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夫婦の願い5

フィオラと別れ、ライムはひんやりとした廊下をただ歩いていく。足音さえ吸い込まれるような静寂が、全身を包み込む。やがて、彼の目の前に黒く重い、巨大な扉が現れた。その木目は深く、歴史の重みを語っているかのようだ。まるでこの世の音を全て吸い込んだかのように、周囲は気味が悪いほど静まり返っていた。しかし、ライムがその扉に手をかけ、押し開けた瞬間、張り詰めていた空気が一変する。

ギシリとも音を立てない、磨き上げられた床。ライムの足元から広がるその漆黒は、どこまでも深く、光を吸い込んでしまうかのようだ。壁には豪華な額縁に収められた絵画が飾られているが、そこに描かれた人物さえも、息を潜めてこの場の沈黙に耐えているように見える。視線を上げれば、薄暗い大広間の奥、いくつもの燭台の炎が揺らめき、その頼りない明かりが、二つの影をぼんやりと浮かび上がらせていた。

アカリとレンド。彼らはまるで精巧な彫像のように、その場に立ち尽くしていた。顔は青ざめ、虚ろな目が一点を見つめている。しかし、その強張った表情には、苦痛や悲しみといった感情すら刻まれていない。ただ、ひたすらに無である。

「……!」

ライムの喉から、押し殺したような息が漏れる。逸る気持ちを抑えきれず、彼は二人に駆け寄ろうと一歩、大きく踏み出した。その刹那、

ひゅっ。

ライムの背後から、音もなく現れた男の影が、すっと二人の脇腹に細身のレイピアを滑り込ませた。金属が肉を裂き、骨を削る嫌な音が、静まり返った大広間にだけ、ぞっとするほどはっきりと響き渡る。

「――あぁ、動くな。今さら騒いでも、彼らはもう動けやしない」

男はゆっくりと、まるで舞台役者のように優雅に振り返った。そこに立っていたのは、ルドルフ・サンクレーン。彼の唇に浮かんだ微笑みは、濁った水面に映る月のように冷たく、ライムの心臓を凍りつかせた。

「地下室には行かなかったのかね?せっかく看守を待機させていたのに、誘導までしてあげたのに……君は、薄情者だな」

ライムは動じることなく、無意識にローブの袖を直すように手を動かしながら、冷徹な声で言い放った。

「……行ったさ。看守も倒した。少女たちも無事」

ルドルフの細められた目が、わずかに光を宿す。その光は獲物を捕らえた獣のように鋭い。

「……ほう?その割に無傷じゃない?ありえない。あの怪物相手に無傷で戻って来れるわけがない、だがどっちにしてもここで君は詰みだ」

ルドルフは確信に満ちた笑みを深め、話し始めた。

「なぜあの二人は動けなくなったと思う?私がこの魔道具で素晴らしい能力を得たからさ!」

彼はそう言いながら、ポケットから奇妙な白い円形の物体を取り出した。それはまるで生き物のように蠢き、中心から獣のような鋭い牙が四本、鈍い光を放っている。見ているだけで胸が悪くなるような、禍々しい気配を放っていた。

「私は選ばれた者だから能力を得た。貴様みたいな庶民では無理だがな。ふははは!」

嘲笑が広間に響き渡る。ルドルフの笑い声と共に、彼の目の色が変わった。それはまるで血のように赤く、底の見えない闇を湛えている。その時、ライムは咄嗟にかぎ爪を伸ばしたが、それは見えない壁に弾かれるようにシャンデリアへと引っかかった。

「ほぉ、それが君の奥の手か。くだらんな」

ルドルフが鼻で笑ったその時、広間の奥から掠れた声が響いた。それはレンドの声だった。

「小僧……奴の目を見るな…!」

その警告にもかかわらず、ライムは驚きに目を見開いたまま、ルドルフの禍々しい瞳を見てしまう。途端、彼の体は氷漬けにされたかのように、ゆっくりと、しかし確実に動かなくなっていく……。

