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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

明日、あなたを殺すまで。

作者: 千波 鴻


 笑うと目じりにしわが寄るのが好きだった。栗色の巻き毛に灰褐色の瞳。王子様というほどの華やかさはなかったし、騎士様というには少し頼りない。でも優しくて穏やかな人だった。シエラのことをとても大事にしてくれて、そんな彼が大好きだった。


 シエラは、彼の――ノアの腹に馬乗りになって彼を見下ろしていた。栗色の巻き毛は血で赤黒く染まっていて、灰褐色の瞳はぼんやりとしている。いつも優しい笑顔を浮かべている唇は苦し気に歪んでいて、口の端からは血が溢れ出ていた。


 シエラはその光景を呆然と見つめることしかできなかった。ほとんど無意識に視線を落とす。目に入った状況を理解するのに、十数秒の時を要した。


 ノアの胸元には、細身の短剣が深々と突き刺さっていた。柄を握るのはシエラの手だ。白くなるほど握りしめている手の指は、血でべっとりと赤く染まっている。

 ごふ、とくぐもった音がして、シエラは反射的にノアの顔を見た。ノアは口から血を吐いていた。ヒュウヒュウと細い呼吸を何度か繰り返して、激しくせき込む。それから、シエラを見て弱々しく笑った。


「……シエラ…………愛してるよ……」


 ノアは苦しそうに眉を寄せ、それでもわたしを見て微笑んでいた。その笑顔が、あまりにも優しかったから――シエラはその瞬間、声も出せずに目を覚ました。


 胸が痛かった。心臓が壊れたみたいに脈打って、息がうまくできなかった。


 シエラは布団の中で身体を丸め、震える指で自分の手を見つめた。この手で、彼を殺すのだ。理由は分からない。そこに至る過程も見えなかった。ただ結果だけが、冷酷な事実として胸に残っていた。


 その日は、朝まで寝つけなかった。


――――――


「シエラ、どうしたの?顔色が悪いね、何かあった?」


 ノアはシエラの顔を覗き込んで、心配そうにそう言った。


 わたしを見つめる、彼の瞳。

 ――愛している、と語るような目。


「……なんでもない。少し、悪い夢を見ただけ」

「夢か……どんな夢?」

「……覚えていないの。怖かった感覚だけが残ってて……」


 まっすぐな灰褐色の瞳から、シエラはふいと目を逸らした。

 ノアはシエラの肩を抱き寄せて、優しく微笑む。


「大丈夫だよ、シエラ。僕がいるから。きっとシエラを守ってあげる」

「……うん」


 別れ際、ノアはシエラの額にそっとキスをした。栗色の巻き毛から覗く耳が、ほんのり赤く染まっている。


「……シエラを、悪夢から守ってくれるおまじない。――愛してるよ、シエラ」


 恥ずかしそうにそう囁いたノアは、照れ臭いのか、「じゃあね、また明日!」と言ってすぐに踵を返した。振り返らずに坂を駆け下りていったノアには、きっとシエラの泣きそうな表情など、見えていなかったに違いない。それに少しだけ、安堵のため息をこぼした。


 ――ただの悪夢だったなら、どれだけよかっただろう。


 昨夜見た光景を、シエラは今もすべて正確に思い出すことができた。色も、匂いも、温度も、感触も――。ノアがこの手で死んでいく様を、生々しいほどはっきりと。


 未来視だ、とすぐに分かった。


 シエラは夢を見ない。その代わり、未来に起こり得る光景を、少しだけ垣間見ることができる。一人称視点のこともあるし、俯瞰のような視点のこともあった。

 それは、シエラの一族に特異な能力だった。未来を見るとは言っても、物語にあるような便利な能力ではない。望んだ瞬間を見られるわけでもなければ、見る未来がすべて特別な意味のあるものでもない。実際、これまでシエラが垣間見て来たのは、自分が転ぶ未来、ノアがくしゃみをする未来、知らない誰かが犬に吠えられる未来――そんなくだらない映像ばかりだった。他にも、どこかの街の店が臨時の値引きをしている未来や、森の中にある木からリンゴが落ちる未来だとか、知っていたところで何の役にも立たないようなものばかりだ。


