥界にしてはなかなか趣味が良いのね。こんなに美しく迎えられるなら、もっと早く死んでおけばよかったかしら」
街へ入るなり、マルハレータの美貌は死者たちの視線を釘付けにした。優雅に通りを歩くだけで、彼女はその辺に転がっていた骸骨の楽団に扇情的なリズムを刻ませる。
霧の街の広場で、彼女はただ一度、生前よりもいっそう軽やかに舞ってみせた。指先を空に差し出し、額の穴から覗く月光をシャンデリアに変えて。
「これほど素敵な舞台が整っているのなら、ただのお客さまでいるのは勿体ないわ。誰かこの街でいっとう美しい部屋の鍵を、私に献上してくれる紳士はいないかしら」
彼女が唇を吊り上げて囁けば、富豪の亡霊たちは争うように宝石や金貨、そして豪華な屋敷の鍵を差し出した。死後の世界でも美しさは最高の通貨だったのだ。
トントン拍子に事が運び、彼女が手に入れたのは、街の外れに建つ窓が歪に傾いたゴシック様式の洋館の一室だった。マルハレータは猫の足のような形の脚がついた机に向かい、鴉の羽ペンを走らせる。
「まあ。心当たりがありすぎて指が足りないわ」
書き連ねられた断罪のリスト。それは彼女の華麗なる遍歴の墓標でもあった。
「……まずは私の腰に手を回しながら、軍の配置を子守唄代わりに囁いてくれたお馬鹿さんかしら。別れ際に彼の勲章を全部暖炉に焼べたこと、まだ根に持っているの?」
「それとも女優の彼女が狙っていた若くてハンサムな中尉を、私が一晩で寝取ったから? でもあれは彼の方から跪いたんだもの、私のせいじゃないわ」
羽ペンが紙の上で、しなやかな指先と共演するように躍る。書けば書くほど、心当たりは溢れ出してきた。
「嫌だわ、10人……30人……。ちょっと、100人でも足りないじゃない。私、そんなに誰かに恨まれるようなことしたかしら」
マルハレータは心底不思議そうに首を傾げた。恨まれる心当たりは山ほどあるけれど、彼女にとってはすべて仕方のないことだった。美しい花に蝶が群がるのを、花のせいにされても困るのだ。
「私の罪を数えるには、エジプトのパピルスを一本丸ごと使い切らなきゃならないのかもね」
彼女はため息をつき、鴉の羽ペンを置いた。
犯人を見つけるにはこの街の死者たちに尋ねるより、現世でぬくぬくと眠っているネズミたちの脳髄を直接覗くのが早いはず。彼女は舞踊衣の裾を翻し、街で最も評判の占い師の館へ足を運んだ。
「お望みは復讐か、それとも未練かえ?」
剥製の猫と動かない時計が溢れた天幕で、老婆の占い師は皺くちゃの指で一つの水晶を指し示した。それは夜の海を固めたような、淀んだ紫色の石だった。
「これは眠る者の意識の裏口へ無断で上がり込める代物さ。ただし、あんたのような美貌の亡霊には少々値が張るよ」
提示された金額は、彼女が街で稼いだ宝石をすべて差し出しても足りないほどだった。しかしマルハレータは少しも動じない。彼女は艶然と微笑むと、老婆の耳元に唇を寄せて何事かを囁いた。
「ああ、ああ……。持ってゆきな、お嬢さん。あんたの勝ちだ」
老婆は見たこともないほど恍惚とした表情を浮かべ、マルハレータに水晶を差し出す。手に入れたそれは彼女の手のひらで夢のような輝きを散らしていた。
「ふふ、ありがとう。おやすみなさい、マダム。良い夢を……」
夜の帳が降りる頃、彼女は豪華な天蓋付きベッドに横たわると、水晶を額の風穴にそっと嵌め込んで瞳を閉じる。
「さあ、まずはリストの一番上。あのお喋りが過ぎる大佐の夢にでも忍び込みましょうか」
彼女の意識は風穴を通り抜け、現世の深い眠りの淵へと溶け込んでいった。
大佐の夢は埃っぽい執務室の形をしていた。