「どうした?もう動けまい」

ルドルフはそう言い放ちながら、ぴくりとも動かなくなったライムにゆっくりと、しかし確実に近づいていく。足元に散らばる、砕けたガラスの破片が彼の靴底でカリカリと音を立てるのが、やけに響く。そして躊躇なく、ライムの腹部を深く突き刺した。冷たい刃が肉を裂く、嫌な感触と、ズブッと鈍い音がした。鈍い痛みがライムの意識を揺らすが、体は鉛のように重く、ピクリとも動かない。腹部から、生温かい血がじわりと広がる感触がする。

勝ちを確信したルドルフは、陶酔したかのような表情で高らかに笑い出した。その甲高い笑い声が、がらんとした大広間に嫌に響き渡る。

「所詮、庶民は庶民。貴族には勝てないんだよ。お前も、お前も、お前も!貴族には勝てない!ふははは!当たり前だろう、育った環境が違うんだから!」

ルドルフはレンドの元に近づくと、その顔をじっと見つめる。彼の瞳には、狂気じみた優越感が宿っていた。

「どこかで会ったことがあるか?どこかで見たような……?」

そう呟きながら、レンドの腹部にも容赦なくレイピアを突き刺した。乾いた布を突き破るような音がして、レンドの顔に、わずかな苦痛が走る。彼の唇から、微かな呻き声が漏れた。

次にアカリの元へ歩み寄り、その頬にぞんざいに触れる。彼の指先からは、冷たくて粘つく汗の感触が伝わってくるようだ。

「よく見たら上玉で私の好みじゃないか、子供っぽいしな。調教すれば上納品として使えるかもしれん!よし、早速地下に運ぶか」

ルドルフがそう言い放ったその時、血の匂いが充満する大広間の床で、ライムの体が微かに震え、わずかに動き始めた。それを見たルドルフは、かぎ爪を戻すついでに、天井からぶら下がっていた巨大なシャンデリアを叩き落とした。

ガシャンッ!!

耳を劈くような轟音と共に、シャンデリアは砕け散り、舞い上がる白い煙と、キラキラと輝くガラスの破片が大広間を覆い尽くす。粉塵の舞う、埃っぽい匂いが鼻腔をくすぐる。しかし、ルドルフは動じることなく、その口元には嘲笑が浮かんでいた。

「なんだ今のは?ああ、かぎ爪がシャンデリアと一緒に落ちただけか」

そう言って笑っているルドルフの耳に、ブツンッという乾いた音が届いた。まるで、何か重要なものが切断されたかのような音だ。同時に、大広間の全ての明かりがブツンッと音を立てて消え失せ、漆黒の闇が彼らを包み込む。一瞬の静寂の後、不気味なほどの闇が視界を奪う。

「さっきからなんだ!?視界を奪ったつもりだろうが、予備電源ですぐに起動するぞ!そうなったら貴様らの負けだ!」

ルドルフが興奮して叫んだその瞬間、闇の中でヒュッと風を切る音がした。次の瞬間、ルドルフの右腕に焼けるような激痛が走り、生温かい液体がドバッと勢いよく噴き出す感触があった。レンドの素早い剣術が、ルドルフの右手を斬り落としたのだ。

ドス黒い血しぶきが宙を舞い、床にべっとりと赤黒い染みを作っていく。鉄の匂いが、さらに濃くあたりに立ち込めた。しかし、ルドルフは全く動じていない。彼は残った左手で即座にレイピアを掴み、がっちりと防御を固めた。その表情には、まだ諦めていない、猛々しい執念が見て取れた。

ブゥンッ!