 それでも、確かに未来を見ることのできる能力というのは人の欲を掻き立てるもののようで、シエラの一族は数百年も前の時の権力者によって、ほとんど絶滅と言っていいほど数を減らしていた。能力を隠してひっそりと生きてきた、数少ない生き残りの末裔がシエラだ。同じ力を持っていた母は、夫となった父にさえこの力のことを話していなかった。シエラもそれに習って、恋人のノアにも未来視については伝えていない。シエラの力を知る唯一の人間だったシエラの母は、数年前に父と揃って流行り病であっけなく亡くなっていた。両親が流行り病で亡くなることは、シエラの未来視には現れなかった。母もそうだったのだろう。


 どんなにくだらない光景でも、未来視が間違っていたことはなかった。気を付けていてもシエラは転んだし、ノアがくしゃみをする場所もまったく同じで、未来視で見た人が犬に吠えられている光景も、たまたま目にした。シエラの一族の力は、確かに未来視なのだ。


 未来視で見た光景は、基本的には変えられない。池に落ちる未来を見た時には池に近づかないようにしていたが、すっかり忘れた頃に未来視と同じ光景は繰り返された。そう、未来視で見る光景は、いつ訪れるかは分からないのだ。自分や知っている人の容姿、周囲の景色などでおおよそのあたりをつけることは出来るが、正確な日時までは分からない。都合よく時計や暦が映っていることもあったが、ほとんどないに等しかった。

 ――そう、シエラがノアを殺す未来も、いつ起こるかは分からないのだ。ノアの様子にひどく動揺して、周囲の状況など目に入らなかった。思い出すことができるのは、床が石材だったことくらいだ。

 ノアの容姿は、今とほとんど変わらなかった。つまり、あの光景が再現されるのは、そう遠くない未来だということだ。――それは、明日かもしれない。


 未来視で見た光景は基本的には変えられない、と言ったが、例外は存在しているらしかった。母から聞いた話だ。自身の腕を切り落とすことで我が子を両手で絞め殺す未来を変えた女性、自ら職を辞すことで横領の罪を犯す未来を回避した男性……。

 生半可な行動では未来は変わらない。規模がまったく違うが、シエラが自身が転ぶ未来を見た時も、十分気をつけていたのにあっさり転んだ。場所も時間もわかっていたのに、だ。未来視からさほど経っていなかったから、忘れていたわけでもなかった。未来を変えるには、相応の行動を取る必要がある。それこそ、本人のその後の人生さえ変えてしまうような――。


 シエラが一番初めに考えたのは、自分が死ぬ事だった。ノアを殺す存在がこの世からいなくなるのだから、ノアは死なずに済む。シエラが自ら命を終わらせることは、()()()()()に値するだろう。

 だが、シエラはすぐにその考えを否定した。母から聞いた一族の伝承を思い出したのだ。

 死の運命とは、特別なものである。未来視によって見た死を避けるために誰かが命を落とすと、避けようとした死は必ず訪れる――そのような内容だった。

 実際、過去には娘の死を防ぐために娘を殺すことになる犯人を先んじて殺した老人がいたが、その犯人を殺した瞬間、娘は自宅で突然死したという。空しい話だったが、この実例は伝承とともに語られていた。他人の死と自死は異なるかもしれないが、そんな不確かな可能性を、自分だけならまだしも、ノアの命まで賭けて試すわけにはいかなかった。

 それに、シエラが死んでしまえば、ノアが生きて()()()を超えられたのかどうかは分からなくなってしまう。ノアが殺される未来を知っているのはシエラだけだ。少なくとも、未来視で見たノアの容姿よりも彼が老いるまで、シエラが死ぬわけにはいかなかった。


 シエラには考えがあった。未来視は非常に精確だ。今まで目の前で見た未来視の再現は、本当に一分の隙もない完璧な()()だった。つまり、それが起き得ない前提を整えれば、未来が変わる可能性はある。母から聞いた話の女性が()()でなくなったように、男性が物理的に()()()()()()()()でなくなったように。

 

 シエラがどこで、どのような経緯でノアを殺すのか、それは少しも分からなかった。だが、あの光景自体から拾える条件はある。

 

 ――……シエラ…………愛してるよ……。


 未来視で見た光景の一場面が、鮮明に思い出される。呼吸が一瞬止まった。

 ノアは未来視の中で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 つまり、ノアがシエラを見てもシエラと認識できなくなるか、あるいはシエラを愛さなくなれば、あるいは――。