そこへマルハレータは額の穴から毒々しい紫の蝶を千匹も溢れさせながら、天井から逆さまに降臨した。異国の香水瓶のような舞踊衣を翻し、怯える大佐の鼻先に指を突き立てる。
「お久しぶり、大佐。貴方の教えた配置のせいで、私の額には今、素敵な風穴が開いているの。……ねえ、私を売ったのは貴方かしら?」
「マ、マルハレータ。許してくれ、私は君を愛していた。君が処刑されたと聞いて、私はショックで一晩中、愛犬のパグを抱いて泣いていたんだ!」
……ハズレ。この臆病な男に、国家を揺るがすような密告ができるはずもない。マルハレータは興醒めして、大佐の夢を粉々に踏みつぶした。
「……シケた夢だわ。次に行きましょう」
次に彼女が潜り込んだのは、生前に意中の中尉を寝取ってやったあの高級娼婦上がりの女優の夢だった。
恨み言の呪文でも浴びせられるかと思いきや、夢の中の女優は豪華なカウチに横たわりながら、マルハレータを見るなり「あら、大変」と眉を下げた。
「まあ、なんてこと。可哀想に。男たちのせいでそうなったんでしょ? あの中尉だって貴女が捕まった途端にあたしのところへ来て、笑いながらワインを飲んでいたのよ。本当に男って、揃いも揃って最低な生き物ね!」
復讐の炎を燃やしていたマルハレータは拍子抜けして毒気が抜けてしまった。気づけば二人は夢の中の豪華なサロンで、並んで煙管をくゆらせていた。
「そうなのよ! 男なんて跪いている時は可愛いけれど、立ち上がったらただの恩知らずな獣だわ」
「本当よ。あいつもちょっと宝石を買わせただけで“してやった”みたいな顔したでしょう? 優しさを利息つきで貸し付ける男ほど安っぽいものはないわ」
二人は夜が明けるまで、共通の元カレの愚痴で盛り上がった。死後の踊り子と現世の女優、奇妙な友情が芽生えた瞬間だった。
「楽しかったわ、マダム。あなたのお話、まるで煙管みたいに癖になりそうよ」
「ええ、また遊びにいらして。次はもっと質の悪い男の情報を用意しておくわ」
マルハレータは女優と優雅にバイバイを交わすと、スッキリとした気分で自分の屋敷へと戻った。
それからの夜は、マルハレータにとって奇妙に騒がしい巡礼となった。
彼女は毎夜、水晶を額の風穴に嵌め込んでは、リストに記した鼠たちの眠りへと滑り込む。反応は千差万別だった。ある大臣は彼女の姿を見るなり「賄賂はすべて返す!」と喚き散らし、ある若き外交官は死してなお美しい彼女を「冥界のミューズだ」と称えて涙を流した。
けれど、誰もが犯人ではなかった。彼らは一様に、彼女の死を自分の保身のために利用はしたが、その額を撃ち抜くための引き金を引くような度胸も、怜悧な知性も持ち合わせていなかったのだ。
「……退屈だわ。現世の男たちは、私がいなくなってからさらに凡庸になったのかしら」
マルハレータは歪んだ屋敷の天蓋付きベッドの上で、リストを指でなぞる。書き連ねた名前はすべて消した。残っているのはたった一つ。リストの最後に、最も深く、最も激しく書き記した名前──。
「おかしいわね。なんで彼だけ夢に入れないの?」
毎夜、彼の眠りの淵へと手を伸ばすのだが、その扉だけがどうしても開かない。
彼は疑いようのない大本命だった。誰よりも偏屈で、誰よりも腹黒く、そして誰よりも彼女の肉体と秘密を熟知していた男。
もし彼が犯人ならば、今頃マルハレータから奪った大金を手に、新しい女の細い腰を抱いて眠っているはずだ。その薄汚れた夢のカーテンを、彼女の風穴から吹き出す毒々しい蝶で食い破ってやるつもりだったのに。
「まさか、私への罪悪感で一睡もしてないのかしら。……それとも、眠る間もないほど別の女を抱いているの?」
彼女はふと、占い師の言葉を思い出した。この水晶は眠る者の裏口に繋がる。もし裏口がないのだとすれば、それは……。