予備電源が作動し、大広間は再び一気に明るくなる。しかし、その光は先ほどよりもどこか冷たく、陰鬱な色合いを帯びていた。その光の中で、ライムはルドルフを真っ直ぐに見据え、言い放った。

「おい、ルドルフ。俺を倒したかったら、俺を見ろ!」

ライムの挑発に、ルドルフは激怒した。怒りで顔を歪ませ、血走った目でライムを睨みつける。

「調子に乗るなよ、庶民風情が!貴様など、能力がなくても左手一本でも倒せるわ!」

そう吠えると、ルドルフは血塗れの右手から滴る血を気にすることなく、素早い動きでライムの元へ向かっていく。その足音は、憎悪に満ちた獣の咆哮のようだ。しかし、ライムは冷静だった。彼はローブで手元を隠しながら、間髪入れずに三発の銃弾を放つ。パンッ、パンッ、パンッと、乾いた銃声が大広間に響き渡る。一発目はわずかに的を外れたが……。

二発目はルドルフの右目に命中し、肉が弾けるような音と共に、一気に血が噴き出す。ルドルフは目を覆い、仰け反った拍子に、ポケットから何かが落ちた。それは魔道具だったが、それにも銃弾が命中したらしく、小さな穴が空いていた。その穴から紫の煙のような物が、ほんの少しだけシューッと音を立てて出て、すぐに消えた。

ライムは冷静に、空になったマガジンをカラン、と音を立てて地面に落とし、ローブから新しいマガジンを差し込み装填する。カチリ、という小気味良い音が、その場の緊張感を一層高めた。

するとルドルフは、よろめきながらも観念したのか、苦しげな声で言った。

「これは命乞いではない…私が言えた義理ではないが、娘を頼む…」

それを聞いたレンドは呆れたように「あんな酷い事しといて娘がいるのかよ」と言うと、冷めた視線をルドルフに送りながら(あとはお前が決めろ小僧)と思いながらその場を去っていく。彼の背中には、微かな疲労感が漂っていた。

アカリはライムに近づき、心配そうに顔を覗き込みながら「大丈夫だった?決めちゃって」と言うと、ライムは冷静に「じゃあ下がってて」と言い放つ。その声には、一切の迷いが見られなかった。

「お前が何を言いたいのかはわからないけど…」

ライムはそう言いながら、手に握られたリヴォルダガーを構え、ゾッとするような笑顔でルドルフを見据えた。彼の瞳には、冷たい光が宿っている。

「お前…いっぺん死んでみっか?」

そう言い放つと、間髪入れずに弾を六発撃ちながらルドルフの元に近づいて行く。ドス、ドス、ドスと、弾丸が肉を穿つような鈍い音が、立て続けに響いた。どこに当たったとかは気にせず、ライムは血の匂いと硝煙の匂いが混じり合う中、さらに言葉を放つ。

「cry die blade(クライ死すブレイド)!!」

そして、ルドルフの心臓を躊躇なく深く突き刺した。グッと肉が抵抗する感触と、ズブリと奥まで刃が届く感触が、ライムの手に伝わる。空になったマガジンをカシャンと音を立てて捨て、素早く新しいマガジンを入れると、グリップを回して装填し、突き刺したまま六発撃ち込んだ。心臓を貫かれたまま、さらに撃ち込まれる弾丸が、ルドルフの命を確実に奪っていく。

さすがのルドルフも、リヴォルダガーを抜いた瞬間、血が一気に噴き出し、地面に広がる赤黒い血溜まりの中に、まるで泥人形のように沈んでいく。彼の目からは、生命の光が完全に失われていた。大広間には、血と硝煙の匂い、そして死の静寂だけが残された。

血と硝煙の果て、それぞれの朝

薄闇の中、ライムとアカリは、崩壊した大広間を後にし、ひっそりと屋敷の門をくぐった。吹き抜ける夜風が、血と硝煙の混じった鉄の匂いを運んでくる。アカリは、そんな状況にもかかわらず、どこか楽しげに、フフッと笑いながらライムに話しかけた。