 答えは何一つ分からなかった。それでも、シエラは決めた。


 ――ノアに、生きていてほしい。


 シエラを動かすのはその一心だった。だからシエラは、その日のうちに彼のもとを去る決意をした。まかり間違っても再びノアと会うことがないように、そして彼がノアを探すこともないように、仮に出会ってもシエラと気付かれないように……シエラは、取れる手段をすべて取った。

 まず、ノアへ別れの手紙を書いた。他に好きな人ができたから、その人のところへ行く、探さないでほしいと綴った。酷い女だが、それでノアが愛想を尽かしてくれれば最上だ。「愛してる」という未来視の再現は失われる。……可能性は、薄いかもしれないが。

 そして、路銀になりそうなものを根こそぎ持って家を出た。シエラは旅に出ることにしたのだ。ノアに探された場合、どこかに定住していればいつか見つかってしまうかもしれない。移動し続ければ、見つかる危険性は低くなるはずだ。

 最後に、シエラは自分の顔を焼いた。ノアがシエラだと気付かなければ、未来視の再現は一つ失われる。想像を絶する苦痛だったが、ノアを思えばシエラには辛くなかった。


 シエラは徹底的にノアから身を隠すことにしたのだ。


 ――未来が、わたしに彼を殺せと言うのなら。わたしは彼から遠ざかる。


 それが、すべての始まりだった。


 

 シエラの旅は、そこそこ順調に続いた。シエラの焼けただれた醜い顔は、図らずも女の一人旅につきものの懸念からもシエラを守ってくれた。

 家財を売って得た路銀は限られていたから、シエラは手先の器用さを生かして内職を始めた。刺繍の腕はそれなりだったから、シエラの仕事はどの場所でも一定の金になった。

 いろいろな国を回った。いつでもノアを忘れたことはなかった。いつも彼の幸せを祈っていた。


 問題が起こったのは、シエラが旅を始めてから二年が経った頃だった。

 ――世界に、魔王が現れたのだ。


 数百年前の伝承でしかなかった魔王は、しかし現実のものとなった。魔王が生み出す瘴気は動物を殺し、植物を殺し、人間を殺した。瘴気の強い地で、ありとあらゆる生物は生きることができなかった。ほどなくして、瘴気に耐性をもった特殊な生き物が生まれる。魔物と呼ばれるそれは、無差別に他の生き物を襲った。たくさんの人間が犠牲になった。多くの国が討伐隊を出したが、魔物の生まれるスピードはそれより速かった。元凶たる魔王を倒すために立ち上がった勇気ある者や国も、魔王城にさえ辿り着けずに志半ばで散った。流通は停滞し、交通は乱れ、経済は冷え込んだ。そんなことになれば、当然シエラの旅にも差しさわりが出る。だがこの時、シエラの身体には不思議な変化が起きていた。


 ある日を境に、魔法が使えるようになったのだ。正確には、魔法が使えるようになったことに気がついた。それも回復魔法だった。高位の神官にしか使えないはずの、特別な魔法。シエラは未来視こそできたものの、魔力などひと欠片も持っていないはずだった。それが、神官たちも驚くほどの膨大な魔力を持つようになった。なぜかは少しも分からない。だが、使えるものは使えるのだからと、シエラは協会に協力し、魔物によって傷ついた人々を癒し続けた。目の前で苦しむ何の罪もない人々を見殺しに出来るほど、シエラは強くなかった。対魔物戦線の状況が悪くなるほど、シエラの能力は強くなっていった。

 やがて、シエラが誰ともなく「聖女」と呼ばれ始めた頃、シエラはまずいかな、と思った。有名になりすぎれば、ノアに名前が届きかねない。シエラはありふれた名前だったが、念には念をいれておくべきだろう。シエラは偽名を使い始めた。聖典からとって、セレスと名乗った。幸いにして、シエラが本名を名乗った回数はそれほど多くない。そんな余裕はなかったからだ。シエラの本名を知っている神官たちは、戦禍の中で亡くなってしまっていた。他の神官たちは、みなシエラを「聖女」と呼ぶ。「聖女セレス」の名前はすぐに浸透していった。