「……まさか、ね」
マルハレータは艶然と微笑み、屋敷を飛び出した。
生きていてくれないと困る。殺す楽しみが残っていないもの。
彼女が向かったのは街の端にある、ひっくり返った巨大なシルクハットのような形をした酒場だった。そこには錆びたコインで情報を売る、顔のない情報屋が巣食っている。
「お嬢さん、簡単なことさ。そいつはもう、とっくにこっち側の住人なんだよ。死人は夢を見ない。だから扉もないのさ」
「死人ですって?」
マルハレータは鼻で笑った。もし彼が死んでいるのなら、この狭い冥界の街で彼女の目に触れないはずがない。彼女の美貌は、死者の目を惹きつける呪いのようなものなのだから。
「もし彼がここにいるなら、私の足元に跪きに来ないはずがない。あの男、私のルビーのアンクレットを拝むのが何よりの贅沢だったんですもの」
「まともな死人ならそうだろう。だがお嬢さん、この世には『死んでもなお、生前の罪から逃げ隠れする臆病な魂』が溜まる場所があるんだ。あまりに自らの業を恐れるあまり、死後の社交界にさえ顔を出せないネズミ共の隠れ家さ」
情報屋の指が、煤けた地図の最果てを指し示す。そこには、歪んだ歯車が空を埋め尽くす不気味な領域が描かれていた。
「死後の世界の最果て、時計塔の森。あんたの探している男も、そこにある動かない時計の針の裏にでも張り付いているんじゃないかね」
マルハレータが差し出した、もはや貨幣としての面影すら怪しいほど錆びきったコインに酔いしれた情報屋は、普段なら絶対に口を割らない禁制の領域についてまで嬉々として語った。
マルハレータは飲みかけの毒々しいカクテルをカウンターに置くと、その不吉な森の名前を唇の上で転がした。
「いい名前ね。あの人、時間に追われるのも、私に追われるのも大嫌いだったもの。もっとも、私から逃げ切れた試しなんて一度もなかったけれど」
舞踊衣装を翻して辿り着いたその森は、秒針の折れた時計たちが墓標のように乱立する、色彩の死んだ場所だった。
風が吹くたび不快な悲鳴が響く歪んだ森の、天を突くほど巨大な文字盤の割れた時計塔の足元に、その男はいた。
「……エドガー、またくだらない芸術ごっこに逃げ込んでるのね」
彼は青白い月光の下で、自分の足元から伸びる影を銀のナイフでバラバラに切り刻んでいた。切り取った影の破片を床に広げてパズルにしては、陰鬱な溜息をつく。
彼はゆっくりと振り返り、そこに立つ額に穴の開いた最愛の亡霊を捉え、喉から乾いた笑いを漏らした。
「……マルハレータ。やはり、君ならここへ来ると信じていたよ。その額の傷、僕の記憶にあるどの宝石よりも、今の君に似合っている」
「誇りに思ってくれるなら、もっと早く迎えに来て。あなたを探すために、九九人も抱きしめて眠らせたのよ。こんなに手間をかけさせる恋人、他にいないわ」
「……え、僕の他にも九九人も心当たりがあったの? 君、性格が悪すぎないか」
「あら、お互い様でしょう。本当に退屈だったの。どいつもこいつも、私に宝石を贈っただの愛を誓っただの、そんな瑣末な記憶ばかり大事そうに抱えて眠っていて。私の額を撃ち抜くような勇気を持った男なんて、一人もいなかった」
マルハレータは優雅に歩み寄り、エドガーが心血を注いでいた影のパズルを、ルビーのアンクレットに飾られたつま先で踏みにじった。
「教えて、エドガー。なぜ私をスパイに仕立て上げたの? 私が踊るたびに貴方の心臓は震えていたはずよ。それをあんな湿った刑場の土に還すなんて、貴方の芸術はいつからそんなに野蛮になったのかしら」
エドガーは踏みつけられた自分の影を見つめたまま、恍惚とした表情で囁いた。