「さっきのクライシスブレイドって技名なの?悪くないね、弾は勿体ないけど」

アカリの声は軽やかで、傷だらけのライムには少し茶化しているように聞こえた。ライムの全身には、深々と刺さったレイピアの痛みと、全てを出し尽くしたような疲労感が重くのしかかっていた。呼吸をするたびに肺が軋む。それでも、彼は絞り出すような声で応えた。

「あれは**Cry Die Blade(クライ死すブレイド)**って言ってな……色んな人が流した涙と、様々な死、そして俺自身の死さえも背負って放つ、一撃必殺の技って意味だよ」

ライムの言葉には、重い覚悟と、途方もない悲しみが滲んでいた。アカリはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を丸くした。

「ふーん……そんな意味があるんだねぇ。俺の死、ってのは意味わからないけど。でも、お疲れ様」

そう言って、アカリはライムの前を軽やかに歩き出す。彼女の足元には、砕けたガラスの破片が鈍く光っていたが、アカリは気にする様子もなく、ただ前を向いていた。

その頃、レンドは血まみれのルドルフの元に戻っていた。大広間にはまだ焦げ付くような硝煙の匂いが残っており、床にはルドルフの血が不気味な模様を描いている。レンドは、懐からくたびれた六枚の銅貨を取り出し、その場にカシャン、カシャンと静かに投げ落とした。鈍い金属音が、静寂に沈んだ空間に響く。それから、彼はゆっくりと手を合わせ、ルドルフの顔を見下ろした。

「おめぇは覚えていないだろうが……かつて戦場で、一度だけ一緒に肩を並べて戦ったことがあるんだ……。あの時から気に食わない奴だったけどな……剣術だけは誰よりも優れていたぞ……」

レンドの声は、普段の無愛想な彼からは想像もできないほど静かで、どこか遠い過去を懐かしむような響きがあった。彼はそれだけを呟くと、振り返らずにその場を立ち去っていく。

その一部始終を、大広間の奥の深い影からじっと見つめている者がいた。その人物は、レンドが去ったのを確認すると、音もなく影から現れた。床に散らばる空になったマガジンと、ルドルフが使っていた奇妙な白い円形の魔道具を、手慣れた様子で素早く回収する。手に取られた魔道具は、まだ微かに熱を帯びていた。そして、その人物もまた、闇の中へと消えていった。残されたのは、血の匂いと、シャンデリアの残骸だけだった。

翌日の朝。街には、普段通りの喧騒が戻っていた。朝日の柔らかい光が、治安局の石畳を照らしている。レンドが治安局の重い扉を開けて中に入ると、けたたましい足音と怒号が響いていた。大勢の兵士たちが、まるで何かに追われるかのように、同じ方向へ走っていくのが見える。

そのすぐ後ろから、息を切らしたタカオが駆け寄ってきた。タカオの顔には、尋常ならざる焦りが浮かんでいる。

「おはようございます。何かありましたか?」

レンドがいつもの調子で声をかけると、タカオは驚いたように目を丸くした。

「あら?ムラサメさん、随分と遅いじゃないですか!あなたがのんびり来てる間に、昨日謝罪に行ったサンクレーン卿が何者かに殺害されたのご存知ないでしょ?」

タカオの言葉に、レンドの表情が微かに固まる。

「ええ、知りません。初耳です」

レンドが素っ気なく返すと、タカオは呆れたように肩をすくめた。

「まあ、当然でしょうね?ウダウダ言ってないで行きますよ、ムラサメさん!」

そう言い残し、タカオは再び駆け出して行く。レンドは、思わずため息を漏らした。昨日からの疲労が、ずしりと体にのしかかる。

「ああ、お待ちください!すぐに……向かいますので……」

面倒だと心の中で思いながらも、レンドは慌てて後を追いかけた。

「お待ちください!タカオさん!ちょっと、タカオさーん!」

レンドの声が、忙しなく行き交う兵士たちのざわめきの中に、かき消されていった。

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