 いくつかの小国が滅び、それなりの大きさの国も滅亡するまで、魔王誕生から一年もかからなかった。人類滅亡の危機に、人間はついに団結することにした。対魔王のための諸国連合軍が結成された。何度も大規模な魔王討伐隊が組まれ、同じ数だけ敗れていった。大規模攻撃魔法を主とする魔王に、大人数はむしろ不適だった。四度目の魔王討伐軍が壊滅したのち、諸国連合軍たちは少数精鋭の魔王討伐隊を結成することにした。各地の対魔物戦線で活躍する一騎当千の実力者を集め、諸国連合軍虎の子の魔王討伐隊――俗に言う勇者パーティーが結成された。「聖女セレス」としてその膨大な魔力と高度な治癒魔法で知られていたシエラも、回復役として招集された。魔王誕生から、約二年半の月日が経過していた。


 実のところ、シエラにとって世界平和自体はたいして重要ではなかった。目の前の人間を見殺しにはできないが、世界全体の平和のために命を懸けろと言われても、シエラにはあまりピンとこない。それでもシエラが招集に応じたのは、ノアのためだった。ノアの住んでいる国――つまりシエラの故郷の国は、対魔物戦線からは離れた場所にある。だが、このペースで魔物の侵攻が続けば、そう遠くない未来に戦禍に呑まれるだろう。シエラはノアに生きていてほしかった。ノアのためであれば、命を懸けることに躊躇いはなかった。


 勇者パーティーは、シエラを入れて六人で構成されていた。勇者との呼び声高い凄腕の剣士ロイドを筆頭に、回復魔法と類まれなる補助魔法の実力を併せ持つ神官ユアン。大盾を巧みに取り回し、幾度も祖国の前線死守に貢献してきた鎧騎士グリフ。魔法大国で有史以来の天才と称される魔術師フィンに、魔物の奇襲を知らせて幾度も諸国連合軍を救った斥候サミュエル。そして、膨大な量の魔力を持ち、欠損した四肢すら再生させる高度な治癒魔法を扱う聖女セレス。


 少数精鋭の極みである勇者パーティーは、文字通り人類全員の期待を背負って魔王討伐の旅に赴いた。

 旅は長く続いた。魔王誕生からの二年半で、対魔物戦線の前線は随分と押し込まれていた。諸国連合軍は、勇者パーティーとともにこの前線を死力を尽くして押し上げていった。勇者パーティーの刃を魔王に届かせるため、各国が惜しみなく軍と財を注いだ。人間同士の戦争では国でぬくぬくと暮らしている王族や貴族も、高い魔力を活かして前線で戦った。勇者パーティーで駄目なら、人類は滅亡するしかないという焦燥がそこにはあった。大勢が死んだ。だが、それだけの価値は間違いなくあった。

 約半年後、諸国連合軍は魔王城に限りなく近い位置に拠点を築くことに成功する。ここからであれば、戦闘に支障のない量の補給物資でも魔王城へと到達できる。諸国連合軍にできるのはここまでだった。


 勇者パーティーは、最後の旅に出る。魔王城までの旅路だ。全員が決死の覚悟を持っていた。


 やがて、勇者パーティーは魔王城に到達する。魔王城には、魔王の他に一体の魔物もいなかった。かつて諸国連合軍が派遣した魔王討伐隊の時とは、聞いていた状況が違う。不気味な静けさだった。


 魔王がいたのは、魔王城の最上階だった。全身を闇の魔力が覆っている。すさまじい密度で圧縮された闇の魔力は、装甲となって魔王を守っていた。あまりにも禍々しい姿だった。


 勇者パーティーは、死力を尽くして戦った。ユアンは全員に強化の補助魔法をかけ、魔王には弱体化の補助魔法をかけ続けた。グリフが魔王を引き付け、サミュエルが飛び道具で気を逸らす。その隙にロイドが聖剣で切りかかり、フィンが高火力の攻撃魔法を叩き込む。仲間が傷付けば、セレスが魔力障壁で魔王の追撃を防ぎ、すかさず回復魔法を施した。


 長い、長い戦いだった。その時が訪れたのは、たとえ死しても魔王を討ち果たすという、勇者パーティーたちの執念が生んだ奇跡だった。サミュエルは、腕と足を一本ずつ犠牲にして、吹き飛ばされたグリフが建て直すまでわずかな時間を稼いだ。直後、魔王の最大の一撃を、万全の体勢のグリフは思い切り受け、それでも消し飛んだ。それでさえ相殺しきれなかった分を、フィンが魔法ですべて自身に集めた。結果、フィンは全身を焼かれた。前の一撃で致命傷を負っていたユアンは、死の間際に己の命を燃やしてロイドに全力で強化魔法をかけた。ほとんど魔力が尽きかけていたセレスは、残りの魔力をすべて使ってロイドに魔力障壁を張った。