「野蛮? 違うよ、マルハレータ。僕は君に、永遠の命を与えてあげたかった。君をただの魅惑の踊り子として終わらせたくなかったんだ……」
彼は立ち上がり、跪くようにしてマルハレータの舞踊衣の裾に触れる。
「時の流れはあまりに無慈悲だ。どれほど一世を風靡した美貌も、老いればただの記憶に成り下がる。だが、『処刑された美しき世紀のスパイ』はどうだ? 謎に包まれ、悲劇を纏い、最高に鮮やかな絶頂で命を散らした毒婦……君は刑場でキスを投げた瞬間、伝説という額縁に飾られたんだよ」
マルハレータは彼の言葉を遮ることなく最後まで聞き届けた。
彼女は優雅に膝をつき、自らの影をパズルのように弄んでいる哀れな男の頬を冷たい指先で包み込む。エドガーは夢見るような、あるいは裁きを待つ罪人のような眼差しで彼女を見つめる。
「いいわ、認めてあげる。貴方の目論見通り、私は今や世界が忘れられない悲劇の毒婦。この冥界でも誰もが私を振り返る」
ふと彼の首元に目をやれば、青白い肌に深い裂傷が走っている。それは鋭利なナイフで、喉を掻き切った跡。彼女が刑場で散った直後にでも、追いかけるようにして断った命なのだろう。
「君の望むままに、マルハレータ。どんな罰でも受けよう。君の影に従う亡霊の犬になってもいい、君が踊るたびに粉々に砕けるガラス片にだってなれる……」
「いいえ、そんな惨めな献身で許されると思わないで」
マルハレータは艶然と微笑み、彼の手に握られていた銀のナイフをそっと取り上げた。
この人の愛は、いつだって傷ばかりだ。触れれば切れ、愛すれば血が流れる。
「エドガー。影を切り刻んでパズルにするくらいなら、まずは自分の罪を拾い集めてひとつずつ並べてみせなさい」
彼女はゆるやかに立ち上がり、裾をまるで砂漠の夜風を掬うように翻した。その下から覗く肢体は、生前と変わらず──いや、死を経た今のほうがなお白く、月光に濡れた象牙のように神秘的だった。
「……それができたら、帰りましょう。あなたが作った悲劇の毒婦が、迷子の恋人を迎えに来たんだから」
刑場に立ったとき、彼女はコートを脱ぎ捨て、身につけていたのはルビーのアンクレットと数個の宝石だけだったという。
あの時、彼女はエドガーという画家が描くキャンバスの中の作品になることを、どこかで受け入れていたのかもしれない。そして群衆の隙間から、彼が自分を見ていることを確信していたのだ。
「……マルハレータ」
エドガーの喉に刻まれた無惨な傷痕から、音にならない嗚咽が漏れる。
「マルハレータ……僕は、君を失ってから、君の名前を呼ぶことさえできなかった」
彼女を永遠にしたかったという歪んだ理想。それは彼女を失った瞬間に砂の城のように崩れ去り、残されたのは愛する人を自らの手で冥府へ送ったという耐え難い後悔だけだった。
「ごめんよ……。君を愛していたんだ。誰にも奪われたくなくて、時さえも君に触れさせたくなくて……僕は、なんてことを……」
確かに、生きていた時間があった。
共に夜明けまで踊り明かし、安物のシャンパンを極上の香水のように感じ、ただお互いの存在だけが世界のすべてだった、あの眩しい時間。
女というのはどうしようもない生き物なのだ。自分を死に追いやった男の、そのひん曲がった愛の深さに免じて、冥界の果てまで迎えに来てしまうのだから。
「……馬鹿な人。さあ、あまり私を待たせないでね。急かされるのが嫌いなのは知っているけれど……私はあなたを恨んでいるもの。嫌がらせよ、これは」
マルハレータは時計塔に背を向け、霧の向こうにある自分の屋敷へと歩き出した。彼女の足元ではバラバラにされていたエドガーの影が、必死に彼女の影を追って、ひとつに溶け合おうと蠢いていた。