 ロイドは、最高魔法を使った反動を受けている魔王の懐に飛び込んだ。魔王が薙ぎ払った闇の魔力が凝縮された腕がロイドを襲う。セレスの魔力障壁にヒビが入った。だが、ギリギリで堪え切った。

 

 魔力障壁が粉々に砕け散った次の瞬間、ロイドの振るった聖剣がまばゆい光を発して魔王の身体を貫いた。魔王はすさまじい悲鳴を上げて暴れる。聖剣に魔力をすべて注ぎ込んだロイドは、魔王の最後の抵抗に全身の骨を砕かれ、あっけなく吹き飛ばされた。だが、聖剣は確かに魔王を貫いた。それを見届けたロイドは、満足げに笑って事切れた。


 彼らは、最後まで「役割」を果たして死んでいった。仲間が死んでいく様を、セレスは――シエラは、どこか呆然とした思いで見ていた。

 

 

 どれだけ経っただろうか。一瞬のようにも、十年のようにも思えた。実際は、わずか数秒後のことだったのだろう。シエラの目には、魔王を包んでいた禍々しい闇の装甲が、ゆっくりとほどけていくのが見えた。

 

 ――ああ。勝った……勝ったんだ。


 もはや、勝利を分かち合って喜べる仲間は一人も残っていなかった。まともに意識があるのはシエラ一人だ。勇者と呼ばれた剣士ロイドは死に、皮肉屋神官のユアンも死んだ。盾役のグリフは鎧の破片しか残っていなかった。魔術師のフィンは全身を焼かれ半死半生、斥候のサミュエルは右腕と左足がない。かろうじて息のある二人も、放っておいたら死んでしまうのは時間の問題だった。

 回復役は、戦場で最も優先して守られる存在だ。仲間はシエラを守って死んでいった。そして、回復魔法に長けている者は、自身も高い自己治癒力を持つ。死んでいく仲間を回復できるだけの魔力は欠片も残っていないのに、自身の怪我は無駄に高い治癒力でどんどん治っていく。シエラが生き残っているのは、そんなやりきれない理由だった。

 この力の半分でも仲間に分け与えることができれば、ロイドもユアンもグリフも、死なずに済んだかもしれない。フィンとサミュエルだって、きっと生き残ることができるはずだった。


 シエラは、空虚な気持ちで魔王の闇がほどけていくのを見ていた。これで世界は平和になるのだという安堵と、これから何をして生きていけばいいのかという空しさにも似た思いが、シエラの胸を占めていた。

 将来をともに生きたかった人とはとうの昔にすでに別れ、長い旅で苦楽をともにした無二の仲間たちももういない。いっそ自分もここで死んでしまえればよかったとさえ思った。


 遠い昔の記憶がよみがえる。思えばたったの五年前だが、もう十年も二十年も昔のことのような気がした。

 笑うと目じりにしわが寄るのが好きだった。栗色の巻き毛に灰褐色の瞳。王子様というほどの華やかさはなかったし、騎士様というには少し頼りない。でも優しくて穏やかな人だった。シエラのことをとても大事にしてくれて、そんな彼が大好きだった。


 だから、最初に彼の姿を見た時、シエラは自分の彼への想いが作り出した幻覚だと思ったのだ。

 ――違う、と思ったのは、彼の灰褐色の瞳と目が合った瞬間だった。


「ノ、ア…………?」


 彼が――ノアが現れたのは、ほどけていく闇の中だった。それが表す事実は一つしかない。


 シエラは、無意識のうちによたよたとノアのもとへ駆け寄った。血まみれで倒れる彼の傍に、ぺたんと座り込む。


「どうして、」


 シエラは酷く動揺していた。五年も前に別れたはずだった。一方的な心変わりを告げる手紙だけ残して、別れの言葉すらかけずに彼のもとを去った。――彼を、愛していたから。

 シエラが魔王討伐の旅に参加したのだって、世間が思うような崇高な理由からじゃない。世界のためとか、聖女の使命だとか、そんなことはどうでもよかった。ただ、世界のどこかで生きているはずの彼を……彼の安寧を、守りたかったから。

 

 ノアの瞼が少し震えた。ぼんやりとした瞳が、シエラの顔をはっきりと捉える。激しい戦闘で、ウィンプルもべールもすでに失われてしまった。焼けただれた自分の醜い顔が、彼の灰褐色の瞳に映る。ノアはそれを見て、心底嬉しそうに笑った。


「やっと……僕のところへ、戻ってきてくれたのかい……――シエラ」


 心臓を、強く掴まれたような気がした。――ノアだ。

 シエラはすっかり変わってしまった。聖女としての力が強まるにつれ、ノアよりも少し明るかった栗色の髪は、ほとんど色素を残さない銀髪になった。湖面のようだと彼が褒めてくれた灰青の瞳は、透き通るような空色に。肌はまるで貴族のお姫様のように白くなった。神秘的な容姿の中で、自分で焼いた顔の火傷痕だけが、酷く引き攣れて醜い。回復魔法に目覚める前の自身の傷は治せないのだ。周囲には同情されたが、もとより治す気のなかったシエラにとってはどうでもよかった。

 

 今のシエラに、五年の面影はほとんど残っていない。だが――その時のノアの灰褐色の瞳には、五年の自分が映っているように思えた。何も知らずに、ただ幸福のただ中にいた、あの頃のシエラが。

 シエラの中にわずかに残っていた、魔王が苦し紛れに使った幻影魔法なのではないかという疑いが……あるいは希望が、静かに霧散していくのを感じた。


「ずっと……君を探していたんだ…………」


 愛おし気にこちらを見つめるノアの瞳に宿る狂気に、シエラはすべてを悟った。ノアは、シエラが去って正しく絶望したのだ。その絶望が、どこへ行き着いたのか。シエラは、今さら問う必要もなかった。

 シエラは、ノアが自分を愛する気持ちを甘く見すぎていたのだ。ノアを守りたくて彼から離れたというのに、その結果ノアを深い絶望に突き落とし、世界に仇為す存在へと変えてしまった。シエラがノアを魔王にしたも同然だった。多くの罪なき人の命が失われた。シエラの仲間たちも死んだ。そして、シエラの一番守りたかった人が――シエラが最も幸せになってほしいと願った人が、本当は何を求めていたのか、シエラは少しも気づけなかった。

 あまりにも愚かな話だった。浅はかな思い込みで、多くを巻き込んだ――自分の行いの責任を、シエラは取る必要があるだろう。


 シエラは、近くに転がる短剣を手に取った。サミュエルが魔王に投げつけた短剣だ。それを持って、ノアの身体にのしかかる。うまく体重をかけなければ、一度で殺せはしないだろうから。何度も彼を突き刺すだけの体力も気力も、シエラには残っていなかった。

 ノアの身体に、短剣の先が触れる。彼はぼんやりとした瞳でそれを見つめていた。


「愛してるわ……ノア、もう充分よ……」


 そう囁いて、シエラは短剣にグッと体重をかけた。細身の短剣は、彼の胸に深々と突き刺さる。肉を裂く、生々しい感触がした。シエラは、この感触をきっと一生忘れることはできないだろう。

 ごふ、とくぐもった音と一緒に、ノアは口から血を吐いた。ヒュウヒュウと細い呼吸を何度か繰り返して、激しくせき込む。それから、シエラを見て弱々しく笑った。


「……シエラ…………愛してるよ……」


 ノアは苦しそうに眉を寄せ、それでもわたしを見て微笑んでいた。その笑顔が、あまりにも優しくて――シエラの瞳からは涙がこぼれた。大粒の雫は次々とノアの身体に零れ落ちては血と交じり合う。聖女の涙が傷を癒すなんて、そんな都合のいいことが起こらないことは知っていた。


「ノア……」

「……君に……殺されるなんて…………幸せだな……」


 ノアはそう言って事切れた。微かに上下していた胸はもはや少しも動かず、溢れ出ていた鮮血もやがて止まる。シエラはしばらく呆然としていたが、もう何も映さない彼の灰褐色の瞳を見て、ゆっくりとその瞼を下した。


 

 シエラが次にやるべきことは決まっていた。遺体の焼却だ。ノアは魔王だった。それが露見すれば、埋葬も許されず、死体は腐るまで民衆のもとに晒されてしまうだろう。世界を敵に回した大罪人でも、ノアの遺体がそのような扱いを受けることは、シエラには耐えられなかった。

 だが、その手段がない。シエラの魔力はとっくに空だ。回復ポーションも使い切った。火が起こせるような道具も素材も、石造りの魔王城には存在しなかった。魔王が討たれたことで、世界を覆っていた瘴気は晴れ始めている。魔力の自然回復には数日かかる。それを待っていれば、戻らないシエラたちを保護しに諸国連合が軍を仕向けてくるだろう。


 シエラの視界の端に、ほどけた魔王の闇の装甲が、かすかに漂っているのが見えた。――これだ、と思った。魔王の闇の装甲は、魔力の塊だった。圧縮された高い魔力は物理的な鎧であり、魔法を通さない障壁でもあった。その残滓が、そこにある。

 普通は空気中の魔力を取り込んだところで、ないに等しい量の魔力しか得られない。だが、あれを取り込めば、遺体を焼く程度の魔力は回復できるだろう。禍々しい力を感じるが、シエラには手段を選んでいる暇はなかった。


 空気中の魔力を取り込む。闇の装甲の残滓がシエラに引き寄せられて、その魔力がシエラに流れ込んでくる。身を焼くような苦痛がシエラを襲った。身体に合わない魔力を取り入れたせいで、シエラの身体の中で魔力が暴れている。シエラの中にある聖女としての力も、異物を無理に押し出そうと激しく抵抗した。ごふ、と嫌な音がして、シエラの口の端からは血が溢れ出る。だが、魔力は半分程度も回復していた。


 シエラは痛みに耐えながら立ち上がる。ノアの遺体に手を掲げ、最大出力で光源魔法を放った。聖女は攻撃魔法を使えない。光源魔法も、本来であれば闇を照らす温かい光を出すだけの簡単な魔法だった。だが、強い魔力を籠めれば、その光は途方もない高温になる。

 鮮烈な光がノアを包んだ。その光が収まった時、そこに残っているのは一山の灰――ノアは骨さえ残らなかった。だが、それでいい。シエラは灰を抱きしめて、静かに短い祈りをささげた。


 光源魔法の使用魔力はごくわずか。人を灰にするほどの魔力を込めても、シエラの魔力は十分に残っていた。シエラは、ノアが現れる前、かろうじて息のあったフィンとサミュエルのもとへ駆け寄る。

 フィンは駄目だった。すでに炭化している組織が多く、ノアが事切れる前にシエラが見た時点で半死半生どころか息絶えていた可能性もあった。だが、サミュエルは助けることができた。大分血を流してはいたが、その程度であれば回復魔法でどうとでもなった。四肢の欠損を回復させるには膨大な量の魔力と精密な魔力操作がいる。魔力の量は半分を切り、身体に合わない魔力に身を焼かれ続けているシエラには、せいぜい彼の左足を再生させることしかできなかった。これで魔力は再度空だ。身体欠損は時間が経つと再生が効かない。右腕を取り戻すのは絶望的だろう。だが、今優先させるべきは移動のための足だった。


「……セ、レス…………?」


 サミュエルは比較的すぐに目を覚ました。シエラは端的に状況を説明する。ロイドがほとんど相打ちのような形で魔王に致命傷を与え、自分がとどめを刺したこと。他の仲間は死んだこと。無理に闇の魔力を取り入れて魔法を使ったため、右腕は諦めてほしいこと。そして――死んだ魔王は跡形もなく消滅したこと。

 サミュエルは静かに聞いていた。シエラの後ろに広がる凄惨な戦場跡、そして魔王城の窓から広がる青空を見て、ゆっくりと天を仰いだ。


「そうか……ついに魔王を討てたのか…………」


 万感の思いが込められた一言だった。

 生き残った二人は、ロイドとユアン、フィンの遺体をまとめて一カ所に安置し、グリフの鎧の破片もそこに添えた。窓はすべて瓦礫で埋めた。ここは魔王城の最上階だ、これで獣が遺体を荒らすこともないだろう。シエラとサミュエルの二人だけでは、三人分の遺体とグリフの遺品を持ち帰ることは出来ない。一度戻って、人を呼んでくる必要があった。魔王を討った英雄たちだ、諸国連合規模の国葬が行われるだろう。

 サミュエルは残った左手でシエラを抱え、最も近い諸国連合軍の拠点まで夜通し走った。英雄たちは魔王討伐の偉業への喜びと感謝、そして帰ってこなかった英雄たちへの哀悼の念を持って迎えられた。その後、魔王城へ残してきた仲間たちは、諸国連合軍によってすぐに遺体と遺品を回収された。どんな大国の王の葬儀でさえ及ばないような、世界規模の盛大な葬儀が執り行われた。


 すべてが終わった後、サミュエルは故郷の国へと帰った。莫大な報奨金とありとあらゆる地位や権力を与えられたが、どの国のどんな職にも就かず、故郷に残してきた恋人と結婚して、慎ましく幸せな家庭を築いた。孤児院で育ったサミュエルは、生活のための資金を残して報奨金のほどんどを恵まれない子どもたちのために使った。同じ孤児院で育ち、一途にサミュエルの帰りを信じて待ち続けた恋人とは、生涯仲睦まじく過ごしたという。晩年はたくさんの子どもや孫に囲まれて、一足先に逝った妻を追うように亡くなった。サミュエルが支援した孤児院で育った者たちは、その後の世界の復興と発展に大きく貢献し、彼と彼の仲間たちの偉業と献身を語り継いだという。

 

 聖女セレスことシエラは、残りの生涯を教会で過ごした。ただずっと、たった一人のために祈りを捧げて生きた。神への祈りと慈善活動に人生と財産のほとんどを使い、最後まで聖女セレスとして人々の希望となった。シエラはロザリオを下げず、代わりに小さな銀のペンダントを常に身につけていた。「魔王とはいえ、人を殺してしまったわたしがロザリオを下げる資格はないのです」と儚く微笑む聖女の姿に人々は心打たれ、彼女が大切していたペンダントについて詮索する者はいなかった。シエラは晩年、「神の身許へ参ります」とだけ綴った書き置きを残して教会を去った。修道服さえ綺麗に畳まれ、部屋に残されていた。教会のものは何一つとして持ち出さず、シエラは忽然と姿を消した。長く世界のためにその身を捧げた聖女セレスの死後の安寧を、多くの人が祈ったという。

 

――――――


 シエラが立っていたのは、魔王城の跡地だった。激しい戦闘で傷付き、魔力の供給源も失った魔王城は、長い年月を経て建物のほとんどが崩れていた。多くの人間にとっての苦しみと痛みの象徴であるその場所に、近づく者はいなかった。


 シエラは白いワンピースを着て、小さな銀のペンダントを下げている。白いワンピースは、遥か昔に愛する人が贈ってくれた、シエラの宝物だった。保存魔法をかけていたから、何十年とたった今でも美しい白だ。

 シエラは胸元のペンダントを握り締めた。そこには、愛する人の遺灰が閉じ込めてある。シエラが祈る時はいつも、このペンダントに想いを捧げていた。ここにはシエラの神がいる。


 シエラはずっと、たった一人の安寧だけを祈っていた。世界を呪って破壊の限りを尽くした彼に、死後の安寧などあるはずはない。だが、それでも願わずにはいられなかった。


「ノア……」


 シエラは、この場所に眠る、シエラの神の名前を呼んだ。返ってくる言葉はない。風さえ吹かなかった。


 シエラは静かに魔法を展開していた。魔王討伐戦の後、身体に合わない魔力で高度な治癒魔法を行使するという無理を通したせいで、今のシエラは簡単な魔法しか使えない。得意の治癒魔法も、今では擦り傷程度しか治せなかった。だが、今のシエラにはその程度で十分だ。


 シエラは銀のペンダントにキスをして、静かに最後の祈りをささげた。


 それから自身の胸に手を当てて、最大出力で光源魔法を放つ。光源魔法は簡単な初等魔法だ。本来であれば、闇を照らす温かい光を出すだけ。だが、強い魔力を籠めれば、その光は途方もない高温になる。

 鮮烈な光がシエラを包んだ。シエラの身体が灰になるより先に、彼女の銀のペンダントが融け、閉じ込められた灰が光に触れる。


 その光が収まった時、そこに残っているのはただ一山の灰。銀のペンダントから零れ落ちた灰とシエラの灰は、混ざり合ってどちらのものかは区別がつかない。


 魔王城の跡地には、ただ一陣の風さえ吹かなかった。


 ――fin.

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